笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
篠原Q、
零戦から紫電改に乗り換えて一番の違いは何でしたか
A、笠井智一さん
だいたいね、零戦は栄のエンジンにしても 800馬力やないですか。
紫電改は誉の2000馬力でしょう。 そら800馬力と2000馬力じゃ違うんですよ。
Q、一番大きいのは馬力ですか。
A、そうですねえ。全然違いますね。
Q、紫電と紫電改ではどう違いますか
A
紫電と紫電改では、同じ誉のエンジン2000馬力ですけれども、
紫電は中翼。胴体の間に、真ん中から翼(ヨク)が出てる。
しかし紫電改は改良されて紫電改は低翼ですからな。
それだけでもクセの状態が全く変わってきますから。
離着陸訓練とか、編隊訓練とか そういうものは紫電でだいぶやりました。
Q、紫電と紫電改では中翼が低翼になっただけで違うのですか
A
ああ、違う。
見張り。敵がどっから来るかわからんから、 それを見とる訳ですよね。
視界が全然変わってきましたから。
第一に離着陸はね、中翼と低翼と差があるわけですよね。
低翼は本当に乗りやすかったですよ。
紫電と紫電改では旋回性能も全然違うしね。
そら 同じように20ミリ4挺着いとるけども。 そいで私は紫電で実戦に
参加したのは一回しかありません。 あとの実戦はみんな紫電改でやりました。
Q、紫電改はよかったですか
A
ああ、よかった。全然違う。(キッパリ)
紫電改はグラマンと空戦しても絶対に負けるような
飛行機じゃなかったんですよ。 ただ、敵機の数が多いんでね。数で負けた。
こっちが10機おったら向こうは40機、50機おるんやから。
だけど空戦するときは40機とぜんぶ空戦 する訳ない、こっちからお互いに
4機、5機で 空戦するんやから、どうっちゅうことはないんやけども
そらもう、なかなか数が多かったから、こっち側も2、3機やられたら
むこうは5機6機やっても あくるひにはまたおんなじだけの数が来よんのやから。
そら日本は飛行機の補充もない。搭乗員の補充も無い。
訓練せんことには簡単に紫電改にのれるもんでもないから。
あの頃、 301飛行隊新選組、701飛行隊維新隊、407飛行隊と、
飛行隊が三つあったんですよ。 飛行機会社から紫電改を受け取ってきたら
301飛行隊でみんな受領して、301はそれを最初に 使うとったんですな。
ほいで、407飛行隊で甲の5期で本田稔さんちゅうひとが居ります。
まあ、紫電改で 空戦経験者いうたら二人ぐらいしかおらんのじゃ。
Q、同じ局地戦闘機でも雷電はあまり良い噂は聞きませんでしたね。
A
そうですねえ。 せやけどね、雷電をえらい褒める人も居るんですよ。
人によってはね。あの飛行機はええ飛行機やったゆうてねえ。
まあしかし、雷電は格好が悪い。
Q、いや、その、雷電が好きな方も居りますので・・・
A
紫電改ぐらいの格好しとったらね、 おー、なかなか、とこう、(ニヤリ)
愛媛県の愛南町というところに紫電改が一機展示してあるでしょう。
日本ではあれ一機だけなんですよね。 そら私も年に一回ぐらいは
行きますけれども。 やっぱり、見たら紫電改は格好ええ。
もうね、こんなこというたら申し訳ないけれども 靖国神社の零戦、
あれもええ飛行機ですよ。 ええ飛行機ですけども、紫電改と見比べたら
華奢でね。 これではグラマンと空戦できても勝てへん。
零戦に乗っとった人には誠に申し訳ない話やけども やっぱり、紫電改は
日本、いや世界一の戦闘機ですよ。
Q、4月12日の喜界島上空での空戦の話を聞かせて頂けますか
A
あの時は鹿屋から出たんですよね。
そして一番機が杉田庄一、二番機が私で、三番機は宮沢豊美、
4番機は田村恒春。 田村は栃木なんですよ。彼とはだいぶ一緒に
飛んだし空戦もやったよ。
その田村が離陸してからエンジン不調かなんかで引き返したので
3機で編隊組んで飛んで行った。 そいでまあ、いちいち下の島見とる訳ないから
上ばっかり見とるから、そいで喜界島の上まで来たら
「菅野一番、敵機発見、敵機発見」
言うないなやビューーーーッと突っ込んで行ったんですよ。
Q、菅野直大尉もすぐ近くだったのですね
A
一区隊が菅野大尉の4機、二区隊が杉田、私、宮沢。だから一区隊と二区隊
言うたら、すぐ端に居るからね、一区隊の一番機、菅野大尉の隊長機が
突っ込んでいったら すぐ見える訳ですよ。
「あれ、やったー」思って。ほいで、それを我々も一緒になって
ついていくわけですよね。
あのときは随分乱戦になってですね、でも301飛行隊は未帰還機は
無かったかな。 ほいで、菅野大尉が突っ込んでいった。
私もそれについていった。ほんなら下からF4U。
