戦後の暮らし
福岡に帰ってもやることないわけですよ、職はないし子供は居るし、
また困りましてね、で、なんとかして始めたのは菓子屋だった。
私の親類の知ってる人がお菓子を作ってたので
それを分けてもらって、自転車の荷台に積んで、売って
歩いたんです。お菓子というのは
いまの「おこし」ですな。雷おこし。
福岡のお菓子屋、ほとんど回ったな。
あの頃はまだ若かったですからね。
まだ22か3でしょ。
電気屋より、お菓子のほうが、儲かりましたよ。
卸に行くんですから。卸屋の店から。
庭で作るようなもんですからね。
こんな小さな「おこし」が当時、小売価格が2円ですからね。
卸すのも1円ぐらいで卸したなあ。
一斗缶に一杯入れて、朝飛び出したら昼にはもう
みんな売れてしまう。
その後は、家のすぐ近くだった
平和台球場の売店の権利を入札で買ったんです。
だから平和台球場が出来てから。、
野球がはじまったら女房と誰か連れて行って、
球場で商売をしました。儲かりましたね。それは。
球場ではパン売りもしました。こう箱をもって。
よく売れたですなあ。
夏場はアイスキャンディー売ってた。
アイスキャンディー持って売って歩いたんですよ。
もう、そうしないと。置いとったら溶けるから。
持って歩いたら、観客席の上から下まで歩くまでには
もう売れちゃうんですよ。よく売れましたね。
5万人入ったら5万円ぐらいは売れる。
もし観客が入って晴れればですよ。そのかわり、雨が降ったりしたら
えらいめにあいますよ。
仕入れた物どうにもなりませんからね。
翌日に野球やりませんからね。
アイスキャンディー、ひとつ5円のやつが10えんだったかな。
突然の雨でハネ(値引き)にしちゃったんだよ。
店が他にも4つか6つあって、そこから文句が来て
お前らのとこだけでハネされたら困ると。
結局大損ですよ。アイスキャンディーは溶けるからね。
そうして平和台球場で商売していたのが
昭和25年頃ですかな。今でも西武の大ファンです。
だから統幕議長になったときに新聞(夕刊フジ)にも大きく載ってましたよ。
「パン屋のおじさんに敬礼」なんてね
ここから下未整理
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よく生き残ったものですね。
戦争もそうだけど、戦後もね。
経済的、生活の上でね。
何回かもう、これは駄目だと思ったことありましたよ。
自衛隊に入る前は色んな事をやりましたよ。
◆
9月1日までは八日市の飛行場に居ったかな。
しばらくは滋賀県に居りました。
それからすぐですからね。結婚しましたけれど
住む家もありません。
だから大津の憲兵隊司令部へ行って、憲兵司令部には2晩くらい住んだかな。
ここを立ち退いてくれと言われて。
さあ、行く所がないということになってね。
私の先輩が大津に居て、
陸軍の司令部の人が、復員の色々な世話をしていて
一応、復員のホームが出来とったんですな。
その人の家が一部屋空いているから、
ここへ来いよと言われて、毛布と飯盒だけ持って行ったですよ。
そこでお世話になった。
だから私の新婚はそんな状況です。
◆
それからね、最初は滋賀県でしわ・・・なんとか産業っていう会社をね。
復員した軍人、244戦隊の者と、大津に居った当時の本部の人が
一緒で県の商工会で、しわ(しが?)産業で
払下げの車両を10両ぐらいを譲り受けたのかな。
トラックと、ガソリン貰って一ヶ月ぐらい商売しました。
そうこうしているうちに
そういうことは違法だということになって、解散。
トラックは滋賀県の三つの会社に分けて入った。
