小林照彦一佐の事故と妻たちの航空自衛隊黎明期
7人の侍のおひとりの、奥様の話を少し書きます。
航空自衛隊の黎明期です。
「私が主人と結婚したのが17歳のときでした。
当時は半年間だけでも結婚生活できれば良いと
本当に、そう思っていました。
昭和20年に主人は銀河隊の飛行隊長で
特攻を命じられました。
銀河に魚雷を抱いて特攻を。
実際に訓練で同じ攻撃方法を試してみて
それが無謀な作戦だとわかったので、上官に言ったんです。
そして、保留になって、終戦を迎えました。
戦後は航空自衛隊へ。
当時(昭和30年-31年)は自衛官だと言うと
石をぶつけられるような時代でしたから、とても
余所の方には言えませんでした。
「ご主人の職業は」と尋ねられると、「公務員です」と
答えていました。
事故が多かったんです。
毎月毎週のように事故があって。
あれは浜松に居た昭和31、2年
私たちの目の前でジェット機が墜落したんです。
宿舎が近いので、パイロットの奥様方と一緒に
居りまして、それが誰の飛行機なのか
真っ青になりました。それがアメリカ軍の飛行機だとわかって。
昭和32年、小林照彦さんが亡くなったとき、
私は小林さんの奥様 ※(小林千恵子さん『ひこうぐも』の著者)
と一緒に居たんです。
報せに来たのが武藤さんという方で
もうそのときは亡くなっていたのですけど
ショックを受けるといけないからと、そのときは
「ご主人が怪我をしたから来てください」
と言ったんです。
私も小林さんの奥様の付き添って参りました。
奥様は亡くなったご主人と対面されて、
私は奥様を気遣うようで、
本音を申し上げると、次こそ、自分の主人の番じゃないかと、
本当に怖かったんです。
多くの方が亡くなって、主人は生き残って
定年まで。もう本当に、当時は考えもしなかった。
ありがたいことです」
この事故については、同じく7人の侍の竹田氏は次のように
語っている。
「本当は、あの飛行機には私が乗る予定だったんです。
あの日はT-33で吹き流し曳航して射撃の訓練を行う予定でした。
私は目の治療かなんかで、急に小林さんと勤務を代わってもらったんです」
小林一佐・天野二佐の事故
昭和32年6月4日、浜松基地において
小林照彦一佐(東京都出身・元飛燕・244戦隊長)
第1航空団所属T-33A、離陸時機体不調。出力と高度が上がらず
低空でベイルアウト試みるも殉職。
天野裕二佐(新潟県出身)
小林機に同乗。殉職。
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