2017年7月21日 (金)

彗星パイロット大野徳兵衛さんのお話し(2)彗星との出会い

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◆九九艦爆と急降下爆撃機隊

 
艦爆いうたらハワイで活躍した。 九九艦爆がありますね。
ゼロ戦の搭乗員が、ハワイで九九艦爆が急降下するのを見て涙が
出たと言っておりました。その位勇ましかった。
 
飛行機の中で艦爆が一番過酷なんですよ。頭が下がりますよ。
実際艦爆乗ってる同僚の見たら感激するぐらいですから。
 
岩国で九九艦爆に乗って、空母「隼鷹」着艦訓練。
我々は四航戦で、伊勢、日向、隼鷹、飛鷹、龍鳳の各艦で
編成されていました。
 
豊後水道で全速力で走る隼鷹に 一点着艦(タッチアンドゴー)の訓練を
行いました。 3ヶ月、九九艦爆に乗って、それ以降は彗星に機種を変えました。
 
彗星は九九艦爆に比べて胴体が細くてスマートでした。
これはスピードが出ると思いました。
 
◆彗星艦上爆撃機 
 
彗星の搭乗員は殆ど戦死しています。
一番確実に敵をやっつけたのが艦爆ですからね。
 
彗星は靖国神社の遊就館にありますが、私はあれ見て 涙が出ました。
あの飛行機はイミテーションでなく 実物に近いです。
あちこち補修してますがね。
 
彗星は性能が良くて、ユンカース以上に良いと評判で
その通り非常にスピードが速い。 P-38とかシコルスキー、グラマンが
追いかけても さっさと逃げる事の出来るスピードがありました。
 
公称としては280ノット、事実戦争では 300ノット以上(時速555キロ)出しました。
どうせ落とされるなら 飛行機が壊れるぐらいまで走れと言いました。
 
◆彗星との出会い
 
私は当初、ゼロ戦と、当初15試陸爆と呼んでおりました
「銀河」を志願したんですが、両方はねられて、艦爆へ行ったんです。
 
それまでは徳島で3ヶ月教員しており、
辞令で第634海軍航空隊に転勤して艦爆に乗れと言われました。
 
ペアと一緒に駅から岩国の飛行場まで、田んぼの畦道歩いていましたら
遠くの空でキラっと光るものを見たんです。 次がまたキラっと光る。
「え?」と思っていると、 1分間ほど息せずに、急降下。
 
エンジンスローでまったく音しない。
それが今度、引き起こしでエンジン全開で我々の真上を
ブワーっと通り過ぎて行くんですよ。物凄い爆音。
 
「あお、あれが彗星やなあ、はじめて彗星を見た。怖い怖い!」
 
「あんなん乗せられるのか!?」
 
 正直、殺される!と思いましたね。足がすくみました。
それが彗星との出会いでした。
 
◆戦歴
私は艦船爆撃を7回、飛行場爆撃を1回、 艦船爆撃はその都度被弾して、
全部帰ってきました。 二回ほど燃料のメインタンク撃ち抜かれたけど
燃えずに白い霧が出ただけでした。
 
10回不時着しました。
索敵は数えきれないほど飛びました。
 
そして 特攻隊「神崎隊」隊長に任命されましたが
飛行直前で敵機が来襲して飛行機を燃やされてしまい
今、こうして生きています。
 
彗星は二人乗りでして、岩国で初めて彗星に乗って
からフィリピンの激戦までペアとは最後の飛行まで
ずっと一緒でした。 最後は、私はデング熱を患って、
空輸の飛行機に 乗り遅れたんですが、
ペアはその飛行機に乗って行って、 墜落戦死しました。
 
つづく

彗星パイロット大野徳兵衛さんのお話し(1)

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今回は彗星艦爆パイロットの
大野徳兵衛さんのお話しを伺いました。
大野さんは大正15年生まれ。神戸市出身。
 
昭和17年10月、第11期甲種飛行予科練習生
昭和18年4月、第35期飛行練習生。 昭和19年3月、徳島海軍航空隊教員
昭和19年5月、第634海軍航空隊配属。岩国で3ヶ月のち フィリピン戦線へ。
レイテ、オルモック、リンガエン、台湾沖航空戦で
急降下爆撃7回。いずれも被弾しつつ生還。 不時着10回。
 
