◆◆
244戦隊配属
 
そして、明野を卒業して

昭和19年の7月か8月頃ですかな。
244戦隊に赴任しました。

そこで初めて乗ったのが三式戦闘機「飛燕」です。
これは部隊で初めて乗った。まあ、しかし飛行機の操縦そのものは
それまでと大して変わりなく、問題ありませんでした。

当初、244戦隊は三式戦闘機が12機ぐらいありまして、パイロットも
10名ぐらい。私は第一飛行隊先任将校、飛行隊長は私より一年先輩の中尉で
小松豊久さん(士54期)というのが飛行隊長で。戦隊長は少佐で
藤田隆さん(士40期)という古い方でした。

244戦隊で対爆撃機戦闘の訓練をやって、
昭和19年のおわり頃。244戦隊付きになりました。


で、11月1日にB-29が来たわけですね。
そのときは、戦隊長は、まだ藤田さんでした。

そのあとすぐ、私より二年先輩の小林照彦さんが戦隊長として
赴任してきた。小林さんは私より二年先輩の満24歳。

小林さんは、親近感と言いますかね。何しろ若い。
非常に部隊の士気が上がりましたね。

立派な方ですよ。
軍神何何という堅苦しさはない。本当に良い方ですよ。

小林さんは、私の兄貴の先任飛行隊長で。
3年くらい前、満州の飛行隊で家族的に付き合っていた。
奥さんなんか交流があってよく知ってますよ。

そして、11月28日以降は

戦隊長に小林さん
先任飛行隊長は私。(第二飛行隊-とっぷう隊)
第一飛行隊長は生野(そよかぜ隊)、第三飛行隊長は白井(みかづき隊)
同期生三人が飛行隊長でした。

私は先任飛行隊長ですから
なにかあったらすぐに戦隊長に呼ばれました。
あとは生野と白井、それが会って決めると。

その頃になると、戦隊の戦力というのは、飛燕戦闘機
36機ぐらい、あるいはもっと多かったかもしれません。

※小林照彦少佐の著書によると
昭和19年12月から20年2月頃まで飛燕の保有機数は
50機内外。総数55機。5機の予備機があったと記されている。

白井大尉のみかづき隊が宮城直掩。
だからあの付近から離れないであの付近を。

生野大尉のそよかぜ隊が荻窪から八王子付近上空。

私のとっぷう隊は富士山の北の大月上空が待機場所だった。
みっつに分けていました。

しかし終わりはそんなこと言っておれなかったですな。

いま考えますとね、早いこと
大月上空ということを内緒にしてこっちB-29がいるほうに
行けばよかったと思いますよ。
だからうちの飛行隊ははじめの年は撃墜なんかは無かったな。

成増の飛行隊もやはり、そういうのはあったと思います。
成増の47戦隊。


飛行第244戦隊長
昭和19年11月28日迄
藤田少佐

昭和19年11月29日、
小林大尉赴任。
20年5月15日少佐。


小林照彦戦隊長は、中尉時代の
昭和18年4月、飛行第45戦隊、竹田勇中尉(士52)指揮する第二中隊に
配属され、香港攻略作戦後、
満州国三江省湖南営、千振飛行場へ移動し
飛行第66戦隊と改称し、九九式襲撃機で訓練を重ねた。
(飛行第66戦隊将校写真あり)

18年11月、
竹田勇大尉、転出。戦闘機へ。
昭和19年12月より終戦まで
飛行第54戦隊長。19年7月~10月、北千島派遣隊長。
終戦時少佐。隼三型。
(飛行第54戦隊集合写真あり)




◆◆

トーキョーローズ追撃

昭和19年11月1日

一面秋晴れの青空ですよ。
キラーンと光る機影に、見事な飛行機雲ですよ。
それが東京上空に初めて姿を現したB-29でした。
高度は1万メートルくらいあったでしょう。

報告受けて、とにかく上がりました。
5000メートルぐらいから一旋回しながら上がって行く。

ところが7000メートルぐらいから上は
飛行機がさっぱり上がってくれない。

それから、あんなに西風が強いなんて知らないわけです。
気が付いたら、もう霞ヶ浦上空だ。
もう一旋回したら太平洋へ出てしまう。大変ですよ。

西へ西へと、B-29を追って行くんだけれども
西風が強いですからね。
後ろへ流されて飛行機がちっとも前へ進まない。

だから私がB-29を見たのは霞ヶ浦をすぎとったかもしれない。
東京よりこっちらへんで
B-29を見た人はいなかっただろうな。
もうB-29は東京の西のほうですよ。

やっと9000ぐらいまで上ったと思ったら。
B-29はスーっと離れていきました。

距離は500メートル以上はあったでしょうね。手も足も出ない。
仰ぎ見ただけです。敵機がそんな高高度を飛ぶとは思ってもみなかったし
追尾するといっても、フラフラしながらの旋回ですから追い付けない。
接敵しようとしますと失速しますからね。
どうにもならんかった。

太陽の光が当たって輝いて格好は良いしね、
凄い飛行機だなと思いましたね。

それまで想定していた高高度戦闘というものは
常陸の飛行学校でも訓練で経験していたけれども
せいぜい7000から8000ぐらいですから。それも2回か3回、
初めて酸素マスクをつけて飛行する経験をしたという程度で
編隊もなかなか組めないわけです。難しいですよ。
高高度では飛行機の馬力も落ちますから。

本当にびっくりしたですよ。学校で習ったことと全然違う。
とにかく1万メートル上がるのに
そんなことを知らんもんだから。

我々244戦隊の飛燕のほかに
成増からは鍾馗戦闘機隊が上がって
海軍の飛行機も上がったけれど

あの飛行機を攻撃した者は誰も居ないでしょうし
見た者も少ないでしょう。

◆資料

このB-29は偵察機型であるF-13Aで第3写真航空群の
機体番号42-93852、。後に「トーキョーローズ」の
パーソナルネームで有名を馳せた。

B-29(F-13A)はサイパン島のアイズレイ(イスレイ)飛行場を早朝に離陸。
13時頃、房総南端に現れた。電波警戒機は機影をキャッチしていたが
今までしばしば南方から帰還する海軍の哨戒機があったので
それと思い込んでおり、対応の遅れを招いた。

14時、帝都上空に侵入したB-29(F-13A)は
高度9800メートルから写真撮影を開始した。

第10飛行師団はただちに在空警戒中の武装偵察機および
戦闘機隊に出撃させたが、届かず
B-29(F-13A)は千葉から東京、川越、太田を経て利根川を下り
九十九里浜から南方に退去。
好天で1000枚以上の写真を持ち帰った。

機長のラルフ・ステイークリー大尉とその部下は
その功績を称えられるとともに、新聞で大きく報道された。
(写真あり)

日本が帝都上空への敵機侵入を許したのは昭和17年4月の
ドゥーリットル空襲以来である。


--------------
244戦隊は各飛行隊あがったけれど、
見つけて、追いかけて接敵しようとしますと
こちらはもう失速しますからね。

トウキョウローズが房総南端に現れたのは13時頃。
もちろん電波警戒機はキャッチしていたが
今までしばしば南方から帰還する海軍の哨戒機があったので
それと思い込んでいた。

B-29は千葉から東京、川越、太田を経て利根川を下り
九十九里浜から南方に退去した。投弾しないところより判断して
写真偵察であることは明らか。
師団はただちに在空警戒中の武装偵察機および
戦闘機隊に出撃させたのであるが
高度1万まで上昇して追尾することができたのは
偵察機2機だけであった。

「なぜ体当たりできなかった」

この日B-29を追撃した一機に
伊勢中尉および福田兵長の司偵機は
11月24日の空襲には遠く八丈島の東南方まで追撃し、
そのまま帰ってこなかった。

◆◆◆
B-29邀撃

12月のおわりから
1月のおわりから2月のはじめまで
私は浜松に行ったんですよ。
私(とっぷう)とみかづき隊は。

それで、そよかぜ隊だけ、戦隊で東京上空で
引き続き守ってた。

そういう形で1月から2月くらいまでですな。

そして2月か3月のはじめに私たちはみんな浜松に集まって
五式戦に機種改編したと。
それまでは飛燕。はじめから飛燕ですな。

それまでは244戦隊は九七戦だった。
だからたいしたことなかったんですな。

飛燕になって本当の戦闘隊になったんですな。

(ああ、この本にも書いてあった。3/10の東京大空襲の直前に
精鋭部隊が浜松へ行ってしまったんだと)

そのときは東京に帰って・・・と思うんですよ(不明瞭)

東京空襲の頃は、ちょうど五式戦に変わるというので
飛行をしていなかったと思います。
防空任務を解かれとったんです。

(3/10は?)

3/10は私、記憶ないんだ。
東京には居たと思いますが


(東京に居れば見えますよね。空襲だーと。)

あんまり覚えてないね。
あれ夜ですよね。

(夜です)

昼間は来ていないと思います。

(244は小林少佐が指揮官で、11月1日にはじめて東京上空でB-29を見た日に
これはもう体当たりじゃないと無理だと、既にそのときに言った)

ううん、そのときかどうかは知らんけどね。
体当たりしろとは言わなかった。
体当たりを覚悟で行けと言われた。

で小林戦隊長が最初にぶつかったんですな。

あん、まあ体当たりになっちゃったんですな。

私はご本人から聞いたんじゃなくて、ご本人の書いてあるのを
見たら。高度10000から11000でこうきたら、ぶつかったと書いてありますね
だけど本当に落下傘降下したんですから。

(うわ、凄い)

あの方は二回落下傘降下してる。
体当たりは一回ですけど、その次は戦闘機に落とされて
P-51がはじめて東京にきたときに。
大月の上空で落とされた。

私も夜、見舞いに行きましたけどね。トラックで。

(B-29は夜来ることが多かったですか)

初めは昼間。
夜間攻撃したのは3月頃ですな。
それか2月のおわりですな。

(東京上空の防衛は陸軍の管轄だった?)