いわゆるヴォートシコルスキーやな。
そいつがビューーーーウっと上がってきよったわ。
それに菅野大尉がダダダーーーーっと撃って一撃で一機撃墜しよったんですよ。
「やった!」と思って それから乱戦になってですね、それで記憶はないんだけども
私はとにかく杉田兵曹から 「空戦の時は編隊離れたらいかん」て
やっかましく言われとったからね。
敵を射撃せんでも、絶対に編隊についていかんと・・・ 思っとったやつが
結局、そこで空戦で一番機が離れてしもうて。 一番機がどこへいったかわからん。
ほいでそこで空戦やって、ほいで、2機撃墜したつもりでおったんですよ。
次に射撃しようと思ったら弾が出ない。もう弾がない訳ですよね。早く基地
帰らないかん。 で、海面スレスレでデーっと、北向いて、鹿屋向いて帰った。
そしたら上見たらね、グラマンが編隊で3機、追いかけてくるわけですよ。
これはいかんぞー。もしもグラマンが来やがったら 体当たりしてでもやったろうと
思っとったんですよ。 ほいで、鹿屋の近くまで来たら ちょうど鹿屋の上空で
紫電改が上空哨戒でおったんですよ。 それをグラマンが見て、帰っていった。
そいで助かった。
そいで、着陸して源田司令に報告。「二機撃墜しました」言うたら司令は
「よし」言うて。 横に居た杉田兵曹が
「おい、笠井!来い!」
「はい」
「2機撃墜した言うたな」
「はい」
「お前、それ2機とも海落ちるとか、山へ落ちるとか撃墜の確認したやろな」
と、こうや。私は
「しとりません」ちゅうて。
杉田兵曹は、撃墜の確認しとらなんだら、そら撃墜違うと。 そら不確実やと。
いうことで。 私は撃墜したと思っとったやつが不確実撃墜になって
不確実2機と記録に残っとる。あれは私の不確実の2機や。
杉田兵曹は
「俺はなあ!!空戦しとった者がどこで空戦しとるか、皆見とるんじゃ!!!」
と言うんですよ。 そんな一番機、ちょっとおらんですよ・・・。
「俺はお前が戦うの見とったからな」と言うんです。
撃墜にはならなんだですけれど。 まあ、そんなことは4月12日の
状態なんですね。
Q「カンノ一番」の無線が入ってきて、真っ先に突っ込んでいくのが菅野大尉で
A
そうです。そらあもう凄かったですよ。 編隊組んでわたしはここにおる
「敵機発見、敵機発見、菅野一番、菅野一番」 電話を打つ、言うやいなや
ビュウワーーーーー と突っ込んでいきよるねん。 我々はそれについて
いかないかん。それについていくのが大変やった。 訓練しとっても大変やった。
Q、真っ先に見つけるんですね
A
そうなんです。ほいで、我々は一区隊の隊長機に みんなついていかないかん。
それをね、杉田さんはね、一生懸命訓練した。 編隊を組んで、いろんな訓練をね。
あそこまで、訓練してくれたから、我々はいま、生きて居るんですけれど。
まあ、零戦の搭乗員でも杉田はラバウルの経験があるからやとか、
いろんなことを仰る方もおられますけれどね、 杉田兵曹を「あれはなかなか凄い
男やったで」と褒めたら嫌がる人間もおる。 もうそんな人は死んでほとんど
おらなくなりましたけどね。
Q、杉田さんの2番機であったから生き残れたと
A
そうそう!私が生き残れたのは 杉田の教育を受けたのと、
最後に紫電改に乗れたのが大きな要因やと。
菅野直大尉も立派な隊長でした。なかなか他に類を見ない隊長でしたね。
もちろん、その他に家族が武運長久を祈ってくれてたとか 色んな事ありますよ。
特攻についてのお話し
Q、玉井さんの命令も苦渋の決断だったのでは
A
うん、そういうことはね、みな言うんですよ。
せやけどね、実際にそういう場面に遭遇したときにね
「お前特攻に行くのやめとけ」と言われへんやないですか。
みんな特攻に行っとんのやから。 そら、戦後になってですよ。特攻に反対
やったとか、言う人がほとんど。 だけど、そうは簡単にはいかん訳ですよ。
だから私たちも、死ぬとなったら誰も命は惜しいですよ。 だけど、日本の国の
ためなら、俺がやって日本が勝つなら命なんか惜しくないと、 国のために
やったるんだと、いう気持ちで特攻に行っとるわけ。
戦闘機が、レイセンが250キロ爆弾積んで 行くのを、俺は爆弾積んで
死ぬために戦闘機乗ったんと違うと、 空中戦でグラマンを一機でも
余計に落としたいと思って それで私は戦闘機乗りになったのに、
「爆弾抱いて体当たりで死ぬのは残念や」いうて、 死んだ奴がようけおる。
そらあの、343の紫電改部隊でもですよ、 本部から特攻に行かんかと、
いうような命令は来たらしいですよ。 私は飛行長の志賀淑雄さんと
戦後ずーっと長いつきあい させてもろうて、いろんな話を聞いたけれども
