2019年1月28日 (月)

木更津の夏

Photo

流星(改)が描き上がりました。
昭和20年、木更津の夏です。

2019年1月27日 (日)

クリエイターの合言葉

クリエイター同士、打ち合わせや電話で、よく言う言葉です。
 
「お互い長生きしましょうね!」
 
私達は絵を描くことが好きで好きで仕方ないんです。
描くことが大好きなんです。でも楽しすぎるあまり、体に負担がかかっていることを
忘れていることがあります。
先日のコミケの記事で描いた通り若くして亡くなる方もいます。
だから、お互い、こうして励まし合ってます。

2019年1月26日 (土)

F-35B いずも艦載機(創作)

F35

一週間後に発売予定の雑誌用F-35Bのイラストができました。
元々はF-35Aの下絵だったのですが、せっかくなので描き直しました。
未だ架空機ということで好き放題な尾翼のマーキングにしてしまいました。
編集可能なデータなので本に載るときは消えてるかもしれません(笑)
 
モデルとなる模型探しに尽力してくださった方、
本当にありがとうございました!心より御礼申し上げます。
 
ところで、私はステルス機の技術はよくわからないのですが
(トップシークレットクラスの軍機ですものね)色が着いていると
ダメなんですかね。リベットは全然ありませんでした。
B-2などは僅か数回の飛行の都度、何千万(億単位かも?)もかけて
ステルス性能を持つ塗装を塗り直すそうです。
 
我が国もステルス機の導入が始まっていますが、
維持が大変そうです。

八九式重擲弾筒(手榴弾用グレネード)

八九式重擲弾筒

八九式重擲弾筒

どなたか旧日本陸軍の榴弾筒(手榴弾)の研究されている方、
いらっしゃいませんか?私にはサッパリなのですが
 
解剖図まで描かれた資料がたくさん見つかったので
無償で提供します。私は編集する時間が無いので、
同人誌にして出して頂けたら嬉しいです。
このまま眠らせておくのは勿体ないので
ぜひ、世の中に出してほしいです。

2019年1月25日 (金)

志賀淑雄少佐と指宿正信少佐 横須賀航空隊にて

Scan001_3

昭和20年に横須賀航空隊で撮影された、
志賀淑雄少佐と指宿正信少佐のツーショットです。
志賀さんは343空飛行長、
一方で、指宿さんは横須賀航空隊飛行隊長なので、
志賀さんが紫電改の空輸で横須賀に来られたときのお
写真と推測していますが、如何でしょうか。

荒野のコトブキ飛行隊 飛燕

2

荒野のコトブキ飛行隊第二話に出てくる謎の飛燕を早速描きました。
(突き指する4日前に描いたものです)

商売道具の右手が

シャッターを閉めるとき怪我してしましました。
単なる突き指ですが、1~2日くらい何もできないのが悔しいです。
痛み止め飲めばとりあえずは仕事はできますが、
これはかえって長引きますかね。 
 
こんなイージーミスで!
悔しい!悔しい!悔しい!
負けないぞー!

2019年1月23日 (水)

ジョージ・プレディ少佐 P-51D

P51d

せっかくなので単独のページを用意しました。
 
P-51D ジョージ・プレディ少佐
ジョンC.メイヤー将軍より「彼は完璧な戦闘機パイロットだった」
と賞賛される米国空軍のトップエース。ノースカロライナ州グリー
ンズボロ出身。少佐はもともとは「納屋のパイロット」だった。
(農薬散布の自家用飛行機のパイロットの意)
当初海軍のパイロットを志したが、身体的理由で三度落選。
その後、空軍のパイロットを受験して合格。

初陣となるダーウィン空襲邀撃で2機の日本海軍機を撃墜した。
 
その後、P-74とP-51を交互に飛ばしながら
欧州戦線の第352戦闘隊に転属となり
ドイツ空軍と空戦を行う。その間にもスコア(撃墜数)を
重ねつつあったがドイツ降伏の直前となる12月25日
友軍の誤射によって戦死した。

紫電改ワッペンできました

紫電改ワッペン

2月中旬頃、愛媛県愛南町の紫電改展示館にて
限定販売予定です。
 
よろしくお願い致します。

2019年1月21日 (月)

東京ローズとP-51D

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東京ローズ (B-29/F-13のパーソナルネーム)と
P-51D、ジョージ・プレディ少佐機を描きました。
 
P-51D ジョージ・プレディ少佐機
ジョンC.メイヤー将軍より「彼は完璧な戦闘機パイロットだった」
と回想される米国空軍のトップエース。ノースカロライナ州グリー
ンズボロ出身。少佐はもともとは「納屋のパイロット」でした。
(農薬散布の自家用飛行機のパイロットの意)
当初海軍のパイロットを志しましたが、身体的理由で三度落選。
その後、空軍のパイロットを受験して合格。

プレディ少佐は初陣となるダーウィン空襲邀撃で
2機の日本海軍機を撃墜しました。
 
その後、P-74とP-51を交互に飛ばしながら
欧州戦線の第352戦闘隊に転属となります。
欧州戦線ではドイツ空軍と空戦を行います。
その間にもスコア(撃墜数)を重ねつつありましたが
ドイツ降伏の直前となる12月25日、友軍の誤射によって
戦死しました。
 
B-29(F-13)TOKYO ROSE
このB-29は19年11月に初めて帝都上空の単機侵入を敢行した機体で
厳密には偵察機型であるF-13Aと呼ばれる型式で第3写真航空群の
機体番号42-93852、後に「トーキョーローズ」の
パーソナルネームで勇名を馳せた機体です。
 
B-29(F-13A)はサイパン島のアイズレイ(イスレイ)飛行場を
早朝に離陸。13時頃、房総南端に現れました。日本側の電波
警戒機は機影をこれをキャッチしていましたが、
今までしばしば南方から帰還する海軍の哨戒機があったので
それと思い込んでおり、対応の遅れを招きました。
 
14時、帝都上空に侵入したB-29(F-13A)は
高度9800メートルから写真撮影を開始。
 
第10飛行師団はただちに在空警戒中の武装偵察機および
戦闘機隊に出撃させましたが、届かず
B-29(F-13A)は千葉から東京、川越、太田を経て利根川を下り
九十九里浜から南方に退去。
好天で1000枚以上の写真を持ち帰りました。
後の関東地区の空襲に寄与する大戦果でした。
 
機長のラルフ・ステイークリー大尉とその部下は
その功績を称えられるとともに、新聞で大きく報道され
英雄となりました。(写真あり)
 
日本が帝都上空への敵機侵入を許したのは昭和17年4月の
ドゥーリットル空襲以来でした。
 
「東京ローズ」は機体のパーソナルネームとなります。
命名の由来は米軍向けの英語プロパガンダ放送をしていた
日本人女性アナウンサーの存在です。ノーズアートにも
想像図が描かれています。
彼らは、その美しい声の女性に「東京ローズ」と名付け、
日本を占領した暁には、この女性アナウンサーに会えると
考えていたそうです。
  
東京ローズを竹田大尉が飛燕で追撃したエピソードは
こちらの本も書いています。