うん、
だいたい3月から五式戦への改編がおわった。
だいたいめどがついたというので5月、いや4月頃か
244戦隊の任務で夜間戦闘もやりましたけど。

(実際に空中戦で撃ちあいしたのは)

まず12月はないんじゃないですかね。
こちらも少し高高度をとってね、12月何日かに来たときにね
関東地区の飛行機は全部上がったんですよ。
極端に言えばね。50-60機ぐらいはね。
いっぺんに上がるんじゃないですよ。一組ずつ交代しながらね。
160機ぐらい上がって1機も落とせなかった。

一機かなんかうちの戦隊で体当たりしたという話もあるけれど
ちょっとはっきりしない。

(先生は第二飛行隊長で?)

最初は第一飛行隊におったんです。
飛行隊付きですから。

希望を取る頃は第二飛行隊ですな。

(部下は何名ですか)

各飛行隊12名です。

(244戦隊は全体ではどれくらいですか)

12人が三つですから36人
それに戦隊長、戦隊付が三人ぐらいおったかな。
40名ぐらいおりましたな。

それから特攻は気の毒なのは
船にぶつかるのですね。

いっぺん決心したらいっぺんで終わりですよね。


もう、7機編隊なんていいますとね
こちらに向いている機関砲がね、確か、一機
12門だったかなぜんぶで。ぜんぶでですよ。
うしろのほうに向いているのはその一部でしょう。

7機とすれば12門で84門あるわけですよ。
その半分が後ろにむいているとして
40門むいているわけですよね。
向こうは遠いところからいくらでも撃てますから。

46:30

弾の制限もないですから。

そういうわけでぜんぶがぜんぶ成功するとは限らない。
あるいは前でも40門向いているわけですから。

47:00
むこうのほうが落ち着いて撃ちますよ。
すごいですよ。弾の数。

行きますとね、私も経験してますけど
前方から行きますとね

弾というのは真正面から見ますとね
だいたいがくっついたように見えるんです。
それが火の矢になって向かってくるんです。
その中に突っ込んでいく。

(恐怖感は)

考える暇もないですよ。
やらないかんというのがあるから。
怖いとか、あんまりそういうなのは考えないですな。

まだ、爆撃隊で進攻して敵地の上空へ行くまでは
任務が無事に終わるかな、とか、そういうこと考えることのほうが
多いですな。任務うまく回ってくれよと。
僚機編隊長から離れちゃいかんと。

戦闘機で突っ込むときはそんなの考えないです。

だいたい敵が撃ってくるやつは、はじめ橙色のがバーっと見えて
スーっとこういうふうに。

だけど、敵の戦果報告でもB-29は
485機やられてますから。

けっこうね、太平洋上で落ちたんじゃないかなあと
私は思うんですけどね。

(先生が撃破したのが太平洋へ出て行ってから墜落したと)

そうボロボロ落ちるもんじゃないですよ。

(先生はB-29を一回撃墜されて)

B-29の撃墜は一回。撃破は二回ですね。

(B-29撃墜のときは何人がかりで)

そのときは一人で。

9000以上で編隊なんか組めないですよ。

(それはいつですか)

1月。昼間。

名古屋に来たやつですな。

書いてあるでしょう。
そのとき派遣隊長しとって

52:02
〇〇??沖に敵が来たという
ラジオ放送が入ったんです。
NHKの。

その当時、B-29を受け入れたのは
大阪からくるんですよね。
何とも言って来ないんですよ。(大阪からは)

だけどラジオ放送はそう言ってるんだから、これは来るかもしれんと。
とにかく名古屋が危ういなと思ったんで
おおあし??上空で。

だからすぐに三飛行隊、みかづき隊ですね。
確か、待機甲???だったかな。????
あの当時???何分待機だったかな。
52:40

(そういう待機があるんですね)

それを交代でやってるからね。
みかづきがそういう隊だったような気がしますが
とにかくみかづき出動。

そして、私の飛行隊も出撃するかもしれんと
特攻隊に準備せいと言って
私は本部に言ってたからね、戦隊長代理ですから。
で、帰ってきて私は一番最後に離陸したんですよ。
戦隊の一番最後に。

浜松を出て名古屋に向けて。
そうしたら良い頃合いに一機。高度6000か、
あのころはもう9000じゃなかったですから。

偵察か報告か故障かはわからん。
けれどエンジン回ってましたからな。

それが降下して逃げ始めて。それをおっかけて。
撃って、相手も撃ってきますね。相手は一機ですから。
そうこうするうちに名古屋ほうが危ないと。

????
54:08

だいぶ高度下がってましたから、
たぶんあれは海に落ちたと思いますよ。

(B-29のどの辺を狙ったのですか)

あの当時は全般でよかったんです。
後方攻撃。

(後上方攻撃で?)

うん。

(火を噴いて落下して)

ちょっと煙を噴きましたからね。
どうせ、これは帰れんだろうと思って、
それよりこっち(名古屋)のほうが心配ですからね。

戦隊は名古屋のほうに行って。
うちの飛行隊はあがったけれどちょっと遅かったかもしれないですね。

先にあがったみかづきは名古屋で。

名古屋から浜松行くまでの間に何度も。

そういうことで、私はなんでもないんですが
私が表彰されて。

上げなければと、
命令違反的とはいわんけど、
命令なしにあがって戦果あげましたからね。
そういうことがありましたよ。

だから二機で攻撃してね、こう、テレビで見るようなのは
何回も攻撃するというのはB-29に関するのは絶対ないですよ。

一回攻撃したら下へ落ちるんですから。
いっぱいいっぱいですからね。そのままスーっと。

旋回して速度を付けて
よちよち上がって、また、二回目攻撃できれば運がいいという。
だいたいが一撃でいっぱいですなあ。

その第一波、何派でくるでしょう。
第一梯団何機、第二梯団、何機と。
この間が3分ぐらいあるのかなあ。

運の良い者は最初にやって、最後の編隊にもう一回
攻撃をかける、というのがあるくらいじゃないですかなあ。

私もいっぺんあがってにへん攻撃することもありましたよ。
だけどどうかなあと思いますね。

とにかく高度とるのが精一杯だから。9000ぐらいでは。

(一回の出撃の対空時間は)

1時間半ぐらいじゃなかったかなあ。
もう帰ってきたら燃料ほとんど無いですよ。

(ぐったりするんですか)

いや、ぐったりはしませんけどね
一回ぐらいじゃ。にへんもさんべんも上がってると
ぐったりしますよ。

最初の頃はね
昼間攻撃に出て夜きたことがあったな。

12月の終わり頃。

そのときなんかね、昼に2回あがって、夜も夜間飛行。
夜は3、4機しかいないから3回ぐらいは上がりますよ。
翌日はやはりこたえますな。

というのは今考えますとね
昼間は8000-9000でしょう。酸素はあるといえばあるけどね
当時はあまり感じなかったけど気圧も低い温度も低いわけですから、
特に気圧なんていうのはね、知らなかった。

いま航空自衛隊では高高度試験というのをやるんですね。
萎んだ風船を持っていきますと7000ぐらいからだんだん膨れ上がってきて
最後こんなに大きくなるくらいですから。

もう忘れましたけど、
血液がたぎってるわけだな。

航空服、宇宙服みたいなのは
本当なら着なきゃいけない、1万なら。

むこうは与圧されてるから大丈夫ですけどね。
圧力というのは堪えるんですよ。それを知らないから。

そのうちに昼飛んだら夜は飛ばないというふうに
命令はなったけど、3月頃だったかな。
最初は一日あがりましたからな。

(先生は邀撃戦は何回あがったのですか)

5、6回はあがってますな。
だけどぜんぶがぜんぶ敵機にぶつかるということはなかった。

敵機にぶつかったときは、あとのにへんは撃破だったけどね。
だからそのうち3回ぐらいしか射撃ができる状況になかった。

(三回上がって一機撃墜二機撃破ですね)

はい。なかなか撃墜は難しい。
というのはなかなか距離が詰められない。

1h-0:00

前方攻撃やりますけど、一回の場合は

???
21秒まで不明

射距離が
100メートルまで入っておりますね。
感じですけど

今考えてみますと
射距離より遠かったかもしれん。

なにせデカイですからね。
ただ、私が考えていたのへん、相手が撃つまでは撃たん。

そうそれば射距離はそう遠くはありませんからね。
相手も2000も3000もそう遠いところから撃ちはしませんから。

だから今考えてみると
相手が1000メートル以内で撃てば
私が1000メートル以内で撃ったことになりますね。
実際にはもっと近くから撃っています。

(B-29は無差別爆撃をして焼野原になっているわけですが)

下なんか見る余裕はないですよ。
私は東京の街があんなに焼けてるなんて知らなかった。

ときどき新宿に行ってたけど
夜だけ。昼間はほとんど行ってませんでしたから。

終わりの頃
中野に私の姉が居ましたから。
焼けとるなあと。

もうB-29をやっつけるという思いだけで
いっぱいでしたね。

住んでいたのは調布で、東京の街にはあんまり出ていませんからね。
焼野原ってのは見てない。

(パイロット同士でB公の野郎無差別にやりやがって、という話は)

