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2013年8月26日 (月)

レッドビーチ(アンガウル島)

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アンガウル島、レッドビーチです。
昭和19年9月17日、レッド、ブルー、両ビーチ同時に上陸を開始した
米陸軍81師団は、ここレッドビーチで佐藤光吉中尉率いる
第二中隊と対峙し、甚大なる損害を被りました。
当時は艦砲射撃で、海岸線は丸裸だったのでしょうが
現在はパンの木など、多くの緑が茂り、海までせり出しています。

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※ブルービーチの戦いも参照
  
では、レッドビーチ近くに残る戦跡を見て回りましょう。
 

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 散兵壕と呼ばれる、塹壕が、当時のまま残っています。
兵隊さんが、シャベルで掘ったものです。
珊瑚岩は固く、これだけの深さを掘るには大変な苦労があったと
想像できます。土ではありません。岩です。
 

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これだけの深さがあります。
 

ペリリュー島、水戸山と千人壕

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▲水戸山と千人壕入口
 

◆水戸山陣地

水戸山に掘られたこの深く複雑巨大な壕は高度に要塞化されており
ビルの三階から四階建てに相当し文字通り一千名の兵力が潜んでいた。
そのため一度無力された陣地が何度も復活し、海兵隊を悩ませたほか
上方の洞窟口より地上の海兵隊に対し執拗な攻撃が加えられた。

◆トンネル工事のプロによる陣地構築
この洞窟陣地はガドブス飛行場建設で動員された炭鉱、土木建設関係者が

徴用された海軍軍属で編成された海軍第214設営隊と
トンネル構築のプロである海軍第三隧道隊が築いたもので
海軍の豊富な資材と海軍軍属の尽力に依るところが大きい。
床板を張り巡らせたほか、発電機、空調まで備え、
さらにこの水戸山の地下を貫いて南洋興発工場と連絡が可能であった。

陸軍は陣地構築において、海軍の協力を拒まれ、
人力による手作業に頼らざるを得なかった。
南部に構築された陸軍陣地との違いは歴然である。


◆混成部隊の戦いと統制の欠如
この陣地を有する北地区の守備を担うのは
独立歩兵346大隊で、兵員の大部分が海軍の航空要員や
土木従事の軍属であり、正規の陸軍兵士でないため戦闘能力と
統制が欠けていた。

それらをまとめる大隊長は予備役上がりの
引野通広少佐53歳であった。

◆水戸山陣地の玉砕

9月23日夕刻から戦車を伴い、浜街道を北進する
米軍に対し、引野大隊は地形を活かし反撃を試みるが
被害が続出。戦闘経験の浅い大隊は存分に
力を発揮できず、25日、中之台を南北から挟撃を受けた
大隊は大山付近に布陣する中川大佐との連絡系統を遮断された。

その後も洞窟陣地より抵抗を続けたが
10月2日、引野大隊長が戦死。北部守備隊はついに玉砕した。

米軍はその後も幾度となくこの巨大な水戸山陣地に対し掃討戦を行ったが
洞窟の全てを掌握し、最後の日本兵を倒したのは翌年2月のことであった。
 

◆戦闘経過

9月23日夕刻

米軍は浜街道を前進し
ガリキョク南方へ進出。
同地守備の独歩346大隊の前田中尉指揮する
第二中隊はツツジ、前田山陣地でこれを撃退。
前田山からの重火器の猛射を浴びせ阻止したが
米軍は戦車十数両と艦砲射撃支援のもとに
攻撃を再開

24日午後ツツジの一部が奪取された。
引野大隊長は予備隊を投入し浜街道沿いに逆襲を敢行し
陣地を奪回。夜襲を準備中敵に発見され集中射撃を受け
被害続出。

これに基づき、引野少佐は予定の計画に基づき
水戸山と中之台を確保することを決心した。

25日午後以降
米軍の新鋭一個連隊が進出し無線電信所を夕刻に奪取。
中之台を南北から挟撃。ついに北地区隊と中央山地に布陣する
第二連隊主力は遮断された。


9月26日、米軍は浜街道から水戸山西方を北進し
ガルコル桟橋付近まで切迫したが
これを待ち構えていた中村中尉指揮の第三中隊、
歩兵砲および砲兵中隊が反撃し敵を混乱に陥れたが
物量で押され
27日には水戸山の地下坑道陣地を除く大部分が
奪取され、10月2日頃、引野大隊長が戦死
北部守備隊は玉砕した。


