最後のお別れ
本日、永井さんに最後のお別れをして参りました。合掌。
本日、永井さんに最後のお別れをして参りました。合掌。
この半年間で2回、救急車要請。
一度は路上で倒れて意識不明で通りがかりの人が119番に通報、搬送。
二度は心肺停止は救急隊員の臓マッサージで蘇生。
いずれも外出先だったから助かった。
一人暮らしなもので、自宅なら死んでた。
孤独死だけは避けたい。
いずれも精密検査したが異状なし。健康そのもので。
わからない。
朝、目を覚ますたびに、「ああ、今日も生きて一日が迎えられる」と
感謝する日々。
1月発売の本と、
『戦鳥』商用版の完成を待たずして死ねない。
僕は、死んでもいいから、飛行機の絵を描きたいんだ。
後世にバトンタッチしたいんだ。
どうしても、どうしても飛行機の絵が描きたいんだ。
証言集を書きたいんだ。
日本海軍のカタパルトは大正末期から呉海軍工廠で研究が開始され、
昭和3年に圧搾空気式カタパルトが先に完成。5年後に火薬式カタパルトが
完成し、重巡洋艦「青葉」「那智」に初めて搭載された。
その後、改良を加え、呉式二号射出機三型改一となって、5,500級軽巡洋艦で
実用化された。これは90式水上偵察機や95式水上偵察機の射出が可能で、
さらに、航空機の全備重量4トンまでの機体の射出を可能に改良された
ものが呉式二号射出機五型となった。海軍でもっとも多くの艦船に
搭載されたカタパルトである。
カタパルト発進
飛行長の「発進用意」の号令で搭乗員が期待に乗り込む。
エンジンを指導し、搭乗員が「よろしい」と飛行長に
通達すると手旗用の赤白の旗をもってまず白旗を横に出す。
これが火薬装填の合図で直径およそ20cm、長さ30cmくらいの
装薬を操作室の射手が装填し、「よし」の合図を飛行長に
伝えると、飛行長は白旗を赤旗に持ち替えて真上にあげる。
搭乗員はエンジンを全開に吹かし待機する。搭乗員が各計器を
見て異常なしと判断し。「発射準備よし」を飛行長に伝える。
飛行長は赤旗を振り下ろす。これが発射の合図である。
射手は間髪入れず引き金を引く。引き金といっても
ハンドルに取っ手がついたようなもので、それを素早く一回転
することで火薬が爆発し、機体が発射される。
このときの最大射出速度は31.0m/秒である。
巡洋艦「利根」でカタパルト射出を経験している
田中三也さんの証言によれば、最初は身体にかかるGに堪えるのに
精いっぱいであったが回数を重ねるうちに、慣れてくる。左舷から
射出される場合、艦に衝突しないよう、カタパルトの方向を
やや外側を向ける。すると主砲付近の甲板上に、水兵が整列して
全員、某振れをし見送っている。どの水兵も同じ水兵服を着ているが、
慣れてくると、戦友の顔がわかるそうだ。感極まる一瞬である。
カタパルト射出には危険手当がつく。一回の射出ごとに6円の危険手当がつく。
当時の6円は当然大金である。これを搭乗員は「ポン6」とか言って喜んだ。
機体収容
射出は海が荒れていても可能である。しかし、着水後の機体収容は非常に
骨が折れる。海が荒れている場合、「制波揚収」といって巡洋艦はだいたい
15ノットで「主舵いっぱい」で右に旋回する。何万トンもある巡洋艦が
これをやると、丸い航跡が出来てその内側の海面は見事に波が静かになる。
この瞬間に機体を巡洋艦に近づけ、デリックと呼ばれるクレーンで収容する
のであるが、デリックの先端を機体に引っ掛ける作業を素早く行わなければ
ならない。これは零式三座水偵の場合階級に関係なく、真ん中の搭乗員が
風防の上にまたがって、ひっかけるのである。(二座の場合は後席搭乗員の
役目となる)波に揺られながら、これを成功させる作業は至難であった。
もたついていると制波揚収の効果が薄れてきてしまう。
一方、巡洋艦のほうでは水兵が機体と艦が衝突しないように、長い棒を
