連絡が滞り申し訳ございません。3日が締め切りで作業に
追われています。4日は泥のように眠りますので再始動は
5日からになります。手前共の都度で誠に申し訳ありませんが、
ご理解を賜りましたら幸いでございます。
ゼロ戦パイロットの原田要さんから生前、直接聞いた話で
よく印象に残っているのが
「日本は世界各国で戦争をして大変な迷惑をかけた。
だけど、それでインドネシアをはじめとしたアジアの国々が独立
できたのは事実です」
これは戦争とは、善悪の表裏一体という話であって、
決して出来事の評価や可否を決定する発言でない事を強く、強く
お断り申し上げておく。
これが朝日新聞の記者が書くと「日本が迷惑をかけた」だけが書かれて
後者はバッサリ切られる。併記して然るべきが、メディアとしては欠陥がある。
(蛇足はここまでにしておく)
インドネシア独立戦争~昭和20年8月17日-24年12月27日
戦死後も戦った日本の陸軍パイロットたち
昭和20年8月15日以降、
祖国に戻らず、インドネシア解放戦線に加わった日本兵は
数千人に上ったとされ、現地に骨を埋めた。
日の丸の下半分を白色で塗られた新生インドネシア空軍の
一式戦「隼」が独立戦争で使用・飛行したという記録は不明であるが
元日本陸軍の飛行場には一式戦のほか、九九式襲撃機、百式重爆撃機「呑龍」、
三式戦闘機「飛燕」などが残されていた。
過酷を極めたニューギニア戦線では
陸軍飛行戦隊の操縦士、地上勤務員の多くが稼働機を失い
地上部隊に編入され、玉砕(戦死)と、公には報告されている。
彼らは一度は戦死した筈であった。ところが
『帝国軍用機で始まったインドネシア空軍』によれば
8月15日以降の独立戦争で日本製航空機の整備、パイロットを務めたのは
アリ、アッモ、アマッというインドネシア名に改名された元日本兵だったと
記されている。当初、彼らは連合軍を恐れ、飛行を拒んでいたが
「もうあなたがたは日本兵でなく、我々と同じインドネシア人なのだ」と説得され
九九式高等練習機四機を飛ばした。さらにマラン市上空でアクロバット飛行を展開し
市民の喝采を受けたというエピソードが残されている。
その後、彼らが引き続き解放戦線に残留しインドネシアの土になったのか、
復員船に乗って本国へ帰還したかはわからない。
6月より、アトリエ空のカケラ
小売り部門(主にTシャツ・グッズ等)の経営権移譲に向け始動します。
販売店と経営者は変わりますが、扱うデザインはこれまで通り、弊社で行い、
空のカケラブランドで行います。
宇都宮市産業PRキャラクター
蒼空はるかwith空色パレットCDリリース決定
9月リリース予定です!
キャスト
1.蒼空はるか CV.澤崎柚希 https://twitter.com/yukkyfadeout
2.市貝みさき CV.飯田悠佳 https://twitter.com/yuka2185
3.氏家さくら CV.近日公開!
4.渡良瀬あやか CV.近日公開!
5.壬生つばさ CV.謝花ゆうき https://twitter.com/yusura0901
Ⅰ.イラスト 桜井あやの
(アトリエ空のカケラ)
https://soranokakera.lekumo.biz/website/staff.html
Ⅱ.総合企画 篠原直人
(アトリエ空のカケラ)
https://twitter.com/soranokakera01
Ⅲ.作詞作曲・編曲・音楽部門プロデュース
渡邉沙志(Crossing Music)
https://twitter.com/satoshi_music
星の王子様で著名な作家でパイロットでもある、サンテグジェペリ。
戦記もので消耗した私へと、小島さんがた~~~くさんのコレクションを
持ってきてくださいました。これはほんの一部。コロナ騒動落ち着いたら
コレクションとサンテグジェペリの愛機で展示会をやりたいとか。
素敵な話です!
フランスではお札になっているんですね。50フラン。ユーロに更新される
直前まで流通していましたが、現在は貨幣価値がないそうです。
その上はサンテグジェペリ三作目にあたる『夜間飛行』(1931年)と同名の
香水です。飛行機のプロペラがモチーフになっています。
サンテグジェペリの乗機、P-38の偵察機型F5-Bです。
自由フランス軍のラウンデル(識別表)、これは欧州戦線で
乗った機体で迷彩が施されていますが、最後に乗った機体は迷彩の無い
全体的に白い機体です。
サンテグジェペリは1944年5月、ドイツ占領下のフランス偵察のため
連合国となったイタリア・ボルゴ(ボローニャ)飛行場を離陸。
地中海上で消息を絶ちました。
連合軍によるフランス・パリ解放まであと3ヵ月のところでした。
『星の王子様』(邦題)はサンテグジェペリの死後、発売されたもので
我が国でも1945年(昭和20年)、最も貧しく物資が欠乏した時期にも
関わらず、1万部が刷られました。