◆ガイド
ノースドックで船をおりてすぐ、目の前に広がる山脈が水戸山です。
 
水戸山の麓に「千人壕」と呼ばれる長大な壕が残っています。

現在は、少しだけ中に入って見学することができます。 
(ただし、見学の際は必ずガイドとともに行動し、絶対に単独で
奥まで行かないでください。遭難の恐れがあります)

 
当時、ペリリュー島には燐を採掘する
南洋興発株式会社という民間会社がありました。
ペリリューの北部は南洋興発の拠点であり、南興村と呼ばれました。
この人たちは、トンネル掘削のエキスパートであり、故に長大な
地下要塞を築き上げ、ペリリュー島が
戦火に巻き込まれ、軍属として籠城することになりました。
 

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 ここでは引野通広(ひきのみちひろ)少佐
独立歩兵346大隊の指揮し、戦いました。
芸者久松の噂が生まれたところでもありますが
その真意はさておき、南部を守備した生粋の兵と
比較し、こちらは軍属を含む、臨時編成の混成部隊でしたので
引野少佐の指揮は極めて困難だったと推測されます。
 
引野少佐は予備役の期間が長く、直前まで内地で教練などを
務めていましたが戦局の悪化により、急遽最前線ペリリューへ
送り込まれました。このとき少佐は53歳。
 
引野少佐率いる混成346大隊は、南部より進攻する米軍を
果敢に食い止め続けるも
ついに10月2日、引野大隊長は戦死し、
米軍はペリリュー北部を制圧しました。
 
飯田義栄大隊長のおはなし

なお、最北端のガルコル波止場は
飯田大隊が逆上陸を敢行した地点です。
飯田大隊長は最後まで戦い抜き、中川大佐とともに玉砕しています。 
 
戦後(昭和44年)飯田義栄大隊長のお母様が慰霊に訪れ
「せがれのために、大勢の方が亡くなって申し訳ない」
と、涙しました。そのときの写真も残っています。

2013年8月24日 (土)

海軍陸戦隊壕と陸軍混成第一旅団壕

海軍陸戦隊壕と陸軍混成第一旅団壕01

▲硫黄島の海軍陸戦隊司令部壕です。実に大きな壕です。
戦後、ずっと草木と土砂で埋もれており、姿を現したのはつい最近のことです。
硫黄島にはまだまだ未発見の壕が隠されています。
 
海軍陸戦隊といっても、硫黄島の各地に散らばって戦ったため
ご遺族に戦死した場所を示すことは非常に困難となっています。
 

海軍陸戦隊壕と陸軍混成第一旅団壕02

 ▲こちらは場所が変わって、陸軍さんの
混成第一旅団司令部壕です。
 
発見された壕の前には必ず、旗が立っています。
旗の色は壕内部の状況を示します。
 
白色、遺骨収集完了
黄色、捜索継続中
赤色、未着手
 
となっています。赤や黄色の旗の壕を見るたびに
ああ、早くお迎えにいかなければと、胸が痛みます。

2013年8月22日 (木)

粒針 靖弘(上飛曹)海軍パイロットベース

粒針 靖弘 上飛曹
(のち菅原靖弘)
 
甲飛8期
 
20歳で第261海軍航空隊所属 零式戦闘機搭乗員。
昭和19年、4/18サイパン邀撃戦、4/22大宮島(グアム)へ空中転進の後
4/23大宮島上空邀撃戦に参加、5/27サイパン空中転進
 
あ号作戦に参加。最後はサイパン上空で敵陣へ落下傘降下。
捕えられるも、261空で生還した数少ない搭乗員の一人。
 
戦後、航空自衛隊ジェット戦闘機パイロットを経て
民間機フェリーパイロットとして世界各国を飛び回りYS-11を操縦。
アフリカの大統領機の機長も務めた。

2013年8月20日 (火)

あの世とこの世

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日光市猪倉山泉福寺での送り盆でした。
 
黄昏時、ろうそくのともしびです。
ご住職のお話しによると、黄昏時(たそがれどき)というのは
この世とあの世の繋がる時間帯で、
この世の夜が、あの世の昼になるのだそうです。
 
あの世というものは、衣も逆に着るし、この世に居る我々からしたら
それは、おかしいと思うかもしれないけど、あの世では
何ら、変なことではないのです。だから元来、お葬式というのは
夜に行っていた。夜に死者を送り出せば、ちょうど、あの世の朝に
到着するからです。それを昼に変えてしまったのは
我々、この世の者の都合なんだとか。その名残がお通夜という
形になった。
 
