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2020年5月31日 (日)

インドネシア独立戦争と日本機

インドネシア独立戦争



ゼロ戦パイロットの原田要さんから生前、直接聞いた話で
よく印象に残っているのが
 
「日本は世界各国で戦争をして大変な迷惑をかけた。
だけど、それでインドネシアをはじめとしたアジアの国々が独立
できたのは事実です」
 
これは戦争とは、善悪の表裏一体という話であって、
決して出来事の評価や可否を決定する発言でない事を強く、強く
お断り申し上げておく。
 
これが朝日新聞の記者が書くと「日本が迷惑をかけた」だけが書かれて
後者はバッサリ切られる。併記して然るべきが、メディアとしては欠陥がある。
(蛇足はここまでにしておく)
 
インドネシア独立戦争~昭和20年8月17日-24年12月27日
戦死後も戦った日本の陸軍パイロットたち
 
昭和20年8月15日以降、
祖国に戻らず、インドネシア解放戦線に加わった日本兵は
数千人に上ったとされ、現地に骨を埋めた。
 
日の丸の下半分を白色で塗られた新生インドネシア空軍の
一式戦「隼」が独立戦争で使用・飛行したという記録は不明であるが
元日本陸軍の飛行場には一式戦のほか、九九式襲撃機、百式重爆撃機「呑龍」、
三式戦闘機「飛燕」などが残されていた。
 
過酷を極めたニューギニア戦線では
陸軍飛行戦隊の操縦士、地上勤務員の多くが稼働機を失い
地上部隊に編入され、玉砕(戦死)と、公には報告されている。
彼らは一度は戦死した筈であった。ところが
『帝国軍用機で始まったインドネシア空軍』によれば
8月15日以降の独立戦争で日本製航空機の整備、パイロットを務めたのは
アリ、アッモ、アマッというインドネシア名に改名された元日本兵だったと
記されている。当初、彼らは連合軍を恐れ、飛行を拒んでいたが
「もうあなたがたは日本兵でなく、我々と同じインドネシア人なのだ」と説得され
九九式高等練習機四機を飛ばした。さらにマラン市上空でアクロバット飛行を展開し
市民の喝采を受けたというエピソードが残されている。
その後、彼らが引き続き解放戦線に残留しインドネシアの土になったのか、
復員船に乗って本国へ帰還したかはわからない。

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