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2012年10月31日 (水)

アルマテン砲台

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アルマテン海軍砲台
安式四十口径十五糎速射砲(アームストロング式40口径15cm速射砲)
呉海軍造兵廠~明治36年~15サンチ速射砲

旧朝日村西に位置するアルマデン海軍砲台は、西水道を望む
高台に設けられ
トーチカに格納された砲が当時のまま残されている。
西水道は、外洋とコロール環礁内を繋ぐ交通の要衝で
最少幅110メートル、全長8.5キロに及ぶ狭水路であった。
 

アルマテン海軍砲台は、この狭水路に進入する敵艦艇に対し照準し
迎え撃つ構えであったが、
米軍はパラオ南端のアンガウルおよび
ペリリュー島攻略で大損害を受け
パラオ本島の攻略を中止。
兵糧攻めに徹した結果、砲台が活躍する機会なく終戦を迎えた。
 

海軍はこのほか、マラカル、アイライ、コイグルの各地に砲台を
設置し敵艦艇の侵攻に備えた。
 

※トーチカ格納の一門以外は戦後此処へ運ばれたもので
原型をとどめたものが三門と、解体され砲身のみとなった
二門が茂みに残されている。

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2012年10月17日 (水)

アンガウルの戦火に巻き込まれた少年

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アンガウル平和慰霊公園に建つ少年の像です。
芸術家の戸田和子先生の作品です。

先日、戸田先生の展覧会が宇都宮で開催され、その折
ご本人とお会いし、製作の経緯を伺って参りました。

アンガウルの戦火に巻き込まれ亡くなった実在の
民間人の男の子をモデルにしました。

戸田氏のお話によると当初は男の子一人をデザインしていたのですが、
とても寂しそうだったので、手に飛行機の玩具を持たせてみたのですが
それでも寂しそうだったので、背後にお姉さんを立たせたそうです。

そして「日本はどっち?」とお姉さんに尋ねているところです。
指差す先に日本があります。

写真は小玉氏(甲種予科練十二期)提供です。

2012年10月 6日 (土)

アンガウル島慰霊碑の除草作業

パラオの戦跡を調べるようになって随分と経ちましたが、まだまだ
書きたいことがたくさんあります。お見せしたい写真もたくさんあります。
決して出し惜しみしているのではなくて追い付かないのです。

資料も揃っていて、出版もしたいのですが、
自分一人で自宅で細々と作業しているものですから、なかなか進みません。
しかし少しずつではありますが、パラオ戦跡の現状をお伝えしたく
書いて参ります。

今回はアンガウル島平和慰霊公園の除草作業の様子です。

運よく船のエンジンが好調だったので単身、アンガウル島へ渡りました。
私は久し振りに訪れる日本人でありました。
船が波止場へ入港すると大勢の島民が集まりとても賑やか。もちろん
年配者で日本語を喋れる方が居て、暖かく迎えてくださいます。

早速、慰霊公園の様子を見に行きます。
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南の島には冬がありません。よって一ヶ月も放置すればご覧の通りで
英霊に申し訳ない・・・。兎角アンガウル島は交通の便が悪く
清掃などが行き届かないのです。

まず、雑草を片っ端から引っこ抜きます。
時間がかかりましたがなんとか終了し
コンクリートの土台には米松の葉がたまっていたので掃き掃除して、
慰霊碑を綺麗に拭いたら完了です。
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綺麗になりました。慰霊碑は画面右から

■少年の象

■砲兵隊慰霊碑

■船坂弘氏建立の慰霊碑

■下野観音象
(栃木県知事横山信夫1973年)

■守備隊長後藤丑雄大佐の墓
(無名戦士の墓から改め)

■アンガウル戦没者慰霊碑

■沖縄の塔

■各個人慰霊塔

の順に並んでいます。

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綺麗になったところでようやく慰霊ができます。

「これを兄貴に飲ませてやってくれ」

ご遺族から預かってきたお酒をお供えします。
栃木の地酒です。

おそらくここで散華されたのでしょう
激戦のレッドビーチにも注ぎました。
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熱帯低気圧が来ているのでだいぶ海が時化てます。まさかこの後
帰りの船が欠航になって10日間も島に閉じ込められるとは
この時点では思いもしませんでした。


つづく