あの世とこの世も遠いようで、意外と近い。
あの世は、すぐそこにある。ただ目に見えないだけ。
我々の考え方次第で見えてくる。
 
そう考えれば、すべての生き物や自然、つまり森羅万象の見かたが
かわってくる。そうなのです。亡くなった大切な人も
すぐ近くにいる。そしてあなたを見守っていることでしょう。

終戦の日

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今年も終戦の日を迎え、政府主催の全国戦没者追悼式に
出席して参りました。
 
全ての戦没者に対し、追悼の意を表します。
 
さて、安倍首相の追悼の辞の中で「アジア諸国への謝罪」の文句が無かった
旨を朝日新聞は社説で批判、また韓国メディアでもこれを

大きく報じています。
 
この式典は、純粋に先の大戦で、尊い命を犠牲にされた方を追悼するものですが
どうも方向性が逸脱しているような気がします。
歴史認識はさておき、これだけは間違っている!と私が思うのは
日本の報道の在り方です。国際社会の信頼というけれど、 韓国メディアが
騒いだことばかりを、日本でも同じ内容をニュースにして
流しているだけじゃあないですか。日本のテレビ屋さんは、全て韓国基準
なのでしょうか。ニュース原稿は韓国で作っているのですか。
  

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同じ日に参拝してきました。靖国神社です。
これも、今年は大きなデモがあり、さぞ神社は恐ろしかったように
報道されていましたが、実際行ってみたら全然違います。
 
神社の境内はそういった活動はいっさい出来ないことに
なっているので、中は静かで、戦没者を弔う方がほとんどでした。
 
大事な身内、あるいは戦友を亡くして、ここに来れば会えると信じている
のですから、ここに集うのは自然と言えます。どなたも亡くなった人を
それぞれに思い出し、静かに手を合わせていました。
 

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2013年8月 9日 (金)

硫黄島の監獄岩

硫黄島島民墓地

 
硫黄島島民墓地へお参りです。硫黄島は今も昔も
小笠原諸島の一部です。強制疎開以前は
一般島民が生活をしていました。
元島民の方は帰島を望んでいますが、実現することなく現在に至ります。
墓地の石板には亡くなった島民のお名前が刻まれていました。

 
ここから監獄岩を望みます。
 

監獄岩

監獄岩

監獄岩は硫黄島から沖に離れた岩で、その名の通り、監獄のようであります。
一見、ちょっと頑張れば岸まで泳げそうですが
潮流が凄まじく、泳いでも泳いでも前に進まず
最後には波に飲み込まれてしまうそうです。

監獄岩 

監獄岩

硫黄島 海軍水平砲台

摺鉢山の麓にある水平砲台です。
もともとは砲座があり、回転したのですが
現在は接地しています。沖の米艦船を撃滅、活躍しました。
 

硫黄島 海軍水平砲台

口径を計ってみました。
硫黄島にはこれと同じ砲台が、もう一門残っています。


2013年8月 4日 (日)

スピットファイア

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イギリス空軍の戦闘機
スーパーマリン社の「スピットファイア」です。
中身がわからない食玩シリーズを買ったら、偶然これが出ました。
 
綺麗な飛行機です。
 
説明書きにはMk.Vb、ジェームズ・ランキンの機体がモデルと
記載されています。
尾翼に描かれているのはフランス国旗ではなく
ユニオンジャックの三色を表したものです。
 

日本海軍のゼロ戦は、昭和17年4月、セイロン島沖海戦で
このスピットファイアと対峙しています。
 
スピットファイアは2万3千機が生産され、
1950年代まで活躍しました。この中には朝鮮戦争まで含まれます。
 
私はもともと飛行機や戦闘機が好きで、単純にそれは
メカとして、かっこよかったからです。当初はプラモデルのパッケージを
吟味して、純粋にかっこいいと感じたものを購入していました。
 
