九六式艦上戦闘機パイロット北沖道行さんのお話し
九六式艦上戦闘機のパイロットで、支那事変を戦われた
北沖道行さんのお話しを伺いました。
北沖さんは愛媛県出身で、佐世保海兵団へ入隊後
軽巡洋艦「川内」乗艦。信号兵となります。巡洋艦からの
カタパルト射出を見て飛行機に憧れていた北沖さんは
飛行機乗りを志願し、合格。霞ヶ浦海軍航空隊へ入隊し
操縦練習生(53期)となりました。ご自身は艦上攻撃機を
志望されたのですが、戦闘機に敵性ありと見なされ、戦闘機搭乗員に。
元山海軍航空隊に配属されました。
まだ零戦が採用される前のお話しです。九六式艦上戦闘機で
漢口から宜昌へ進出し、南京爆撃の中攻(九六式陸上攻撃機)の
護衛任務に就きます。九六戦は、南京までの航続距離が足らないので、
中攻隊の護衛は途中までしかできませんでした。
ゼロ戦が登場するまでは、随分、中攻隊に被害が出たとのお話しです。
それでも、中攻隊の先陣を切って、超低空で編隊を組み、
わざと、敵に見つかるよう、威嚇をしながら燃料の続くところまで
飛んで行ったそうです。
「戦闘機の護衛がついているぞ!」という示唆なのであります。
すると、敵兵が森の中でのろしを上げて、空襲を知らせるのでした。
ゼロ戦に機種転換をする際の訓練中、負傷したため
そのまま終戦を迎えます。九六戦とゼロ戦の違いを訪ねると
「私は九六戦のほうが好きでしたね。キビキビ思ったように動く。ゼロ戦はどうも
動きがやわらかいといいますかね」
とコメントされておりました。
なお、このときの分隊長は黒沢丈夫大尉。
JAL123便墜落時に上野村の村長だった方です。
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