2016年7月25日 (月)

戦争経験者の取材に関して

このたび、日頃よりお世話になっております「神雷工房」様より
たいへん有難いご支援、ならびに励ましのお言葉を頂戴しました。
厚く御礼を申し上げます。

私は、
戦争証言を後世に残すため、全国津々浦々を訪問し、
取材を続けて参りました。
 
戦争経験者の方のお宅にお邪魔して録音機を回し、
証言を聞き取っていくというものです。
自宅に戻ってから、聞き取った内容を文字に起こしていきます。
最近は自宅で書き起こす時間よりも、取材に出かけている
時間の方が、圧倒的に増えました。
もはやタイムリミットは
刻々と進み、待ってはくれないのです。
 
お金もかかります。飛行機代等、全て自費です。
もし、うまく本の出版等やれば、活動費用が捻出できるかもしれません。
しかし、今申し上げました通り、証言を聞き取るだけで
文字に起こすまでが、追いつかないのです。
仕事もしていますので、全ての時間を使えるわけではありません。
理想を言うならば、活動に専念できる時間と資金が欲しいところです。
 
多くの方々の支援を受けて、現在がありますが、明確な
成果をお約束できるものでないので、難しいところです。
出来ることといえば、現状を報告するといったところでしょうか。
 
私は本来は表に出るのが得意なタイプではないのです。
じゃあなんで、ここに本名で顔写真まで載せているのか?
という疑問が出てくるかもしれません。
 
もし、このブログが匿名で書かれていたら、
ご覧になる方はどう思うでしょうか?
やはり、身分と顔がわかって初めて信用してもらえますし
私自身も責任を持って取り組めます。
自分などは何を言われても
構いません。
しかし、後世に歴史を伝える事は我々世代の責務だと
強く思うのです。
 
思う事を書いてみました。

百式の元パイロットへインタビュー

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今日は、百式司偵のパイロットだった方(大尉)に
インタビューをさせて頂きました。
 
百式司偵は、海軍の偵察機とは大きく役割・運用方法が異なります。
百式司偵の任務は敵無線の傍受、友軍同士の中継連絡、敵陣偵察など
多岐に渡り、それらで得たあらゆる情報を集約し

上空から直接陸上作戦の司令を行う、空飛ぶ作戦司令部です。
 

また、百式は日本陸海軍の中で最も速力に優れた機体でした。
敵陣上空へ強行偵察へ行っても敵戦闘機が追い付けないので

ゆうゆう振り切って逃げてきた話なども多く聞いてきました。
速さだけは自信があったそうです。
 
フィリピン戦線に於いては、百式のほとんどを海軍に貸してしまっていたそうで
海軍さんに操縦方法を教えたそうです。
 
このインタビュー内容も、
『帝国陸海軍機空戦記(仮)』に収録予定です。

2016年7月17日 (日)

旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所(稚内市)

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◆「ニイタカヤマノボレ」や「硫黄島決別電文」を中継した海軍通信所
北海道稚内市の戦跡を見学する。

この赤レンガの建物は海軍さんの通信所で
昭和6年に開設。
海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所と呼称した。
平屋の送信所施設、そして隊舎を備えた大規模な施設で
当時は鉄塔のアンテナが立っていた。それらを周囲の樹木に隠蔽されるように
なっている。現在でも周囲は深い森で、その面影は残したままだ。
 

有名な電文「ニイタカヤマノボレ」は、ここから択捉島、単冠湾の
南雲機動部隊へ中継された。真珠湾攻撃の歴史がここ稚内にもある。
 
その他には昭和20年、3月17日の硫黄島玉砕の際、最後の突撃および決別
電報を栗林中将から傍受するなど、最北の無線基地として
重要な電文連絡を行った歴史的価値の高い戦跡・史跡である。
 
◆深い森の中から突然現れる廃墟群
近年、赤レンガの老朽化が激しく、積雪により屋根は崩壊している。
現在は危険のため、立ち入り禁止となっており
見学にはガイドを伴う事前予約が必要。
 

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事前予約し、稚内市のガイドさんに
門を開けてもらい、中へ入る。

