海軍甲事件、3番機の謎を追う
古田和輝氏による考察
青木さんが関わった海軍甲事件と一式陸攻3番機の件について、
続報です。
青木さんが輸送した一式陸攻2番機の生存者について
宇垣纏の戦藻録を読み返したところ、2番機の生存者は、
連合艦隊参謀長:宇垣纏少将
連合艦隊主計長:北村元治少佐
機長兼主操縦士:林浩二飛曹
ということが分かりました。
よって、取材当日に調べた副操縦士の藤本文勝飛長は戦死
しており、誤りということになります。青木さんの覚書メモに
よれば、ラバウルへ輸送した2番機の生存者は、主操縦士の
林浩さんとありました。よって、青木さんが証言していた
「副操縦士」というのは誤りで、実際は林さんで確定ということに
なります。
林さんは『七〇五海軍航空隊史』という本にこの時の体験記を
載せているようです。機会があれば、調べて読みたいと思います。
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3番機の同乗者について
青木さんの覚書メモによれば、この3番機には
「第二十一航空戦隊 山口少将」が同乗していたことが分かりました。
ただし、事件当時の第二十一航空戦隊司令官は市丸利之助少将
(45年に硫黄島守備隊として戦死。「ルーズベルトニ与フル書」で有名)で
「山口少将」ではありません。
現地に展開していた海軍少将で、この姓に最も近い人物を探すと、
第二十四航空戦隊司令官・山田道行少将、第三艦隊参謀長・山田定義少将の
2名が浮上します。
私としては、3番機に同乗したのは後者の山田定義少将ではないかと
考えています。理由としては、山本五十六長官のブイン視察目的が
「い」号作戦で活躍した前線部隊の賞賛であり、二十四航戦は同作戦に
参加しておらず、視察に行く理由がないため、第三艦隊司令部は「
い」号作戦終了後トラックに帰投しており、山本五十六長官と共に
前線へ派遣するなら参謀長を送るのが適当と考えられるため
という点が挙げられます。
これらの点を踏まえると、青木さんが乗った陸攻3番機は、
やはり山本長官機に乗り切れなかった現地部隊の幕僚を載せて
いたと考えて良いと思います。い号作戦に参加した中心部隊は
第二十一航空戦隊(市丸少将)、第二十六航空戦隊(上坂少将)なので
状況としては山田定義少将ではなく市丸少将を運んでいても
不自然なわけではありません。
よって、一式陸攻3番機が運んだ人物は、
上坂香苗少将(確定)、市丸利之助少将もしくは山田定義少将、
と考えられます。
この他にも運んだ人物がいるかもしれませんので、
引き続き調査を続けます。参考までに、い号作戦開始時
(1943年4月3日時点)でラバウルに展開していた航空部隊の
幕僚を列挙しておきます。
・第十一航空艦隊司令部
司令長官:草鹿任一中将
参謀長:中原義正少将
首席参謀:三和義勇大佐
作戦参謀:大前敏一中佐
航空参謀:三代辰吉中佐、野村了介少佐
・第二十一航空戦隊司令部
司令官:市丸利之助少将
首席参謀:青木武中佐
航空参謀:渡辺初彦少佐
・第二十六航空戦隊司令部
司令官:上坂香苗少将
首席参謀:柵町整中佐
航空参謀:中西二一少佐
・第三艦隊司令部
司令長官:小沢治三郎中将
参謀長:山田定義少将
首席参謀:高田利種大佐
作戦参謀:長井純隆中佐
航空参謀:内藤雄中佐、小牧一郎少佐
・第二航空戦隊司令部
司令官:角田覚治中将
首席参謀:山岡未子夫大佐
航空参謀:奥宮正武少佐
(淵田美津雄・奥宮正武『機動部隊奮戦す』より)
また、これ以外にも南東方面艦隊が
第十一、二十二、二十四航空戦隊を隷下に置いており、
それぞれ城島高次少将、吉良俊一少将、山田道行少将が司令官です。
さらなる続報
大野芳『山本五十六自決セリ』という本によると、
長官機の発進と同時刻に、第十一航空艦隊所属の九六陸攻1機が
ラバウル西飛行場を発進したそうです。
この九六陸攻には、山本長官が現地の将兵に配る食糧や記念の品
(きっと饅頭や甘味の類いでしょう)が満載してあったようで、
操縦員は「武市文雄」二等飛行兵曹だったとのことです。
この九六陸攻はもともと単独飛行を予定しており、出発時には
2番機の左斜め後ろに居たものの、一式陸攻と九六陸攻の性能差ゆえ、
長官機からどんどん離されていき、結果として米軍の奇襲を
受けずに済み、無事ブインに着陸できたということです。
青木さんの証言とはやや記述が異なりますが、武市二飛曹が
操縦したというこの九六陸攻は、青木さんが乗った「3番機」と
同一の機体ではないでしょうか。
なお、武市二飛曹の九六陸攻は、長官機が攻撃を受けた時、
長官機の後方60kmを飛んでいたということです。
青木さんが覚えているかどうかは分かりませんが、
武市二飛曹の名前を出してみれば、何か思い出して
くれるかもしれませんね。
古田和輝
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