呑龍さま(どんりゅうさま)
群馬県太田市金山町にある大光寺の通称で、戦国時代から
江戸時代前期にかけて実在した浄土宗の僧である。
「呑龍」は当時、多くの子どもが間引かれて殺されていたことを
悲しみ、これらの子供を弟子として引き取って育てたため、
後世の人々から「子育て呑龍」「呑龍さま」と広く慕われた。
現在も子育て祈願の対象として信仰されている。
中島飛行機の創業者である中島知久平がプロペラ一本一本を削る
ところから始めた小さな飛行機工場は、この呑龍さまの近くに構え、
周辺住民からは呑龍飛行機工場などと呼ばれた。
これが由来して、中島飛行機が大企業に発展した後の昭和
15年、キ49 百式重爆撃機が開発された折、「呑龍」の愛称が
つけられる事になった。
一式戦闘機「隼」(キ43)は中島飛行機により設計・生産された帝国陸軍を
代表する戦闘機 である。正式採用は昭和16年(皇紀2601年)で
皇紀の末尾を取って正式名称を一 式戦闘機、愛称を「隼」と呼称した。
大東亜戦争の開戦と共に大陸戦線、マレー半島 ビルマ等に投入。
連戦、連勝を続けた。映画『加藤隼戦闘隊』で一躍有名となり、
国民から広く親しまれた。一機当たりの価格は当時の金額で
9000円~1万円と伝わる。
隼の初期型となる一型は二枚プロペラで、火力は胴体に7.7mm
機関銃2挺を装備。零戦と同じ栄エンジン(陸軍名称ハ-25)を搭載した。
陸軍の主力 戦闘機としてアップデートを繰り返しながら終戦まで運用された。
隼は、二型、三型 と進むにつれ、重戦闘機と同様の改造が加えられていった。
総生産機数は5,700機 以上と、陸軍の航空機としては最も多い。
一型/甲
一式戦「隼」の量産初期型。1型甲では7.7mm機関銃
2挺を装備し、ハ25エンジンを搭載した。
1型/乙
1型甲では7.7mm機関銃2挺のみだった武装を大東亜戦争開戦前に
片側のみ12.7mm機関砲に換装したモデル。当初、12.7mmの信頼性が
確立されれおらず、このような措置となった。
1型/丙
1型乙では片側のみだった12.7mm機関砲の信頼性が確保されたため
ようやく両方を12.7mmに換装したモデルとなる。全備重量は2048kg。
最高速度は高度4000メートルにおいて495km/hであった。
2型前期
エンジンを零戦52型と同じ栄二一型(陸軍名ハ115)に換装し1150馬力に
パワーアップ。これに伴い、プロペラが三枚となる。左右翼端を30cmずつ
短くし、全備重量は2590kgとなる。最高速度は高度6000メートルにおいて
515km/h。五重環状骨油冷却器を採用した。1型との最も簡単な見分
け方はプロペラ枚数で、2型から3枚プロペラとなる。
2型中期
五重環状骨油冷却器を撤廃し、代わってエアインテークの
大型化と形状変更を行ったモデル。
2型後期
カウリングを再設計し、前部を絞り込み丸みを帯びた形状となる。
前方や横から見るとデザインの違いが分かりやすい。
また、排気管の形状を僅かに変更しているのも特徴。
2型最終期
エンジン側面の集合排気管を、それまでの円形型からカバーをかぶせた
直線型に変更した。2型としては最も最後に生産された。
エアインテークも若干の変更が加えられている。
2型(改)
エンジンとカウリング形状はそのまま、それまでの集合排気管を廃止し
この時期の陸海軍機全般にみられる、推力式単排気管を採用した
モデルとなる。3型との見分け方は排気管の本数と形状。
3型甲
エアインテークをより大型化し、エンジンはハ115二型を搭載。
最高速度は高度5850mにおいて560km/h。ただし航続距離は機内
燃料600km、落下タンク装備で1360kmに低下した。
3型乙
20mm機関砲2門を搭載した隼の最終型。試作のみに終わる。
4型も検討されたが(4型は二千馬力の誉【ハ45】エンジンの搭載が検討された)
四式戦闘機「疾風」生産に集中するため、陸軍における隼の歴史はここに終わった。
以上