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2013年5月31日 (金)

コロールの芸者通り

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コロールのメインストリートからはずれた、WCTC側一本目の裏通りは
かつて「芸者通り」と呼ばれた、南洋一の大繁華街で
道の両脇には遊郭が並んでいたのでした。
 
将校さんの遊び場として、また兵卒も(人によってですが。まったくそんな遊びはなかったという方もいますので) 
出征前の最後のひとときを過ごしたと言われております。
 
パラオは物資も比較的潤沢にあり、当時としては豊かたほうでした。
ただそれは昭和十九年三月三十日までの話です。
同日からのパラオ大空襲でそのほとんどが灰と化しました。
 
少しばかり残る、当時の面影を探りながら歩いてみることにしましょう。
 
高いビルがパレイシアホテルです。(この国で一番高い建物です)
現在は閑散として民家や小さなストアー、アンガウルの州オフィスなどがある程度です。
メインストリートと違って人通りが少ないので
夜間は歩かないようにしてください。
 
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当時、コロールで一番か二番目に大きかった遊郭「鶴之屋」。
現在は一般の民家です。コンクリの基礎と建物はそのままですが
ピンク色に塗られたのはもちろん戦後。
 
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もう少し奥まで行ってみましょう。
「鶴之屋」の門柱です。現在は一般の民家です。
 
奥まで見たかったのですが、住人がいなかったので
声もかけられず、あまりウロウロして怪しまれてもたまらんので
この辺で失礼します。
 
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さて、芸者通りに戻ってしばらく歩くと、これも日本時代の建物です。
「活動写真館」です。活動写真というのは映画のことです。つまり映画館。
当時コロールには活動写真館が二ヵ所もありました。
 
活動写真という言葉、日本ではすっかり使わなくなりましたが
パラオ語では映画のことを「カツドー」と言います。
本当ですってば!
 
現在、コロールに映画館はありません。レンタルDVD屋さんならありますけど。
 
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芸者通りの散策終了。接続するTドッグで心地よい潮風を浴びます。
奥に見えるのはレンタカー屋さんとガソリンスタンド、
ウエストプラザホテル・バイ・ザ・シーです。
 
※West Plaza by the Sea パラオでは中堅クラスのビジネスホテル。
一切、飾りっ気はありませんが、帰って寝るだけという方なら、綺麗で安価なのでおすすめ。




2013年5月27日 (月)

千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式

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本日、高円宮妃殿下ご臨席のもと、千鳥ヶ淵戦没者墓苑において
拝礼式が行われ、私も参列致しました。

普段は閉じられている納骨堂が開かれ、硫黄島をはじめ、樺太、マ

ーシャル諸島、

モンゴル、ミャンマー、パラオ、東部ニューギニア、ビスマーク、ソロモン諸島、
マリアナ諸島、旧ソ連地域から帰還した無名戦士のご遺骨が納められました。

安部晋三首相をはじめ各閣僚、カザフスタン、モンゴル、インドネシア、パラオ、
パプアニューギニア、フィリピン、ロシア、アメリカの各国大使が献花を行いました。
政党では自民、民主、維新の会、みんな、社民、生活、みどりの風、新党改革の
それぞれ代表者が献花しました。※共産党は欠席。


2013年5月23日 (木)

原爆投下は「天罰」 韓国紙が表明

原爆投下は「天罰」だそうだ。韓国紙が表明した。

絶対に間違っている。神がそんなひどいことするか!神が
何の罪もない無抵抗な善良な市民を長崎広島合わせて三十八万人も

殺すか!
無知な韓国紙記者よ、原爆を落としたのは人間だ。それを「戦争」

と呼ぶ。
日本人は何故、抗議しないんだ?何故ニュースにならないんだ?

なにが世界平和だ!なにが博愛だ!日本人は
どいつもこいつもどうして穏やかでいられるんだ?
僕は人間だから、こんなこと言われたら怒りの感情を抑えられない

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130522/kor13052222170008-n1.htm

2013年5月19日 (日)

95歳のおばあちゃんと鬼怒岬

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戦史の調査で知り合った
95歳のおばあちゃんの話をします。

彼女の夫は陸軍少尉でアンガウル玉砕戦で戦死しました。
20代で未亡人となった彼女は、再婚す

ることもなく
この年まで畑仕事一筋で子供を育て、生きてきました。

最近は「早く夫が迎えに来ないかな」
といった言葉が絶えず、私も
なんと言葉をかけて良いのかわからずに、過ごしていました。

将校さんでしたのでお家からは機密書類が多く出てきました。
「自分が持っているより多くの方の役に立てれば」との申し出で
私は、それらを防衛省に寄贈する手続きを取りました。

先日、ようやく防衛省での受領が完了し
彼女のもとに感謝状が届きました。

写真は少尉が亡くなったと推測される砂浜です。戦争当時は
陸上にあったトーチカ(コンクリートの防御陣地のこと)も
長年の波の影響で、砂浜へ徐々に押し出されています。