だから、一年間ぐらいは私はトラック会社の電気工だったですよ。
そうこうするうちに大津からあそこまで通うのも大変ですしね、
大津で先輩が小さな電気の会社を起した。小さな町工場でした。
大きなトランスを作る会社。
巻線ですね。それの手伝いです。
当時はそんなことは知りませんからね。
そして片腹で、その社長さんていうのが
これが見込みないしね、それなら私の先輩が東京で
良い職があるから来てくれないかということで、
◆
それがまた、いいかげんな会社で、
個人でやってる会社の社長さんで、阿佐ヶ谷の
焼け残りの大きな家だったですけど、その離れに住んでおりましたけれどね
住みづらいですけどね、焼け野が原の、阿佐ヶ谷あたりではそんなに
焼けていなかったですな。
その会社に勤めたんです。
しかしその会社はその人の顔だったですな。
各工場の妨害、警戒装置。ドアを開けたらベルが鳴るというような。
それを作って販売している会社だったんです。それのところに工事工で
働いて。だから、あの当時、浜松の日清紡とかね、2、3か所
やりましたよ。浜松。大きな工場の配線をして。
配線工。そして、最後に、線が切れたらベルが鳴るっていう、そういう装置を
それは、どっかの会社が作ったんですな。その会社はどちらかというと
バッテリーをうる(はいってる)セロイド、セロイドは当時配給だったんですな。
それを電気を作ることにして、むこうの墨田の工場でケースを作っているところに
横流ししているような、今にしてみれば、そう思います。
そういう会社に勤めてました。それで終わりの頃は
電気工でおわりです。
あとやったのは各工場で泥棒避けの配線をして
いまもあるんじゃないかな。私がやったやつじゃなくて
その会社のやつ。
通れば守衛さんのところへベルが。
にっしんぼう。
浜松の二つぐらい手前
にっしんぼうの工場で工員を。
「お前、飛行機に乗ってたんだから高いところ怖くないだろう」と言われて
屋根裏とか屋根の上とか、梁の上に線をはっていくわけ。
こわいけどしょうがない。
それは一年ちょっとですなあ。
◆
だから大津でラジオの組み立てくらいはやってたですよ。
あの当時はいいかげんだったですよ。叩けば直ったようなものでしたから。
配線がちょっとだけ外れとるとか、そんなのが多かったかな。
それで夜学に行きました。
苦労しましたね。
(米軍がラジオ買ってくれるわけですよね)
そんなに大げさなもんではありませんからね。
大津に居る頃も、やっと生活できる、と。
東京に来たら、その、やっとも危なかった。
配給の米を取る、金が無い。
給料払ってくれないんだもの。
もう、どうしようかと思ったですよ。
本当に。もうどうしようもないなあ、という感じですなあ。
私が中野に住んでいて阿佐ヶ谷に勤めていた頃ですよ。
もう、配給の米を買う金がないというので
当時まで軍人の服装で、いくらかになりましたからそれを売ろうと
思って風呂敷に包んでコートでしたかな。
省線に乗って阿佐ヶ谷まで行くと
夕方だったかな。
ちょっと来いというので袖を引っ張られて
その頃にはもう暗くなっていたな。警察が来ていて
行ったら、ちょうどそこいらで泥棒が入ったときがあったんですな。
だ、間違われた訳だ。私は。夕方にそんな大きな包み持っているから。
それでね、警察へ行ってこれこれこういうわけだと
話したら、社長が来てね、社長のうちへ連れてった。
そしたら、社長さんがこの人は元陸軍大尉だと言って
申し訳ないと。それだけで信用してくれたんですよ。
本当にね、情けないと思いましたね。
(お勤めは阿佐ヶ谷駅北口ですか)
北口。降りてすぐだったな。
