
昭和44年(1969年)7月、アポロ11号が月面に着陸。
ニール・アームストロングは左足を月面に踏み出した。
人類史上、最もメジャーなニュースである。
表向きは明るい宇宙開発競争だが、それは米ソ東西冷戦の歴史と
表裏一体だったし、
人類を月まで送り届けた「サターンV」ロケットの開発者は
元ナチス・ドイツの科学者フォンブラウンである。
フォンブラウンは大戦中、ロンドンを壊滅に追い込む世界初の弾道ミサイル
「V2」ロケットを完成させている。フォンブラウンは
ドイツ降伏の年、アメリカに亡命してロケットの平和利用の
研究を続けていた。
戦争は有能な人物の、あらゆる可能性を奪っていた。
日本では三木忠直技術少佐がロケット特攻機「桜花」を作っている。
三木少佐は新幹線の開発者で余りにも有名だ。
さて、アポロ11号の月面着陸は
日本でもテレビ報道された。
そのテレビを熱心に見つめる日本人が居た。
元陸軍パイロットで、戦後は航空自衛隊戦闘機パイロットになった
稲田淳美である。
稲田はこのアポロ11号のニュースを見て上官の竹田に言った。
「隊長ーー!もし日本が月に行くことになったら
真っ先に私を指名してくださいよ」
この時代、自衛官と言っただけで石を投げられ、
タクシーには乗車を拒否され、散々だった。けれど
そんなときでも、ここの者たちは日本の将来に目を輝かせていた。
日本人の底力をもってすれば、月よりももっと遠くへだって
飛んで行けると信じていた。
稲田淳美はブルーインパルス二代目の隊長となる。
日本空軍復活のシンボルとなるのである。
ブルーインパルスは長澤賢が団司令の目を盗んで
低空背面飛行を披露したことに始まり、
今日に至るが、長澤が礎を築き上げ、実質的に
航空祭でお披露目される頃には稲田が隊長を務めていた。
ブルーインパルスで旧軍の出身者は
長澤賢(陸士58期)、稲田淳美(陸士59期)
加藤松夫(海兵74期)、西光(海兵75期/のち殉職)
の四名である。
ブルーインパルスのひく雲に
誰もが、わが国の復活復興を感じていた!
航空自衛隊黎明期を支えたのは、こうした旧陸海軍出身者が
多いが、誘いを断って故郷に残った者も居る。
岩崎陸軍大尉(航士55期)はフィリピン戦線において
百式司令部偵察機で活躍していた。
あのとき空から見下ろした戦艦大和も今はもうない。
復員したあの日、汽車は故郷の駅に昼間の早い時間に
到着した。
実家の母のもとには既に戦死の報せが届いていた。
兄弟もみな戦死していた。自分も死んでことになっている筈だ。
このまま帰っていいのか。
岩崎は戦争に負けたことが
恥ずかしくて、情けなくて、駅舎で夜になるのを待って
近所の目を避けながら、暗い道をトボトボと帰った。
家に着いて、台所の扉をガラリと開けると
そこには母がいた。死んだはずの息子との再会だった。
明治生まれの厳しい母が涙を流して
駆け寄って抱きしめた。
戦後、日本空軍再建のしらせと誘いを受けた岩崎は
二つ返事で行きたかったが、
貧しい貧しい時代、こんなチャンスはなかったが、
母をひとり残していく事が、どうしてもできなかった。
母にとってはたった一人、生き残った息子だった。
岩崎は母と一緒に故郷で農業を営み、国の再建に尽くした。
戦友のことを忘れた日はなかった。
「若い良い男が戦争でみんな死んだ・・・みんないい男でしたよ。
その男たちの事を、毎日思い出しています」
戦争は全てを奪い、日本を荒廃させた。
それでも将来日本のため、戦後頑張り続けた人たちのことを