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深い森の中を進んでいくと、突然、目の前に廃墟群が現れる。
異世界へ迷い込んだような、
この雰囲気は当時のままだ。
 
◆所在地・アクセス
北海道稚内市声問村
稚内空港から道道121号線を南におよそ3キロ
恵北集落へ入り、1119号線を左折して間もなく
入口がある。
 
◆見学の問い合わせ先 
教育委員会教育部教育総務課
稚内市中央3丁目13番15号
総務管理グループ
23-6518(直通) 文化振興グループ 23-6056(直通)
 

2016年7月15日 (金)

坂井三郎氏ヒアリングノート(Y.S氏の記録)

零戦(進藤三郎大尉機)

 
今日は、リアルな模型製作のため、日頃から情報を集め
探究しておられる、神雷工房様へ寄せられた、
Y.S氏からの手記を紹介させて頂きます。
 
Y.S氏は生前の坂井三郎氏と深い親交があり、これをよく記録していたため
機体に関する事細かな情報を残すことができました。
詳細は内容にある通りです。
 
様々な研究がなされておりますが、こちらの情報も
模型家や研究家の方々に活用されることを目的としまして、このたび、
当サイトで紹介させて頂く運びとなりました。
イラストは便箋に描かれていたものを略図ですが再現しました。
以下、Y.S氏による渾身の手記です。
 
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こんにちは
今日は台南空(ラエ基地からラバウル基地時代)の零戦21型の

マーキングに関して坂井三郎さんから直接教えて頂いた
笹井中隊の代表的な機種について図を交えてご説明させて頂きます。

坂井三郎機マーキング(零戦)


◆専用機・指揮官機
当時、整備状態の良好な機体を指揮官機としていた為
エースになると複数の代替機をあてがわれていた。
通常、ベテランは2機のところ、坂井三郎に限って別格の5機。
尚、V-107とV-138は一時期、笹井醇一機でもあった。
坂井三郎さんによれば、搭乗機を選ぶことはできなかったそうです。
だから航空雑誌などで「〇〇の搭乗機」とか「愛機」とか出ているのは
大ウソとの由。
 
◆機体の割り当て
ただ零戦21型に関して言えば、飛行時間が200時間になったら
その機体はオーバーホールすることになっていたそうです。
それ故、坂井三郎さんクラスの大ベテランになると
出撃回数もハンパじゃなく、5機も乗り潰すことになったそうです。
 
台南空では本当に最初だけ、指揮官以下順番に乗っていたとの由。
総指揮官機のV-101から始まって、102、103。当時は3機編隊だったので
V-104が坂井さんのいた中隊で、坂井さんはV-107だったそうです。
 
アタマの「1」が戦闘機で、「2」が爆撃機、
「3」が雷撃機という意味だった。
しかしそうやって乗ったのは
台南空の初日だけで、その後はバラバラ。
その時たまたま
乗った飛行機というだけのことだったそうです。
被弾したら使える機体に乗り換えるといった具合。邀撃戦ともなると
士官でも下士官でもいち早く
離陸して戦わなければならないので、
誰の機体だろうが
構っている暇はなかったそうです。「早い者勝ち」

そもそも九六艦戦で150時間乗ったらオーバーホール、
零戦で200時間でオーバーホールと決められていた。
唯一決まっていたのは、総指揮官機。これだけはいつも同じ。
「だいたい、一下士官が専用機なんて持てる訳がない」
とおっしゃっていました。
  
空母艦載機は着艦時の難しさから、機体毎のクセを考慮し
各自専用機だった。
 
話は逸脱しますが、こんなエピソードがありました。あるとき、総指揮官機が
故障したことがあって
指揮官が「島川、貴様の飛行機をよこせ」といって
そいつの飛行機乗って行ってしまった。そのうち指揮官機が直ったと
いうので、島川がその飛行機で
追いかけて行った。(新郷英城中隊の
島川は青帯)
ところが、帰艦したら指揮官機が戻ってきたというので
皆が出迎えにどんどん集まってくるから、島川が動転して
「違います!違います!」マフラーを下して顔を見せながら
「私です!私です!」と叫んだという笑い話があるそうです。
 
