プロローグ~航空士官学校

「物語の書き出し」

うちの孫が小学生のとき、突然
「おじいちゃん悪い事したんだね」と言ったんですな。
「どうしてだ」と聞いたら
「戦争行ったでしょう」と言ってね
「ああ、行ったよ」
 
「学校の先生がそう教えた」っていうんですよ。
こんなバカバカしいことあるかと思いましたな。
 
(後ほど、もう少し内容を付け加えます
孫との対話から戦争の回想開始まで、どのような形で物語をシフトしていけばいいか
考えています。) 

ここから竹田氏の回想が始まる

 
「航空士官学校」 

最初は陸軍士官学校の分校として昭和12年、所沢に出来ました。
その頃の学生数は、100名ぐらいじゃないかな。

航空士官学校と名称が変わったのが昭和13年。
50期か51期の頃ですね。学校は入間に移転しました。


私たちは55期ですから場所は入間です。
航空はどんどん増えて、私達の頃で学生は600人越してましたからね。
6倍ですよ。それほど航空は急成長したわけです。

それでもパイロットは私達の頃で、そのうち160名ぐらいじゃなかったかな。
他は整備と通信ですね。

航空士官学校では
二枚羽の飛行機で基本操縦を習いました。

航空士官学校を卒業したのが昭和17年3月。
それから兵科が決まりますね。戦闘、爆撃、偵察と
各兵科毎に別れて実施学校というのがあった。

航空士官学校ではただ飛ぶだけでしたが、各学校では
それぞれの戦技を習います。

たとえば戦闘なら空中戦闘とか射撃とか、
爆撃隊なら爆撃や航法ですな。
そういう教育をするわけです。


戦闘機は明野飛行学校。
重爆撃機は浜松。
偵察は木更津か下志津の飛行場に。

そして私たち
軽爆は茨城県の鉾田飛行場へ。
鉾田飛行学校というのがあって、
いわゆる戦技を習う。軽爆、九九襲、および九九双軽を
習得します。


3月に卒業5ヶ月間か半年、各兵科ごとに
飛行学校で戦技を習って、そこを卒業したら
実戦部隊に行く。

そして支那へ渡ったわけです。
支那に渡ったのは昭和17年の11月の半ば頃じゃないかな。
飛行第90戦隊へ赴任しました。


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22:05


私たちの頃は航空士官学校は入間にあった。
航空士官学校が出来たのが私たちが入る三年ぐらい前。
50期か51期。私が55期ですから。
はじめて分校として出来たわけです。

最初は所沢に一年ぐらいおって、
そして入間に。
その頃の学生数はね、100名ぐらいじゃないかなあ。
最初。そしてどんどん多くなって。

私達の頃で600人越してましたから。

だから、5年か4年の間に5,6倍になってたと。
それほど急成長したわけです。

パイロットは私達の頃は160名ぐらいじゃなかったかな。
あとは整備と通信ですね。
私が士官学校出たのが17年3月。

17月の3月から五か月間。

で、明野の飛行学校に入隊して、明野では士官学校を出て
兵科が決まりますね。戦闘、爆撃、偵察と決まりますね。

戦闘機は明野飛行学校。
重爆撃機は浜松。私、軽爆でしたけど
軽爆は鉾田。茨城県にあるでしょう。
そして偵察は下志津。

偵察は木更津か下志津の飛行場に。
軽爆隊は鉾田の飛行場へ。そこに飛行学校というのがあって
いわゆる戦技を習う。軽爆、九九襲、および九九双軽というのを習得して。

各兵科毎に実施学校というのがあった。
航空士官学校では基本操縦をやる。二枚羽の飛行機で。
ただ飛ぶだけでしたが、各術科学校ではそれぞれの戦技を習います。


たとえば戦闘なら空中戦闘とか射撃とか、
爆撃隊なら爆撃や航法ですな。
そういう教育をするわけです。
そして部隊に行く。
だから航空士官学校出て半年ぐらいは
そういうことをやりましたね。

鉾田を終わって半年ぐらいかな。
そこがだいたい半年ぐらいかな。
終わって、中国に行ったわけですよ。


3月に出て半年だから
9月か10月頃、鉾田を出て
支那に渡ったのが昭和17年の11月の半ばごろじゃないかな。

 

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