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2013年3月31日 (日)

中島又雄海軍中尉 零戦による本土防空戦

近現代史研究会聴講会(第二十三回)
「零戦パイロットが語る本土防空戦」
http://www.panda1945.net/
 
参加し感想と印象に残ったことを少し記しておきます。
 
今回の講師、中島又雄先生は元海軍中尉
大正14年のお生まれで海兵73期。
井上成美が当時の海軍兵学校校長であり
霞ヶ浦航空隊では関行男が教官であった。
 
飛行学生過程を修了後の昭和20年6月、中尉任官
第三三二海軍航空隊の零戦搭乗員となり、初陣でB-29の迎撃となった。
鳴尾(現西宮市)は二式大艇や紫電改の製作で有名な
川西航空機の生産拠点であり、これを空襲から守ることが最重要任務であった。
 
■零戦と雷電、そして紫電改
 
大戦末期に登場し実戦配備された、いずれも本土防空を目的に作られた
二種類の局地戦闘機がある。新鋭機「雷電」そして古今ともに不動の人気を誇る
紫電改」であった。
 
第三三二航空隊には零戦のほか、この新鋭機「雷電」も備えていた。
新鋭機といえども、初めて搭乗したベテランのテストパイロットが殉職した
事柄(筆者注:昭和19年12月15日入江大尉の事故か?)も耳に入っており、
氏自身はもちろん、周囲でも不評で
「雷電だけは乗りたくなかった」と語っている。
 
※この件については
『雷電は本当に欠陥機であったのか?』と題してこちらで検証した。
 
一方、憧れたのが「紫電改」であった。一度だけ紫電改が
給油のために飛来した折に立ち会っており
搭乗員はニッコリ笑いながら「何機やった」と指で撃墜数を表すと
ふたたび大空へ消えて行ったという。
 
紫電改に乗りたかった。とてもうらやましかった。
 
中島氏はいずれの機体に搭乗することなく
零戦五二型丙型」で終戦まで戦い抜くことになるが
零戦はとても素直で扱い易く、良い飛行機であったと回想する。
 
■B-29邀撃
 
紀伊半島の潮岬にレーダー基地があって
これを捕捉すると空襲警報が発令される。
※1
 
関西地区上空まで十分な時間があったので邀撃に上がる。
B-29はこの頃(昭和20年6月)になると爆撃の精度を増すため
高度3000-5000メートルくらいの低空で侵入するように
なっていた。これにはずいぶんなめられたもんだなと憤りを感じた。
※2
 
高度を十分にあげて待ち構えることが可能だった。
空襲はたとえ百機単位になろうと、必ず九機編隊ずつで飛行するので
その九機編隊の一番機を狙うのが原則であった。
※3
 
攻撃の際は、敵機上空より操縦席を狙って急降下攻撃をかけるのだが
敵機を目標にして垂直降下する「前上方攻撃」および
敵機斜上より降下する「直上方攻撃」が有効かつ最も用いられた戦法であった。
 
攻撃の機会は一度きりで、一撃を加え離脱すると
次に続く9機編隊に再度一撃を加えるべく上昇、
これを数回、繰り返す。
※4
 
氏はこのときの様子を「恐怖感はなかった」と回想する。
まず、零戦の前方にはエンジンがある。これが防弾の役割となるし
仮にエンジンに被弾してプロペラが止まっても零戦は滑空して充分に不時着できるから
安心だ。
 
もしコクピットに直撃すれば、まぁ間違いなく即死であろう。
一瞬であの世へ行けるのだから気が楽であった。
 
ところで、防弾装備というのは、いま考えればその重要性に納得できるが
当時の心境としては、わざわざそんなものをつけるのは
サムライとして卑怯だし、恥だと感じていた。
 
とにかく上空では、我が戦闘機隊の奇襲により
あの巨大なB-29が翼を右に左に大きく振って
逃げ回る様子が凄まじかった。
 
■B-29とP-51
 
昭和20年6月20日
この日もB-29の邀撃に上がるも
硫黄島の陥落以降、護衛戦闘機P-51が随伴するようになり
邀撃は被害甚大、困難を増す。
 
地上基地より電話連絡※5
 
「カラスがヒバリを連れてきた」
 
カラスはB-29でヒバリはP-51の隠語である。
零戦隊は北方へ待避せよとの指示があり
歯がゆく悔しい思いをしつつ北方へ待避した。
 
 
 