あれはインチキ会社だったと思いますよ。
工員が二人だったか。
最初、大津のときが工員が私を入れて三人。
(先生、ラジオの販売で米軍がお得意さんだと)
日曜になると来てくれてね、
あの当時、なかなかラジオがなかったんですよね。
もう一人の方とね、京都の四条かね、卸問屋があって
そこへ行ってラジオを三台ずつ下げて帰ったな。
それがもうその日に売れちゃうような状況でした。
なかなか入らなかった。元が。
少ない時代でしたな。よく売れた。米軍が。
それが日曜のたびに来ますからね。
大津のどこかあっちのほうに基地があったんですな。
(占領軍を街中で見ていると思いますが)
居ましたね。大津には事務所がありましたから。
別に敵だったという感じは全然なかったですよ。
私はそれこそ電気に関係ありますからね。
電気のラジオ、いまでもありますよ。大津で一番大きな
お茶屋さんが。大津の一番華やかな通りに。
電気屋を始めた頃、そこに工場から行ったんですよ。
そこのお茶屋さんの店の社長というか、おやじが
退役の大尉だったですよ。元軍人ですね。
だから私らを知っているから信用して店のほうを任せてくれましたな。
当時はラジオなんか飛ぶように買ってくれたのは米軍だったから
良いお得意さんだった。
◆
最初は電気屋、電気屋といっても電気工ですな。
もちろんラジオの修理だとか、そういうのもやったけど。
変圧器をつくる、自分ではやらんかったけど
東京に来れば職はあるよということでやったけど
(ラジオをお作りになって、阿佐ヶ谷のどの辺りに居られたんですか)
住んでいたのは中野ですよ。中野の兄貴が居りましたからね。
駅の比較的近く、街は焼けてましたからね。
なんとか通り。鍋谷横丁か。あれに近いところですよ。
私の住んでいた家は、今でいえば乞食小屋みたいところ。
一戸建ての部屋なんてないですよ。バラックですな。
焼け残ったバラックに。畳はあったけど。
そこで一年くらいはやったけれども給料はなかなかくれないし
こんなところに居ったら駄目だと、子供も出来たから
福岡に帰った。
◆
◆
(目に見えて、日本が変わってきたと思われるのは朝鮮戦争の特需の頃ですか)
そうですね。
よく生き残ったですよ。戦後も。
-------------------
自衛隊に入る前?いろんなことやったよ。
電気屋、電気屋といっても電気工ですな。
もちろんラジオの修理だとか、そういうのもやったけど。
変圧器をつくる、自分ではやらんかったけど
東京に来れば職はあるよということでやったけど
あとやったのは各工場で泥棒避けの配線をして
いまもあるんじゃないかな。私がやったやつじゃなくて
その会社のやつ。
通れば守衛さんのところへベルが。
にっしんぼう。
浜松の二つぐらい手前
にっしんぼうの工場で工員を。
「お前、飛行機に乗ってたんだから高いところ怖くないだろう」と言われて
屋根裏とか屋根の上とか、梁の上に線をはっていくわけ。
こわいけどしょうがない。
それは一年ちょっとですなあ。
その前は、家が福岡の平和台のそばで
パン売りもしました。こう箱をもって。
よく売れたですなあ。天気がよければ。
3万人入れば3万円売れました。
女房と二人で。夏場はアイスキャンディーとか売ってた。
それ以来、西武ファン。
雨降りのときは大損ですよ。
アイスキャンディー、ひとつ5円のやつが10えんだったかな。
突然の雨ではねにしちゃったんだよ。
店がよっつかむっつぐらいあって、そこから文句が来て
お前らのとこだけではねされたら困ると。
結局大損ですよ。溶けるからね。
(先生は解散になって、すぐにこっちへ?)