そういう気分にはなってなかったな。

東京から通っておれば別ですけどね
あれほどひどいとは思いませんでしたよ。

私も一回、任務がなくて中野のおって
夜だったかな、中野の駅でB-29の攻撃されているのを見た。
まだ中野は焼けてなかった、あれは3月10日??ぐらいかなあ。

そのときは上がれないのが
悔しい。

だから私は恥ずかしいですよ。
飛行隊長でエースに入ってないですからね。

(B-29を1撃墜、2撃破されてますから充分では)

あとは戦闘機を1機撃破してます。
これもまた、あれも弾が出とれば撃墜しとった。

最初、試射をやるんですよ。最初出たと思ったら
そのあと、ピタっととまってしまって。

(相手はF6Fですか)

うん。

※?篠原インタビューによればF4U。

(火は噴いたんですか)

いや、もう戦闘一回終わって帰りよるやつですわな。
もうすぐそばまで行っとるんですから。

触れるぐらいの距離で、
10発ぐらい撃って、
そのまま落ちたかどうかはわからん。

あれは絶対に当たってる。
弾が出ない。そんなことがあるんですなあ。
はじめてですよ。

その後、飛行場へ帰ろうとしてる途中にやられたんですよ。
キャノピーに二つのコロがついていて、それでこう(動くように)
なっとるんですが
あれのコロに当たった。
で風防がパカパカパカパカやっとるのをこう手で押さえながら
帰って。

敵に後ろから奇襲された。あれはF6だと思いますね。
ああmり後ろはみてないわけですよ。B-29を探していたから。
それで後ろにいたんですからね。

五式戦だから助かったんですよ。
飛燕ならやられてますな。

ずっと旋回して、
むこうは失速してついてこれない。

こちらが優勢。

どうしようもない(火器故障)

そのとき戦隊から三国??の飛行場へ降りろと、
1h-12:44
八日市は爆撃受けてますからね。
だからみんなは三国に降りて。
私は八日市の飛行場へ降りた。

着陸する前になると???パカーンと落ちる。
1h-13:12

銃の装備のほうがすいみせんと謝ってたけどね、
どうにもならんですなあ。

あんなことがあるんですな。爆撃隊におるときでも
銃が故障なんてあんまり聞いたことがない。

(エースというのは5機撃墜したらエースなのですか)

いや、そういうのは無い。

エースというのは一番落とした人からつけるんですな。
ある本は。一番落としたのは
十何機落としたことになっとる。
一回の出撃でB-29を三回落としたというのも記録ではありますよね。

これはどうかなあとは思うけど何機落としたかは
申告ですから。

B-29は485機落とされてる。
うちだけじゃない。日本全国でね。

私は知らなかった。どこかのテレビの司会者が
日本爆撃で485機という数字がありますよと。

1h-15:00

なぜそう言うかと言うとね
あれだけ撃ってる弾だからね、弾痕が飛行機にないというのが
不思議ですね。だからよほどうまく回避ができるんだろうとは思うけど
なかなか弾痕が出てきたっていうのを見たことはないですね。

(先生、本土決戦をやるおつもりだったんですよね)

そうですよ。
我々、5月、我々も特攻命令受けてましたからね。
命令出てはいなかったけど。

あれは五式戦になってからだから
ちょうど切り替えの頃です。

機動部隊の艦載機か浜松なんかが来たんですよ。

関東地区の特攻隊と爆撃隊一個飛行隊だったかな。

それを攻撃するというので
関東の飛行隊がぜんぶ掩護すると。
244戦隊も

????

1h-16:55

成増

みんな特攻鉢巻もらって

殲滅できなければ、掩護機もみんな突っ込むと、みんなそう思っとった。
爆弾は積んでませんが、いざとなればもう。
特攻隊が成功しなければやろう、という腹はありました。

(先生はそのとき掩護で行かれて)

敵の軍艦目がけて行きましたよ。
我々も同じように鉢巻貰って、鯛の尾頭付き食って
赤飯が出たかな。特別待遇で。
特攻隊と同じ扱い。

とにかく空母を撃滅してくれと上から言われとるんですよ。

ところが空母は退却しちゃったんだ。

だから特攻隊の本隊も帰ってきた。
もし、あれをやっていたらうちの戦隊はぜんぶ突っ込んでいたでしょうな。
空母が来ておればね。戦隊長が一番に突っ込みますからね。
それを見たら帰れないですよね。
覚悟しました。

そのとき小林戦隊長は何も言わんで離陸しちゃっていたけど
その前の晩にご長男が亡くなっていたんですよ。

(それはなぜ)

それは本人も言わないし、我々も知らなかった。

それで調布に帰れないものだから
燃料ないから、ギリギリまで行ってますから。

浜松に降りたんです。全機。
そしたら、戦隊長の飛行機だけすぐ調布へ帰りましたからね。
なんでかな、と思って副官に聞いたら
実はこうで・・・と、それで知ったんですな。

だから戦隊長は長男の死に目にあえなかったか、ギリギリあって
出撃したか。

ひこうぐもに書いてありますよ。

(244戦隊は一番強かった?)

と思いますよ。
というのはね、一飛行隊で
少なくとも8機は持ってましたからね。
我々も。
3個飛行隊でしょ。24機。
そのぐらいありましたよ。

8:13

最後の戦闘は7月何日の戦闘のときは
20機ぐらいは上がったと思いますね。

私の飛行隊も8機かそれくらいはありましたからね。

だから飛行機が故障したりすると優先して部品をくれました。
戦死があるとすぐ補充があったりしてね。

(本土防衛の切り札だったんですね)

というように私は思ってます。
有名だったんですよ。最後は太平洋へ特攻で
突っ込むぞというような具合で。
最後の部隊と言われてましたね。
皆、そういう覚悟で居ったですよ。


(2701ファイルレコーダー1時間少しまえの辺り)

コンピューターでひいたら出てきますよ。
戦隊歌。
初音ミク?

話によれば小林さんは高度8000か7000で
そのままぶつかって。

まあ、そういうことで、いよいよ戦隊はB-29を迎えることになったのですが。

B-29がはじめてきたのは19年11月だったと思いますね。


11月1日の、

その次にまた、100機かなんか来ましたな。
一週間かそれぐらいかな。

このときも上がって戦果ゼロですからね。
だいたい攻撃した者のいなかったんじゃないですかね。
もしかすると、一機落としたかもしれませんがね。
記憶がありませんが記録を見ればわかるでしょう。

そこで、司令官が、戦闘機を軽くしようということで
後ろのコウバンをおろして

13ミリと20ミリの機関砲を持ってた。
それを下して、機関銃一ちょうか2ちょうにして、弾数を半分にして
とにかく重量を軽くして、少しでも上に上がることを優先して
考えたんですね。火力を落として

それで私は邀撃を。

私の部隊は1月に艦載機の攻撃を受けるまで
私の飛行隊は浜松に移りました。そこで邀撃を。
指揮は東京の隷下に入りながら、大阪の何か忘れましたけど
航空師団の指揮統制をうけとったような感じですね。
邀撃の命令は大阪が下してた。

はっきりしてない。今でも忘れましたけど。
そういうことで私の飛行隊は浜松に移動した訳です。

12月の終わりか1月の初めに浜松へ来ていたですね。
残りの部隊は11月に空襲があって、しばらくは
東京の防空をしてました。しかし11月に上がったのは
2回目3回目の空襲の時は、雪が降って上がれなかったということも
しばしばありましたね。

いずれにせよ12月は大きな戦果はあげなかったということです。

やっぱり発見が早くないとどうにもならない。
11月も攻撃はしましたけれど、私なんかは上がって、もうだいたい編隊を
組むのが難しいですね。

早く上がらねばならないということでスクランブルで上がりますが
飛行場一回旋回するぐらいなら二番機ぐらいならついてる。
ところがそこからだんだん高度が上がってきますと、だんだん遅れちゃうんです。
なかなか高度8000で編隊を組んで理想的な攻撃をしたりというのは
出来ない。

8000以上の高高度においてB-29の邀撃は非常に難しい。
早く発見して良い場所におって、たまたま正面近くなら正面攻撃を
かけるわけです。どっかで見つけてあっと、
追いかけて旋回しても、旋回すると、こう落ちますから。

しんてん制空隊も
上がっても体当たりできないという機械も何かもあったと思います。
本当にその都度悔しがってましたね。船にぶつかるのとは違いますから。
しかも8000以上の高高度でしょう。

運よく正面の良い位置におれば正面攻撃も成り立ったかもしれませんけどね。

そうこうしているうちに無理して後ろから攻撃して落とされるものが多くなりましたので
私の隊では後方からの攻撃は極力避けるようにと申し合わせましたね。

なにせB-29の編隊9機としますとね、後方から攻撃しますと
四門ぐらい向いてると思うんですね。
全部で一機が10門。後ろからもそのつど追いかけても、
編隊を組むと向こうは30何門向いてきますからね。戦闘機というのは、
負けますからね。後ろからおいかけて行って攻撃するというのは、だから、
前方攻撃にした。そういう状況のような邀撃戦闘でした。B29に対しては夜間は
別です。夜間になると別です。○○○…(聞き取り不能)。 撃墜効果はなかなか難しかった。
あの、本の広告によると、B29の損害は400何機となってますね。全部本土で落としたかは疑問に思う。
確かに迎撃は多かったと思う。必ず硫黄島まで追いつけなかったのは
結構多かったんじゃないかと思います。

