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2013年10月 3日 (木)

大村海軍航空隊跡

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大村海軍航空隊の跡地です。

掩体壕が公園の遊具となって残っていました。
ここ大村海軍航空隊は海軍屈指の大航空隊で、空技廠があり
また、松山の第343海軍航空隊(剣)の拠点でもありました。
 

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司令部壕は現在慰霊塔となっています。

 

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沖合に浮かぶ長崎空港です。
海軍大村航空隊の飛行場跡地は現在の海上自衛隊大村航空基地です。
長らく民間と共用でしたが、現在、民間機の滑走路は全て沖合に移転し
民間機独自で運用されています。
 
長崎空港という名称ですが大村市にあります。
長崎県は縦に長い県ですので、地元の人は「大村の空港」とか呼びます。


コメント

大村は大学生のときまで住んでいて、実家があります。この公園の近くに母の実家がありましたので、掩体壕には子供のころ昇って遊んでいました。忠霊碑が司令部跡とは知りませんでした。夕暮れ時は、どこか不気味でしたので遅くまでいることはなかったですが。驚きです。小学校は、戦中は飛行場だったところだと聞いており、小学校を建設する工事のときに人骨が出てきたのなんだのと噂がありました。この大村市はキリシタン殉教の地としても知られておりますが、空技廠があったとは・・・。故郷の新しい側面を知った思いです。ありがとうございました。

アガタ様
そうだったのですか。資料の一部に成りえる思い出で
地元ならではの大変貴重なお話しですね。
こちらこそありがとうございます。

 あけまして、おめでとうございます。今年もご活躍を楽しみにしております。
年末年始休暇を利用して実家のある大村市に帰省してきました。
何度帰省しても祖父母の墓参りくらいしかしなかった私ですが、久しぶりに(30数年ぶりくらい)慰霊塔公園に行ってきました。しみじみしてしまいした。
知らなかった故郷の大東亜戦争時代の姿。
地元民でありながら、故郷がどのような土地であったかしらずに育って、
いままで深く興味を持つことすらありませんでした。
聞いていた大村の飛行場が、実は東洋随一と言われた戦闘機の製造修理工場を有していたことや、
その飛行場が大空襲にあって多くの犠牲者を出していたことも、
まったく知らず恥ずかしいくらいです。
しかし今回一緒に帰省し、碑文を読んだ子供たちには、この悲しい歴史を伝えることができました。
 現在の住まいの佐世保市に向かう途中に大村湾を眺めながら涙が出てきました。
あの波静かな大村湾でも、かつて特別攻撃隊のボートの訓練が行われていたのですから。
 見ようとしなければ、何にも見えない。
見ようとする目を開いていただき、篠原様には本当に感謝です。
 長文失礼しました。

アガタ様
あけましておめでとうございます。
大村の航空基地は広大なものだったようです。
当時の写真も僅かに残っています。
大村には海軍航空技術廠の工場兼研究所がありましたので
常に最新鋭の機体が飛んでいたそうです。とくに大村といえば「流星」です。
綺麗な飛行機です。

私も大村一帯を見てきましたが、いまでは飛行場跡は住宅地などで
僅かな掩体壕しか残っていませんが、地元の方に
取材すれば、まだまだ秘められた話が聞けると思います。まだ間に合います。
記録に残らない話がたくさん、きっと埋もれているはずです。
ぜひ、気軽にご年配方にお話を聞いてみては如何でしょうか。

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