坂井三郎さんがガダルカナルでF4Fのサザーランドと
対決した機体について、「V-103」「V-128」「V138」との諸説が
ありますが、私が坂井さんのご自宅でお聞きした時は「V-128」と仰ってました。
そして坂井さんが一番長く乗った機体は「V-173」との由。
「V-103」と「V-138」「V-173」は主にラバウル基地時代
にガダルカナル攻撃等で搭乗されたとの由。
 
また、台南空の零戦21型では無線機が不良品だったので
少しでも無駄な空気抵抗を減らすため、アンテナ支柱は
ノコギリで切り落とされていました。

ラバウル航空隊マーキング

◆マーキングについて 
機体番号の数字はゴシック体で黒文字(笹井中隊)
数字の3はひらがなの「ろ」の字に近い形でした。ラエ基地、
ラバウル基地における明灰色時代の
零戦21型の胴体の「青帯」は
笹井中隊の指揮官機のみ。
(中隊長と二つの小隊長)笹井中隊以外の
中隊には
胴体の斜線は「赤帯」または「黄帯」などになる。
 
新郷英城中隊は「赤帯」、稲野菊一中隊は「黄帯」。
よって、坂井機は
「青帯」で赤帯は間違いとの由。
なお、南太平洋海戦の後は、帯は
白帯のみとなる。
また内地からの塗料も滞るようになると
濃緑色の塗料節約から一部の部隊、特に零戦32型、22型などでは
「まだら模様」にせざるえなくなったとの由。
 
◆零戦二一型の灰色は二種類存在する
次に零戦21型(灰)の色について、坂井三郎さんに直接教えて頂いたのは
「明灰色が正しい」との由。坂井三郎さんのご自宅にて
ご自身が作られたプラモデルで色を教えてもらった印象としては
少し青みがかかった灰色で、一番近い色が現代のジェット戦闘機
米軍のF-16ファルコンのグレーです。(少し青みがかかっています)
他に例えるならコクヨのスチール製ロッカーの灰色に少し白と水色を
足した感じ
でした。
 
※タミヤエアーモデルスプレーNo02 AS-2明灰白色86502
 
またはダイヤル式の電話機の色。またはグレーだった頃の
警察の制服の色。ただし、坂井三郎さんによれば、空母艦載機の
零戦(灰)は元々陸上基地用と異なり
灰緑色であったとの由。
 
※タミヤのエアーモデルスプレーNo29 AS-29 灰緑色(日本海軍)86529
 
「空母艦載機に限り、塩害防止のニス(ワニス)を塗ったが
当時の塗料は品質が悪く南方の強い日差し(紫外線)でニスが
黄変し
飴色になった」との由。
 
ただ、毎日空母では整備員が塩分をふき取るためにピカピカに
磨いていたため、飴色(現用飴色)に黄変しにくく色はアイボリーに
近かったそうです。
 
よって、ラバウルなどの陸上基地の零戦21型(灰)は全て
基本的に明灰色だったそうです。
 
なお、南太平洋海戦(昭和17年10月26日)前後の
第一次ソロモン沖海戦(昭和17年8月7日)~第三次ソロモン沖海戦
(第一夜戦、第二夜戦/昭和17年11月12日、14日)
 
当時ラバウルでは空母瑞鶴の艦載機まで投入しなけらばならない程
戦局が悪化していてため、瑞鶴から投入された零戦21型は
塩害防止のニスが黄変したため、いつしかラバウルの
零戦は全て飴色だったという話が独り歩きしたのだそうです。
 
よって、もともと陸上基地用だった零戦21型(灰)と
空母艦載機から投入された零戦21型(灰→飴色へ変色)が
一時期ラバウルで混じっていたため、どちらの目撃談も正しいとのことでした。
 
参考・・・空母の零戦(灰)の色は坂井三郎さんによれば
映画『トラトラトラ』の色が近いとの由。
 
余談・・・零戦が中国進出した頃の十二試艦上戦闘機
および零戦11型は21型と異なり、黄土色の台地が広がる
中国戦域を想定していたため、初めから現用飴色をまとっていた。
全ての零戦が暗緑色になるのは
山本五十六長官の前線視察の直前、昭和18年4月頃から。
 