でもいずれにせよ、撃墜は非常に難しい。お恥ずかしいけど、撃墜は一機
しかないんですな。二機は撃破ですね。あの、前方攻撃してもう二撃はかかりませんから、
煙を吹くのを見てそのまま○○○相当大きいですよね、B29というのはね。で、
射距離を誤るというりもあるんですね。
大型機を見てませんからね、そういう訓練をしてません。あの戦後に知ったん
ですが、B47、B27とか見て、でかいですよね。やっぱり私なんか、そういう
○○○においては、な○○○と思うんです。

特攻隊に、非常に恥ずかしかったなと思います。本当に対当たりするまでの覚悟で行けば、
或いは撃墜だったかわかりませんけどね、撃破でした。前方攻撃ではそういうような状況。
前方攻撃しましたからね、うしろから○○○。1対1で中々難しい。
テレビで見るように、高高度で2-3機で攻撃するのは、私は疑問に思う。
中々難しかった。物語では、次から次へとB29を攻撃する所、ありますね。
そういう事は果たして出来るかなと思います。
しかし、400何機か落ちてるという事は、あったんでしょうね。
私の経験では、変態攻撃をしたという経験はない。こう言うと御幣があるが、
なかなか変態を組むのが一杯。ひと旋回したら離れてしまう。
だが私の場合で言えるのは、

12月の戦闘、そんな事をやって、戦果はあるでした。本当に戦果あったのは、1
月に私の部隊、浜松に移動した時に、大阪を空襲されたんですね。私なんかは、
戦隊本部にいた話をした時に、空襲されて名古屋に向かってる。そういう状況がラジオで入った。
司令部から情報が入ってた。それで邀撃しようかどうしようかと、
戦隊長が直でそういう事で邀撃という事で、邀撃を各部隊に命じて帰って、
その時に2飛行部隊がいってたかな。浜松に移動してましたから。
1飛行隊は調布。私は上がって戦果を挙げる事が出来たわけです。
指揮系統がハッキリしないという事で、私に独断で邀撃したという事で、
部隊の感状の受け取りしたんです。褒められてですな。そういう経過が
ありまして私が名古屋に上がって、こう、6000か7000くらいですな。
私も6000。そういう事があって1機来た。 もしかしたら、やられてたかも知れない。 
1機だけ名古屋から来て、これを後上方攻撃で撃墜したとして、そういう状況で、
B29の昼間の邀撃は終わったという感じです。 
とにかくですな、だから華々しい空中戦闘の話をするような場面には、
私はおった事もないし、見た事もないですな。空中戦闘邀撃をしましたけど、
あの、そのB29の変態に巡り合うというのが難しい。
私の部隊は邀撃するというのを決めて、
私の部隊は大月上空に待機する。で、第2飛行隊が立川付近かな。
第3飛行隊が東京上空に待機すると、待機空域を決めた。ほとんど終わりの頃はそれ、
意味をなさなかった。私が浜松におった頃はとにかく早く8000に上がらないといかんという事で、
旋回しました。それで大月あたりでやっと8000になるというような状況だった。
それで中々巡り合わないんですよ。B29見た時には、○○○の方という感じでした。
私の部隊で浅野軍曹という人は、非常に目のいい方でしたけども、
確かそういう状況でも早く発見して前方攻撃でも効果を挙げてますよね。
そういう風に高高度の邀撃は難しい。高高度というのは、酸素が無いし、
私の感覚ではあんなに空気が薄いという事は知らなかった
。東京の第一回目の邀撃なんかは上がってちょっと1旋回すると、
調布くらいまで風で流される。250キロくらい出しちゃって。
東京は大月上空立川までいけるのが大変。ひと旋回して調布でも
旋回すると、流される。そういう高高度での特性を知らなかった。
だからしかも風防は開いてましたからね。空気抵抗ないかと。

もうくたびれて仕方ないですよ。考えてみたら気圧が低くなってそういう
状況下の電熱は通ってたと思うんだけど、寒かったですな。というような
苦しい戦闘でした。そういう状況下で戦闘は終わったと、B29の邀撃は終わった。
で、3月頃からうちの部隊は五式戦に変えて、最新鋭の戦闘機ですね。3月。
わたしの 記憶では。邀撃任務を解かれてたと思うんです。夜間の邀撃は
244いらんという事になった。

東京は上がったかどうか記憶が無い。東京空襲も記憶が無いですな。
一時邀撃任務を解かれた事があった。東京○○知らない。○○○の邀撃は上がって

そういう事で空中戦闘が終わって、私に
空中戦闘話のB29の為に、きわどい話は私は出来ない。いま考えれば射距離が遠かったろうな、
とは思いますけどね。ま、正面ですから怖いですよ。体当たりの覚悟で行くとはいうものの、
今考えてみれば○○なところがあったんですね。エンジンの撃破した。火を噴いて落ちていく
というのはB29○○という事です。なかなか難しいですよ前から行くのは。 だからね本当に
撃墜の勇ましい話は出来ない。そして、難しいという事だけはわかりますね。後方からなる攻
撃はまだいいですが。機関銃の差は、3対1か4対1か、もっと差があるかな。ですからしかも、
同じくらいの速度で物凄い接近できると射撃する○○は、同じ○○非常に難しい。玉数が多い
方が洋裁みたいになるわけだから。中々テレビみたいに華々しい戦闘はないですね。私の体験
記ありませんという事です。
話は戻るけど、移ったのが5月の初め頃。5日頃か。
いよいよ機動部隊が東京湾近く、遠州灘まで来た、と。
全部特攻とは言いません。特攻隊に特攻命令出た。関東地区所在。関東から浜松の全機です
ね。それを足して飛行部隊。二つは縁故゛するという事で。5月の始まり。
いわば準特攻ですな。私も覚悟はしてたから。東京来てからま○○○いよいよ最後かな。
という感じで出た事もあって、日の丸締めて行ったわけですから、覚悟はしましたね。
だけどまだ、体当たりしてはいけないという命令でもないから。

うちの戦隊長だったら、空母がいて、(自分達が護衛してきた)特攻が成功しなかった
ら、特攻したでしょう。そうなると我々も、戦隊長が特攻してるのに知らんふりは出来
ませんから、特攻はあつたかな、と覚悟した。
そしてギリギリまで飛んで燃料なくて浜松に不時着して翌日立帰ると○○準特攻ですな。
特攻隊、大変です。そういう事でそれで沖縄やられたから邀撃に不利だから、うちの部隊
は内地に帰って戦力を復興しよう、と。 あ、その前にその前後だったか、知覧が攻撃を
受けた。うちの部隊が担当してた時に受けた。
空襲があるらしいと情報が入って、4機だけえんたいごうから出て、飛行場なんでスクラン
ブル出来る体制取ってた。うちの部隊が担当してた時に受けた。F6Fとシコルスキー空襲し
た。その時に4機離陸した。離陸して、4機編隊で飛んだ。まだこっちは2000メートル。
2000メートルの時に敵は4000メートル。大変だから向こうからこちらは避けながら高度
取ったから、前を取ろうとした時に向こうは攻撃した。攻撃機きた時に私はこっちに二
機いるからこれを回避しながらこの二機これをはさんでやるのが、ロッテの戦法として
そういう訓練してたきたから私、回避した。もちろん、二番機も回避した。二番機は回
避がうまくいかなくて撃墜された。私、この二機○○○。私はこれがまことに残念。あ
の時にこっとにちょっと回っておけばなあ、という気が今、しますけど、その時の状況
では「この二機が有利になる」という判断したのがまずかった。○○をする。この二機
が上に上がって回避する事が○○○いかないと思うけど、今になって申し訳ないですね。
そういう事あって結局二機落ちた。
だけど私の僚機はそこで○○○。当時の戦闘機は編隊で戦闘する事を主としてた。単機
戦闘より編隊戦闘を重視する。
そういう行動したけど、考えてみれば○○○。こういう風に複雑な攻撃をしてれば助か
った。いずれにせよ、この両機は落とされた。会費をもうちょっと内側にしてくれたら。
まあ、部下に守られたというのが真実。それからその前にやはりこれは我々が変態訓練
をしてたのかな。うちの飛行隊が8機で上がった。1番機から2番機3番機4番機と、こう上
がったら空襲警報が入った。
用心しながら行くと、前を敵のF6F、Pサンパチだったかな。サンパチもあった。2000か
ら3000。バンセイの飛行場に来た時に私が見つけた。高度取っている時に、私はもちろん
後ろを見ているけど敵の方に集中してた。で、私の4番機がこれ、戦闘がうまい。朝の奇襲
された。高度5000くらいで。酸素マスクをつけようという時にちょうど奇襲された。私は知
らなかった。まったくの奇襲。○隊長3番機すぐ追いかけて撃墜した。私は知らなかった。
私の二番機 平沼さんという商工会長ですが、この人は撃墜を見てたという事で今でも言
う。降りてきて初めて知った。情けない中隊長だったなあと後悔してる。
失敗もあり、これやはり、無線通報を厳重に警戒してたから、ちょっとそれにとらわれ過
ぎた。「左だ」と言えば、お互いに連絡出来た。本当に奇襲を受けて、申し訳ない。我々は
無事に高度8000取って、そのまま待機していた。時間来たから降りた、という恥ずかしい
戦争もあった。そして沖縄の戦争が終わったので、私は戦力回復の命を受けて、「お前達
は本土決戦の時に最後の体当たりをする部隊だけど邀撃の練習をする」という命令。戦力
回復というか、戦力保存の命受けて、その時に、7/12かな。敵の機動部隊が出て来てるのは
知ってた。大阪の司令部は何も言ってこない。どうしようかと、私に相談あった。そして戦
隊長に、「訓練と称して上がっていよう」と、上がった。早くから準備して8時か9時には離
陸して、情報が入る前に離陸して、こちらは12機いたかな。20機近くいた。変態訓練をす
ると、空中集合して大きく旋回してて、下から警報が来た。もう一回旋回したかな。高度
を更に取っている時に、相手はこっちを知らないから、飛行○○に攻撃。
それでこれが我が方が奇襲した。一番下にいる戦隊長。第一飛行隊。一緒にやって戦果挙
げた。
私の部隊は一番上だから、警戒ですね。警戒して戦果挙げた。相手は12機、こっちは20機。
全機落として、1機撃破かな。私は一番上だから、いよいよ攻撃という時に、無効のバラバラ
になった戦闘機の1機がいた。そこで攻撃して、向こうは全く私に気付いていない。で、攻撃
した。パイロットが見えるまで近づいた。弾を撃ったら弾が出ない。これで引き上げ。解散
。上に上がって、点検している時に、風防が取れた。ふっと後ろを見たらつかれてる。さっき
の飛行機ではない他の奴。
上昇して…。あれが三式戦ならやられてる。五式戦は上昇力が良かった。向こうが先に失速し
た。私は○○○弾が出ない。全部、みくに飛行場に無事着陸する時、私は○○○。帰ったら第
二波が来た。空襲を受けて私の飛行機はロケットでやられた。えんたいにしまう前にやられ
て…。そういう残念な事があって、それで終戦になった。

