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2013年11月 7日 (木)

八甲田山雪中行軍隊の足跡を辿る旅

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またやってきました。今度は夏に。
八甲田山 雪中行軍遭難資料館です。
まさにこの資料館の前の道(現在県道)を第五連隊が行軍して
八甲田山へ向かいました。
 

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▲冬と比べた写真です。


この先、田茂木野村があって、小峠、大峠と続きます。
幸畑の陸軍墓地には無料のボランティアガイドの方がいらっしゃり
こまかく説明して頂きました。
 

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▲幸畑陸軍墓地(資料館裏)夏の様子

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▲冬にも行ってきました。同じ場所です。
 
少し背の高い墓石は下士官、手前が兵卒のお墓です。
中央に並ぶのが将校のお墓で、見学者は自分だけだったのですが
丁寧に全て墓石の立ち止まって、一人一人の経緯を説明して頂きました。
ボランティアガイドの方の博識に驚くとともに
丁寧さに本当に感謝致します。
 
さて、行軍隊の遭難事件から今年で110年(平成24年現在)になります。
100年までは慰霊祭を催し遺族がお参りに来ていたのですが
それも真冬に墓石に積もった雪を掘り起こす困難さと
高齢化のため現在は行われておりません。
 
現在では陸上自衛隊が雪中訓練途中に立ち寄り清掃慰霊を行います。
ところで、山口少佐は物語では悪役になっていますが
映画が完成した折、実際の人柄と違うという指摘が随分あったようです。
しかしあくまでフィクションである旨を説明し決着させました。
さらに山口少佐の死因について、映画では病室で拳銃自殺していますが
病院に拳銃を携行することは出来ず、凍傷にかかった 左手で
こめかみを打ち抜くことはできなかったとも言われております。
 
日露戦争を控えて不祥事や揉め事を抹消したいという
軍部の思惑から 毒殺されたといった説もあり、真相は現在でも
不明のままです。 第五連隊の雪中行軍隊210名のうち199名が亡くなり
生き残った将兵も重度の凍傷を負って手足を切断の後遺症が残りました。
五体満足だったのは、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の三名のみでした。
一番元気だったのが倉石大尉でした。
東京でゴム長靴を買い求めた
倉石大尉でしたが、ゴム長は単に
当時ハイカラでお洒落なものだったようです。
これのおかげで 凍傷を防げたのは偶然でありました。
 
倉石大尉は黒溝台会戦で戦死しているので 雪中行軍遭難者の墓地とは
分けて右隣の敷地に墓石があり 階級も少佐に特進しています。
資料館を見学するとわかるのですが、雪山では僅かな距離なのに
方向を見失い 一日中彷徨した後、同じ場所に帰ってきてしまうんですね。
本当に雪山の恐ろしさを感じます。 今回は夏だったので、
行軍隊が辿った道を一通り見ることができました。
 

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▲冬の八甲田山

 

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▲ここが馬立場です。 仮死状態で発見された後藤伍長の象があります。


十和田湖まで足を延ばし 奥入瀬渓谷を走って参りました。

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▲冬の同じ場所

竜飛岬も行ってきました。 日本屈指の強風の町です。 

大きな風車の羽根。 竜飛岬から北海道を望む。
ボタンを押すと大音量で『津軽海峡冬景色』が流れます。
それから青函トンネル資料館です。 体験坑道ケーブルカーで
海底トンネルまで降りることができました。
扉の向こうは電車が走っています。

高台の碑は青函トンネル工事殉職者の慰霊碑です。

こちらは青函トンネル入口公園です。 ずいぶん手前にあるのですね。ここから潜って、出口は北海道です!

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往復1600kmの強行スケジュールでしたが
今回は夏なので 景色が存分に楽しめました。

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