しかし戦闘機は美しいとは言へ、戦争に使われるものですから
次第にその背景を調べるようになりまして、現在に至ります。
 
最近の子供さんは、液晶画面の中ばかりに夢中で
あまりこういう形のあるものを好まないのかもしれませんが、
手に取れるというのは、実に良いことだと思います。
 
特に、ヒコーキの姿形は、その用途、国柄が非常によく反映されます。
このスピットファイアはイギリスらしい美しい飛行機です。

P-51マスタング

P-51

P-51

P-51

P-51




P-51

P-51とコルセア


スピットファイア

スピットファイア

▲英王立空軍 スピットファイア
 
スピットファイアとは
英国王立空軍(ロイヤルエアフォース)の主力戦闘機。
正式名称はスーパーマリン・スピットファイア(Supermarine Spitfire)
イギリス・スーパーマリン社の開発設計による機体で
液冷ロールスロイス・マーリンエンジンを搭載し、馬力を得た。
のち、アメリカ軍のP-51にも同じエンジンを搭載(ライセンス生産の許可)し、
両機が最高の傑作機と呼ばれる所以ともなった。スピットファイアは地上基地
から発進する戦闘機で、空母での運用はできない。
 

スピットファイア・マークIX

スピットファイアとランカスター爆撃機とハリケーン

▲スピットファイア・マークIX(左上)とスピットファイア T9(右上)
手前からホーカー・ハリケーン戦闘機とアブロ・ランカスター爆撃機、
スピットファイア(下画像)
 
 
日本の零戦と対決
日本海軍の零戦とは、昭和17年4月、セイロン島沖海戦で初めて対峙し
このときは日本海軍の零戦が勝利した。日本機動部隊の戦闘機は
赤城、加賀などから発進した零戦二一型で、真珠湾作戦に参加した
熟練の搭乗員が占めていた。
 
翼のマーク
尾翼に描かれているのはフランス国旗では無くて
ユニオンジャックの三色を表したもので、フラッシュという名称。
翼も同様のシンボルが描かれており、(日本機でいえば
日の丸にあたるが)こちらはラウンデルと呼ばれる。
 
朝鮮戦争まで運用される
スピットファイアは2万3千機が生産され、 1950年代まで活躍した。
この中には朝鮮戦争まで含まれる。飛行機の姿形は、その用途、国柄が
非常によく反映される。 このスピットファイアも実にイギリスらしい美しい
飛行機である。

2013年8月 3日 (土)

大神宮海岸

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◆アンガウル島、大神宮海岸へやってきた。浜の名前は
画面左の森に、かつてアンガウル大神宮が鎮座したことから。
白亜の灯台は、艦砲射撃で倒され、今は見えない。
 
外洋に面しているので波は高く
米名はオレンジビーチと呼ばれる
アンガウル島の中でも特別、ここだけ砂浜の色が違う。
微生物の死骸が積もってこのような色になる故。
 
上陸戦が行われたのは、島の北側レッドビーチおよび
ブルービーチであり、この大神宮海岸での上陸はなかった。
ただし、米軍の物資揚陸用のレールなどが残っていて、
砂浜を歩く際は鉄の欠片に注意。それを除けば
いくら眺めていてもあきない、実に美しい砂浜である。
 

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潮風が、あまりにも心地よいので、足を波に洗われながら
砂浜の端から端まで、何往復もしてしまった
 

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この浜にしかいない、真っ赤なヤドカリと遭遇できればラッキーだ。
「サキシマオカヤドカリ」といって日本でも小笠原に棲息する
天然記念物だ。
 
ヤドカリを探しながら、とても
気分が良いので何時間でも居てしまう。

アンガウル島の燐鉱

日本の飢餓を救ったアンガウル島の燐鉱
◆昭和18年、アンガウルの主要産業は燐(リン)の採掘で、
南洋拓殖株式会社が主幹となり年間7万トンを産出、最も繁栄を極めた。
島から採掘された燐は主として畑の肥料とするため
内地へ輸送され、この小さな島、アンガウルが
多くの日本人を飢えから救ったがその功績はほとんど知られていない。
 

アンガウル燐鉱

▲今はジャングルに帰した、大コンベアー跡。
 
静かなアンガウル島にかつての大繁栄を見る
◆戦火に巻き込まれる以前(昭和18年)の

アンガウル島人口は2618人であった。
(内訳は日本人1325人 朝鮮人539人 パラオ人754人)※1
これはペリリュー島の1050人より多い。ペリリューには南洋興発
株式会社の採掘する
燐鉱が在ったがアンガウルよりずっと
規模の小さいものであった。

 

アンガウル大燐鉱アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱

▲戦前~戦中のアンガウル大燐鉱


◆当時、西港にはオートコンベア(燐鉱積込用桟橋)があり
(鉄製・積み込み能力 250トン毎時、1トン起重機×2)
  