Q本土決戦はするつもりでしたか?
A我々はそう思ってました。

Q勝つと思ってましたか?
Aいや、勝つとは思ってなかった。引き分けには持ち込める、と。 いやあ、それは、
負けても向こうにも損害が出る。
戦闘に止めてくれればいいかなあという希望を持っていた。

Q三式戦と五式戦の特徴
A特徴は感じません。そんなに違わない。。しかし、多少やっぱり五色戦の方が良かった。
三式戦は、本では油漏れがどうのこうのと言うけど、私はそういう風には感じない。空中
で重油故障事故というのは、何回も無い。五色戦は武装が良かった。本当は変わらない。
もちろん進んでるよ。スピードもいくらか速かった。バーッという○○それほどしてない。

Q軽爆と三式戦は
Aそれは違います。軽快でしたから。

Q色んなのに乗られたけど、そんなに違うわけではない?
A97戦と隼となると違う。隼も脚入ったんじゃないかな。97戦は脚が出てました。
97戦は本当に自分の体から羽が生えた感じ。思ったようになります。しかし、何
か頼りないですよね。ちょっと風が強いと地上滑走でもぶつかる。だけど、隼に
なるとそれは違いますね。ドッシリとは言わんけど。そりゃ、P40の方がドッシリ
してるけど、米国の飛行機と違ってペラペラという感じはする。
97戦と一式戦では違う。だが、スーパーチャージャー持ってなかったでしょうな
。だから高高度性能が低い。97戦にスポーツのゴルフ用○○いですよ笑

Qちょっと聞きにくいけど、海軍は米国に負け、陸軍は負けてないと思う。
先生もそういう意識がありましたか。

Aまだ、一合戦できるという意識はありました。というのも、うちの部隊は恵
まれていたというのもあると思います。244は皇土直衛部隊という事で、故障機
が出来ても、優先してくれて、そういう事でだいたい20機以上配置。
栗林(?)戦隊長が来た時は50機くらいいたんじゃないかな。
最近読んだのに書いてあった。
知覧に動いた時も五式戦で30機近くあったと思います。ハツキリしない。い
ずれにせよ、30機はあったと思う。
うちの飛行隊だけで12機あった。常に12機。正規の編成が12機だから…予備機
が少しあるから、12としたって、3個編隊の36機。それに戦隊長が4機だから
。それ位だから、40機はあったと思います。

Qそれは全部五式戦。
Aですよ。「そうこしょう(?)」の飛行機じゃない。


Q永遠の0。パイロットは凄いと…
A凄い

Q何十機対何十機は本当にあったか
A我々は果たして本当にあったのかな…。
運がいいなと思いますよ。3000機4000機を一人で落としてるでしょ(??)。
だから、一合戦やると10機20機落とす場面が第一。
あの当時は大編隊と大編隊がぶつかるんでしょうが、感激…感嘆する他は無い。
陸軍のB29の攻撃で一回上がって3機4機落としてというのは、ちょっと…。
まゆつばな気がする。まして高高度の戦闘で夜間でも○○○というのが時々
あるけど、多少ウソとは言わんけど、「そういう○○あるかな?」と思いますね。

Qゼロ戦は高高度を飛べなかったと言いますね。
A高高度と低空の戦闘、全然違う。当時の飛行機なら。ジェット機なら…。
まあ、それくらい、特に凄いなと思うんですよ。そういう方。それは噂や書
かれたのを読むからね(?)
実際に戦って乗ってみて、

忘れましたが、こんなに綺麗じゃなかった。
迷彩で。
みなこういう風にしてました。

この赤線は入ってなかったな。

Qご自身の機体には赤線は入ってなかった。

戦隊長だけですか。

いや、戦隊長もこんな赤線は入れてなかった。
尾翼が赤いだけで。まあ、いいですよ。

一式戦、二式戦、三式戦、

で、四式戦だけ経験がないと、いうことでよろしいでしょうか。

そうですね。97戦から始まって、一式戦、二式戦
三式戦、五式戦、四式だけなかった。

Q一式、二式、こっちが一撃離脱で、こっちが旋回性能と。

Aまあ、旋回性能というのは一式のほうが良いでしょうね。
だけど、実際にやったことはないけども、なにせ
軽いですからね。スピードは二式戦のほうが速い。当然。
着陸の速度も10キロかそこら多かったと思ったな。

一式戦の操縦者はちょっと乗り換えると苦労したと思いますね。

だけど飛行機は飛行機。変わったことはない。
ただ二式戦は重たいから突っ込みがあるし、速度も出ます。
なんとなく重たいという感じはします。

Q特徴をいかして戦法を変えたりは

それはないですね。
同じようにやりました。

Q、一式戦のほうが小回りきくでしょうな。
九七戦になったらもう本当に自由自在な。


三式は水冷ですからね。ちょっと使い方が違う。
だけど操縦そのものは変わらないですからね。

離陸の時ちょっと前が見えないだとか
長いですからね。だけど飛行機は飛行機。
ただ水冷と空冷となれば、水冷のほうが事故は多かったでしょうな。

特に三式戦は事故が多かったですね。特に南方では。
水漏れ、油漏れっていうのがありました。

Q着速が速いのではないですか

着速はそう変わらない。二式単戦のほうが速い。
五式戦が一番良い。

五式戦がもう少し早く出ておればね
だいぶ高高度戦闘にはよかったと思います。
やっぱり8000メートル以上になると
二式戦も三式戦もね(ダメで)四式戦は多少は良いかもしれないけど
8000以上はね、難しくなる。もう1万以上になると
編隊が組みにくかったですなあ。もう1万メートルになることには
バラバラですなあ。編隊組んでやっとのときはついてるけれど
1万メートルで9機編隊なんてやったことない。
2機でくっついて動けるのが精一杯でしょうな。ちょっと旋回すれば
失速するんですから。

8000から8500、位ですよ。まだやれるのは。

高度1万でB-29を迎え撃った

もう攻撃と言ってもね後ろから攻撃なんて8000-9000なんてできないですな。
というのは9000で攻撃しようと思ったら10000で待っとかにゃならない。
もうフラフラですよ。1万では。ただ、よっぽどいいときに
運よく前におればできるでしょうけどね、それでも
前からやるというのは

確か戦隊長が体当たりしたというのは、ご本人が書いた本では
B-29が9500か400。飛燕が10500から攻撃かけて。

それでなんとか、こういうふうに。
最後は舵聞かないですよ。失速状態の突っ込みですからね。

1000

まあ、舵はきいたかきかないか知らないですけれど
思うようには動かない。
戦隊長で体当たりしたのは小林さんしかいないでしょう。

ご自身が攻撃された模様を教えてください。

それは何回もありますけれど、
私はお恥ずかしいけれど戦隊の中でそんなに撃墜王と言われるような
ことはやっておりません。
当時はみな事後報告ですからね。

私は撃墜は一機しかないんです。B-29は。
1機しかないんです。撃破したのは2機。

あとは戦闘機は撃破が一機ありますかね。なかなか撃墜というのは
難しいですよ。

そのとき(撃墜)は私は単機ですよ。
だいたい8000メートル以上で映画に出てくるような
4機でお互いこううやって、できないですよ。

だいたいね、邀撃戦闘で、2機ついているというのが
よほど良い条件ですよ。もうバラバラです。

上がってゆくスピード、飛行機のちょっとした馬力の差(僚機)で
旋回させるとついていけなくなる。8000以上で編隊組むのは難しいですね。

ちょっと旋回すると落ちるというような状況ですからね。
もう一万なんていったら一人でフラフラ飛んでいるような状態です。

Q、その一度撃墜したときはうまい具合に

これはもう、相手が海の方に帰っていくやつを、撃破されていたかもわかりません。
高度5000くらいだったですかな。追いかけて行って、

8000以上で来て、
10機落としたという報告もある。
だけど、誰もそれを見ていないという。
だから10機というのはよく落としたなと思うけれど
なかなかそういうチャンスはないね。一回でですよ。一回の邀撃で。
難しい。一かいの邀撃で、だいたいそれだけの弾があるかな、
というようなこと心配ですけれど、それでも来たらあがりますよ。

Q2機の撃破をされていますが、どういう状況で

編隊組んで、前方法で、こう、
ほとんど前方から。そしたら煙はいて。
おっかける暇ないですから。次が来ますから。

Qどの辺りを狙うのですか

胴体の真ん中狙うと、
結果的にはエンジン四つありますからな、それのどっかに
当たったんでしょう。

あれで、どれくらいだろうなあ。
250キロから300キロ同士くらいでこうぶつかる。

とにかく5機6機、7機編隊になりますとなあ
雨あられですよ。飛行機から撃ってくる弾を見たときは
翼端からこうパパッと避けて行く。
夏みかんをパパッとさくみたいな、それが距離近付くと
火の玉のような、よく絵に描いてありますが、

なかなか体当たりするのも難しいです。
ただ、大型機の編隊は簡単には回りませんから。
そういうわけで、邀撃は、高度さえあれば落とせるんですよ。

8000-9000になるとこっちはフラフラ。
むこうはゆうゆうと飛んでいる。

こちらが1万で、むこうが9000くらいなら、まだやりやすいですね。
お互い9000で真正面におればいいですよ。
離れたところにおれば、もう旋回しているうちに落ちていきますから、なかなか
前方攻撃は難しいですよ。


Q、それが五式戦だったら随分戦えた?