そして、こういう人たちを将来の日本に残すため、自らは戦争で
犠牲となった人たちのことを、少しずつ書いていきたい。
ライリイ大尉の記事を書くために
T-33(ジェット練習機)の画像を購入したのですが
自分でも撮影したものがありました。
ここは甘木鉄道甘木線の大刀洗駅です。
駅とカフェが併設されていて、屋根の上にT-33が乗っかっています。
可愛らしくて、ユニークな建物。
駅を降りてすぐ、道路を挟んだ反対側が
大刀洗平和祈念館です。
福岡観光情報
大刀洗レトロステーション
米国空軍戦闘機パイロット、ジョー・ライリイ大尉。
大尉は、日本空軍再建に最も尽くした人物といっても
言い過ぎではない。
朝鮮戦争帰りの、ライリイ大尉は
そのまま日本でゼット戦闘機の教官として着任した。
(当時はジェット機をゼット機と呼んだ)
ライリイ大尉は小柄であったが朝鮮戦争で捕虜になるより
白兵戦に備え、飛行服に
拳銃を二丁忍ばせていた、という逸話を持つ。
昭和31年の浜松。
格納庫の屋根は戦争中の爆撃で穴が開いたまま、
浜松の飛行場は吹きさらしで
プレハブ小屋が一軒だけ建っているような状態だった。
▲昭和30-32年頃の浜松基地。関係者より拝借。
大の親日家であったライリイ大尉は
ブロンドヘアの妻と愛犬を連れて、この
荒野のような、殺風景な浜松にやってきた。
ライリイ大尉は日本人パイロットに対しては
特に計器飛行を熱心に指導した。
それまでの旧軍の戦闘機「飛燕」とか「零戦」も計器は積んでいたが
当時の概念としては補助的なもので、
低い雲や悪天候、夜間の発着は大変なリスクが伴った。
計器飛行はこうした悪天候で視界が確保できない状況でも
人間の目でなく、計器をメインに安全に離着陸や飛行が可能となる、
現在では当たり前となった航法である。
ライリイ大尉は勤務時間は教官として任務をこなし、
時間外は研究のために飛んでいた。土日も飛んだ。
休みなしで飛んだ。
日本人も、皆、休みなしで飛ぶので事故が多発した。
源田実が、この状況を危惧し飛行時間の制限を決めたのが
昭和32年以降だった。
立て続けに
指宿正信二佐、小林照彦二佐、中村博二佐、の三名が殉職していた。
指宿二佐、小林二佐の事故のことは以前ブログで書いた。
元海軍パイロットの中村博二佐は射撃が特に抜群だったことで名を
馳せていた。事故は昭和32年6月20日、夜間計器飛行訓練中、
日向灘に墜落して殉職。
中村二佐は、このとき十分な高度があり、ベイルアウト(緊急脱出)に
成功したと言われているが、当時、満足なライフジャケットを身に
つけていなかったため直接の死亡原因は凍死だという。
ライフジャケットはあるにはあったのだが、数が揃わず
それでも良いから、と、飛んでいたのである。
これは、現代において考えてみれば
無謀とか危機管理とか、そういう話になってしまうのだが
当時の考えは全然違う。
当時のパイロットは誰もが
一日も早い、日本空軍の再建を目指して
犠牲覚悟で飛んでいた、ということを、忘れてはならない。
気概をみんな持っていた。現在とは全然違うのだから。
このとき、F86Fのパイロットであった竹田五郎氏は
「事故があっても、屍を乗り越えて行く、
戦争中のような気持ちだった」と回想する。
ライリイ大尉は、そうした日本人パイロットとともに
命は軽いが、尊いものを背負って、飛んでいた。
大尉は本当に、飛行機に乗るために生まれてきたような人だった。
飛行機に対する探究心は尽きることが無かった。
それらの技術や経験を、日本人パイロットに惜しむことなく
教え込んだ。
