支那戦線時代

最初は九九式双軽。急降下爆撃機ですな。
それで、支那で作戦をしました。

根拠飛行場は北京の少し〇〇(方角要確認)の
南苑(なんえん)飛行場ですね。

そこで在支米軍が、ときどき出てくるんですな。
支那のほうに。

そのときは、我々は〇〇して〇〇へ前進して在支米軍の根拠地を叩くと。
三ヶ月にいっぺんぐらい。そうして作戦をして
南京、南苑に帰ると、そういう作戦をしました。

それは昔の戦闘もそう。双発の爆撃機は落下傘をつけないから、はじめから
故障なら自爆ですよね。全部敵地だから。飛行機はだから故障したらそれま
で。しかしエンジンをかけて飛行機が動き出すと忘れる。


忘れる。やっぱり編隊が遅れないように目的達成と
いう気になる。恐怖感を抑えてくれる。 段々なれると。
そういう感じで。戦闘機もそう。初めにB29を見た時は、「こん
な大きなの」と思ったけど、いざとなれば慣れる。二の次になる。

支那戦線での
初陣の話なんかもしておきますか。

初陣は昭和・・・要するに部隊に行って
1ヶ月、2ヶ月ぐらいして、広東、いまの杭州ですな。
そこに集合して、桂林を叩くという作戦に従事しておりました。

私は桂林飛行場攻撃の中隊長の二番機を。
新品少尉ですからね。編隊から離れない事が、今では恥ずかしいような編隊飛行ですが
とにかくくっついて、敵情などほとんど見なかったですな。
中隊長機を見失わないようにくっついて行って。
中隊長が爆弾を落とせば私も一緒に爆弾を落とす。
ということだけに専念して、なんとか任務を。

しかし、その前に、北京から広東に動くには、上海に降りて、広東に行く
あるいは、台湾のカイ〇〇飛行場に降りて、
広東に出たわけですね。そのときに中隊長の三番機、
広東の飛行場に着いたときに、あれが来たんですよ。B-??かな。
双発の爆撃機。それが広東を攻撃した訳ですね。

移動途中でその三番機は故障が出たので、
なんとか広東に着いて、修理の為に格納庫へ入った。
三番機はその格納庫に入ってますから、パイロットもそこに居て
そこを空襲された訳です。

私は当時、広東の飛行場の南の方に〇〇があって
勤務していたんですけど、たまたま北の方に飛行第33戦隊
がいて、我々を掩護するために、いた。その部隊に我々の
同期生が居るんで、同期生に会いに行こうと飛行場を歩いているところを
爆撃を受けて、それが初めて遭遇した最初です。
あのときは、恥ずかしいけど、弾を避けなければいかんと。
体を隠さないと、それがなんと
ガソリン補給車の下だったんです。
そんなことわからなかった。後で考えてみれば笑い話ですがね。

で、その爆撃をした後に、その伍長の焼死体がですね
本当に真っ黒になって、死体を見たのが衝撃を受けたんです。
その晩は食事が喉を通らなかったですよ。

そして翌朝、仏領攻略ということで
夜明けのちょっと前に飛行場へ行って、整備をして
飛行機に乗って離陸したんですな。広東の飛行場を離陸すれば
桂林の飛行場を爆撃して帰ってきた
そういう状況で、敵下の状況を見るような状況になかった。

そういう恥ずかしいような第一線でした。

むこうが対空火器を打ち上げて来て、それの火花が出ますから
曳光弾ですね。それが自分の飛行機に当たったように見えたんですよ。
それに緩んで、爆撃直後にちょっと遅れたんですよ。
それで中隊長に怒られた。

そんなことを繰り返すうちに、

揚子江の中流ぐらいに、恩施、梁山という飛行場がありますな。
そこの飛行場へ1時間半くらい飛んだかな。
そこを攻撃するときに、九九双軽の戦隊で、北京に
一個中隊だけ残って、二個中隊が漢口へ進出。

集合して行って、33戦隊の戦闘機が上空掩護で行った。
ところが空中でちょっと遅れましてね、中隊長二番機が
先に恩施飛行場を爆撃した。

それで敵が上がって、その飛行機はみんな燃料が尽きて
梁山飛行場へ降りたんです。
それで敵の飛行機が梁山へ着陸したところにうちの飛行隊が
行きましたから、見事に奇襲成功。
ここに写真もありますけどね。