とにかくその時に、志賀さんは源田さんに
「司令、特攻に行けというのなら行きましょう。そのかわり、司令、あんた一番に
行きなさいよ」と。
そして部下には
「参謀を連れて行け、参謀と一緒にいくんやったら特攻に行きましょう」と。
源田さんにいうた。 ほなら、源田さんがそれを本部に伝えてそれから
特攻の話が全然来なくなったと。
Q、参謀というのは
A、
そら航空参謀や。 私がフィリピンで忠勇隊・・・
あれは10月27日やったかな。忠勇隊の特攻隊の直掩隊で
行くときに指揮所へ行ったら、黄色い憲章つけた奴がぎょうさんおるわけですね。
あれなんや?あれみんな参謀らしいでちゅう話やて。 参謀って何やねん。
何しにきとんねん。 そんなもんね、そいつらはもう特攻に行かすのがね。(仕事)
そう、あのときにおそらく、私らは当時わからなんだけれども
大西瀧治郎もおったんやと思うよ。 当時は顔も名前も全然知らんかった
ですけどね。 ほいで命令を受けて、特攻直掩で行ったんですけれどね、
直掩に行った連中は五人だったですかな。 行って、ほいで、その中に
343紫電改で空戦やったのも 居りましたけれどみんな死にました。
私一人だけですよ。生きとるのね。
Q、特攻隊と直掩隊ではどう違いますか。
A
そらね、直掩隊で行く人間と特攻で行く人間とでは精神状態はだいぶ
違うと思いますよ。 せやけどね、特攻の飛行機がやられたんなら
俺も突っ込んで死んでやるぞと いう気持ちはある。俺らは特攻隊を守るんだと。
特攻隊はそこで体当たりで死ぬんだという感覚と、
直掩隊は俺たちはお前たちを守るんだぞという感覚と、
そこらはなんぼかの差があるんじゃないでしょうかな。
Q、関大尉の特攻に関しては色々な説がありますが
ご存知のことを教えてください。
A、
私たちもいろんな噂話を聞いとりますけれど、 あのときに、マバラカットの
航空隊の宿舎で大西中将、それから玉井さん 指宿さん、それから横山さんが
おって なんで、艦爆あがりの関さんを特攻に指名したかということなんですよね。
色んな話は残ってますよ。それは真実であるかどうかはようわからん。
いろんな説があるんですよ。 一般に言われとるのが菅野大尉がおったら、
菅野が特攻に 行っとっただろうと、しかし残念ながらおらなんだ。
あれは飛行機取りに内地に帰っとったから。 私はそのとき菅野大尉と一緒やった。
ほいでまあ、中島飛行機の飛行場で、菅野大尉が
「おい、よう聞け、いまフィリピンでレイセンに25番抱いて体当たりで
行く戦法つこうてるらしいで」って、こう言う。
私は 「えーレイセンに25番抱けるんですか」いうて。
レイセンで25番の爆弾を抱けるなんてだーれも思ってなかった。
そら、ご存知やと思いますけれども 特攻の初期に離陸ようせんと、
飛行場のエンドに突っ込んで 爆発して死んだ奴がおるんですよ。
レイセンが25番抱いて離陸するなんて夢にも思ってなかった。
せいぜい6番ね。60キロ2発ぐらいが関の山やと。 そんな状態のときやから
特攻精神にはなっとると思うけれども 離陸のときに離陸しきれずに
飛行場の端っこへ 突っ込んで戦死したやつがおるんですよ。
実際におるんですよ。 マバラカットの飛行場のね、
~笠井さん、戦友に会いに行く~
だんだん生きとる人間が少なくなりますわな。 時々こういう話を取材に
来られる方が おられますけれどね、そんなにまあ、私はみなさんに
取材受けるほどの 古い搭乗員でもないし、兵隊も若いしたいしたこと
ないんですけど。 しかし、やはり、こうして生きている以上は やっぱり誰が
どこでどうして死んだかと、 いうようなことぐらいはですね、後世に残しておかんと。
みなもう消えてしまいますからね。 戦争中の話をするのは嫌だとか
嫌いだとかいうひとが おりますけれども、卑怯なんですよ。そういうやつは。
やっぱり自分らの一緒に戦った戦友はですよ、 戦死してですね、
そのことを言わんちゅうことは その人間をホントにもう亡き者にして
しまいますからね。
やはり、あれは、どこそこでどうして死んだとかね それぐらいのことは、
やはり残しておいたほうが いいんじゃないかと。私は思いますけどね。
毎年9月に靖国神社で慰霊祭がありますわね。
私はそれには毎年必ず参拝する予定にしてるんです。
せめて靖国神社へ行ってですね、あの大鳥居をくぐって
「おおい!来たぞー!!みんな元気かー!!」
私は必ず言いますけれどね。
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
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