自らも何事も思いついたら
やってみないと、気が済まない大尉だった。
燃料タンクが空になっても飛んで周りをヒヤヒヤさせた。
訓練中、燃料ゲージの限界の規定値に達すると
通常、パイロットは
「ミニマム・フューエル」(燃料僅か)をコールし
速やかに着陸しなければならない。
ライリイ大尉は、ミニマムフューエルをコールした後も
ふたたびスロットルを全開にして、もう一飛びしていた。
特筆すべきエピソードとして
琵琶湖上空から、入間まで滑空を試したことがある。
高度が下がりたため、浜松へ不時着した。
ライリイ大尉と日本人パイロットの間には
絶対的な信頼関係と、固い友情が存在した。
ライリイ大尉とお互い尊敬していたのが
ブルーインパルス発案者で初代隊長の長沢賢であった。
どちらも天才的技量のパイロットであったことは
間違いないが、飛行スタイルが異なる。ライリイ大尉はどちらかと言えば
飛行の研究に重点を置いて、
長沢賢は、後に、団司令の目を盗んで、松尾とともに
F86F戦闘機2機で勝手にアクロバット飛行を始める。
2機で超低空でスローロールを行ったあと、日本初の
背面飛行を披露した。この話はまた後で書くことにして
ライリイ大尉の話に戻る。
ライリイ大尉が殉職したのは
昭和31年9月29日だった。
T-33複座戦闘機で連絡飛行中
ジョンソン基地(現在の呼び名は入間)基地に墜落した。
ライリイ大尉の話はどの本にも載っていないが、
大尉の残した功績は大きい。
きっと航空自衛隊の現在に確実に受け継がれているであろう。
いつか、誰かが見つけてくれることを信じて
ここに記す。
以前、韓国人の友達が居た。
彼の名前はドンちゃん。
大森南朋に似ている。
彼とはよく酒を飲みに行った。
そこでいろいろと
韓国の話を聞かせてもらった。
ドンちゃんは穏やかで優しい人だった。
たくさん韓国の話を聞かせてもらって楽しかった。
中でも印象に残っているのは
「日本の女性はとってもやさしいよ!
こんなに優しい女性は世界中探しても日本だけだよ!
だからー、日本人の男はもっともっと女性に優しくしないと
いけないですよ!そうしないと、みんな韓国人の男に
取られてしまうよ!」
日本人女性は大モテだという話。
何度聞いたことか。
彼は日本の企業に勤めていた。
もちろんボスも日本人。日本人ばかりの中で
韓国人はドンちゃん一人だったけど、彼は日本語もペラペラだったし
日本人社会の中に溶け込んでいるように見えた。
だけど、日本企業はハードだ。ドンちゃんは
時折、仕事がハードすぎて辛いと、漏らしていた。
もしかしたらブラック企業だったのかも。
そんなこんなで、なんとかドンちゃんは頑張っていたのだけれど
ある日突然、彼は失踪する。そのまま
行方がわからず、それっきりになった。
風の噂では日本の仕事がきつくて、韓国に帰ったのだと聞いた。
伝え聞いた話だが、彼が失踪する直前のことだった。
長時間労働と休み無しですっかり疲れ切った彼が
死んだような目で同僚に、次のように言ったそうだ。
生涯忘れられない一言だった。
「徴兵より辛い・・・・」
そんなにきついのか。日本の会社は。
ご存知の通り、韓国は徴兵制で二年間の兵役が
義務化されている。
韓国の徴兵制については
こちらのサイトが見やすくてわかりやすい。
https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=557
軍隊より辛く厳しい、日本の企業戦士、
こうしている間も、日本のどこかで頑張り続けている!