栄光の明灰色→負け戦の緑色へ。そして台南空も。
「V-〇〇〇」→「U-〇〇〇」→「251〇〇〇」へと変わりました。
 
※東宝映画『大空のサムライ』では零戦21型が緑になっているのは
誤りで、坂井三郎さんが指摘したそうですが興業的にポピュラーな
緑色の零戦のイメージが定着していたため
営業的理由を東宝から言われ、渋々了解されたとの由。
ただ、坂井三郎さんにしてみれば「栄光の明灰色時代」が
汚されたと怒っていました。
 
零戦21型=灰色がプライドだと。21型が緑色になったのは
坂井さんがラバウルを去った後のこと。
本日は坂井三郎機を中心に無い何空の笹井中隊の
マーキングについてお話しさせて頂きました。
少しでも参考になれば幸いです。私が好きな機体は
「V-103」「V-107」「V-128」の三つです。

「V-103」
ラエ時代、坂井、西澤、太田にてポートモレスビー上空編隊宙返り

「V-107」
坂井さんが台南空で最初の機体。

「V-128」
ガダルカナルでF4Fのサザーランドと空中戦。
ドーントレスにより被弾後、ラバウルへ奇跡の帰還を果たした機体。
 
◆三菱製と中島製
零戦を開発したのは三菱ですが、実際には六割近くが
中島製だったとの由。つまり「三菱製」「中島製」が存在したんだ
そうです。そこで坂井さんに乗りごこちを聞いてみた事があったので
その話をします。坂井さんは「同じ零戦でもやはり三菱製のほうが
良い。機体とか翼の張り具合とかが。全体的にまろやか。中島は
どこかいびつだった」との由。「鋲打ちとか熟練度の違いだろう。
リベットにも打ち方があって、熟練工はひずまないように
のばすようにして打つ。それがなかなか難しい。熟練工でも
難しいんだから、戦時中の臨時工は大変だったはずだ」と。
「鋲打ちが均等でないと、三時(東へ90度)四時(東へ120度)に
急旋回したときシワがよる。危険を感じた事さえある」
と仰ってました。だから台南空のパイロットの間では
「三菱にしか乗りたくねえよ」とボヤク者もいたそうです。ただ、
選べませんでしたが。

笹井醇一機マーキング(零戦)

◆マーキングについて(2)
台南空の零戦21型(灰)の胴体帯について。台南空発足後、零戦21型は
45機の5個中隊でした。
そして飛行長が第一中隊長も兼務しておりました。
(1個中隊(9機)=3小隊、小隊は3機単位)台南→フィリピン→ボルネオ→
ジャワ→ラバウルの時代は
台南空45機で進出。
 
飛行長機・・・胴体・斜線の赤帯2本。尾翼は番号の上下に青帯2本。
機体番号はゴシック体の赤フチ白文字。
 
各中隊長機・・・胴体・斜線の青帯2本。
尾翼は番号の上下に青帯2本または白帯2本。
 
各小隊長機・・・胴体・斜線の青帯1本。
尾翼は番号の上または下に青または白帯が1本。
 
坂井三郎のいる笹井中隊は最精鋭として台南空の伝統の斜線青帯を継承。
ラエには3個中隊が進出。
この時、台南空の古参は内地へ帰ったが、
坂井三郎はエースだった
ため、小園・台南空副長に引きとめられ、
小園副長の命令により
笹井中尉を教育することになった。
 
尚、台南空45機のうち、27機がラエに、残りの28機を
ラバウルへ残す際、
坂井三郎たちのいる最精鋭を「ラエの青組」
残りの28機を
「ラバウルの赤組」にしたんだそうです。
しかし笹井中隊をはじめとする
「ラエの青組」がラエを去り、
ラバウルに合流する頃になると、台南空といえども
台湾からの古参は「ラエの青組」だけとなり、第1~3中隊と第4、5中隊の
技量の差は歴然となり、戦死者の多かった
ラバウル時代の第4、5中隊の
欠員が増えた為、
他の部隊(千歳空、第三空、第四空、第六空、瑞鶴隊)
などからも補充し、台南空はラバウル航空隊の中核を成す部隊として
ラバウル航空隊の中に組み込まれたのであった。
 