もって機体をつつく作業が続く。この間、搭乗員が海面に落下してしまう
事故も多かった。そうした苦労を経てやっとフックを引っ掛けると、
巡洋艦に収容されるのである。
九九式襲撃機/軍偵は地上兵力支援のための航空機で
地を這うように敵陣に侵入し襲爆撃、挺身偵察等を行う。
よって超低空飛行性能に特化している。
訓練では、固定脚の車輪が水しぶきをあげるほどに超低空で
川面を飛行し橋脚の下を潜るなど、映画やアニメでしか
見たことの無いような本当にそんなことができる飛行機
それが九九式襲撃機である。
元パイロット上野辰熊さんの回想によると
「隼など戦闘機は超低空では50メートルの高度維持が限度でしょう。
我々九九式襲撃機(九九襲)は武装して20メートル以下での
高度持続が可能でした。九九襲は両翼毎にスロットル調整が
できるので安定した飛行が可能でした。」
「訓練では、超低空を這って敵陣に侵入する戦法をやりました。
川面に沿って超低空で飛行するんです。これで機影は堤防の下に
入ってしまうから見えない。エンジンの音も堤防が壁になって上に
吹き抜けてしまいますから、敵に察知されず敵陣を強襲できるわけです。
橋の下を潜ることも容易だったと思います。」
ご無事でしょうか。
たくさんのお見舞いをありがとうごさいました。
大袈裟に騒いだのが恥ずかしい、
我が家は幸運にも雨漏りだけで済みました。
ですが、ニュースで甚大な被害を目の当たりにし、被災された方の
心境を思うと、心が痛みます。
キ67 三菱 四式重爆撃機「飛龍」
わが国の資源と航空工業力は多くの重爆撃機隊を編成することを
許されなかった。大戦中、活躍した重爆戦隊は11である。
このうち第12飛行戦隊、第95飛行戦隊は比島作戦に消えた。
また、飛行第7戦隊、飛行98戦隊は雷撃部隊として海軍の中攻を
しのぐ活躍をした。
キ67四式重爆撃機「飛龍」は大戦末期に完成し実戦投入された
重爆撃機で設計主任は小沢久之丞博士である。事実上、陸海軍の
垣根を越えて、一式陸攻の後継機の位置付けが強い本機は被弾に
対する充分な防備と火力、広大に及ぶ航続距離と非武装であれば
曲芸飛行ができる程の機動性を持ち、大戦末期にして傑作気が
誕生した。
エンジンは2000馬力のハ104の双発である。最高時速は537km/h。
クルーは8名。一式陸攻より一回り小さくスマートな機体は設計陣
の苦労が伺える。
連合艦隊も壊滅し、一式陸攻も稼働率の低さと損耗から、まさに
瀕死の状態であった。そこで、陸軍の重爆撃機である「飛龍」を
空勤者はそのままに、連合艦隊の指揮下に編入するという異例な
対応がとられた。陸軍のパイロットは空母「鳳翔」を敵艦にみた
て、雷撃訓練を実施。海軍は
「陸軍のパイロットに雷撃できるのか?」
と冷ややかであったが「飛龍」のクルーは水面を這うように飛行し
魚雷を放つと、マストギリギリに「鳳翔」の甲板上をパスして飛び去った。
遅すぎた重爆傑作機の登場であった。
このほかに派生型も多く製造された。海軍が有人兵器「桜花」を用いた
のに対し、陸軍は無人のミサイルとも呼ぶべきイ号一型甲無線誘導弾の
開発に力を注いだ。終戦までに間に合わなかったが、
これによって人命が失われることはなかった。
しかし残念ながら特攻機も製造されている。キ167「ト号機」は爆弾を
全て内蔵し、機種に長い信管を取り付けたほか、桜弾機はイラストから
もわかるように至上最大の爆弾「桜弾」を操縦席後方が大きく膨れ上がる
まで搭載している。直径は1.6メートル。重量2.9トン。爆発の威力は
前方3キロ、後方300メートルが消し飛ぶことを想定され、実際に出撃
したが未帰還の記録が残るのみである。
キ109は特攻機にあらず、B-29に対する防空戦闘機である。機首に75mm
の高射砲を搭載し、B-29の射程圏内から一撃粉砕を狙うものであったが
戦果報告はなく終戦を迎えている。