ありがとうございます。そして、お疲れ様です。
そして
ドンちゃん、大丈夫かな。幸せでいますように。
彗星搭乗員の今年後半の田中三也さんの講演会予定です。
貴重な機会ですので、ぜひお出かけください。
(ご高齢ですので突然の予定変更等あります)
詳しくは主催者にお問い合わせください。
申し込期日前でも
定員になり次第締め切りとなります。
平成29年(2017)後半予定
7月23日(日)東京・浅草
近現代史研究会(Panda会)
田中三也さん
「海軍偵察員の大東亜戦《前編》 ~あ号作戦挺身偵察」
12時45分~16時00分
9月16日(日)東京・浅草
近現代史研究会(Panda会)後編
田中三也さん
「海軍偵察員の大東亜戦《後編》 ~比島死の攻防」
12時45分~16時00分
近現代史研究会
主催・申し込み先
--------------
10月15日(日)茨城県小美玉市
太平洋戦争を語り継ぐ会
陸海軍の戦場経験者
四名が1時間ずつ講演(予定)最高齢104歳。
時間未定。
--------------
11月19日(日)埼玉県越谷市
越谷コミュニティセンター
時間未定
--------------
決まり次第更新します。
「いつお迎えがくるかもわからんけど、
今年いっぱいは生きておかにゃあならんなあ~
わはは~」
と、田中さんは
といつものブラックジョークでありました。
田中三也さんのご本
『彩雲のかなたへ』
震天制空隊のニュースが連日、新聞で報道されていた。
震天制空隊はB-29に体当たりを敢行する目的で、
成増、調布等の戦闘機隊の一部をもって
編成された空対空の特攻隊である。
震天制空隊で代表的な存在が244戦隊の四宮徹中尉である。
四宮中尉はB-29に体当たりし、片翼で帰還したことで
一躍、世に知れ渡ることとなり、愛機飛燕は日比谷の百貨店に展示された。
昭和20年、調布飛行場。飛行機好きのK少年は
元々住んでいた神田神保町が空襲で焼け、西立川へ疎開してきた。
調布飛行場が近所だった。
飛行場のフェンスは目隠しがしてあって、外からは
見えない。B-29の偵察では丸見えだと言うのに、
わが国民に見せてくれないと言うのも
おかしな話だ、と少年は考えていた。
その頃は、どういう訳か知らないけれど、少年が
「特攻隊に行きま-す!」と営門で敬礼すれば
調布飛行場の中へ入れたという。
整備員が、ニュース写真では塗りつぶされていた
独立飛行隊の九九式軽爆の
ダイブブレーキを見せてくれて写真まで
撮らせてくれた。
隊員とのエピソードは数多くあるが
この日も、調布飛行場にカメラを持って堂々と立ち入り
歩いていたときだった。
向こうから、ニュースで見覚えのある顔がこちらへ近寄ってくる。
丸顔で童顔の四宮徹中尉である。
少年はここぞとばかり、気持ちに勢いをつけて
「有名な四宮さんですよね!!」
と声をかけた。
どちらかというと寡黙なタイプの四宮中尉は
「そんなに有名じゃないよ。俺は」
穏やかに一言だけ、答えると、通りすぎようとした。
少年はカメラを持ったまま、四宮中尉の後を
追いかけるのであった。
つづく
海上自衛隊の公報さんとお話しする機会があり、
経歴を伺うと、 平成初期から海上自衛隊で潜水艦に10年間も
勤務されていたそうです。
潜水艦の生活を支障の無い範囲を書かせてもらいます。
潜水艦さん
「潜水艦一隻のクルーは80名で兵科ごとに4個分隊に別れています。
24時間三交代制で、艦内は狭いので、邪魔にならないよう
用が無ければ寝ていろと言われています」
潜水艦は大きい
潜水艦さん
「まず、潜水艦は大きいということ。
水面に姿を現しているのは三分の一程度に過ぎません。
氷山の一角です。 巨大なので入れる港が
限られています、 護衛艦が入港可能な港と
単純比較して水深が2倍は無いと 寄港できません。
基本的には、呉と横須賀の二カ所です」
基本的に浮上しない
潜水艦さん
「一度出港すると、潜航を続け、帰港するまで
浮上する機会はありません」
篠原
「映画でよく見る、たまにハッチを空けて順番に外の空気を
吸わせてくれるんでしょう?」
潜水艦さん
「いやいや、そんなサービス無いです。基本的に潜りっぱなしですね
見つかってしまいますから。