随分はないですね。いくらか、ですね。
五式戦で邀撃したことはないけども、たぶん、よかったろうと
思います。性能はよかったから。

五式戦で邀撃は一回かな。
ほぼ知覧におって攻撃任務に使いましたから。

五式戦で相手した戦闘機はF6Fか。もうひとつは
F4Uか。

前だけでも少なくとも4門は向いている。
それに9機編隊だと36門向いている訳です。

こっちは2門位ですからね。
そういう状況ですから
一瞬の間ですからね。

火砲が向いて、高度を取って
良い場所にあるといい訳です。

うちの飛行隊は、10機も落としたのは居なくて
6機か7機か。

Q戦闘機というのは

私が落としたのはF6Fかな
艦載機。撃破。それは。そのとき弾が出なかったんだ私は。

試射したときはちゃんと出たんですけれど
いざ攻撃したら故障なんです。10発ぐらいでたと思ったら
撃破したと。敵機は白いの吹いて真っ直ぐ行ってるんだから。

それでそのときには弾が出なくて残念だったけど
ひきあげるときに今度は私の方が
敵の飛行機から弾があたって。それがたまたまね
昔の五式戦ですよ。

風防の端に、これに弾が当たっていた。

不時着は何回もしましたよ。
不時着はもう。田んぼとかなんかにね。
落下傘降下もしました。

B-29は撃破はもう一回ありますな。

うちの飛行隊で一番落としたのは7機落としたのが居りますよ。
要するに、良い時期に良い位置で、発見が早いということで
必要なんですね。
自分が1万メートルの高度をとっていればなんとかなるでよう。


特攻隊員でない者で体当たりしたのは戦隊長くらいで。


昭和20年7月、
後ろの位置(斜め上後方)について、あれは当たらんはずはないです。
ただ、弾が出なかった。ただ海の中に落ち取るとは思うんです。
それで今度自分がやられて。


(こせきゆうじ慰問の際、先生は)

おりませんでした。戦隊長は居たと思いますが。
なんか、漫画描く人と一緒に来たと思います。

※篠原
フクチャン?要調査

調布で。

244戦隊歌は知覧へ移動して
夕方に放送されたのと

戦後、5、6名ぐらいのグループ(プロ)が
歌うテレビの企画でやりました。

244戦隊の小隊長だった芥川やすしが
譜面をおこしたと記憶してます。

youtubeと
初音ミクの話


櫻井さん
あの人詳しく調べてるけど
あの本ができたとき私に一言もなかった。
なんで私に話聞かなかったかなあ。

部隊がいちばん隅だったから写真が少ない。

戦争中は244戦隊、東京の人は知っていた。
もうみんな亡くなった。


(宮城直掩隊があったのですよね)

飛行隊でそういうのを決めた。
練馬の飛行隊もやはり、そういうのはあったと思います。
練馬の47戦隊。


知覧の記念館の出口には
244戦隊の戦隊長命令がありましたよ。

自衛隊の軍楽隊に
戦隊歌、街を回るときは難しいとしても
部隊の中なら演奏してほしいですなあ。
加藤隼は有名だけれど、それをやるなら飛燕も。

戦隊長の副官は調布にいますよ。
健在です。川田静二。入院してるでしょう。
去年は年賀状の返事こなかったなあ。

それから荻窪に斉藤さんという
お医者さんがいます。この人生きているかどうか
わかりませんが。


そのあとすぐに浜松行きましたから
B-29の邀撃のときにはあんまり働いてない。
敵と遭遇しない。

冬場ですから西向きに上がるでしょう。
西向きに上がったら旋回なんかしないで真っ直ぐ大月へ向かいましたから。
あれが富士山だと。

宮城直掩隊はね、上がったらすぐ旋回してきて
宮城行きます。だから敵に遭遇するチャンスが多いんです。
だから三飛行隊は戦果が少ないんです。

そのうちに撃墜数を描くようになって

私は撃墜1。撃破はあるけれど。

発見するのが難しい。
そしてその位置につくことが難しい。

戦果そのものも
昔は写真を撮ってきましたけどね
その頃は報告ですからね。
戦記なんか見ますとね、一回に上がって3機撃墜なんて
考えられないことですね。
高高度邀撃では。弾の数も100発ぐらいなかった。
難しいですよ。

(飛行機は個体差ありましたか)

整備状況によります。
良い飛行機は上昇速度が速い。

隊長の飛行機は良いの取りますから。
だんだん、9番機ぐらいになると、
ちょっと精度の落ちる飛行機がまわってきますから。
敵機と遭遇しても、上と、残念がってるのいっぱいおりました。

高高度は。

(当時から飛燕と言っていたんですか)

言ってた、飛燕と。

五式戦はそういう名前がないからキの100かな。
呼び方は。

飛燕は飛燕ですね。

戦隊歌も原曲はNHKにあると思いますよ。

(五式戦にのりかえて知覧へ)

五式戦にのりかえたのは5月ですな。
3、4月は邀撃をしなかった。温存で。
244戦隊は最後の砦という考えが中央にあったんでしょう。
邀撃禁止ということになって。

(知覧では特攻機の掩護ですか)
20:00

うん。

いや、最後は突っ込めと言ってきましたよ。
30?飛行師団で。
敵の本土上陸のときは。

(それまでは掩護で)

ええ。

はっきりは言ってこなかったですよ(特攻)
内心そういうことがあるなと思ってました。

244戦隊は機材も優先してくれましたし。

30?飛行師団というと特別な飛行師団なんです。

直轄の部隊になって。あれは2月の・・・?

最後の8月も邀撃は禁止されていましたでしょう。
それを私、戦隊長に呼ばれて、
どうしようかと言うから
「演習しましょう。演習」

そういう名目であがった。
機動部隊が近くに来てましたからね。

それで最初は怒られたですよ。
命令違反だと。

戦隊長、すみませんと謝ったわけ。
私が戦隊長にやりましょうやと言ったから。
私がやろうと言ったら各飛行隊長も続いたから。

そうしたら、ああいうことになって後で酒持ってきて(笑)
みんなざまあみろといわんばかりに。

しかし中央にしてみれば、それだけ最後に残そうという
計画だったんでしょうな。

だからうちの部隊は機体も良いし
部品がなくても優先してくれた。

23:27

(特攻機直掩の話ですが)

戦闘機同士の戦闘は
私は一回、知覧でやって
コルセアだったと思いましたね。

待機命令、出撃命令がなく
急に行けということになって。

あがったときには、遅かったんですな。

あがってすぐ、むこうが来たんですよ。
こっちはまだ1000メートルぐらいしか高度をとっていない。
こちらは4機、むこうは2機。

とはいえこんな状況で空中戦やったら不利なんです。

ロッテの戦法といって2機ずつわかれて
はさみうちするというのが考え方であった。
当時の原則から言うと
外側の2機に攻撃をかける。

私の2機が編隊に攻撃をかける、当然回避しますよね。
くっついて来れない。撃破。私も回避。

???