そのとき、勇敢な敵がおりまして、爆撃の最中に離陸してきました。
三個編隊の一番最後の編隊の編隊長が被弾して不時着をして。
その三番機(九番機)は揚子江へ自爆する、我々は超低空で〇〇をして
漢口飛行場に辿り着く。そういうような状況でした。
それは戦闘を三回か四回やった後でしたから。よかったんです。
やはり戦闘というのは、なにがなんでも経験しないとね、上がって
最初は飛ぶことだけが精一杯という、みんなそうだと思いますな。

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『飛行第九十戦隊史』によると、この戦闘は次の通り

昭和18年、6月6日、敵機が梁山、恩施に進出との情報あり、
第二中隊(双軽8機)は飛行第25戦隊と同行し恩施飛行場を、
第三中隊(双軽9機)は飛行第33戦隊主力と同行し、梁山を攻撃した。

◆第三中隊の状況
梁山攻撃は敵機の帰還直後であり、高高度接敵による奇襲に成功し、
地上にあったP-40戦闘機、6機炎上7機撃破のほか、燃料車7台を
撃破炎上させた。

しかし我が攻撃の直前に離陸したP-40の猛攻撃を受け、その1機を
撃墜したが、敵機の集中砲火により舘野軍曹操縦(雨宮曹長、
吉田軍曹、鈴木伍長)、佐々木軍曹操縦(松田曹長、島井軍曹、
三宅伍長)の両機が万県上空に於いて発火炎上し、壮烈なる
自爆を遂げた。編隊長赤沼中尉機は右エンジンに受弾し、片発飛行にて
かろうじて荊門飛行場に胴体着陸した。

◆第二中隊の状況
一方、恩施攻撃は戦爆協同進攻が時間的にずれ、
第二中隊は双軽8機をもって単独恩施飛行場を急襲、飛行場の使用を
拘束した。恩施上空においてP-40数機の攻撃を受け、その1機を撃墜したが
岩村中尉操縦機は浮弾発火した。岩村機はなお敵戦闘機と交戦を続けたが
岩村中尉、射手山森軍曹は受傷し、ついに従容として機首を山塁の敵陣地へ
目がけ僚機に最後の訣別を告げつつ鬼神をも哭かしむる壮烈なる自爆を
とげた。搭乗員の岩村竹俊中尉、大城盛仁曹長、黒瀬俊明曹長、山森
芳夫軍曹の4名が散華された。

●要確認
万県上空
岩村竹俊中尉、
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そこから、私は渡った年の
12月かな。12月に早速、広東に行って

それから、読んでもらうとわかると思いますが
南支の飛行場はほとんど爆撃しましたね。

だから今の中国にある有名な飛行場はたいてい爆撃してます。
数もたくさんある。

一番記憶に残っているのは
桂林(けいりん)、梁山(りょうざん)

恩施(おんし)だとかね、

桂林の北のほうに、これに書いてますが

建甌(けんおう)だとかね、

当時、在支米軍というのは
隊長が一人おりましてね、少将ぐらいだったかな。

主力は成都、重慶、におって
そこから出てきて爆撃するんですな。

それが動きだしたら
北京から呼び出されて

南の広東、??から??に移って
26:50

そこで二ヶ月か三ヶ月攻撃する。
そこである程度、むこうが沈黙させたら
南京へ帰ってきて、それを三回ぐらいやったかな。

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※根拠飛行場、機動飛行場、予備飛行場
だから、南京、いや北京
根拠飛行場ですけどね
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戦地に行くときはみんなそういう風に行って
ひどいときはやっぱり夕方、広東へ。
仏領攻撃をして、まっすぐ帰ったか、広東に爆撃されてるから
まっすぐ帰れなかったか、給油をしていたか。

九九双軽(きゅうきゅうそうけい)ですからね
軽爆撃機でも発動機が二つある。
足(航続距離)もけっこう長いしね。

南支、中支と回ってましたな。


まだ、爆撃隊で進攻して敵地の上空へ行くまでは
任務が無事に終わるかな、とか、そういうこと考えることのほうが
多いですな。任務うまく回ってくれよと。
僚機編隊長から離れちゃいかんと。

