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2015年3月14日 (土)

中川大佐と村井少将と伊藤海軍少将

村井権治郎少将、ペリリューへ
ペリリュー島守備隊の総司令官が陸軍の中川州男大佐であったのは

周知であるが、中川大佐より階級が上の村井権治郎少将
追ってペリリュー島へ派遣される。
 
通例であれば上級の村井少将が指揮権を掌握するが
ペリリュー島の戦いにおいては中川大佐が最高司令官として
戦うことを決定し、師団の方針とした。
 
これが疑問だと尋ねられることが多いので
村井少将がペリリュー島でどのような役割を担ったのか、
ここで述べたい。師団の方針は次のようなものだった。
 
「村井少将を戦術顧問としてペリリュー島へ派遣する。
指揮権は中川大佐が持ち、村井少将はあくまで中川大佐の
補佐・相談役に徹する」
 
中川大佐は国際派として知られ陸軍大学を出たばかりで、
その頭脳と有能さは陸軍でも屈指であった。
十四師団長の井上貞衛中将はこれをよく知っており
激戦が予想されるであろうペリリュー島へ
中川大佐を派遣することで最大の働きを期待したのだった。
 
中川大佐はゆくゆくは将官として活躍が望まれていたが
それ以前に南方への出征、ペリリューでの玉砕した。
 
要塞構築の専門家・村井少将 
片や、村井少将は要塞構築の専門家であったので
ペリリュー島の陣地構築において手腕を発揮した。
 
中川大佐はもとより司令官というよりも、参謀タイプであり
大佐がほとんど口を開かない寡黙な人物だったのに対し、
それよりだいぶ年配の村井少将は人情味あふれる明るい
性格であったと
伝わっている。二人でちょうとバランスが取れて
いたとも取れるが、
このあたりのやり取りは『天皇の島』に
詳しく書いてあるので
見てほしい。
 
海軍への牽制か?陸海軍の対立
特筆すべきは、村井少将が後から派遣されたという点である。
少将が要塞構築の専門家であるなら、なぜ最初から中川大佐と
共にペリリュー島に渡らなかったのだろう。
 
元来パラオ・ペリリュー島は海軍の島であるため
海軍の権限が非常に大きく、東洋一と称される
飛行場を有した。航空隊要員(整備兵)や
建設設営隊が多くを占め、陸戦部隊をほとんど持たなかった。
 
僅かに海軍の陸戦隊(根拠地隊)が高角砲等を備え守備を担っていたが
米軍パラオ進攻の公算大と判断した大本営は
ペリリュー島守備の必要性を急務とし、大陸から
陸軍部隊(14師団)を急遽、ペリリューへ派遣したのが昭和19年4月。
戦いの始まるわずか半年前であった。
 
海軍航空隊の壊滅と陸軍部隊の到着
3月31日のパラオ大空襲でペリリュー島の海軍航空隊は壊滅し
補充された航空隊も徐々に消耗。
マリアナ沖海戦後にはほとんど全滅し、
以後、フィリピン、本土決戦に備えて、戦線の後退、および航空機の
温存に伴いパラオ飛行場は事実上放棄された。
 
一方、ペリリュー島へ到着した陸軍はこの間、大山麓を中心に広がる
山岳地形を
利用し、大変な努力の末、500~700あまりにおよぶ
洞窟陣地から構成される複郭陣地を構築し決戦に備えた。
 
パラオ地区の最高司令官は誰か?
ペリリュー島を含むパラオ地区の最高司令官は
海軍第30根拠地隊司令の伊藤賢三海軍少将
ペリリュー島は西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵海軍大佐が最高階級であった。
 
(西カロリン航空隊が結成された頃には稼働する航空機は
ほとんど残っておらず、西カロリン航空隊という部隊名称は
ほとんど名目上といったところである)
 
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ
この時点でペリリュー島には
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ。
 
そこで陸軍は村井少将のペリリュー派遣で、中川大佐の後ろ盾とし
海軍への発言力を強める狙いもあったと充分に考えられる。
陸軍は陣地構築のための資材を海軍に提供してもらえず苦労した。
陸軍兵士の回想によれば「何度も何度も海軍も頭を下げてお願いして
建設資材を提供してもらった」と記録されている。
 
陸軍と海軍壕の違い
陸軍の陣地と海軍の陣地を比べてみれば
現在でも違いがはっきりわかる。陸軍の陣地はツルハシなどつかった
手掘りで、
急ごしらえの壕だったのに対し、海軍はもとより立派な壕を
有していた。
 
代表的なところでいえば、水戸山陣地はもとより頑強な海軍壕で
南興村付近のトンネル構築のプロ(海軍軍属)が構築した陣地であった。
天井も高く敷板が敷いてあり、
発電機を備え、空調設備(エアコン)まで
あったという
証言もある。
 
陸軍は大山を中心とする複郭陣地で、すべて急造の天然洞窟を利用するか
手掘りした壕である。
戦術や兵隊の指揮など、関係する要因は他にも
あるので
一概には言えないが、それにしても海軍壕は早くに陥落し
陸軍壕は玉砕まで長く持ちこたえた。皮肉な結果となった。
 
村井少将と中川大佐の意見対立
籠城戦の継続に伴い、村井少将と中川大佐で
戦略意見の対立が目立つようになる。
 
中川大佐は一日でも長く戦って
米軍の進攻を阻止するという信念を持っていた。であるから
「各々の命は大切に」し、持久戦に徹せよと部下に命じた。
 
2014年、ペリリュー戦がフジテレビで地上波のドラマになった。
金曜プレステージ終戦記念スペシャルドラマ
『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』という題目だったが
  