遺骨は帰ってきていません。

私が撮ってきたこんな写真ですが、おばあちゃんは
夫の化身のように大切にしてくださっています。

とても悲しいけれど、深い愛の絆があるのだなと
感じました。
 

 
追記
この出会いから2年後の
2014年夏、おばあちゃんは亡くなりました。

2013年5月 2日 (木)

硫黄島遺骨収集記/19歳大学生の回想

硫黄島
 
先日の硫黄島派遣で19歳の大学生と一緒になりました。
彼が記した硫黄島訪問の回想記に心打たれたので、本人の許可をもらい
ここに掲載させてもらいました。
 
純粋の一言に尽きます。硫黄島から戻り、すぐに記したこともあり
一切の飾り気を排して、素直な気持ちが表れており
さらに付け加えるならば、彼ら戦争を知らない世代はもちろんのこと
各々世代に対し、反戦の大切さ、それは単純なものでない故、
議論の余地を与えてくれている、素晴らしいメッセージだと感じました。
紹介します。次の通りです。 
 
 
『 硫黄島遺骨収集記 19歳大学生の回想 』
 
 
昨日、正確にいえば一昨日は硫黄島で日米合同の追悼式がありましたね。
丁度一ヶ月程前。 2月5〜14日に硫黄島遺骨帰還事業に参加させていただきました
そんな折、遺族の方々が合同追悼式について、なんで親を殺した奴らと笑って
追悼式しなきゃいけないんだって言っていたことを思い出しました。
何年たっても人の気持ちは難しいですよね。 向こうも必死でこっちも必死で生きるために
はたまた愛する家族を守るために殺し合ってたんですよね... 俺には難しいです。
今の平和ボケでは考えられない。

硫黄島には戦争で亡くなられた英霊たちがまだまだたくさんのいらっしゃいます。
彼らは望まずしてこの地に連れてこられ、辛いおもいをし、家族や愛する人に
会いたいという気持ちを胸に亡くなられた。 硫黄島では、今回の隊では壕の中を堀り
そんな英霊たちのご遺骨を探しだして、本土に帰還させるという作業をしました。
壕の中は風の通らないような場所では灼熱で60度以上にもなるところがあったり、
縄梯子で降りないといけない場所があったり、すごい劣悪な環境。こんな中で
少ない水で硬い地盤を堀り壕を作っていたのかと想像すると、考えられないほど
辛かったんだろうと、硫黄島では戦の前に亡くなられた方々が多かったといいますからね。
硫黄島には限られないのですが。

そんな中で作業して、何柱かご遺骨を見つけて持ち帰ることができて、本当によかったです。

今回の隊は特別な隊で、この一年で探し出したご遺骨を本土に持ち帰り、千鳥ヶ淵にて
引き渡し式を行うという役割も含まれていました。 ご遺骨を抱えて輸送機に乗り
入間基地に戻り、そこからバスで移動。 基地の中ではバスの通り道にご遺骨に向けて敬礼する
列ができていました。それを見た時のえもいわれぬ身体のかっーと熱くなる感覚、涙も溢れだして。
その時、彼らの死は無駄ではなかったんだと、意味があったのだと、確信しました。
彼らが死を望んだわけでもありませんが 、いま私たちが平和に暮らしているのは
直接的ではないかもしれないけど彼らのおかげなんだと、自分のたちは彼らの屍の上を
歩いているのだと。 しっかり一歩一歩踏みしめて歩かなければいけないなと。感じました。

遺骨の引き渡し式では、自分も殆どの学生は号泣。
現地の追悼式でははずかしながらないていたのは私くらいでしたが

この時に、戦争を知らない自分達の世代でもこんな気持ちになるんだなって、
戦争は絶対してはならないと言うことを受け継いでいかねばとつよく、つよく感じました。
戦時中硫黄島は米国にとって国民を戦争に向かわせるためのプロパガンダとして利用されました。
これからは硫黄島は反戦へのプロパガンダになって欲しい。して行きたい。

遺族の方々には自分達みたいな学生がきて俺は頑張ったつもりだけれど、煙たがれたかもしれません。
戦争で親族をなくしたわけではない自分達ですからね。
でも英霊のために働けて本当によかった。 考え方がまたかわる10日間でした。

硫黄島に行かせてくださってありがとうございました!

いまでも各地でご遺骨の帰還事業が行われていることを
みなさんにも周知しておいていただきたいです。

最後に、自分は相変わらずダメダメでした。 そんな自分にもよくしてくださって、
硫黄島では楽しくもすごさせていただきました。 いい人ばかりで、、、

硫黄島で出会えたみなさんに本当に感謝してます。

またどこかでお会いしたいです!

本当にありがとうございました! あ、つたない文書ですみませんでした!