昭和19年11月、第701海軍航空隊、761海軍航空隊、第763海軍航空隊所属。
昭和19年11月、特別攻撃隊「神崎隊」隊長。出撃直前に空襲にて発進中止。
戦地にて黒水熱発症、入院中、終戦を迎える。
 
以下、大野さんのお話し
  
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戦争の話だけはしたくないんですよ。
話したことまったくなかった。
 
うちの息子も娘も今まで全然戦争の話はしなかった。
「え?お父さん飛行機のっとった?」
と言います。
 
ここ最近ですね。話せるようになったのは。
 
私、昭和20年の2月頃から戦地で入院して
終戦まで戦争してないでしょう。レイテでも苦戦したけど一番、
非常に辛い、飛行機乗りが一番死んだ時期に私は参戦してない。
それが後ろめたくて。
 
昭和19年当時、私は17歳(満年齢)でした。 私の青春は戦争でした。
いや、青春なんてなかった。
 
ですけれどね、今の若い人を見て、女の子と遊んでるのを見て
いいもんやなあ、とか、うらやましいとか、悔しいとか、
そういった気持ちは全く、これっぽっちもありません。 逆ですね。
 
貴重な青春をお国の為に尽くすことができた。
こんなに有難い事ありませんよ。誇りです。
 
20歳で死んだ命を偶然、拾って 今年、91歳ですよ。
長生きさせてもらってます。
 
喫茶店にでも行きましょうか。 そこでゆっくりお話しさせてもらいます。
 
つづく

2017年7月20日 (木)

関西方面取材旅行中

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滋賀・京都・大阪・兵庫
関西方面へ来ています。
 
一式陸攻パイロットの方のインタビュー
彗星艦爆パイロットの方インタビュー、
 
そして鶉野飛行場未来プロジェクトの方々と町おこしの
意見交換会を行いました。
 
週末は二式大艇搭乗員の方へのインタビュー予定です。
 




2017年7月13日 (木)

絶望と希望と

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昭和44年(1969年)7月、アポロ11号が月面に着陸。
ニール・アームストロングは左足を月面に踏み出した。
人類史上、最もメジャーなニュースである。 
 
表向きは明るい宇宙開発競争だが、それは米ソ東西冷戦の歴史と
表裏一体だったし、
人類を月まで送り届けた「サターンV」ロケットの開発者は
元ナチス・ドイツの科学者フォンブラウンである。
フォンブラウンは大戦中、ロンドンを壊滅に追い込む世界初の弾道ミサイル
「V2」ロケットを完成させている。フォンブラウンは
ドイツ降伏の年、アメリカに亡命してロケットの平和利用の
研究を続けていた。
 
戦争は有能な人物の、あらゆる可能性を奪っていた。
 
日本では三木忠直技術少佐がロケット特攻機「桜花」を作っている。
三木少佐は新幹線の開発者で余りにも有名だ。
 
さて、アポロ11号の月面着陸は
日本でもテレビ報道された。
 
そのテレビを熱心に見つめる日本人が居た。
元陸軍パイロットで、戦後は航空自衛隊戦闘機パイロットになった
稲田淳美である。
 
稲田はこのアポロ11号のニュースを見て上官の竹田に言った。
 
「隊長ーー!もし日本が月に行くことになったら
真っ先に私を指名してくださいよ」
 
この時代、自衛官と言っただけで石を投げられ、
タクシーには乗車を拒否され、散々だった。けれど
そんなときでも、ここの者たちは日本の将来に目を輝かせていた。
 
日本人の底力をもってすれば、月よりももっと遠くへだって
飛んで行けると信じていた。 
 
稲田淳美はブルーインパルス二代目の隊長となる。
日本空軍復活のシンボルとなるのである。
 
ブルーインパルスは長澤賢が団司令の目を盗んで
低空背面飛行を披露したことに始まり、
今日に至るが、長澤が礎を築き上げ、実質的に
航空祭でお披露目される頃には稲田が隊長を務めていた。
 
ブルーインパルスで旧軍の出身者は
長澤賢(陸士58期)、稲田淳美(陸士59期)
加藤松夫(海兵74期)、西光(海兵75期/のち殉職)
の四名である。
 
ブルーインパルスのひく雲に
誰もが、わが国の復活復興を感じていた!
 