すぐじゃありませんね。
9月1日までは居ったかな。
滋賀県に居りました。それからすぐですからね。結婚しましたから。
家はありませんしね、最初は泊まるところないですから
大津の憲兵隊司令部へ行って
一週間ぐらい居ったら、ここを立ち退いてくれと言われて。
さあ、行く所がないということになってね。
私の先輩が大津のしゅうせんしゅうりの
陸軍の司令部の人が、一応、ホームが出来とったんですな。
復員のいろんな世話する人の。
その人の家が一部屋空いているから、
ここへ来いよと言われて、毛布と飯盒だけ持って行ったですよ。
そこでお世話になった。
だから私の新婚はそんな状況で。
憲兵司令部には2晩くらい住んだかな。
それからね、最初は滋賀県で
しわ・・・なんとか産業っていう会社をね。
復員した軍人、244戦隊の者と
大津に居った当時の本部の人が
一緒で県の商工会で、しわ(しが?)産業で
払下げの車両の10両ぐらい売ったのかな。
それをもらって、ガソリン貰って
一ヶ月ぐらい商売しました。そうこうしているうちに
そういうことは違法だということになって、
解散。トラックは滋賀県の三つの会社に分けて入った。
だから、一年間ぐらいは私はトラック会社の電気工だったですよ。
そうこうするうちに大津からあそこまで通うのも大変ですしね、
大津で先輩が小さな電気の会社を起した。小さな町工場でした。
トランス。大きな。巻線。ああいうことをやって。
それの手伝い。当時はそんあことは知りませんからね。
そしてかたはらで、その社長さんていうのが
これが見込みないしね、それなら私の先輩が東京で
良い職があるから来てくれないかということで、
それがまた、いいかげんで、
個人でやってる会社の社長さんで、阿佐ヶ谷の
焼け残りの大きな家だったですけど、その離れに住んでおりましたけれどね
住みづらいですけどね、焼け野が原の、阿佐ヶ谷あたりではそんなに
焼けていなかったですな。
その会社に勤めたんです。しかしその会社はその人の顔だったですな。
各工場の妨害、警戒装置。ドアを開けたらベルが鳴るというような。
それを作って販売している会社だったんです。それのところに工事工で
働いて。だから、あの当時、浜松のニッシン工業とかね、2、3か所
やりましたよ。浜松。大きな工場の配線をして。
配線工。そして、最後に、線が切れたらベルが鳴るっていう、そういう装置を
それは、どっかの会社が作ったんですな。その会社はどちらかというと
バッテリーをうる(はいってる)セロイド、セロイドは当時配給だったんですな。
それを電気を作ることにして、むこうの墨田の工場でケースを作っているところに
横流ししているような、今にしてみれば、そう思います。
そういう会社に勤めてました。それで終わりの頃は
電気工でおわりです。
だから大津でラジオの組み立てくらいはやってたですよ。
あの当時はいいかげんだったですよ。叩けば直ったようなものでしたから。
配線がちょっとだけ外れとるとか、そんなのが多かったかな。
それで夜学に行きました。
苦労しましたね。
(占領軍を街中で見ていると思いますが)
居ましたね。大津には事務所がありましたから。
別に敵だったという感じは全然なかったですよ。
私はそれこそ電気に関係ありますからね。
電気のラジオ、いまでもありますよ。大津で一番大きな
お茶屋さんが。大津の一番華やかな通りに。
電気屋を始めた頃、そこに工場から行ったんですよ。
そこのお茶屋さんの店の社長というか、おやじが
退役の大尉だったですよ。元軍人ですね。
だから私らを知っているから信用して店のほうを任せてくれましたな。
当時はラジオなんか飛ぶように買ってくれたのは米軍だったから
良いお得意さんだった。
(ラジオをお作りになって、阿佐ヶ谷のどの辺りに居られたんですか)
住んでいたのは中野ですよ。中野の兄貴が居りましたからね。
駅の比較的近く、街は焼けてましたからね。
なんとか通り。鍋谷横丁か。あれに近いところですよ。
私の住んでいた家は、今でいえば乞食小屋みたいところ。
一戸建ての部屋なんてないですよ。バラックですな。
焼け残ったバラックに。畳はあったけど。
そこで一年くらいはやったけれども給料はなかなかくれないし
こんなところに居ったら駄目だと、子供も出来たから
福岡に帰った。
で、やったことは菓子屋だった。
やることないわけですよ、職はないし子供は居るし、
仕方がないから私の親類の知ってる人がお菓子を作ってたから。
いまの「おこし」ですな。雷おこし。あんなのを作ってた人
そこから分けてもらって、自転車の後ろに積んで、売って歩いたんです。
もう、福岡のお菓子屋、ほとんど回ったな。
あの頃はまだ若かったですからね。
まだ22か3でしょ。
(今はどこの街も画一化されて同じようですけど、その前、福岡の男は
気性が激しいですよね)
そうは思わんけどなあ。同じですよ(笑)
電気屋より、お菓子のほうが、儲かりましたよ。
卸に行くんですから。卸屋の店から。
庭で作るようなもんですからね。
こんな小さな「おこし」が当時、小売価格が2円ですからね。
卸すのも1円かなんかで卸したなあ。
一斗缶に一杯入れて、朝飛び出したら昼にはもうみんな売れてしまう。
(先生、戦後は経済的には困らなかった?)
