テニアン島戦跡(6) B-29と原爆搭載ピット
我々人類の文明は進歩の過程において、つねに搾取と生存を賭して
衝突を繰り返してきた。これらの争いに不可欠な武器の進化も
同様、石器を手にしたときから始まっている。
剣を交えたかと思えば、銃弾が飛び交う時代が到来し、
文明から遅れをとったもの、あるいは戦そのものを拒んだ民族は
情け容赦なく駆逐された。
そしてついに人類は究極の武器、核兵器を手にした。
次の段階は何であろうか。
それは石器に違いない。世界が核戦争で終末を迎え、全てが
無に帰したとき、ふたたび石器を持つ時代が来るであろう。
ここ、テニアン島はもっとも世界の終末に近付いた島であった。
日本守備隊が玉砕し、アメリカの占領下となったテニアン島は
サイパン、グアムと合わせて、B-29の基地として瞬く間に整備された。
▲テニアン島ノースフィールド飛行場、A滑走路跡(下)とB滑走路跡(右上)、上空から見た4本の滑走路。
B-29による本土空襲、そして原爆投下を行ったエノラゲイ、ボックスカーもこの滑走路より飛び立った。
・B-29滑走路
焼夷弾による日本本土無差別絨毯爆撃はこの島から発進した
B-29によって行われた。現在も四本の滑走路が残っている。
また、原子爆弾を搭載したエノラゲイ、ボックスカーも
この滑走路より広島、長崎へ向けて飛び立った。
▲広島型原爆「リトルボーイ」を「エノラゲイ」に搭載したピット。
破損防止と保護のため透明の囲いが施されている。
・原爆搭載ピット跡
原子爆弾はその大きさゆえ、機体への搭載には地面を
掘り下げる必要があった。原爆本体はピット内から油圧ジャッキで
持ち上げられ機内へ搭載された。
▲こちらは長崎へ投下された「ファットマン」を「ボックスカー」へ搭載したピット
▲広島型原爆「リトルボーイ」の模型(青色)
ウラン235を用いたが、運用に過大なリスクを要したため、以後製造は中止され全て長崎型に移行した。
▲長崎型原爆「ファットマン」または「パンプキン」の模型
・戦後も製造され続けた120発の長崎型原爆
黄色の塗装は長崎型原爆「ファットマン」ボックスカーに搭載された
プルトニウム型の原子爆弾。長崎に投下されたファットマンは死者
約73,900人という甚大な被害をもたらした。
戦争終結後(1950年迄)も120発が製造されアメリカ軍の核戦力を担っていた。
・模擬爆弾「パンプキン」の投下
当初、投下候補地となったのは京都、広島、小倉、新潟の四都市で
いずれも原爆による威力を観測するため、事前の空襲は禁止されていた。
この間「パンプキン」と呼ばれる長崎型原爆と同形の模擬爆弾を東日本の
30都市に合計50発投下し、実験を行った。模擬爆弾とはいえ
通常爆薬が詰められており、この実験により400名以上が死亡した。
・第一目標は京都
第一目標の京都であったが、ヘンリー・スティムソンの反対により
候補から外された。京都の歴史的文化財保護を目的とした
アメリカ側の意図があったと一般に流布しているが、これといった
根拠はなく、単に戦後処理を考慮した結果、京都への投下は
非合理と判断した結果にすぎない。京都は爆撃による被害が少なく
多くの家屋が破壊されすに残っていたため、その地形を含めて
原爆投下の影響を実証するには最も適するターゲットであった。※1
・ストレートフラッシュによる皇居爆撃
広島への原爆投下は当初、クロード・イーザリー少佐が機長を務める
シルバープレート「ストレートフラッシュ」が担う予定であった。
ところが7月20日、この事前実験として郡山がストレートフラッシュの
投下目標となった際、悪天候もあって、イザーリー少佐は
独断で皇居へパンプキンを投下。(昭和天皇の殺害を意図した説もあり)
結果的に目標から外れたが、天皇は降伏後の最重要交渉相手であると同時に
日本人に対する心理的影響を最大に懸念していた米軍はいかなる場合も皇居への
爆撃を禁じていたためイザーリー少佐とストレートフラッシュは広島への任務を
解任され、エノラ・ゲイが補されることとなる。なおストレートフラッシュは観測機と
して随行した。
・シルバープレートとは
シルバープレートとは原爆投下を専門に行う目的で改造された
B-29の仕様(呼び名)で終戦まで15機が準備された。なお
戦後も含めるとその数は65機に及ぶ。
・朝鮮戦争とマッカーサーの原爆投下要請
その後、勃発した朝鮮戦争で、最高司令官マッカーサーは徹底抗戦を
続ける北朝鮮に対し、原爆の使用(場合によっては数発から十数発)を
要請したが、トルーマン大統領は第三次世界大戦の勃発を懸念し、これを
却下。マッカーサーを解任する。
・テニアン島から核兵器廃絶と平和を考える