 
航空自衛隊黎明期を支えたのは、こうした旧陸海軍出身者が
多いが、誘いを断って故郷に残った者も居る。
 
岩崎陸軍大尉(航士55期)はフィリピン戦線において
百式司令部偵察機で活躍していた。
あのとき空から見下ろした戦艦大和も今はもうない。
 
復員したあの日、汽車は故郷の駅に昼間の早い時間に
到着した。
 
実家の母のもとには既に戦死の報せが届いていた。
兄弟もみな戦死していた。自分も死んでことになっている筈だ。
このまま帰っていいのか。
 
岩崎は戦争に負けたことが
恥ずかしくて、情けなくて、駅舎で夜になるのを待って
近所の目を避けながら、暗い道をトボトボと帰った。
 
家に着いて、台所の扉をガラリと開けると
そこには母がいた。死んだはずの息子との再会だった。
 
明治生まれの厳しい母が涙を流して
駆け寄って抱きしめた。
  
戦後、日本空軍再建のしらせと誘いを受けた岩崎は
二つ返事で行きたかったが、
貧しい貧しい時代、こんなチャンスはなかったが、
母をひとり残していく事が、どうしてもできなかった。
 
母にとってはたった一人、生き残った息子だった。
岩崎は母と一緒に故郷で農業を営み、国の再建に尽くした。
戦友のことを忘れた日はなかった。 
 
「若い良い男が戦争でみんな死んだ・・・みんないい男でしたよ。
 その男たちの事を、毎日思い出しています」
 
戦争は全てを奪い、日本を荒廃させた。
それでも将来日本のため、戦後頑張り続けた人たちのことを
そして、こういう人たちを将来の日本に残すため、自らは戦争で
犠牲となった人たちのことを、少しずつ書いていきたい。

大刀洗駅(たちあらいえき)

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ライリイ大尉の記事
を書くために
T-33(ジェット練習機)の画像を購入したのですが
自分でも撮影したものがありました。
 
ここは甘木鉄道甘木線の大刀洗駅です。
 
駅とカフェが併設されていて、屋根の上にT-33が乗っかっています。
可愛らしくて、ユニークな建物。
駅を降りてすぐ、道路を挟んだ反対側が
大刀洗平和祈念館です。
 
福岡観光情報
大刀洗レトロステーション

2017年7月11日 (火)

ジョー・ライリイ大尉の話

 
米国空軍戦闘機パイロット、ジョー・ライリイ大尉。
大尉は、日本空軍再建に最も尽くした人物といっても
言い過ぎではない。 
 
朝鮮戦争帰りの、ライリイ大尉は
そのまま日本でゼット戦闘機の教官として着任した。
(当時はジェット機をゼット機と呼んだ) 
 
ライリイ大尉は小柄であったが朝鮮戦争で捕虜になるより
白兵戦に備え、飛行服に
拳銃を二丁忍ばせていた、という逸話を持つ。
 
昭和31年の浜松。
格納庫の屋根は戦争中の爆撃で穴が開いたまま、
浜松の飛行場は吹きさらしで
プレハブ小屋が一軒だけ建っているような状態だった。

A4▲昭和30-32年頃の浜松基地。関係者より拝借。
 
大の親日家であったライリイ大尉は
ブロンドヘアの妻と愛犬を連れて、この
荒野のような、殺風景な浜松にやってきた。
 
ライリイ大尉は日本人パイロットに対しては
特に計器飛行を熱心に指導した。
 
それまでの旧軍の戦闘機「飛燕」とか「零戦」も計器は積んでいたが
当時の概念としては補助的なもので、
低い雲や悪天候、夜間の発着は大変なリスクが伴った。
 
計器飛行はこうした悪天候で視界が確保できない状況でも
人間の目でなく、計器をメインに安全に離着陸や飛行が可能となる、
現在では当たり前となった航法である。
 
ライリイ大尉は勤務時間は教官として任務をこなし、
時間外は研究のために飛んでいた。土日も飛んだ。
休みなしで飛んだ。
 
日本人も、皆、休みなしで飛ぶので事故が多発した。
源田実が、この状況を危惧し飛行時間の制限を決めたのが
昭和32年以降だった。
 
立て続けに
指宿正信二佐、小林照彦二佐、中村博二佐、の三名が殉職していた。
指宿二佐、小林二佐の事故のことは以前ブログで書いた。
 
元海軍パイロットの中村博二佐は射撃が特に抜群だったことで名を
馳せていた。事故は昭和32年6月20日、夜間計器飛行訓練中、
日向灘に墜落して殉職。
中村二佐は、このとき十分な高度があり、ベイルアウト(緊急脱出)に
成功したと言われているが、当時、満足なライフジャケットを身に
つけていなかったため直接の死亡原因は凍死だという。
 
