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2015年10月21日 (水)

ベトナム解放戦線(2)

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前回からの続き

 
「ベトコンの軍隊に入隊してくれ!階級は二階級進級させる。
給料は倍出そう。奥さんを提供する。植民地解放の為に
戦っている。ベトコンに協力してくれ」
 
思いがけぬ敗戦の報せに不安定になっていた
日本軍に対し、誘いが何度も何度もやってきた。
 
ホーチミンの進撃
ハノイからはホーチミン将軍を盟主とした
越南独立同盟党がベトナム民主共和国の独立を宣言。
サイゴンに向かって進撃を開始した。
 
ベトナム独立運動は一般民衆をも刺激し
「打倒フランス」の雄叫びをあげ仏印全土へ広がって行く。
 

解放戦線へ加わる者たち
 
「決して軽拳妄動してはならぬ!」
連隊長の訓示も空しく、毎日のように離隊者
(解放戦線へ身を投じる者)が
続出した。
 
光橋中尉は戦争が終結した以上、部下をこれ以上
一人も死なせず日本へ連れて帰ることを決意していたが
ついに光橋中尉率いる五中隊からも離隊者が出る。
 

Nという兵隊が手榴弾を持って逃亡する。
Nは離隊の際、一度帰ってきて雨の降る晩にまた出て行ったという。
一個分隊でNを捜索に出た。
 

捜索中、揺り籠の女が居た。
女の視線が二階を気にするので
行って見ると、そこに案の定Nが居た。
 
「なんで国へ帰らないんだ。もう戦争はおわったんだぞ!」
 
「・・・おっかやん死んだから」
 
「そんな証拠どこにあるんだ!」
 
「・・・いや、もう弱かったから」
 
「そんなことあるか!故郷に帰るぞ!」
 
事なきを得て、Nをプノンペンに連れ帰った。
 
フランス軍を守る
8月15日をもって、サイゴンの捕虜収容所にあった
フランス軍は一転、一応の戦勝国となり
連合軍司令部となった。しかしもっとも弱かったのが
サイゴンの連合軍司令部であった。
サイゴンの市街地の中心に僅かなフランス軍、それを
ぐるりと英印軍が守り、それでもベトナム解放軍が破って来るので
さらに広域に渡って再武装した日本軍が警備にあたった。
 
フランス軍一個中隊(約200名)がベトコンに襲撃を食らって壊滅した。
警備のため、日本軍一個分隊(20名)が出動。彼らは日本軍
兵士の姿を目撃すると、ただちに攻撃をやめ、間もなく両軍による戦闘は
沈静化した。このほかにも各地で小競り合いが起きていたが
日本軍が出動するとピタリと止んだ。
 

ベトナム解放軍はメコン川にかかる橋の破壊工作を開始した。
それは徒歩で渡れるような小さな橋から、大きな鉄道橋も含まれていた。
破壊工作というのは、彼らは橋の橋脚や骨組みはそのまま残し、
踏み板のみを撤去してしまうのだという。
 
サイゴンの連合軍司令部からは、ベトコンの武装解除せよと
(ベトコンは武装解除に応じないからつまり彼らを撃破せよ、ということか)

命令が飛んでくる。それで解放軍のところへ一応は出動するのだが
友達だから、お互い戦いたくはないし、皮肉にも日本軍が戻った地域は
至って平穏そのものとなる。
 

メコン川の西側に光橋中尉の部下の分隊が取り残された。
部下の分隊は解放軍に包囲されている。
フランス軍からはベトコンを駆逐せよと

命令が飛んできている。彼らは日本軍と戦わない。
そのかわり徹底してフランス軍には抵抗したため
部下の分隊は戦わずメコン川の向こう岸で孤立している。
 
ベトナム解放軍へ告ぐ、日本人として最後の訴え
光橋中尉が出動し、橋を守る
解放軍兵士の士官と話をしたが
フランス軍の指揮下とあれば頑なに橋を通そうとしない。

 
彼らは要求を断り「帰れ帰れ」と言いながら、なぜか
あたたかい食事を用意してくれる。それでいてお互いに
「向こう岸へ通せ」、「嫌だ、絶対に通さん」と繰り返し
拳銃を突きつけあっている。
不思議な関係だった。ついに光橋中尉は決心する。
 

「お前ら!もう俺たちは戦争に負けて日本へ帰るんだから
独立するんならしっかりやらなきゃダメだそ!」
 
日本は戦争に負けた。それなのに、
2、3年すれば日本は再び強国になってベトナムに戻ってきてくれると
本気で信じていたベトナム民が多く存在したからだ。
 
「俺はもう話さんぞ!時間切れだ!向こう岸へ渡る!
お前らの好きなようにしろ!撃ちたければ撃て!」
 
光橋中尉は解放軍の士官にそう言い残すと、橋を渡り始めた。
向こう岸に残る部下を救うために。
 
ベトナム解放軍の士官と兵士は最後のセリフに圧倒され
黙って見ていた。
 
一方、アンコールワットの東側では、ハノイに近く
日本軍にも敵意をむき出しにして南下するホーチミン将軍と
氏木中隊が戦っていた。
 
つづく
 
また、少しずつ書きます。

2015年10月19日 (月)

全国書店での注文・図書館へのリクエストが可能になりました

拙著『パラオ戦跡を巡る』が全国の書店で注文可能になりました。
また、図書館への蔵書リクエストもできるので、お近くの図書館で
リクエスト用紙に書いてくださいますと、たいへんありがたいです。
何卒、よろしくお願い致します!
 