この中川大佐の提唱した「命を大切に」という願いは本来であれば
戦略上の概念であったのだが、何故か現代風にねじ曲げられて
「個人個人の命はかけがえのない尊い大切なもの。生きて日本に帰ろう」
という価値観に塗り替えられて放送されてしまった。残念でならない。
 
ここで倫理上どっちが正しいか、という議論はさておき
まがりなりにもペリリュー戦の歴史をなぞったドラマであるなら
極めて不正確で誤った描写だと言いたい。少し脱線した。
 
玉砕を求める村井少将
これに対し、村井少将の立案した作戦は
飛行場付近の米軍陣地に突撃をかけ、玉砕するというものであった。
 
水が無いのである。
村井少将水筒のエピソードについて書く。
10月初頃、ペリリュー戦は中盤となり既に守備隊は籠城戦に移行。
『天皇の島』では村井少将と部下のやりとりを次のように描写している。
村井少将の人柄を感じるエピソードだ。以下『天皇の島』136頁より
 
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壕内は静かだった。敵のマイク放送も聞こえない。
村井少将は軍刀を抱きかかえ、岩壁にもたれて眼を閉じていた。
栗原曹長は拳銃の手入れをしていたが、そういえば
村井少将の拳銃の調子が悪く、修理するつもりだったのが
敵上陸にまぎれて忘れていたことを思い出した。
 
「閣下、閣下、拳銃の手入れを致しますから」
そっとひざをゆすると村井少将は「おう、おう」と
相変わらずのニコニコ顔で目を覚ましたが首を振った。

「いや、栗原、わしには拳銃はいらん。使うことも
ないじゃろ。それよりも喉が渇いた。水を一杯くれんか」
「水ですか」と、栗原曹長は当惑げに岩壁にたてかけた水筒を振り返った。
水には難儀をしていた。もともとペリリュー島には
水源地が少ない。
 
中央台地群で利用できるのは天山の西、
第二大隊第四中隊の
守備範囲で第四中隊長・川又広中尉の名をとった
「川又水源地」と
南征山の東にある池ぐらいのものであった。
だが、川又水源地は既に
敵中にあり、一文字壕から間近に見える
池も近付きにくい。夜、敵の照明弾、
サーチライトをぬって
水を汲みに行くのだが、ときに敵弾に倒れる。
 
「水汲みで死ぬのも立派な戦死だ」と中川大佐ははげましたが
やはり小銃片手に死ぬのと水筒を抱いて射殺されるのでは
兵の気迫は異なる。自然に水汲み志願者は減り、今では毎日訪れる
スコールを砲弾の薬莢に受け、あるいは
洞窟の岩壁にしたたり落ちる
わき水を水筒にためて
喉の渇きを凌いでいる状態だった。
 
「おう、こりゃあすまんことをいうた。あとでいい。あとで・・・」
栗原曹長の様子に村井少将は右手をあおぐようにふりながらそう言った。
しかし老齢の少将の望みである。洞穴内にぼんやりとうずくまり
あるいは横になっていた兵たちがあちらこちらで起き上がり水筒を振り
飯盒を鳴らして水を集め始めた。
 
「いいんだ。もういいんだ」
少将からみれば兵たちはわが息子にひとしい若さである。
その子供たちがとぼしい水を差しだす。少将は声をつまらせ、夢中で
「いい、いい、お前、飲め」と水筒を押し戻し
飯盒をおさえた。
 
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引用おわり
 
「最後に水が飲めるなら死んでもいい」
  
いずれにしても死ぬのだから、部下の兵士をこれ以上
もう苦しませたくないというのが村井少将の心持であろう。
これを拒否しなければならない中川大佐の心中
辛いものであったに違いない。
 
ペリリュー戦終結~ラストコマンダーは誰か? 
11月24日、中川大佐と村井少将は自決し
日本軍守備隊による組織的戦闘は終結。
米軍はのちにペリリュー島占領を宣言する。
 
ここで米軍は日本軍の最高指揮官の遺体を確認するのが
通例であるが、ペリリュー島を陥落させた米陸軍81師団は
当初、伊藤海軍中将をペリリュー島の最高指揮官と見込んでおり
遺体の捜索にあたったが、発見に至らず、のちに
中川大佐と村井少将が最高指揮官であることが
捕虜からもたらされた情報により判明、結論付けられた。
 
それもそのはずで伊藤賢三海軍中将は
コロール(あるいはバベルダオブ)から指揮を行っていたのである。
ペリリュー島で海軍応急陸戦隊を率いたのは西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵大佐で、玉砕している。
 
パラオ本島も玉砕の準備
誤解を招かないよう書いておく。
当然ながら、井上師団長をはじめ陸軍14師団主力と伊藤海軍中将も
ペリリュー島陥落の後は、コロール・パラオで決戦があるものと覚悟して
いたからパラオ本島の防備を
厳とし、死ぬ覚悟はできていた。
 
ペリリュー・アンガウルで大痛手を被った米軍は結果としてパラオ本島の
攻略を断念し
終戦まで兵糧攻めに徹することになるが、この間
バベルダオブとコロールは米軍の
執拗な空襲によって戦死者、
病死・餓死者が続出し、その合計は4800名以上となった。
(犠牲者の多くは昭和21年の復員中にも含まれる)
 

陸軍の井上師団長は昭和20年終戦後、米護衛駆逐艦「アミック」を
多田参謀長とともに訪れ、降伏文書に署名、その後は
グアム軍事法廷でいわゆるBC級戦犯の容疑者
とされ、死刑判決を受けた。(ただし判決は戦勝国による一方的な
もので必ずしも公正無私でないことを断っておく)
井上中将はのち終身刑に減刑、釈放され
復員したが、昭和36年10月、
病により死去した。
 
伊藤海軍中将は生きて終戦を迎えたようだが
その後の消息は不明である。

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