32:44

2機、2機、2機で、
もう2機はひきづられてるけど、
私が追っかけてるから、それで2機落ちた。
だけど僚機の山下君、2機落としたのは私だけど
彼も一機落としたと報告した。ご遺族にはそう報告した。
2番機。

ふつうなら後ろの2機に攻撃かけるんですが
むこうもきがつかなかった。

あのときもうちょっと早くあがっていればね。
私がみたときはもうこれですからね。

山下君なんかも本当にいい人だった。
ご遺族に戦果の報告して、本当に彼が落としたようなもんですよ。

あさの曹長、優秀なパイロットでした。
??戦隊で演習をやるときに
37:13

早く敵機を発見する演習というのを私が赴任する前に
やっていたですよ。

いつも一番に敵機を見つけるから
なんでそんなによく見つけるんですかと聞いたら


(無線のやりとりなんかは)

たかげたはけ、といったら高度5000以上だったかな。

からかさやっつというのはちょっと記憶にないなあ。
あ、高度をからかさと言ってたな。

そうだ。からかさだ。8000以上でしょうね。
8000以下では駄目だということでしょうな。

(写真について、先生の写真が少ないですね)

この記者連中は三飛行隊ばっかり撮ってた。
生野は多いですね。私の飛行隊は司令部のそばのそよかぜ。
四宮と一緒のそよかぜ。で、第二飛行隊長が転任したから
第三飛行隊とあ、第二か、それと特攻ですな。
それが一番奥に。東に。離陸も一番最後。そよかぜ二番目。
だから邀撃に影響するんですよ。うちの飛行隊は戦果が少ない。

いま考えれば、離陸してひとせんかい、ふたせんかいして
東京をまわっておればよかった。

当時わたしは真っ直ぐ真西に行って大月上空ではまだ1万は取れませんね。
まだ8000ぐらいで。

(244戦隊は何機ぐらい稼働機が)

終戦の時に20機はあったですよ。
もうちょっとおったかな。8機の3かけるから
24機かなあ。

27:00

昼間は高高度ですから、効果がないんですな。
東京みたいな都市をあるていどやったほうが戦争を早く終わらせると。
夜、低空で爆撃したほうが命中率もいいし。
火災になれば、東京を焼けるというので。夜間。

私も夜間戦闘は三回。
天気が悪いのでどうかなと思って私の飛行隊だけ上がった。

夜間に使うのは
各飛行隊4機ですからね。

で、私の僚機は離陸直後墜落ですよね。
天気悪いのに無茶ですよ。
調布付近はパラパラ雨が降っていた位。
それで上がって、一(ひと)旋回した頃
ぜんぶ雲に覆われちゃって、それでわからなくなっちゃって。
他の飛行隊は離陸してない。私の飛行隊3機(残り)で
こっちだろうという方向に行って
海上に出て、雲の下を這って帰ってきた、そういうことはありますよ。

だから夜間飛行というのは、なにせ照空灯(サーチライト)が使えないと
攻撃できないんですな。

本当は東京上空は入っちゃいけない空域になってはいたんだけれど
そんなこと言っていたら邀撃できませんからね。

照空灯があるところに高射砲、この二つで落とすというのは
基本なんですよ。

だから私の飛行機が敵か味方かなんてわかりませんからね。

だから高射砲の方としては射程に入るな、とは言わなかったけれども
近寄らないほうがいいような調子で、我々はそんな全然気にしてなかったですけどね。

で、夜間戦闘では、計器飛行・・・
その当時は日本の戦闘機なんていうのは計器なんていうのは
速度計と高度計、旋回針、それくらいですからね。

今の夜間飛行と全然話が違うんですから。

だから夜間の戦闘というのは相当熟練したパイロットじゃないと
各飛行隊から12機も出す飛行隊は少なかったんじゃないですか。
うちの飛行隊はおったけど


夜間飛行に移るのが昭和20年4月か5月かな。
もう五式戦になる直前だな。

夜間に来たときある。そのときにね、

私の飛行隊が一番の、待機甲だったですな。

いまの五分待機みたいな。
それしとるときに来た。

当時、父島上空とか、入るとすぐにあれ、ありますよね。(レーダー)

それで上がって待機していても
待てど暮らせど来んわけ。

燃料がなくなって、
夜間ですから、早めに着陸しなければいかんですから
5000メートルぐらいで一時間くらい待機しましたから。
4機で。

それで着陸して、そしたら来た。
次の飛行隊、次の飛行隊はいよいよ東京に来てから上がったから。
うちの飛行隊は燃料補給してあがったときは敵はおらんかった。

悔しかったですね。そのときはうちの飛行隊は戦果ゼロで。

そのときはみかづき隊の白井が一回の攻撃で2機おとした。
月夜の晩で。満月だった。昼間と同じようだった。

高射砲(探照灯とセット)なくてもわかりますから。
ある程度は。

白井は一撃して、次の編隊をまたやったのか、
その次かわかりませんけど。
2機おとした。

悔しいですよ。私らは。

一番最初の夜間邀撃は偵察に来たのを
私の飛行隊だけがあがって、迷ってギリギリまでやって着陸して。
他の飛行隊はあがってない。そのとき、離陸直後、雲の中で一機墜落しましたからね。
私の二番機。

1h06:00

雲の上をさまよって、太平洋に出て
どこだかわからんですよ。東京湾へ入ってくると、ああ東京湾だなと
わかるけど、川があったんで、これはいいと思って入っていくと、山が迫ってくる。

羽田飛行場があるのがわかりましたから
低空で100メーターぐらい、
羽田の飛行場を向いて、それから調布へ帰ってきた。
燃料ぎりぎりだったですよ。

1機落ちて、
下手したら、残り3機も危なかった。

あとの、もう一回はね
これも危なかった。待ったるころ、ようやく入ってきた
2機、B-29がだいぶ距離離れて行きよったでっすな。

ちょうど照空灯に照らされたんで見えたんですよ。
それをおかっけたんですよ。
そうすると、東京の高射砲
いまだから思いますとね、
松戸の向こうまで追いかけてるんですね。そして
近寄って撃とうかと思ったときに私の飛行機に当たったと思うんだ。

バーっと目の前が(真の前がオイルで真っ黒になって※??篠原インタビュー参照)

高射砲にやられたんだと思いますな。で、もいいっぺん閉めて
もうエンジンかけられませんからね、松戸の飛行場に不時着したんですよ。
そのとき目をやられたんですよ。ちょっと切れとるでしょう。

三回は夜間邀撃で行ってますね。あとは
夜間あがっても邀撃したというのは無い。

戦隊もおわりのころは夜間邀撃専門の部隊と我々の飛行隊を
区別しましたからね。

というのはうちの飛行隊はいよいよ知覧へ行こうという腹があったんでしょうな。
夜と昼とわけないと、パイロットがくたびれますからな。

1h-09:00


夜間は違いますよ。夜間は、照空灯が照らしてくれないと攻撃出来ませんからね
。発見してくれないと攻撃出来ませんから。照空灯がうまく捕まえてくれた時、
そこにおれば、照空灯が捕まえたB29を見限れば、B29が3000くらいですから、追いかけて攻撃出来る。
しかも短機ですからね。後方攻撃。見えないところから、相手の後ろにつけて出来る
。夜間で戦果を挙げたいと思いますけども、そんなに上がってないと思うんです。
撃墜が次から次へ出るというのは、
私はちょっと…。昼間の戦果は、経験してません。


12月の夜間に来た時は上がって、私の隊が薄雲だったけど上がって、低空で上がって
間もなく間、雲ばかりになってて私も三機連れてた。けど二機は雲の中で○○○しました。
上空、○○○に墜落しました。夜間の雲の中の邀撃は、あの当時は無理だったと思う。
とにかく、雲の上に出て、ひと旋回して5000くらいだったかな。とにかく、雲の下に出る
のが大変だった。飛んでるうちに自分がどこにいるかわからなくなって、雲の上に出て位置を
無くして、当時、自分の方位を知りたげれば、今でも忘れない、下から教えてくれて…。 
それ(今の自分の位置)を出す為にどうも方位を反対にした。
例えば、○○○に言うのを間違えて170というような方位に行ったような気がする。
私はその方向に向けて飛んだら、雲が切れたら海なんですな。わからん。
これは反対じゃないかという事で、今度は雲の下をやっと陸地が見えたんで多摩川と思って、
羽田の飛行場を見つけて、○○○て調布に帰るという失敗もしました。2番機はついてましたけどね。
2番機はついてた。3番機は、2番機は落ちましたけどね。失敗談もありましたけど
、これは夜間の攻撃は航法が難しいという事です。雲の上を夜間に飛ぶのはちょっと、
出来ないですね。

そういう失敗もあって、夜間は3月は待機をさせられて、機種改変もあって、だから東京空襲しらない。
やってないと思います3月は。そして4月になって三式戦を、三式戦になったね。夜間の邀撃を復活したわけです。
その時に私は上がったけど、本当に夜間、私の飛行隊で上がったのは、燃料が無くなる頃に敵が来て、
あの当時、敵も慣れたのか、偵察機が来て、沖の鳥島、沖の鳥島まで来ると空襲警報が鳴るんです。そして、
上がっていくんですが、敵もそれを知ってたんでしょう。一機の敵機だけ来た。本体が来ない。
私達の一回目に上がった飛行機は燃料が切れて降りた。そのロスに入ってきた。だから私の飛行隊に
二番目に上がった時に少ない飛行機だ○○。この時はうちの飛行隊は一機くらい戦果を挙げたかな。
あの、第三飛行隊はその最中で大きな戦果を挙げてます。一機で上がって、一撃で二機落としたなんて
ありますよ。市川という大尉ですけどね、二機編隊○○○、一機で二機落としたなんてのも記録にあります。
そういう風にチャンスというのはあるんですね、夜間は。そしてもうひとつ、照空灯が捕まえてくれない
限りは駄目なんですね。しかしその時、つきを取ったですな。そういう戦果を挙げて。 うたの飛行隊は
3飛行隊。相当戦果を挙げたんじゃないですかな。1飛行隊も2機から3機落としたと思います。○飛行隊は
戦果を挙げられなかったんじゃないかと思うな。

そういう状況でして、やかんは 航法が難しい。当時の計器は非常にお粗末だから。計器飛行は難しい。
自分の位置がどこかわからなくなる。東京の上におると、雲があるからわからない。東京のどっちにいる
かわからない。やがて邀撃には多い時で4機編隊、4機飛行しかさせなかった。で、各部隊○○、夜間の戦闘が
出来るのは、10機以上は少なかった。うちの飛行隊では、各飛行隊で3機4機、3機ないし4機ずつ○○○。
いっぺんには上げない。危ない。空中でぶつかる。確か機数を制限したように思います。そういう事で
タイミングがありますね、それから照空灯が捕まえてくれないといけない。逆に言うと、照空灯がある
地域は高射砲がある地域なんです。当然、味方を撃たないように区分けする。キチッとここからは駄目だ。

