三式戦「飛燕」飛行第56戦隊 古川治良少佐機
昭和19年末、飛行第244戦隊戦隊長だった古川治良少佐は、阪神中京地区の
防空を担う飛行第56戦隊に転任。(後任に小林照彦少佐)
翌20年3月より正式発足した飛行第56戦隊は三式戦闘機を揃えた。
大戦当初のビルマ・マレー半島の航空戦からの生き残りである超老練の
古川治良少佐を戦隊長に、緒方醇一大尉を飛行隊長を任命。伊丹飛行場にて
編成完結したが、前述の二名を除き、空勤者は錬成不足の者がほとんどであり、
三式戦の稼働率も決して良好と呼べるものではなかった。
同年3月14日未明、大阪空襲の折には伊丹飛行場一帯は雨天に伴う霧に
見舞われ、無風状態、視界不良で、伊丹猪名川湖畔に下降気流もあり、
離陸が極めて困難な状況下、飛行師団より邀撃命令を受ける。
離陸失敗・墜落戦死が相次ぎ、伊丹飛行場は使用不可となる。
夜間照明設備は極めて貧弱でカンテラを並べて凌ぐ状況であった。
この間、大阪の市街地から上がる紅蓮の炎と黒煙に離陸できない
空勤者は皆、涙した。
同年3月27日の邀撃戦では緒方飛行隊長がB-29に体当たり。
B-29は摩耶山山頂付近へ墜落した。緒戦ビルマ以来の老練緒方飛行隊長は戦死。
緒方飛行隊長、戦死時のスコアはB-29撃墜3機、撃破5機であった。同年5月には
最新鋭機である三式戦二型が配備となり、終戦まで阪神中京地区の防空を続けた。
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