そしてこの頃から笹井中隊(坂井三郎が去り、笹井が戦死後は
西澤中隊となる)のみ最精鋭の斜線青帯に固定。
(第1、2、3中隊いずれになっても)そして笹井中隊に次ぐ
力量の中隊に赤帯、黄帯の胴体斜線。
 
赤帯(赤組)はかつての新郷英城・第一中隊の一家。黄帯(黄組)は
かつての稲野菊一中隊の一家。
その他に紫帯もあったそうですが、
内地からの塗料が
滞るようになった頃から赤、青、黄色の三組となる。
そして、青組の西澤中隊が解散する頃になると、青い塗料の入手が
困難となり、使える色は日の丸の赤、
機体番号用の黒と白、
そして昭和18年4月から32型や22型が
濃緑色になりだした頃には
味方識別用の黄色くらいしか
使えなくなり、坂井三郎さんによれば
青組は最後まで
青組だったので、1994年にガダルカナルで発見された
「V-103」が赤帯だったのは、笹井中隊(後の西澤中隊)の「青組」でなく
他の「赤組」に機体が編入されたものと
考えられる、と仰っていました。
 
情報公開についてですが、随分迷いましたが
私が小学五年生の時から存命中の坂井三郎さんのご自宅を訪問し、
直接坂井三郎さんから聞いた話(証言)としてなら
全面公開して下さって
結構です。坂井三郎さんも人間ですから
間違っておられる事もあるかも
しれませんが、私としては、
尊敬する坂井三郎せんのお話を尊重したく存じます。
なお、少年で坂井三郎さんのご自宅を訪問したのは私一人だけだった
そうです。それ故、厚かましくも坂井さんを一人占めして
「生きておられる
うちに何でも聞いておこう」と思いジャンジャン
質問したのでした。
 
その集大成が坂井三郎著・『零戦の真実』となり、
本が出来たとき、坂井さんから
「Y君、君のおかげで忘れていたことを
随分思い出せたよ。ありがとう!」
と言われ、二人で喜んだ記憶があります。
 
◆こぼれ話
零戦の増槽誕生秘話についてお話します。実は私が小学校時代の
同級生に零戦を開発した
堀越二郎技師の部下のお孫さんがおりました。
彼の祖父とは曽根嘉年技師でした。お孫さんから教えてもらったことによれば
堀越チームの中には中学出たての少年もいたとの由。その少年は
北海道か東北の雪国出身で、幼い頃、
鮭を見て育った少年だったとの由。
 
ある日、堀越さんが海軍からべらぼうな航続距離を要求されて
頭をかかえていた時、
 
少年「堀越先生、僕のアイデアをお話しします」
 
堀越「何だい?」
 
少年「先生、鮭の稚魚の形をご存知ですか?
鮭の稚魚は自分で餌を
食べられない間、おなかの栄養タンクの
ふくろを使って成長し、大きく
なったら栄養タンクの袋が
なくなるんです。これを零戦に応用してみては」
 
堀越「!!」
 
とひらめいたのでした。
堀越は日ごろから
「生物の造形美には一切の無駄が無い。君たちも
何かヒントがないか
生き物をよく観察すると良い」と言っていたのでした。
例えば零戦の
主翼の揚力を作り出す主翼断面のカーブはサバの味噌煮を
食べる際、
堀越はサバの腹骨のカーブを調べたのだそうです。
また、胴体の後ろ
半分から細くなってゆく所は
イワシの胴体のカーブから。
さらに主翼のねじ下がりは
トンボのオニヤンマの羽根を観察して
出来たそうです。
そして零戦21型の主翼と胴体の付く場所と比率は
やはり
オニヤンマの比率なのだそうです。つまり零戦21型はオニヤンマ
なのである。
 
今日はこの辺でペンを置かせて頂きます。
お元気で

2016年7月14日 (木)

猿払電話中継所跡

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猿払電話中継所跡
宗谷岬から南におよそ30キロ、
猿払村の浜猿払(漁港)付近に
猿払電話中継所跡が残されている。
  
