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2018年2月22日 (木)

鹵獲P-51によるアグレッサー隊

P51c_2


P-51の鹵獲機(戦利品として得た兵器)を描きました。
 
P-51鹵獲の経緯
このP-51は、昭和20年2月、支那戦線で鹵獲された機体で、
パイロットは第51戦闘航空群第26戦闘飛行隊所属の
サミュエル・マクミランJr少尉とされる。
少尉はこの日、蘇州の日本軍飛行場攻撃任務中、対空砲火で被弾。
不時着したところを日本兵に囲まれ捕虜となった。
少尉は捕虜として日本へ移送され、終戦後、釈放され帰国している。
 
復元修理
P-51は復元・修理が行われ、飛行可能な状態となる。
同年3月、機体は米軍機の国籍標識を日の丸に塗り替えられ、
北京、南苑を経由して、東京・福生の陸軍航空審査部へ空輸された。
機体塗装は、日の丸を上描きしただけで、シャーク・マウス(機首に
描かれたサメの歯デザイン)は鹵獲時のままだった。
  
Fw190、P-40、P-51、飛燕、疾風、5機による性能テスト
福生の陸軍航空審査部では、入念に機体調査を行ったのち
ドイツから輸入したFW190、同じく鹵獲機のP-40、
三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風の五機による性能比較試験が
行われた。
 
スピード競争では、上空で五機を一斉にスタートさせた。
まず、瞬発力に優れたFw190が飛び出したが、
三分後にP-51Cが追い抜き、五分後には圧倒的性能で引き離した。
Fw190と四式戦がほぼ互角で争い、次に三式戦、最後が
P-40という結果に終わった。
 
鹵獲P-51によるアグレッサー部隊
その後は、硫黄島基地から来襲するP-51戦闘を想定し
航空審査部のエースで飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊)飛行隊長も務めた
黒江保彦少佐がP-51Cに搭乗し各地の防空戦闘機隊を巡回。
 
関東地区では244戦隊、17戦隊、70戦隊、51戦隊、52戦隊
次いで中部地区の明野飛行教導師団、関西地区の56戦隊、256戦隊へ
赴き戦技指導を行った。
 
P-51の燃料は高オクタン価ガソリンであり、当時の陸軍には超希少品であったが
あらかじめ巡回先の飛行場へ鉄道で運ばれた。
昭和20年7月、黒江少佐のP-51Cは256戦隊の戦技指導中に 
オルタネータ(発電機)故障により、飛行不能となった。
代替の部品を国産でまかなおうと努力が重ねられたが、見つからないまま
終戦を迎えた。
  
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こちらの本に、P-51の何枚か写真が載っています。
より正確なものを知りたい方はぜひご購入下さい。
 
出典・参考
『日本軍鹵獲機秘録』

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