このように、世界は核兵器の登場で幾度となく終末の危機にあったことが
理解できるし、それは現在も変わらない。
昨今、左派活動家主導による「憲法九条をノーベル平和賞に」
という運動が一躍話題となったが※2
日本が今日まで戦争を経験せずにこれたのは
皮肉にもアメリカの大軍事力と核の傘下に依るもので、子供でも見当がつく
大きな矛盾が生じる。この矛盾を解決しない限り、真の平和など
実現しない。
以前、陸上自衛隊の佐官から聞いた言葉であるが
実に的を射ているので、それ以来、事あるごとに拝借しているので
今日もここで記して置く。
「残念ながら平和を守っているのは軍隊なのです」
残念ながら平和は乞うものでは無い。少なくとも今のところは。
守るものである。
真に核兵器が撤廃され平和な世の中を取り戻すために
議論は必要であろう。目をつむってはいけない。
私は日本人として、原爆投下は到底許せるものでは無いし、それが
戦争を早く終わらせる手段だったとして容認もできない。
かといって、アメリカを憎しみを持つものではない。アメリカとは
強かに付き合う必要がある。必要なのはこれらの事実を絶対に忘れない事、
語り継ぐことである。
長崎、広島と合わせて
サイパンへ訪れた際はテニアンまで足を伸ばしてみることを
ぜひ、おすすめしたい。
▲スミソニアン航空宇宙博物館に保存されているエノラ・ゲイ
※1
アメリカは戦後、南洋においては日本の文化財、文化そのものを徹底的に
破壊してきた。B-29による無差別爆撃や原爆投下はホロコースト(虐殺)で
はないのだろうか。それら一切が罪に問われず、被弾し落下傘降下した
B-29搭乗員を殺害した将校は戦犯となり処刑された。日本人は
気付かねばならない。アメリカの戦争はいかに都合よく、合理的に
行えるか否か、でしかない。
※2朝日新聞は
一般の主婦と報道したが正確にはプロの左派活動家。
あの滑走路から飛び立ち人類にとって開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのですね。
父もそのパンドラの洗礼を受けた一人です。
まさに1.5キロの地点、ほぼ真上でした。
あの地獄から生還したのですからまさに奇跡としか言いようがありません。
広島、長崎と、何も知らず皆さんが普段と変らない生活をしてたかと思うと胸が痛みます。
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>以前、陸上自衛隊の佐官から聞いた言葉であるが
実に的を射ているので、それ以来、事あるごとに拝借しているので
今日もここで記して置く。
「残念ながら平和を守っているのは軍隊なのです」
残念ながら平和は乞うものでは無い。少なくとも今のところは。
守るものである。
真に核兵器が撤廃され平和な世の中を取り戻すために
議論は必要であろう。目をつむってはいけない。
私は日本人として、原爆投下は到底許せるものでは無いし、それが
戦争を早く終わらせる手段だったとして容認もできない。
かといって、アメリカを憎しみを持つものではない。アメリカとは
強かに付き合う必要がある。必要なのはこれらの事実を絶対に忘れない事、
語り継ぐことである。
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仰る通りです。
>残念ながら平和は乞うものでは無い。少なくとも今のところは。
守るものである<
その言葉ですが英霊の皆様を思う時、そして今の日本を憂う時、重く感じます。
>昨今、左派活動家主導による「憲法九条をノーベル平和賞に」
という運動が一躍話題となったが※2<
私もそれはテレビで見ました、いかにも一般主婦の様な報道をされていましたね。
プロの左派活動家でしたか、さすが朝日ですね。
投稿: 山崎 | 2016年1月21日 (木) 18:27
山崎様
私は立場上、特に政治的発言は極力控えるよう心がけていますが
民間人を無差別に殺傷する、これは誰が見ても絶対に悪いことです。
過ちを犯したのはアメリカです。
「戦争を早く終わらせるためやむなし」という文言は
グアムやサイパンなどの米国建立の戦争ミュージアムの展示の最後に
自国を擁護する立場から必ず記されていますが、それは本質から
逸脱した主張だと考えます。
日米双方からの視点をもって
核兵器廃絶のため議論を尽くさねばならないと思っています。
投稿: 篠原 | 2016年1月31日 (日) 12:47
仰る通りです。
私も>「戦争を早く終わらせるためやむなし」<この文言だけは納得いきません。
投稿: 山崎 | 2016年2月 2日 (火) 18:42