ここからは高射砲に任せよう、と。○○○けども、それじゃ、空中戦闘出来ないよね。高射砲が見つけた時に
入るという事○○飛行機と高射砲が一緒になるから、そ○○の空中戦闘というのは、味方の相打ちをしないように
規則を決めても味方撃ちは結構あったんじゃないかと。現に私はその為に落とされた。落とされたというか、
破壊。飛行機がちょっとおかしくなった。もう、本当に考えてみると高射砲の空域に入っていた。
松戸の向こうまで行ってた。B29を月夜だったから、ポッと見えた。照らして捕まえてますから。
 いよいよという時にワッとやられた。 私は(あれは)高射砲だと思う。ガタガタしてエンジ
ンがおかしくて、下に降りたら松戸の飛行場らしきものが見えた。ここに降りた。ひこう○○せ
いかに降りて無事着陸しないといけないから高めに持っていった。エンジンがおかしいから、全
開にしてもう一回でき○○って、飛行場の真ん中に下りて飛行機を壊した。しかしこっちは左目
をやられて、今も傷がある。
航空、高射砲と夜間の戦闘機の戦闘はなかなか難しい。


あとは友軍高射機に当たった。
夜間邀撃でした。
それで松戸の飛行場に不時着して。

生野、(しょうの)は体当たりしてない。
しょうのは飛行隊長で。特攻隊員じゃない。
彼は夜間飛行でだいぶ落としてますけれども。
友軍高射砲に撃墜されたようなものでしたよ。
夜間の攻撃はね、高高度になると手も足も出ないというのが
本音ですね。
夜間は低空ですからね。3000メートルくらいで。
照空灯がつけば、という条件ですね。

照空灯がつかなければ見えないですから。
運の良い人は照空灯がなくても月夜の晩で
突っ込んで行ってね、月の光で落としたんですけれどね。
一度の攻撃で二機落としたのが。

私は追いかけているときにバっとエンジンの回転が変わったんですな。
高射砲かなんかに当たったんでしょう。
B-29には当たらんで私に。

自分にあたったから「高射やめ」と言ったら
松戸の飛行場の上空まで来て無線で言った。

その晩海軍の飛行機も上がってましたから、それの弾かもわかりません。
そんな事があったということで。

夜はあった。
うちの飛行隊で落としています。

高射砲見たらいいですよと、あとでわかったんですが。

はじめからまじめくさってあんなところいかんでね
とにかく上へ上がって敵をみたほうがいいですからね。

夜は違いますよ。夜は3000ぐらいですから。
これならみんないいんですけれど。(性能差少なく)
しかしそうなりますと
夜飛べるパイロットは制限されるんですよ。

各飛行隊から4人。
夜飛行そのものが難しいですよね。

天気の良い
月夜の晩はいいですよ。

曇りのときなんかに上がったら危ない。
夜間の撃墜数は少ない。
そのかわり上がった数も少ないですよね。

各部隊から4機。
戦隊でせいぜい10機ぐらいしかあがらんのですから。

昼間の兵力の3分の1以下でしょうね。

しかし夜間あがった者には撃墜のチャンスはある。
私もあった。しかし、それは照空灯がつけられて、という
条件がついてです。照空灯つかないとだめですな。
編隊攻撃もやろうと思ったらやれるんですよ。
月夜の晩ならね。


だから3月10日の邀撃はやらんかったですよ。
(東京大空襲)

あれ月夜の晩でしょう。
あれ上がっていればね。

(高射砲誤射の話)
B-29を撃ってはがれた破片が飛んできたのかなと思ったんですが
100メートル、200は切っていた。

松戸の飛行場にたまたま。

それも飛行場かわからんけど
たまたま灯がついていたから命があったというだけで。
エンジンをもういっかい吹かすわけにはいきませんからね。

いま思えばちょっと着陸には高度が高かったですけど
やり直しできなかったですからね。

飛行場の真ん中に降りて
端で止まって。

あのとき撃たれていなければね、撃墜だったと思うんですが。
だって相手が気が付いてないんですから。
3000メートル以下ですからね。こっちは自由がきく。
あれはどこいらへんかなあ。

荻窪あたりで見つけて追いかけたんじゃないですかね。

上から無線で射撃やめろーと言ったけど
今考えたらあんなこと言っちゃいかんと思ったけど。
やめろといったてやめやしませんよ。

12月になってからですよ。

高射砲の先を見るんだと。

規則違反じゃなかとはいえなかったですよ。
別に悪いとは言わない。そのほうがよかった。

それから私が撃墜、撃破したのは、その高射砲というのを聞いて
いたから。



(先生は一番思い入れが強い飛行機は飛燕ですか)

それはそうですね。五式戦も深いけれども飛燕ですね。

終戦後
あのときはね、確か24,5機とんでですよ。各飛行隊で。
八日市で。
 
◆◆
 
玉音放送

(終戦の詔勅はどちらでお聞きに?)

八日市。
なんかわからんけれど、集まれと。

(天皇陛下の放送があると?)

いや、それも聞かなかったです。

(放送があるとだけで?)

うん。

戦隊長、みんな民宿ですからね。
庭が広いのでその庭に、みんな集まれと言われて。

ラジオは部屋にあって我々は庭におった。

(放送自体をお聞きになって?)

うん。聞いた聞いた。
何の話かはよくわからんかったですよ。
なんかおかしいなあと。ぐらいの感じですよ。

勇ましい話じゃないなあ、ということはわかった。

なんか、頑張れと言うような意味だろうなあとしか
思いつかなかった。

第一、原子爆弾が落とされたというのも知らないもの。

それで昼食の前くらいにようやく連絡があって
「負けた」という話を聞いた訳ですな。
みんな泣いたよ。

理解したのは、食事の最中でしたな。
泣いたよ。みんな。

(先生も?)

うん。

(悔しくて?)

うん。
悔しさが先だったですかな。

(もっとやるつもりだった?)

うん。というのはね、
うちの部隊は言ったら悪いけれど全国でも優遇されてましたからね。
最後の特攻隊だというぐらいのつもりで
飛行機もちゃんとありましたしね。
戦力もありましたからね。
一番強かったんじゃないかな。

(244戦隊は一番強かった?)

と思いますよ。
というのはね、一飛行隊で
少なくとも8機は持ってましたからね。
我々も。
3個飛行隊でしょ。24機。
そのぐらいありましたよ。


私の飛行隊も8機かそれくらいはありましたからね。

だから飛行機が故障したりすると優先して部品をくれました。
戦死があるとすぐ補充があったりしてね。

(本土防衛の切り札だったんですね)

というように私は思ってます。
有名だったんですよ。最後は太平洋へ特攻で
突っ込むぞというような具合で。
最後の部隊と言われてましたね。
皆、そういう覚悟で居ったですよ。

9:00
~戦隊歌の話~

(終戦の詔勅を聞いて)

私たちはもう一回ぐらいやるんだという気で居りましたね。
だけど夕方くらいになると、本当に負けたと思うようになりました。

海軍は厚木で何やら反乱やっていると噂が流れたけどね
あまり動くなと、夕方くらいになると
もう仕方ないなというぐらいになりますね。

(翌月に進駐軍がやってきてどのようにお考えに?)

会わない。我々は八日市に居ったから、すぐには来ないですから
そのうちにどんどん解散していきますからね。

アメリカ軍が来たのは、立ち会ったのは戦隊長以下、
5、6人じゃないですか。引き渡しなんかをやりますからね。

(米軍が八日市に来たんですか)

飛行機で来たでしょう。飛行機を解体した
点検をしますからね。
私はそれ見ないよ。もう解散してますから。

米軍の折衝団は大津より飛来。
小林戦隊長が最後まで残務整理に当たり
武器弾薬、その他あらゆる物資の引き渡しを担当した。


担当官のゴールキー大尉は小林に
「君は米機を百機撃墜したか」と尋ねた。

小林は悪びれることも無く
「百機落とすつもりだったが、目的を達さないうちに戦いに敗れた」
と答えた。

そのことがあって以来、二人の仲は急速に深まっていった。

『ひこうきぐも』
262頁より

小林が引き渡しを終え復員したのは20年11月1日のことである。


Q終戦の詔勅を聞かれてどう思われましたか?
A残念というか。うちの部隊が全滅していれば諦めつくけど、うちの部隊はしっかり
していたから。まだ20機あった。


Q終戦を迎えた時の状況、そのときの想いを
A部隊○○他の部隊よりかあったから。他の戦隊では30機あって、夜間戦闘出来る
のが4人も、は少なくない○○。
だから、うちの部隊だけはまだやれる気はありましたよ。だけど、他は予想外に
落ちてて、何かもったいない気がした。

Qその時は
A四日市にいた。

Q天皇のお言葉は聞いた?
A聞いた。田舎の民間の家の庭にみんな集まって…。戦隊長の下宿している家
だった。そして、みんな泣いた。悔しいという。死んだ人に申し訳ないという
気持ち。まだ戦えるんじゃないかという気がして。しかし、逆に言うと、それで
命が助かってるようなもんだけど、その時はそんな事は考えない。どこかへ連れ
て行かれて、牛や豚みたいに葉たらかされるんじゃないか、と笑

Qその時の想いとして、先生とまわりの方達の気持ちを聞きたい。
Aああ、助かったという感じは、みんな無かったんじゃないかな。まだ戦えると
いう思いがあって。
そういう(助かったという)気持ちになったのは、日にちが経ってからでしたね
。その時は残念だという方が○○○でした。一人で泣いてましたよ、みんな。

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