この場所から五本の海底ケーブルが
樺太、真岡まで伸びており、北海道と樺太を繋ぐ中継拠点であった。
現在も海底ケーブルは残され、
ここ猿払では、埋め込まれた一部を見ることができる。

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昭和二十年、八月十五日、終戦。その五日後の二十日。
ソ連軍が樺太は真岡(まおか)に上陸を開始した。
民間人をも無差別に殺傷するソ連軍の進攻に対し、
日本軍守備隊ならびに取り残された民間人は徹底抗戦を
貫き玉砕した。
 
その際、真岡郵便局に交換手として勤めていた、若き女性9人が
いた。女性たちは北海道との通信を保持するため、自主的に残ること
決断し、最後の瞬間まで通信を続けた。
 
女性たちは刻々と迫るソ連軍の進攻に対し、最後まで
職務を全うし、ある者はソ連軍の攻撃で戦死、
そして、郵便局のすぐそばまでソ連軍が迫ると、残った者は全員
青酸カリで自決する。北海道、内地へ向けて行った
最後の通信が、ここ猿払の石碑にも刻まれている。
 
「皆さん これが最後です さようなら さようなら」
 
その最期の声を伝えたケーブルの一部がこれである。

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ここ猿払の海岸から、いまは異国となった樺太の望み、
殉じた九名の女性たちに哀悼の意を捧ぐ。

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猿払電話中継所跡へのアクセス
国道238号線から浜猿払の漁港・集落方面へ入る。
漁港の北側、「海王食品」に面する道を挟んだ反対側にある。
 

2016年7月13日 (水)

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

神雷工房様の作品、1/48「彗星」ファインモールド製です。
機番号311-212は空母大鳳の彗星艦爆隊で
平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの
機体です。
ll-212と表記する説もありますが、写真が残っていないので
どちらだったか解明されていません。この彗星の敢闘を目撃した
藤本さん(インタビューした内容の一部)の話をまとめます。

  
◆魚雷に対し自爆した彗星
時は昭和19年6月19日、
マリアナ沖海戦、一航戦は、零戦、彗星、天山による
編隊を組み、米機動部隊へ向け進撃を開始つつあった。
そのとき、米潜水艦より発射された魚雷が二本、大鳳に向かう。
 
「私の600メートルくらい前、彗星艦爆が一機、横切ったんですよ。
彗星が編隊を離れて、250kg爆弾を抱いたまま魚雷に向けて
ザバーンと、雷跡に突っ込んで行きました」
 
瑞鶴零戦隊の藤本速雄氏の証言によれば、この彗星は大鳳から発艦した

彗星艦爆隊長、平原政雄大尉の二番機だったという。
 
資料によれば、この平原大尉の二番機は、
小松幸男飛曹長(甲7)と国次萬吉上飛曹(乙11)の機体だった。
 
彗星は大鳳を守るため、魚雷へ自爆を敢行したと云われるが、実のところ、
雷跡の存在(あるいは敵潜水艦の位置)を大鳳へ知らせる為に
咄嗟に取った行動で、急降下によってスピードがつきすぎた為、
そのまま海面へ衝突してしまったのではないか?
とも藤本氏は推測している。小松上飛曹、国次上飛曹ペアは
戦死したので現在となっては謎である。

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

2016年7月10日 (日)

知床へ行ってきました

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知床(しれとこ)に行ってきました。
元「雷電」搭乗員のインタビューであります。この方は、厚木の三〇二空で
多くのB-29を撃墜したことから、戦後、GHQによる処刑から逃れる為、
昭和20年8月、直ぐに北海道開拓団に参加、現在に至ります。
(是非はともかく戦勝国であれば英雄だったでしょう)
 
この辺りの土地は痩せており、大変な苦労があったと話を伺いました。
「開墾した分だけいくらでも自分の土地になる」という文句で参加したものの、
満州や樺太からの引き揚げ者で溢れ、実際は僅かしかもらえませんでした。
 
空いた時間を利用して、北海道の戦跡も見学してきましたので
少しずつ紹介していきます。
 
上の写真、奥に見えるのは国後島です!