ライフジャケットはあるにはあったのだが、数が揃わず
それでも良いから、と、飛んでいたのである。
 
これは、現代において考えてみれば
無謀とか危機管理とか、そういう話になってしまうのだが
当時の考えは全然違う。 
 
当時のパイロットは誰もが
一日も早い、日本空軍の再建を目指して
犠牲覚悟で飛んでいた、ということを、忘れてはならない。
気概をみんな持っていた。現在とは全然違うのだから。
 
このとき、F86Fのパイロットであった竹田五郎氏は
「事故があっても、屍を乗り越えて行く、
戦争中のような気持ちだった」と回想する。
 
ライリイ大尉は、そうした日本人パイロットとともに
命は軽いが、尊いものを背負って、飛んでいた。
 
大尉は本当に、飛行機に乗るために生まれてきたような人だった。
飛行機に対する探究心は尽きることが無かった。
それらの技術や経験を、日本人パイロットに惜しむことなく
教え込んだ。
 
自らも何事も思いついたら
やってみないと、気が済まない大尉だった。
燃料タンクが空になっても飛んで周りをヒヤヒヤさせた。
 
訓練中、燃料ゲージの限界の規定値に達すると
通常、パイロットは
「ミニマム・フューエル」(燃料僅か)をコールし
速やかに着陸しなければならない。
 
ライリイ大尉は、ミニマムフューエルをコールした後も
ふたたびスロットルを全開にして、もう一飛びしていた。
 
特筆すべきエピソードとして
琵琶湖上空から、入間まで滑空を試したことがある。
高度が下がりたため、浜松へ不時着した。
 
ライリイ大尉と日本人パイロットの間には
絶対的な信頼関係と、固い友情が存在した。
 
ライリイ大尉とお互い尊敬していたのが
ブルーインパルス発案者で初代隊長の長沢賢であった。
 
どちらも天才的技量のパイロットであったことは
間違いないが、飛行スタイルが異なる。ライリイ大尉はどちらかと言えば
飛行の研究に重点を置いて、
長沢賢は、後に、団司令の目を盗んで、松尾とともに
F86F戦闘機2機で勝手にアクロバット飛行を始める。 
2機で超低空でスローロールを行ったあと、日本初の
背面飛行を披露した。この話はまた後で書くことにして
ライリイ大尉の話に戻る。
 
ライリイ大尉が殉職したのは
昭和31年9月29日だった。
T-33複座戦闘機で連絡飛行中
ジョンソン基地(現在の呼び名は入間)基地に墜落した。
 
ライリイ大尉の話はどの本にも載っていないが、
大尉の残した功績は大きい。
きっと航空自衛隊の現在に確実に受け継がれているであろう。
 
いつか、誰かが見つけてくれることを信じて
ここに記す。

2017年7月 8日 (土)

頑張れ!誇り高き日本の企業戦士

以前、韓国人の友達が居た。
  
彼の名前はドンちゃん。
大森南朋に似ている。
彼とはよく酒を飲みに行った。
 
そこでいろいろと
韓国の話を聞かせてもらった。
 
ドンちゃんは穏やかで優しい人だった。
たくさん韓国の話を聞かせてもらって楽しかった。
中でも印象に残っているのは
 
「日本の女性はとってもやさしいよ!
こんなに優しい女性は世界中探しても日本だけだよ!
だからー、日本人の男はもっともっと女性に優しくしないと
いけないですよ!そうしないと、みんな韓国人の男に
取られてしまうよ!」
 
日本人女性は大モテだという話。
何度聞いたことか。
 

 
彼は日本の企業に勤めていた。
もちろんボスも日本人。日本人ばかりの中で
韓国人はドンちゃん一人だったけど、彼は日本語もペラペラだったし
日本人社会の中に溶け込んでいるように見えた。
 
だけど、日本企業はハードだ。ドンちゃんは
時折、仕事がハードすぎて辛いと、漏らしていた。
もしかしたらブラック企業だったのかも。
 
そんなこんなで、なんとかドンちゃんは頑張っていたのだけれど
ある日突然、彼は失踪する。そのまま
行方がわからず、それっきりになった。
風の噂では日本の仕事がきつくて、韓国に帰ったのだと聞いた。
 
伝え聞いた話だが、彼が失踪する直前のことだった。
長時間労働と休み無しですっかり疲れ切った彼が
死んだような目で同僚に、次のように言ったそうだ。
生涯忘れられない一言だった。
 
「徴兵より辛い・・・・」
 
そんなにきついのか。日本の会社は。
ご存知の通り、韓国は徴兵制で二年間の兵役が
義務化されている。
 
韓国の徴兵制については
こちらのサイトが見やすくてわかりやすい。
https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=557
   
軍隊より辛く厳しい、日本の企業戦士、
こうしている間も、日本のどこかで頑張り続けている!
 