 
※1)潮岬レーダー基地
これがおおいに役に立ったため
氏は戦後、このレーダー基地に努めていた技術者に
礼を述べに行ったという。
 
※2)B-29の高度、空戦について
敵機B-29はは1万メートル以上の超高高度を飛行しており
しかも機体の機密構造により、搭乗員はTシャツ一枚で
コーヒーを飲みながらゆうゆうとやってくる。
日本の戦闘機はそんな高いところまで届かないし、高射砲だって届かない。
迎撃は至極困難だったと一般的に伝えられている。
 
空襲初期は確かにそうであった。しかし
米は自軍機の安全より都市爆撃の戦果を優先したのである。
数を重ねるごと、爆撃精度を高めるため低空での侵入を敢行した。
 
迎撃戦闘機による戦果はもちろん、高射砲も命中しており
相当数のB-29が撃墜されている。
 
氏自身は零戦の限界高度、10700メートルまで上昇した経験もあるが
実戦は5000メートルくらいの零戦にとってはいちばん良いところ
(レスポンスを発揮できる)であった。
 
身体の負担について、1万メートルまで上昇したときは
さすがに少々きつかったが7000メートルくらいでは
何てことはなかった。それよりも恐ろしいのがブラックアウトで
操縦桿を引き続け、旋回、急上昇を繰り返すと身体にかかる
Gで、目の前が真っ暗になり意識もうろうとする。
ここいらで操縦桿を離せばフッと明るくなるのだが
無理をするとそのまま意識を失って墜落するので、最も注意を要した。
(現にそうやって死んでいった者が居た)
 
空戦の才能より、敵をはやく見つけたほうが
ずっと勝ち目があった。両目ともに視力は2.0で
落とさぬよう努力した。
 
上空でP-51と会敵、お互いにバンクを振って
翼を重ね合わせるように飛行すると
翼に日の丸が描かれているのが確認できた。友軍の
三式戦闘機「飛燕」だったという逸話もあった。
 
※3)九機編隊の一番機
一番機の爆撃手は最も優秀な者が選ばれる。
一番機の爆弾投下にならい、二番機三番機の投下が続くため
一番機を狙うのが原則かつ最も有効とされた。
 
翼に命中弾を与え、白煙を吹くのを確認した「やった!」と思ったが
あっという間に収束し飛び去ってしまった。B-29の消火設備は完璧であった。
3号爆弾を一度だけ用いたこともあったが命中せずに終わった。
 
※4)一撃離脱
ただし機体後方に火力が最も集中しているので
離脱の際が怖かった
 
※5)電話連絡
基地との連絡に無線が使えた。
ただし機体同士のやりとりは不可。

2013年3月23日 (土)

桜花と武士道

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私たちはヨーロッパ人とバラを愛でる心情をわかち合うことはできない。
バラには桜花のもつ純真さが欠けている。それのみならず、バラはその
甘美さの陰にとげを隠している。バラの花はいつとはなく散り果てるよりも
枝についたまま朽ち果てることを好むかのようである。しかもこの花には
あでやかな色合いや濃厚な香りがある。これらは全て日本の桜にはない特徴である。
 
私たち日本の花、すなわちサクラは、その美しい粧いの下に毒やとげを
隠し持ってはいない。自然のおもむくままにいつでもその生命を棄てる
用意がある。その色合いは決して華美とはいいがたく、その淡い香りには
飽きることがない。
 
中略 
 
草花の色彩や形状は外からしか見ることができない。それらはその種類の固有した性質
である。しかし草花の芳香には揮発性があり、あたかも生命の呼吸に似てかぐわしい。
そのためあらゆる宗教的な儀式においては乳香や没薬が重要な役割を演ずる。香りには
精神に働きかける何かがあるのだ。
 
太陽は東方から昇り、まず極東のこの列島に光を注ぐ。そしてサクラの芳香が朝の空気を
いきいきとさせる。このとき、このうるわしい息吹を胸一杯吸うことほど気分を清澄、爽快
にするものはないであろう。「旧約聖書」には創造主みずからが、燔祭の芳香を嗅いで
その心に新たな決意をかためられた「創世記(八-二二)」と記されている。
 