戦闘機で突っ込むときはそんなの考えないです。


しかしこれ書いてあるけど
私も最初はびっくりしたんですよ。

爆撃行きますと相手が撃ってきますね。
その当時はくっつくのが一生懸命で

急降下して、
パーっと赤い火が上がった。
自分の飛行機にあたったと思った。

あっ、と思ったんですが、実はそれは
後で聞けば、前方射手が撃ちますな。
九七重(きゅうななじゅう)は前に射手が乗ってますから。
その曳光弾だった。

それが敵弾が当たったと思ってあーっと思ったんですな。
別にそのために遅れたんじゃないけど

ちょっと遅れたんですよ。
瞬間的にひるんだんですな。
それで降りたら怒られたんですよ。

ここに書いてありますけどね。

初陣の時はそんな恥ずかしい話もあります。

そんなに遅れたんじゃないですよ。ちょっとだけですよ。


◆支那から内地へ。戦闘機転科

それで、戦闘機の掩護っていいなあと思っていました。

だから九九双軽は一年ぐらいですな。支那へ渡って
一年経って、12月に、当時南方で
特に中隊長クラスの戦闘機パイロットが多く戦死しましたからね。

中隊長の要員が必要だということで、軽爆、重爆、偵察の
少佐あるいは古い大尉ぐらいを、中隊長および戦隊長要員として
戦闘機に移し変えたんですな。
合計すると、60名ぐらいかな。それぐらい日本の戦闘隊は弱ってました。
その二期生として、明野飛行学校に入校と命令が出ました。

当時、うちの部隊の三人の中隊長のうち
二人が明野へ。

もう一人は陸大へ。
そこの先任将校もやはり、二人、戦闘機へ行って
私と一緒に赴任した4人は、恩施という飛行場で自爆して戦死しています。
残った三人もまた戦闘機にかわって。
部隊はみんな若い者に変わって、戦闘を続けた。

だから支那を発つときは、部隊の苦汁が思いやられました。

私たちは、そこから明野の飛行学校に移って
半年間、戦闘の技術を学んで
戦闘機部隊に行くということになりました。
 

(同じ状況を別インタビューで)
 
南の戦闘部隊多くの
中隊長、戦隊長クラスがみんな戦死しましたからね。
代わりがおらんとうので、偵察、爆撃、あたりから
古い将校をそのまま戦闘隊に移しかえて
私たちは、そこから明野の飛行学校に移って半年間。

私達は戦闘機へ転科した。

だから九九双軽は一年ぐらいですな。
12月に戦闘機に変われということで、うちの部隊は中隊長が三人おって
二人が戦死。
もう一人は陸大へ。12月で中隊長がみんな変わって。
そこの先任将校もやはり、二人、戦闘機へ行って
私と一緒に赴任した4人は、恩施という飛行場で自爆して戦死してます。
残った三人もまた戦闘機にかわって。
部隊はみんな若い者に変わって、戦闘を続けた。



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『飛行第九十戦隊史』より

戦隊は根拠地南苑に帰還し、精意訓練ならびに飛行機の整備に専念していた。
特に夜間訓練を重視し練度の向上に努め、夜間の基本的な離着陸、夜間
編隊飛行、夜間爆撃、太原、済南飛行場への夜間模擬攻撃
北京-保定-天津三角飛行、北京-張家口-大同航法等を実施した。

下山師団長は我が戦隊の練度向上に特に意を注がれて訓練状況の巡視
ならびに査閲のため二回来燕された。こうして猛訓練に精を出し
鋭意戦力増強に専念していた戦隊に対し

昭和18年11月14日突然戦闘要員として一挙に、第三中隊長、野口五郎大尉、
第二中隊長、井上恒夫大尉、第一中隊付、田井武雄中尉、同、平川慶一中尉、
第二中隊付、野田稔中尉、第三中隊付、竹田五郎中尉の六名の将校操縦者が指名され
戦隊を離れた。また、第二中隊の武内浩三中尉が航空士官学校区隊長に転属発令され、
戦隊は両中隊長をはじめ、気鋭の青年将校を引き抜かれ、本格的な
在支米空軍撃滅戦を前にして、前途に多難を思わせた。

※要確認「来燕」

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