そのほか、港湾施設として船舶係留用ブイ四個、
アンガウル灯台(別名丹下灯台)
東北港、東港にも桟橋があり舟艇の達着が容易であった。 

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▲リン積載場跡。
 
農作物の自給自足は、困難だったが
※2
豊かな燐鉱産業の対価により、パラオ本島より食糧を輸送していた。

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▲殉職社員の碑。日付に注目。
 
西港に面する集落はサイパン村と呼ばれ
現在のダウンタウンである。ここには 郵便局、警部補派出所
(税関事務を取り扱う)、アンガウル医院、国民学校、公学校、
郵便局所属の無線通信所、南星寮、そしてアンガウル大神宮が鎮座した。
 
◆燐鉱は上陸戦直前まで操業が続けられ
間も無く作業員と住民はパラオ本島へ強制疎開、
玉砕戦ののち、米軍監視のもと民間人が戻り、採掘が再開された。

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▲アンガウルの小路を行く。沖にペリリュー島が見える。
 

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▲現在のアンガウル港。
M4シャーマン戦車が波に打たれる。 

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▲アンガウル港

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▲周回道路、ガジュマルの門。二本のガジュマルが道路脇から
生えて、中央で合体したもの。

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▲ジャングルに眠るM4シャーマン戦車

※1、戦史叢書中部太平洋陸軍作戦 45頁、55頁
※2、ドイツ人の持ち込んだサルが野生化し大繁殖した結果、

農地を整備しても全て荒らされてしまった。現在も状況は同じである。

2013年8月 2日 (金)

硫黄島 M4シャーマン戦車

硫黄島の集団埋葬地付近に残る
米軍M4シャーマン戦車です。
 
もともとひっくり返っていたのですが
海上自衛隊さんがクレーンを持ってきて起こしてくれたそうです。

硫黄島 M4シャーマン戦車

硫黄島 M4シャーマン戦車

このM4タンク、よく見ると、改造されており
分厚いコンクリートが装着されています。熾烈な攻撃に備えるため
だったのでしょう。ペリリュー島にはノーマルのM4戦車があります
この硫黄島バージョンは改造されてまったく別の戦車にも見えます。

硫黄ヶ丘

硫黄島

硫黄島の硫黄ヶ丘です。
戦前の硫黄島においては、硫黄の採掘が主な産業でした。
ここで採掘された硫黄は内地へ送られ、マッチや薬品など
様々な製品に姿を変えて、人々に貢献しました。

硫黄島

▲高温で沸騰しています。
 
硫黄島と聞くと、殺風景な印象が持たれがちですが
実際には半砂漠で、草木も多く、緑の美しい島です。
(他の記事もご覧ください)
  
ただし、この辺りに限っては草木は無く
那須の殺生石や陸奥の恐山と同じような印象があり
鼻を突くようなあの硫黄の香りがします。

2013年8月 1日 (木)

井上成美

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◆最近、お借りした本です。最後の海軍大将
井上成美(いのうえしげよし)伝記です。
  
私が小さい頃、戦記好きの友達に
「この人は長生きして新幹線にも乗っているんだよ」と教わったのが
井上成美を知ったきっかけで、私の中でも戦後もっとも長生きした人
という印象があります。
 
映画「聯合艦隊司令長官山本五十六」では
井上役を柳葉敏郎が演じていました。
よく合っていたと思います。
 
井上さんは教育センスの塊ですので、海軍兵学校の校長として
明日の日本のため、多くの優秀な若者を育て上げました。
 
最近購入した本が他にもあります。

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◆古書店で購入した雑誌『今日の話題』です。
実戦を経験された陸海軍パイロットや将校さんが直接
書きつづったもので、これほど新鮮なものはありません。
 
作家が書いた戦記ものはどうしても二次的になりますが
この本は取材をスッ飛ばして、本人が直接書いていますので
こんなに戦場に近い本はないでしょう。
 

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◆最後にムック『世界の傑作機 強風、紫電、紫電改』です。 

松山の343空や紫電改ってどうして戦記好きの間では
あんなに人気なのでしょう。

以前、元海軍パイロットの方が仰っていたのを思い出しました。
 
「源田大佐は老練のパイロット、強い戦闘機、無線機、
み~んな持って行っちゃったんだから
強いのは当たり前だ。持って行かれたほうは惨めだ」
 
確かに、そのような側面もあったのでしょうね。
紫電改が欲しかったけれども、ゼロ戦で戦った部隊も多かった。
 
人気の紫電改のみを扱ったムックは他にもあったのですが
せっかくなので、「強風」から大元をたどってみることにしました。
ムックなので写真がたくさん載っていてながめているだけでも楽しいです。