人々が小さな家々から外へ出て、その空気に触れるいざないにこたえたとしても何の不思議も
ないではないか。たとえ人々がしばらくの間、手足を休めて働くことを忘れたり、心の中の
苦しみや悲哀を忘れようとしたとて、それはとがめるに値しないであろう。
 
短い快楽のひとときが終れば、人々はあらたな力と満たされた思いをもって
日常の仕事に戻っていく。このようにサクラはひとつではなく、さまざまな理由から
わが日本国民の花となっているのである。
 
ではこのように美しく、かつはかなく風のままに散ってしまうこの花、ほんのひとときの香りを
放ちつつ、永遠に消え去ってしまうこの花が「大和魂」の典型なのだろうか。
日本の魂とはこのようにもろく滅び去ってしまう運命にあるのだろうか。
 
『武士道』(新渡戸稲造)より抜粋

2013年3月21日 (木)

二連装25ミリ対空機関砲(海軍)

二連装25ミリ対空機関砲(海軍)
(三連装もあり)
 
もともとは艦船用で、対空射撃のほか水平射撃も可。
そのため硫黄島上陸戦で使われた。
 
戦艦大和にも搭載。シールドが装着されており
主砲防爆の為。
  
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2013年3月20日 (水)

硫黄島 遺骨収容

硫黄島 遺骨収集
 
 
 遺骨収容現場は砂漠地帯の岩山、えぐるような崖下の壕で頭上には艦砲
射撃の跡や弾痕が著しく、無数に残っている。埋もれた壕の入口のみ重機
で開削し、あとは全て手作業で掘り進める。天井の高さは百三十~百四十
センチ。私たちは中腰となり壕の中を駆け回り、土砂を次々リレーし排出
した。奥へ掘り進むほどに暑く、作業先端の温度は七十度ほどになる。握
りしめた砂は熱く、汗が流れ落ちる。硫黄島は地下要塞化されており、最
も長い壕は全長千八百メートルにも達する。過去に死亡事故も発生してお
り一度入ると方向感覚を失う。今回、私たちが作業を行う壕は二百メート
ルも無い上、縄梯子をかけるような高低差もないので、これでも至極楽な
方と言えよう。
 先端を掘り進む作業員はおよそ五分置きに交代となり、一旦外に出て水
分補給と体のクールダウンを行う。その都度、外の光が見えて、涼しい風
が吹き込んでくる。艦砲射撃も火炎放射も無い。そこで待っているのは心
地よい潮風だけだった。この岩山の高台からは黒い砂浜と監獄岩を望む。
 
                             銃剣は光り輝く
 
 私が英霊に後ろめたさを感じながら水をガブ飲みしている隣では搬出さ
れた土砂を別の係が丁寧にふるいにかけている。小さなお骨を見逃しては
なるものかと皆、目を皿のようにして小さなお骨を探している。同時に発
見された遺留品の数々が積まれている。真空状態にあったので、時間の経
過が遅い。飯盒、水筒、ガスマスクなどが最も多く血染めの軍服がある一
方、新品同様、店の棚に陳列されていても不思議はない綺麗に洗濯され畳
まれた毛布などもある。
 歩兵の化身とも言えよう、銃剣の鞘を抜くと、今なお最後の突撃に備え
るべくその先端は鋭く光り輝いていた。衛生兵の薬瓶、ステンレス製の鉗
子は錆びることなく、そのまま開くことができた。重機関銃は、弾を装填
すれば射撃が可能ではなかろうか。一切の劣化なく眠っていた。徹底抗戦
は終わらない。四十発ほど出てきた手榴弾は九七式、九九式が半々くらい
で混在し、いずれもピンが抜けていて不発のようである。兵隊さん、この
手榴弾をどんな思いで握りしめていたのだろう。壕内部は暗闇でよくわか
らなかったが、私が土砂を排出していると一緒に対戦車地雷がゴロンと出
てきたのには驚いた。
 基地司令の視察があった。壕の一番奥まで入って頂いたようだ。
次に紹介するのは司令の訓示である。
 
「昔の兵隊さんは、こんな暑い中で壕を掘って大変だったなと思うよりも
これだけの事が成し遂げられたんだ、是非そう考えてください」
今回の遺骨収集では合計七柱を収容した。

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B-29プロペラ(硫黄島)