いずれもタイトルと著者名を伝えるだけで
OKですがこちらの書籍バーコード(二種類)
をプリントアウトするか、番号をメモして持って行ってくださると
係の方の調べる手間が省けるのでスムーズです。

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2015年10月17日 (土)

那須塩原市での講演会

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今日は那須塩原市で講演会を行いました。
多くの戦没者ご遺族ならびに、那須塩原市長、国会議員の方も
お見えになりました。

  
しかし相手がどなたであろうと、私の気持ちは同じです。
是が非でも伝えたいことがあります。
  
大勢の前でお話しするのは苦手なのですが、
不器用なりに、想いを精一杯喋ったつもりです。

2015年10月12日 (月)

天皇陛下のアンガウル島拝礼

天皇陛下のペリリュー島・アンガウル島拝礼

にわかに信じられませんが、本当の話です。
私は天皇陛下のペリリュー訪問が決まったときから、
同様にアンガウルの戦没者も慰霊して頂きたいと
方々で何度も何度も訴えてきました。
 
その私の記事を、宮内庁の侍従か侍従長がご覧になって、
陛下のお耳に入ったとのことでした。

アンガウルの拝礼は「篠原さんがきっかけです」と
宮内庁の侍従の方が仰っていましたから間違いありません。
 
両陛下はペリリュー島の戦没者慰霊碑に菊の花を手向けられた後、
防波堤の方へ進み出てアンガウル島へ拝礼されました。
この、アンガウル島への拝礼は当初、予定になく
陛下のご意向で当日決まったことでした。
 
アンガウルで散った千二百余名の戦没者の方々の慰霊と
周知のため、私が少しでもお役に立てたなら、
よかったと思います。

2015年10月 5日 (月)

YS-11が宇都宮へ飛来

YS-11が宇都宮へ飛来

 YS-11飛行点検隊宇都宮へ
 
2015年10月5日

所沢基地所属、飛行点検隊のYS-11が宇都宮飛行場(北宇都宮駐屯地)に
飛来しました。YS-11の宇都宮への飛来は大凡、3ヶ月に一度。
旧型のYS-11でも飛行場の設備や管制塔、機体の計器が
問題なく対応しているかどうか、
点検しています。
迫力あるローパスを4回ほど繰り返し、お昼前に着陸。
乗員は昼食を食べたのち、入間へ帰って行きました。

  
飛行点検隊のYS-11の宇都宮飛来は
だいだい月曜日か火曜日が多いようです。
前回は7月2日でした。今日が10月5日なので
ほぼ3ヶ月です。自宅上空を独特のターボプロップエンジンの
キーンという音で飛ぶのですぐに解りました。
 
自宅から5分の飛行場まで行って写真を撮影。
YS-11の151号機でした。YS-11の実用機は全てが退役し、
残っているのはこの赤いカラーリングの点検隊の機体のみです。
 

YS-11飛行点検隊宇都宮へ

YS-11飛行点検隊宇都宮へ

YS-11飛行点検隊宇都宮へ

滑走路脇ではTH480練習機が今日も訓練を行っていました。
この機体は宇都宮ではヘリコプターのアクロバットチーム
ブルーホーネットとして有名です。

 

ブルーホーネット

ブルーホーネット



2015年10月 1日 (木)

土田喜代一さん

土田喜代一

 
私の友人でペリリュー戦研究者のS氏が

福岡県にお住まいでペリリュー島玉砕戦生還者の
土田喜代一さんを訪ね、拙著『パラオ戦跡を巡る』をお渡し頂きました。
   
土田さんは昭和19年当時、海軍の第761海軍航空隊(龍)所属で
ペリリュー航空基地で地上
見張り員をしていましたがペリリュー島へ
取り残され、急遽、応急陸戦隊(大谷部隊)を編成。
陸軍とともに戦いました。
 
特筆すべき点は土田さんは終戦を信じず
昭和22年4月まで、およそ1年半も戦い続けたことです。
その詳細は様々な本が出ています。
 
土田さんからは多くの資料をお借りし、拙著の編纂に
多大なる協力を頂きました。土田さんが経験した
戦闘の詳細や終戦後の抗戦など、手記もお預かり
していましたので、それも拙著に盛り込もうと考えていたのですが
すっかりテレビやプロの作家さんに先を越されてしまいました。
 
土田喜代一氏
昭和18年1月10日佐世保海兵団志願入隊
同年4月、博多海軍航空隊へ入隊。 同年10月
横須賀見張り学校へ入校。同年11月、鹿屋海軍航空隊に転属。
第一航空艦隊・第761海軍航空隊(龍)へ転属。
一式陸攻二四型72機(ほか彗星・銀河など)を有する最新鋭部隊。
第一航空艦隊司令長官角田中将テニアン(天寧)玉砕
ペリリューで大谷龍蔵大佐指揮のもと海軍応急陸戦隊を編成。
玉砕戦を生還、なおも終戦を信じず昭和22年4月、澄川少将の
命令で武装解除に応じる。写真は新兵時に撮影したもの。
 

土田喜代一

 
土田さん、お世話になりました。ありがとうございます。
これからもお元気で。
 

澄川道男海軍少将

▲ペリリュー島に於いて終戦後もそれを信じず抵抗を続ける日本兵
(土田さん含む)に対し、説得、停戦命令を伝達すべく、作戦を練る澄川道男海軍少将。
左から二番目。