ベトナム解放戦線(3) 国吉戦車中隊
昭和20年5月頃だったと思います。我々は戦車8両、部下50人の
独立中隊で、場所はミトーに居りました。
ホーチミンの解放軍の綺麗な女の子が何度も何度も誘いに来るんですよ。
長い黒髪でね、綺麗な女の子でした。その女の子が
「隊長さん、東京へ帰っても焼野原ですよ。一緒に戦ってここで暮らしましょう」
そう言って誘うんです。何度か行こうと思いましたけどね。我々の中隊からは
離隊者を出しませんでしたが、他の中隊からは随分居たようですね。
そのまま現地で所帯を持って現地に骨を埋めたとも聞いています。
やはり母親が気になりましてね。
戦って死ぬことは構わないんですが、ホーチミンの指揮下に入るということは
どこで死んだかわからないと、これは故郷の母親も困るだろうと
思いました。何度誘いにも来ましたが、断ると女の子はヒョロンへ
帰っていきました。
昭和19年10月頃の作戦命令で
我々の中隊はガダルカナルで玉砕する筈だったんです。
戦車は本来、戦車用の輸送船で運ぶんですが、その頃になると
輸送船はなく、駆逐艦で輸送してガダルカナルへ上陸することになったんです。
ところが、駆逐艦のクレーンでは戦車が4トンありますから
持ちあがらないんですね。何度やっても駄目で。そこでガダルカナル
行きは中止になりまして、命拾いをしたわけです。
それでビルマで終戦になります。終戦になって武装解除の段階になると、
またホーチミンの解放軍がやってきては誘うんです。
彼らにしてみれば戦争のやり方がわからないから、部隊単位で丸ごと
欲しがるわけです。戦車を欲しがったんです。
戦には負けましたが、ボロボロの戦車では恥ずかしいので
8両あった戦車は全て完全に整備して、ピカピカに磨いて
それで英軍に渡してやろうと、完璧な状態でした。
そうしたら、やってきた英軍が驚きましてね、同じ軍人だから
解るんでしょうね。ピカピカの戦車を見て、とても驚いていましたよ。
・・・・つづく
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