ありがとうございます。そして、お疲れ様です。 
 
そして
ドンちゃん、大丈夫かな。幸せでいますように。

2017年7月 5日 (水)

田中三也さん(彗星搭乗員)講演会予定

Photo

彗星搭乗員の今年後半の田中三也さんの講演会予定です。
貴重な機会ですので、ぜひお出かけください。
(ご高齢ですので突然の予定変更等あります)
詳しくは主催者にお問い合わせください。  
 
申し込期日前でも
定員になり次第締め切りとなります。 
 
平成29年(2017)後半予定
 
7月23日(日)東京・浅草
近現代史研究会(Panda会)
田中三也さん
「海軍偵察員の大東亜戦《前編》 ~あ号作戦挺身偵察」
12時45分~16時00分
  
9月16日(日)東京・浅草
近現代史研究会(Panda会)後編
田中三也さん
「海軍偵察員の大東亜戦《後編》 ~比島死の攻防」
12時45分~16時00分
 
近現代史研究会
主催・申し込み先

 
-------------- 

10月15日(日)茨城県小美玉市
太平洋戦争を語り継ぐ会
陸海軍の戦場経験者
四名が1時間ずつ講演(予定)最高齢104歳。
時間未定。 
  
--------------
 
11月19日(日)埼玉県越谷市
越谷コミュニティセンター
時間未定
 
--------------
 
決まり次第更新します。
 
「いつお迎えがくるかもわからんけど、
今年いっぱいは生きておかにゃあならんなあ~
わはは~」
 
と、田中さんは
といつものブラックジョークでありました。
 
田中三也さんのご本
『彩雲のかなたへ』

2017年7月 3日 (月)

空白の航空自衛隊黎明期を埋めて行く

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今日は竹田五郎元統合幕僚長にブルーインパルス
創設当時のお話しを伺いました。

もちろん飛燕時代のお話しも伺いました。
 
今後も定期的に取材を重ね、空白の航空自衛隊黎明期を
埋めて行く作業を続けて参ります。

四宮徹中尉の思い出1

震天制空隊のニュースが連日、新聞で報道されていた。
 
震天制空隊はB-29に体当たりを敢行する目的で、
成増、調布等の戦闘機隊の一部をもって
編成された空対空の特攻隊である。
 
震天制空隊で代表的な存在が244戦隊の四宮徹中尉である。
四宮中尉はB-29に体当たりし、片翼で帰還したことで
一躍、世に知れ渡ることとなり、愛機飛燕は日比谷の百貨店に展示された。
 
昭和20年、調布飛行場。飛行機好きのK少年は
元々住んでいた神田神保町が空襲で焼け、西立川へ疎開してきた。
調布飛行場が近所だった。
 
飛行場のフェンスは目隠しがしてあって、外からは
見えない。B-29の偵察では丸見えだと言うのに、
わが国民に見せてくれないと言うのも
おかしな話だ、と少年は考えていた。
 
その頃は、どういう訳か知らないけれど、少年が
「特攻隊に行きま-す!」と営門で敬礼すれば
調布飛行場の中へ入れたという。
 
整備員が、ニュース写真では塗りつぶされていた
独立飛行隊の九九式軽爆の
ダイブブレーキを見せてくれて写真まで
撮らせてくれた。
 
隊員とのエピソードは数多くあるが
この日も、調布飛行場にカメラを持って堂々と立ち入り
歩いていたときだった。
向こうから、ニュースで見覚えのある顔がこちらへ近寄ってくる。
 
丸顔で童顔の四宮徹中尉である。
 
少年はここぞとばかり、気持ちに勢いをつけて
 
「有名な四宮さんですよね!!」
 
と声をかけた。
どちらかというと寡黙なタイプの四宮中尉は
 
「そんなに有名じゃないよ。俺は」
 
穏やかに一言だけ、答えると、通りすぎようとした。
少年はカメラを持ったまま、四宮中尉の後を
追いかけるのであった。
 
つづく