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硫黄島に残るB-29のプロペラ。アメリカ軍は

「硫黄島は元の取れた島だ」といった表現をしばしば用いる。
 
 
本土空襲の為、サイパン、テニアン、グアムからB-29の大編隊が出撃する。
航続距離としてはギリギリであり、計算を誤ると燃料不足が生じたり
また日本の迎撃戦闘機による攻撃で被弾した機体は帰還が困難となる。
 
そこで奪い取った硫黄島に飛行場を整備し、不時着基地として大いに活用された。
硫黄島の地上戦で多くの犠牲を出した米軍であったが
硫黄島の奪取により、多くのパイロットの命が助かったのも事実なのだ。
合理的な考えではあるかもしれないが、命の価値を天秤にかけることは出来ない。
 
もうひとつの大きな利点として
硫黄島の奪取により、護衛戦闘機P-51の直掩が可能になった。
P-51は小さな戦闘機である。大戦中、最も優秀、最強だと謳われた
高性能戦闘機であるが、爆撃機のように多くの燃料が積めず
航続距離が短いためサイパンからの出撃は不可能だった。
 
しかし硫黄島からであれば行って帰ってくることが出来る。
それまで丸腰であったB-29は日本の迎撃戦闘機に攻撃され
墜落したこともあった。しかし護衛戦闘機P-51の登場により
これらの被害は激減した。これはP-51のエンジン。
 
 
 
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摺鉢山の星条旗

C-http://www.kabegamilink.com/act/0704/03300.html
 
アメリカの歴史教科書に必ず記されている項目三つある。
 
 
■先ずはパールハーバー。
(日本名・真珠湾攻撃またはハワイ作戦であるが)
米国にとっては、跡にも先にも経験の無い屈辱の日である。
昨今は、真珠湾攻撃と自爆テロとの区別もつかず報道が成され、また誤解され周知されつつある。
これは日本人としては非常に残念に由々しき自体と感じる。
 
■次に、広島、長崎への原爆投下である。
(彼らの言い分ではこれらが戦争の終結を早めたのである)
これは若い世代で冷静に議論を続けて行かねばならない問題である。
 
■そして、硫黄島だ。必ず硫黄島はどの教科書にも載っている。
多くの犠牲者を出した硫黄島の戦いはアメリカ人にとって特別なものである。
アメリカでも周知度は極めて高い。この写真はアーリントン国立墓地
のシンボルでもある、その名の通り「硫黄島の星条旗」のモニュメントだ。
ピューリッツァー賞を受賞したことでも有名だ。6人の米兵が
摺鉢山山頂に星条旗を掲げる様子である。
 
 
この星条旗を掲げた米兵6人のうち3人が戦死。
生きて祖国の土を踏めたのは残り3人だけだった。
 
 
これが現在の摺鉢山山頂。同じ場所。星条旗を立てた跡が残っている。
 
 
硫黄島 摺鉢山
 
 
硫黄島 摺鉢山
 
 
ここを訪れたアメリカの兵隊さんが記念に残していった識別票だ。
アメリカ人は硫黄島に皆、特別な思いを持っている。
日本人にも周知してもらいたい。
硫黄島 摺鉢山
 
 
硫黄島 摺鉢山

硫黄島を守備する自衛隊員

硫黄島
 
 
硫黄島
 
 
 ここが日本の最前線なのだと実感がわく。在島自衛隊員は表情こそ穏や
かだがいずれも肝の据わった兵ばかりだ。私はその精鋭某部隊を育成する
在島教官から、次のような話を聞いた。
 
「 精鋭部隊志願者の採用基準は体力や精神力ではない。それは次第に身に
付けるものであり、先ずは、お父さんやお母さんを大事にしていますか?
といった旨を尋ねる。家族を愛する気持ち、それは国を守ることに等しい」
栗林中将の思いを受け継いでいるようだった。

2013年3月16日 (土)

南洋フルーツいろいろ

パラオには美味しい果物、フルーツがたくさんございます。

 
中でもどこの庭にも生えていて一般的なのがパパイヤなんですが
少々クセがあるので、好みがわかれるところです。
甘味はとても高いです。成長が早いのも特徴。
収穫の際にはまだ青いうちに棒でつついて落とし、追熟させます。
スーパーマーケットでも手に入りますが・・・そこらじゅうにあるので
ローカルの方たちはあまり買わないと思います。
 