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2016年7月 6日 (水)

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羽田から飛行機で北海道へやってきました。

Imgp1582  

釧路空港上空を通過して、女満別まで飛びました!
女満別空港は旧美幌海軍航空隊第二航空基地跡です。
プリンスオブウェールズ、レパルスを撃沈し
有名を馳せた一式陸攻の基地です。
 









2016年7月 4日 (月)

「雷電」パイロットへのインタビュー

Raiden

今週は「雷電」のパイロットだった方へインタビューを行います。
今回インタビューする方は、厚木の第三〇二海軍航空隊で
赤松貞明中尉の二番機を務め、B-29やP-51と空戦を経験されました。
(下記の動画4分33秒辺りで登場する指導役の搭乗員が赤松さんです)
 
最後の空戦では頭部に被弾、負傷し、片目の見えない状態で
不時着成功しました。「雷電」での不時着は難しく
事前に電話でお話しした際、
 
「雷電で不時着することは、これはもう殉職と同じですから」
と語ってくださいました。
 
「雷電」の着陸速度は87ノット(大凡時速162キロ)です。
ゼロ戦二一型の着陸速度64.5ノット(同119キロ)と比較しても
高速であることがわかります。この速度が着陸時における難度を上げ、
訓練時間の短い搭乗員には恐れられました。
速度だけの問題ではありません。雷電は翼面荷重がゼロ戦に比べて
恐ろしく低く、不安定な飛行機でありました。
 
とはいえ、戦後、「雷電」を鹵獲しテストした連合軍には好評価でした。
機体にトラブルを抱えず、きちんと訓練時間を重ねていれば
問題の無い着陸速度でした。
 
当時から「殺人機」「欠陥機」などと不名誉な噂が払拭できない
「雷電」ですが、数ある海軍戦闘機の中で
最も多くのB-29を撃墜した機体です。形はズングリムックリで
お世辞にもスタイルが良いとは言えませんが、
パワーだけは飛び抜けており、他を寄せ付けない
迫力がありました。そうした魅力から「雷電」に
根強いファンがいるのも確かです。
 
「雷電」について、今回は掘り下げて行きたいと考えています。
 
※画像は352空の雷電
 


YouTube: [日本軍] 局地戦闘機"雷電(らいでん)" Mitsubishi J2M"Jack"

【蒼穹の戦士】
ある特攻隊員と少年の実話~黎明の蛍
パラオの零戦/誇り高きサムライ~吉田久光上飛兵
ご遺族と共に最後に飛び立ったペリリュー飛行場へ
パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉
ガドブス島探索~第263海軍航空隊(豹)のエースたち
帝国海軍から航空自衛隊へ~指宿正信大尉の見た空
敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」
富安俊助中尉とエンタープライズ
岩本徹三中尉の戦後
赤松貞明中尉の戦後
篠原弘道准尉 ホロンバイルの荒鷲
零戦の雑学 21型から52型 64型まで
われら雷電戦闘機隊
幻の怪鳥「烈風」改
紫電改と343空 第343海軍航空隊全搭乗員リスト
江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機
一式陸攻の見学
さらば!空中戦艦「富嶽」
1/144航空母艦「飛龍」大ミッドウェイジオラマを作ろう
YS-11宇都宮への定期飛行スケジュール
青木義博中尉(稲妻の雷電)
彩雲パイロット杉野さんのお話
飛燕戦闘機隊々歌完成



【原田要さんの話】
(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
(2)南京攻略戦掩護とパネー号爆撃事件
(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗って
(6)関行男大尉の教官を務める
(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

【一式陸攻搭乗員天野さんのお話】
(1)一式陸攻のイロハ(クルーの役割)
(2)東京初空襲とミッドウェイ海戦
(3)ソロモン海戦水面スレスレでの雷撃敢行

【飛燕パイロット竹田五郎さんのお話】
高度1万メートル「飛燕」「五式戦」B-29との空戦

【ペリリュー島第二連隊生還者 永井敬司さんのお話】
(1)ペリリュー島のラストサムライ




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パラオ全図島
■パラオ全図(各島詳細)


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