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2013年7月19日 (金)

硫黄島 海軍医務科壕と白旗を掲げた軍医

硫黄島の海軍医務科壕です。
 

つまりは負傷兵のための病院です。
内部の壁面には菩薩様が掘り込まれており

お焼香の跡や、お供え物などがありました。
 
衛生隊や兵隊さんの遺留品も残されており
当時の凄惨な光景が想像できます。
 
硫黄島 海軍医務科壕 
まず、驚くのが壕の広さです。硫黄島の地盤は固く
壕といえば、腰を折って中腰で進めればまだ広いほうと言えます。
ところが、この海軍医務科壕は別格でした。
 
英霊に一礼をしてから内部へ入らせてもらうと
身長175センチの私でも立ったまま奥まで進むことができ
横幅も十分にあり、地面は平坦にならされていました。
現代の技術と機械を使って造られたトンネルと錯覚するほどですが
もちろん、戦争当時、ツルハシで掘ったものです。
 
硫黄島 海軍医務科壕 
この壕では次のような逸話があります。
 
◆米軍に包囲された守備隊の兵隊さんにはそれぞれ
自決用の手榴弾が配られました。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という
当時の戦陣訓は最も有名です。 
日本軍は捕虜となることを禁止しておりました。
※厳密に記すのであれば、少々、ニュアンスが違って
単純に禁止ではなく、捕虜になることは、最大の恥だ、といった概念です。
ただ、私がよくお話しする玉砕戦の生還者の方が
「日本軍は捕虜になることは禁止されていた」と何度も何度も
過去を思い出して仰っているので、ここでは禁止と記すことにします。

そんな風潮で、戦後、次のように公言した軍医中尉がいました。  

 
「私は堂々白旗を掲げて、米軍に投降した」 
 
彼は医者だから、生きるために治療をする。
しかし、せっかく生き延びた兵隊を、手榴弾自決で死なせることが
あまりにも忍びなく悲しかった。その旨を述べ、勇気を持って
白旗を掲げたと
伝わっています。
 
投降して壕から出ようとしたとき
後ろから仲間に撃たれる可能性もあったでしょう。
汚名を覚悟で負傷兵を救った軍医さんのお話しです。
 

 
ポトス 
▲でかい!壕の前に自生する超巨大ポトスの葉です。
 
それから、
作家の笹幸恵先生の著書『女ひとり玉砕の島を行く』
の表紙写真はこの壕の前で撮影されたそうです。

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