実が大きくなるように様子を見ながら間引きをします。
間引いた未熟な実は捨てず、千切りにしてサラダにします。
葉っぱも大きいので魚料理のさいにお皿として使ったりと
捨てるところがありません。
 
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そしてこちらがバナナ。
同じく青いうちに収穫して追熟させます。
黄色くなるのを待っていたら虫に食われてしまうからです。
 
「轟沈」という唄の節で
『可愛い魚雷と一緒に積んだ 青いバナナも黄色く熟れて』
という歌詞が有名ですね~。
 
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最後にコプラの実です。
蛮刀で割って、中身のジュースを飲みます。
ココナッツの甘い味がします。街のストアーでジュース類と同じく冷蔵庫の中に
陳列されており購入できます。
 
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最後に割って実を食べます。この白い部分が果肉です。
甘くカロリーが高く、昔は貴重な栄養源でした。
 
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スコール

南洋のスコールは凄まじいものがあります。

戦闘中にスコールが来ると両軍ともに一旦中止したと
ペリリューの戦記にも記されております。
写真では伝わりにくいのですが、実際に初めて経験すると驚くでしょう。
 
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2013年3月11日 (月)

石巻の桜

津波の1ヶ月半後、石巻と東松島へ復興支援の為、赴きました。
ここは石巻市内の小学校です。この場所も津波で冠水しましたが
それでも桜は開花し、綺麗だったので写真を撮りました。
奥に写っているのは陸上自衛隊の軽装甲機動車です。
 
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2013年3月10日 (日)

ペリリュー島の台風被害

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被害甚大です。二月中旬に渡航した仲間が写真を撮ってきてくれました。
島南端の平和記念公園の様子です。この場所のみ外洋に面しており
高潮による被害が甚大です。巨木すら根元からもぎ取られ流されていまっています。
さらに島内道路の各所が倒木により寸断された箇所が多く
慰霊碑の修理は厚生省の管轄ですが道路は管轄外です。
重機すら無いこの島ですから復旧のめどが立たない状況です。
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台風は島の東から接近し、北部の州事務所は30センチ冠水。ケイボーストアと
マユミインはキッチンと食堂の屋根が全て吹き飛ばされており、修復中です。
内陸部のジャングルも木々が倒れており歩行困難。
中山の東側は特にひどいものでした。
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島民は日本軍が築いた強固な洞窟へ避難していました。
今回幸いだったのはパラオにおいては人的被害が皆無だったことです。
(この台風はパラオからフィリピンへ進み、1800名以上の死者行方不明者が出ました)
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全てを外洋に囲まれたアンガウル島はさらに被害甚大
壊滅的との報告も入っています。

2013年3月 1日 (金)

硫黄島/蒼穹の旭日旗

硫黄島 硫黄島
硫黄島 硫黄島
 
窓から見えるのはエンジンカウルにマーキングされた

ステンシルくらいで景色は望めない。むき出しの配線や機器類。
私たちは吊り床のような輸送機の席に横並びで座っている。
フラップ作動による油圧音が鳴ると身体 が浮き上がる感覚を覚えた。
高度を下げているのだろう。

吹雪の入間基地を離陸してニ時間四十分、衝撃も感じないままに
輸送機は着陸したようだった。機体が停止するとリヤゲートが縦に開き
差し込 んだ光に目が眩む。

二月の硫黄島は内地の初夏を思わせる風と太陽が実に心地よく
蒼穹に掲げられた旭日旗が映える。輸送機から降りた私たちはエプロンを歩く。
陽炎立ち上る滑走路からの照り返しが眩しく、肌を差す。
半袖の制服を着た航空、海上各自衛隊員の出迎えを受けた。

飛行場からマイクロバスに乗り換えて島内道路を行くと遠くに摺鉢山を 望む。
当初、もっと殺風景なところだと想像していたが、その違いに驚いた。
火山島で半砂漠といえども、背は低いが木々が生い茂り
緑の美しい島という印象だった。

それにしても決して穏やかな雰囲気は無く、隆起し荒々しく切り立った
崖の先は、深々とした群青の海原が広がり、それは生まれて初めて見る
海の色だった。遮るものがない絶海の孤島は見渡す限りの水平線で
遥かに北硫黄島、南硫黄島を望む。