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2014年11月29日 (土)

戦艦大和両舷全速プロジェクト

戦艦大和

 
万里の長城、ピラミッド、戦艦大和という世界三大無用の
長物とかいうのがあるそうだ。よく、大和一隻分の予算と資材があれば

飛行機がたくさん出来たとか、言われる。
 
しかし現在を生きる我々にとって、大和建造に際して培った工業技術は
今日日本の礎となり、多大な
恩恵を賜っているのは間違いない。
 
呉市の誇り
この辺のことは細かくブログに書くよりも
呉市の大和ミュージアムへ行くと、私より一億倍戦艦大和に
詳しいボランティアガイドのおばさんが丁寧に説明してくれる。
まさに目からウロコだ。感動したのだった。
ボランティアガイドといっても、その教育レベルは素晴らしいもので
とにかく一度、訪れてみることを強くおすすめする。
少なくとも呉市は戦艦大和の誇りで出来ている街だ。
戦争の経緯や思想はさておき、呉市の公園には大和の主砲を模した
オブジェが飾ってあったり、建造されたドックはそのまま残されていたりと、
とにかく戦艦大和を大切にする。
 
「大和沈めども、技術は沈まず今日日本の礎を築く」
 
これが大和ミュージアムのガイドのおばちゃんが言っていた
名文句である。感動したので機会さえあれば何度でも足を
運びたいと思っている。

戦艦大和ドック 
▲歴史の見える丘公園から望む戦艦大和ドック(夜景)

呉市の歴史の見える丘公園へ行く

長崎の武蔵ドックはこちら

 
鹿児島と大和
同様に坊の岬沖海戦が行われ、最後に大和が目撃された
縁の深い鹿児島で大和をいかして町興しできないか考えている。
鹿児島は本土決戦に備えた戦跡も多く、見ごたえがある。
指宿をはじめ、良い温泉もあるし、東京からお客さんをたくさん呼んで
過疎化に歯止めがかけられないか。考えている。
 
現地の友人と協力して戦艦大和グッズをいろいろ
作ることにした。
 
 
追記2015年4月
戦艦大和Tシャツ(通常版)販売開始しました。
こちらはamazonで購入できます。
 
また、置いていただける小売店様を募集しています。
買取・委託などご相談ください。
 

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戦艦大和Tシャツ ホワイト販売ページへ
戦艦大和Tシャツネイビー販売ページへ
戦艦大和Tシャツブラック販売ページへ

戦艦大和イラスト

大和最終艤装図 
 

戦艦大和・武蔵 フリー素材

戦艦大和・武蔵の艦影フリー素材を作成しました。
ダウンロード使用できます。
詳しくは以下をご覧ください。 
 
画像使用についてのお願い

2014年11月21日 (金)

知覧特攻基地の実話 黎明の蛍

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『黎明の蛍』

知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
 
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。
私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
 
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。

 
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
 
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
 
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。

 
「すまん又敵に逃げられてしまった」

 
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。

 
「仕方ないですよ」

 
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。
一対五の空戦はざらであった。
 
「そんなことより背中を流しましょう」

 
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
 
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
 
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
 
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
 
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」

 
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。

 
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」

 
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。

 
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」

 
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
 
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。

 
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」

 
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。

 
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」

 
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると

 
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」

 
と尋ねた。

 
「ああ、あれで行くよ」

 
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。

 
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」

 
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。

 
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」

 
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
 
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
 
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。

 
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」

 
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
 
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」

 
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。

 
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」

 
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。

 
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」

 
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い

 
「分かりました」

 
と答えた。
 
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
 
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。

 
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」

 
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
 
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。

 
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。

 
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』

 
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
 
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
 
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
 
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
 
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。

 
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」

 
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」

 
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
 
叔父は酔っ払うと

 
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、相川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」

 
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
  

有田 直史(著)
 
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この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
 
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
 
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
 

篠原 直人(解説)
 

2014年11月 5日 (水)

BC級戦犯の処刑を見た

この内容は、昭和21年7月15日
元憲兵曹長の磯部氏がラングーン中央刑務所抑留中に目撃した法務死
(いわゆるBC級戦犯の処刑)についての証言です。2014年夏に
私を含む有志四名で、磯部氏に独自取材を行ったもので
やや刺激の強い表現が含まれますことをあらかじめお断り申し上げます。
 
95歳になる磯部さんは、こうした戦争のお話をされる際に、
「私は亡き戦友の代弁者として」と、必ず仰ってから
語り始めるのがのが常となっています。
 

BC級戦犯の処刑
YouTube: BC級戦犯の処刑

 
ラングーン刑務所におけるBC級戦犯の処刑と裁判の概要
昭和21年4月
ラングーン軍事法廷においてカラゴン村事件の裁判が開かれた。
17日間にわたる裁判の結果、日本軍将校四名が事件に深く関与したとされ
有罪、死刑が言い渡された。同年7月15日午前 少佐一名が絞首刑。
大尉一名と中尉二名が銃殺刑となった。
 
ただし戦勝国による裁判は必ずしも公正無私なものとは限らず、
その真偽は当然ながら、判決自体も開廷から結審まで合わせて
17日間という短期間に争われた結果であった。
 
日本軍側の主張でもあり矛盾点として付け加えるべきは
村の襲撃を命じたとされる師団長、連隊長は無罪であったうえ 法廷では
連合軍による日本本土無差別爆撃等による日本の民間人死傷も
同様の戦争犯罪にあたるとの言及がなされたが、以後一切、連合国の罪は
引き合いに出されることなく結審していることであろう。
 
 
カラゴン村事件とは
第三十三師団(弓)第215連隊第三大隊が ビルマ東南部の
モールメンにおいて女性子供含む現地住民600名を虐殺したとされる
事件である。カラゴン村の住民は英軍をゲリラ活動により支援しており
(これらを敵性部落と呼ぶ)さらに村が師団の 進軍経路上にあったため
師団司令部は 連隊に村の襲撃を下令したとされる。
  

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証言者略歴 
磯部喜一氏
最終階級憲兵曹長。 大正8年3月生まれ、鎌倉市出身。
昭和15年、歩兵49連隊(甲府)へ入隊 同年、憲兵試験を受験後合格。
中野の憲兵学校7期生として入学。 半年間の憲兵教育課程を修了後、
横須賀憲兵分隊で内地勤務。 司法係として、刑法を根拠とした軍人軍属の
犯罪取り締まり、 要人警護(葉山御用邸の警護)徴兵検査立ち会い、
遺骨引き渡しの警備等を行う。
 
昭和19年5月、外地勤務を志願しビルマ派遣。
現地人に変装し、諜報活動に尽力。インパール作戦中止に伴う
ラングーン放棄・シッタン平地作戦では(事実上の撤退作戦)
陸軍第一〇五旅団・敢威兵団の将兵3400名を導きモールメンへの
撤退路を確保した。
 
サトンにて終戦を迎える。バンワン、ラングーン刑務所へ抑留。
アーロン収容所を経て、昭和22年3月釈放。同年、8月復員。
 
97歳となった現在も
「亡き戦友の代弁者として」
講演、語り手を続ける。