いやー、困りましたよ。
(大津では米軍が買ってくれるわけですよね)
そんなに大げさなもんではありませんからね。
大津に居る頃も、やっと生活できる、と。
東京に来たら、その、やっとも危なかった。
配給の米を取る、金が無い。
給料払ってくれないんだもの。
もう、どうしようかと思ったですよ。
本当に。もうどうしようもないなあ、という感じですなあ。
(目に見えて、日本が変わってきたと思われるのは朝鮮戦争の特需の頃ですか)
そうですね。
だから私が自衛隊に入る前はそういう商売をしながらね
平和台、球場の売店の権利を入札で買って
だから平和台球場始まる前から知ってる。
私は家は球場のそばですから。
だから、昼間は、普通はそういうおこしを売ってたり
するんだけれど、野球がはじまったら女房と一緒に
誰か連れて行って、球場で商売を。
儲かりましたね。それは。
5万人入ったら5万円ぐらいは売れる。
観客が入って晴れればですよ。そのかわり、雨が降ったりしたら
えらいめにあいますよ。
仕入れた物どうにもなりませんからね。
翌日に野球やりませんからね。
夏場はね、アイスキャンディー、私も売って歩いたんですよ。
もう、そうしないと。置いとったら溶けるから。
持って歩いたら、上から下まで歩くまでには
もう売れちゃうんですよ。よく売れましたね。
(それはいつごろですか?)
昭和25年頃ですかな。
だから今でも西武の大ファンで。
今年は駄目だけれど。
だから新聞にも載ってましたよ。
統幕議長になったときに
大きく夕刊フジに書いてありました。
「タニヤ?のおじさんに敬礼」なんてね
よく生き残ったものですね。
戦争もそうだけど、戦後もね。
何回かもう、これは駄目だと思ったことありましたよ。
生活の上でね。
私が中野に住んでいて阿佐ヶ谷に勤めていた頃ですよ。
もう、配給の米を買う金がないというので
当時まで軍人の服装で、いくらかになりましたからそれを売ろうと
思って風呂敷に包んでコートでしたかな。
省線に乗って阿佐ヶ谷まで行くと
夕方だったかな。
ちょっと来いというので袖を引っ張られて
その頃にはもう暗くなっていたな。警察が来ていて
行ったら、ちょうどそこいらで泥棒が入ったときがあったんですな。
だ、間違われた訳だ。私は。夕方にそんな大きな包み持っているから。
それでね、警察へ行ってこれこれこういうわけだと
話したら、社長が来てね、社長のうちへ連れてった。
そしたら、社長さんがこの人は元陸軍大尉だと言って
申し訳ないと。それだけで信用してくれたんですよ。
本当にね、情けないと思いましたね。
(お勤めは阿佐ヶ谷駅北口ですか)
北口。降りてすぐだったな。
あれはインチキ会社だったと思いますよ。
工員が二人だったか。
最初、大津のときが工員が私を入れて三人。
(先生、ラジオの販売で米軍がお得意さんだと)
日曜になると来てくれてね、
あの当時、なかなかラジオがなかったんですよね。
もう一人の方とね、京都の四条かね、卸問屋があって
そこへ行ってラジオを三台ずつ下げて帰ったな。
それがもうその日に売れちゃうような状況でした。
なかなか入らなかった。元が。
少ない時代でしたな。よく売れた。米軍が。
それが日曜のたびに来ますからね。
大津のどこかあっちのほうに基地があったんですな。
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