横須賀を出港して浦賀水道を出たら、帰ってくるまで浮上はしません」
潜水艦は船酔いしない
潜水艦さん
「水上の艦艇と違うのは、食器やコップを普通にテーブルの
上に置いて食事が出来ることです。このような水の入ったコップも
置いたまま、地上に居る生活と変わりません。潜ったら本当に
静かだということです。嵐でも、潜ってしまえば、影響はありません」
だから、帰港前に浮上して揺れると
みんなダメ(船酔い)になってますね(笑)
それも護衛艦の揺れ方と違ってクセがあるんですよ」
篠原
「潜水艦の映画で、定番なのは、ネズミが住んでいると
その艦は幸運艦で、絶対に沈まないという、言い伝えが
ありますけど、現代の潜水艦でもネズミは居るんですか」
潜水艦さん
「いやいいや、それはありえません。もし居たら衛生的に
大問題になりますね」
篠原「そうすると、艦内はとても衛生的なんですね」
潜水艦さん
「衛生的・・・いやー、どうでしょう。
水が使えないので、洗濯は一切できませんから」
日本の潜水艦は静か
潜水艦さん
「日本の潜水艦は静かなので、ほとんど見つかることはありません。
P3C対潜哨戒機との訓練では、あらかじめ、索敵範囲が円で囲ってあって
決められているので、答えを教えているようなものですね。
ソノブイが投下されると、だんだん音が近づいてきます。これが実戦で
広大な海ではまず発見は無理でしょう」
「面倒くさいのは、水上艦艇や対潜水艦の訓練ですね。
絶対に音をたててはいけないから、訓練が終わるまでは
仕事が無ければ寝ているか、音をたてないように行動します。
ダメージコントロール
潜水艦さん
「潜水艦勤務が決まると、まず最初に覚えることは
艦内を伝っているパイプや配線の全てを
把握することです。
方眼用紙を渡されて、艦内に配線やパイプをプロットさせて
図を描かされます。これは持ち場がどこであろうと
潜水艦乗組員なら全員できなければなりません。
万が一に備えて、どの配線がどこに繋がっているか
知っておかなければいけない。命令があれば
すぐに自分の近くの配線を繋ぎあわせることができます」
潜水艦の操舵
潜水艦さん
「一応、操舵もやるのですけど
教官は最初は何も言わないんですよ。
潜水艦の舵はちょっと押し込むだけで
艦首が物凄く突っ込む。何かに捕まってないと
廊下をどこまでも滑って行ってしまう。
教官はそれを黙っているもんだから
慣れないものが操舵をすると、みんな滑っていってしまう」
潜水艦乗りになるには
篠原
「潜水艦乗りになるにはどうしたらいいんですか」
潜水艦さん
「私は最初から潜水艦を志望したのではありませんでした。
上官から適正の試験を受けろと言われて、それを受けたら
潜水艦乗りの適正があるとわかり、それを家族に話したら
『せっかく自衛隊に入ったのだから、他では体験できない部署へ
行け』と言われて、それで決めました。潜水艦の適正に合格すると
今度は航空機の適正(操縦以外)もあるから、そちらへ
行くこともあります」
篠原
「潜水艦で一番大変なことはなんですか」
潜水艦さん
「外の空気が吸えないことですね。艦内の空気は循環してますから。
勤務がおわって、帰ってくると空気が本当においしい」
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これといってオチがなくてごめんなさい。
覚えている限り、支障の無い範囲で書きました。
さて、
近年、隣国の航空母艦の脅威が話題となっておりますが
航空母艦の維持は湯水の如くお金がかかります。
航空母艦を一隻保有するには、セットで
護衛のイージス艦、護衛艦、そして水面下では
潜水艦が必要になります。
これだけの護衛を成しても
一隻の潜水艦が発射した魚雷で母艦を撃沈されるリスクは高く
日本の潜水艦は隠密性が極めて高いため
仮想敵国の航空母艦にとって、たった一隻の潜水艦が
最大の脅威となります。
目に見える形ではありませんが、潜水艦は
我が国からすれば最も有効な防衛手段であります。
潜水艦乗りの皆様、日々、見えないところで
大変な苦労をなさっています。ありがとうございます。
写真は呉市のからすこじま公園(日本唯一潜水艦の見える公園)です。