ジョー・ライリイ大尉の話
米国空軍戦闘機パイロット、ジョー・ライリイ大尉。
大尉は、日本空軍再建に最も尽くした人物といっても
言い過ぎではない。
朝鮮戦争帰りの、ライリイ大尉は
そのまま日本でゼット戦闘機の教官として着任した。
(当時はジェット機をゼット機と呼んだ)
ライリイ大尉は小柄であったが朝鮮戦争で捕虜になるより
白兵戦に備え、飛行服に
拳銃を二丁忍ばせていた、という逸話を持つ。
昭和31年の浜松。
格納庫の屋根は戦争中の爆撃で穴が開いたまま、
浜松の飛行場は吹きさらしで
プレハブ小屋が一軒だけ建っているような状態だった。
▲昭和30-32年頃の浜松基地。関係者より拝借。
大の親日家であったライリイ大尉は
ブロンドヘアの妻と愛犬を連れて、この
荒野のような、殺風景な浜松にやってきた。
ライリイ大尉は日本人パイロットに対しては
特に計器飛行を熱心に指導した。
それまでの旧軍の戦闘機「飛燕」とか「零戦」も計器は積んでいたが
当時の概念としては補助的なもので、
低い雲や悪天候、夜間の発着は大変なリスクが伴った。
計器飛行はこうした悪天候で視界が確保できない状況でも
人間の目でなく、計器をメインに安全に離着陸や飛行が可能となる、
現在では当たり前となった航法である。
ライリイ大尉は勤務時間は教官として任務をこなし、
時間外は研究のために飛んでいた。土日も飛んだ。
休みなしで飛んだ。
日本人も、皆、休みなしで飛ぶので事故が多発した。
源田実が、この状況を危惧し飛行時間の制限を決めたのが
昭和32年以降だった。
立て続けに
指宿正信二佐、小林照彦二佐、中村博二佐、の三名が殉職していた。
指宿二佐、小林二佐の事故のことは以前ブログで書いた。
元海軍パイロットの中村博二佐は射撃が特に抜群だったことで名を
馳せていた。事故は昭和32年6月20日、夜間計器飛行訓練中、
日向灘に墜落して殉職。
中村二佐は、このとき十分な高度があり、ベイルアウト(緊急脱出)に
成功したと言われているが、当時、満足なライフジャケットを身に
つけていなかったため直接の死亡原因は凍死だという。
ライフジャケットはあるにはあったのだが、数が揃わず
それでも良いから、と、飛んでいたのである。
これは、現代において考えてみれば
無謀とか危機管理とか、そういう話になってしまうのだが
当時の考えは全然違う。
当時のパイロットは誰もが
一日も早い、日本空軍の再建を目指して
犠牲覚悟で飛んでいた、ということを、忘れてはならない。
気概をみんな持っていた。現在とは全然違うのだから。
このとき、F86Fのパイロットであった竹田五郎氏は
「事故があっても、屍を乗り越えて行く、
戦争中のような気持ちだった」と回想する。
ライリイ大尉は、そうした日本人パイロットとともに
命は軽いが、尊いものを背負って、飛んでいた。
大尉は本当に、飛行機に乗るために生まれてきたような人だった。
飛行機に対する探究心は尽きることが無かった。
それらの技術や経験を、日本人パイロットに惜しむことなく
教え込んだ。
自らも何事も思いついたら
やってみないと、気が済まない大尉だった。
燃料タンクが空になっても飛んで周りをヒヤヒヤさせた。
訓練中、燃料ゲージの限界の規定値に達すると
通常、パイロットは
「ミニマム・フューエル」(燃料僅か)をコールし
速やかに着陸しなければならない。
ライリイ大尉は、ミニマムフューエルをコールした後も
ふたたびスロットルを全開にして、もう一飛びしていた。
特筆すべきエピソードとして
琵琶湖上空から、入間まで滑空を試したことがある。
高度が下がりたため、浜松へ不時着した。
ライリイ大尉と日本人パイロットの間には
絶対的な信頼関係と、固い友情が存在した。
ライリイ大尉とお互い尊敬していたのが
ブルーインパルス発案者で初代隊長の長沢賢であった。
どちらも天才的技量のパイロットであったことは
間違いないが、飛行スタイルが異なる。ライリイ大尉はどちらかと言えば
飛行の研究に重点を置いて、
長沢賢は、後に、団司令の目を盗んで、松尾とともに
F86F戦闘機2機で勝手にアクロバット飛行を始める。
2機で超低空でスローロールを行ったあと、日本初の
背面飛行を披露した。この話はまた後で書くことにして
ライリイ大尉の話に戻る。
ライリイ大尉が殉職したのは
昭和31年9月29日だった。
T-33複座戦闘機で連絡飛行中
ジョンソン基地(現在の呼び名は入間)基地に墜落した。
ライリイ大尉の話はどの本にも載っていないが、
大尉の残した功績は大きい。
きっと航空自衛隊の現在に確実に受け継がれているであろう。
いつか、誰かが見つけてくれることを信じて
ここに記す。
偶然このサイトを拝見しました。
私はブルーインパルス創生期の長澤賢の次女です。この記事でライリーさんの話しがありますが、亡くなったのは昭和33年ではないでしょうか?ライリーさんと奥さんと私や母が一緒の写真がありますが、33年8月に岐阜で写したものです。父は一昨年なくなりましたので、もう話は聞けませんが。
投稿: N.I | 2017年10月22日 (日) 20:23
N.I様
T様
コメントありがとうございます。
個別にメールを送信させて頂きました。
届いていないようでしたらお知らせください。
篠原直人
投稿: 篠原直人 | 2017年11月 1日 (水) 19:04
貴兄の懐かしく貴重なブログ拝見、一筆コメント啓上します。浜松時代、パイロット居住の浜松和地山官舎にライリー氏訪問あり私のワイフも本人を存じ上げます。滑空飛行はT-33で私同乗、XC(航法訓練)で築城基地に着陸、燃料補給しない指示あり、翌日胴体タンク燃料のみで離陸、晴天ジェット気流を利用した彼の計画通り離陸(私は承知していない)、滑空飛行を実施、飛行速度を維持して着陸コースを飛行、見事に綺麗に浜松に着陸した次第、着陸前、指示によりエンジン不具合で停止する旨、滑走路端に牽引車を用意するよう要求しています。空自創設時の功績、及び私への親情、貴重な体験に対して、他のパイロットは鬼籍にありますが、私より感謝と冥福を祈る次第です。貴兄のブログに感謝致します。川越重比古 (代筆 長女)
投稿: 川越重比古 | 2020年11月24日 (火) 16:43