一式陸攻搭乗員髙石さんインタビュー
▲一式陸攻
先日は、一式陸上攻撃機の搭乗員(搭乗整備兼射撃員)だった
髙石近夫さんにインタビューさせて頂きました。
以下、少し書きます。
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◆水面スレスレの雷撃敢行
髙石さんの初陣は昭和19年10月。
レイテ沖の輸送船団に雷撃を敢行した。この頃になると雷撃は専ら
単機、夜間の攻撃だった。初陣の緊張は相当なもので、緊張の余り
キンタマが内臓を這いあがり、喉から出てくるような感覚だった。
気を落ちつけようと、機内でチューブに入った羊羹などを
食ってはみたものの、なかなかこれが喉を通らなかった。
操縦員の二名は肝の据わったベテランだったのが幸いだった。
一式陸攻は凄まじい対空砲火の中を、水面スレスレを全速で
突っ込んで行った。
一式陸攻は、いったん雷撃進路に入ると、魚雷を投下する迄、一直線で
あるため、殆どが撃墜される。陸攻の戦友は出て行ったきり、ほとんどが
帰ってこなかった。お国の為に死ぬことに何の躊躇いもなかったが
初めて体験する対空砲火の雨に、驚愕した。
魚雷を投下すると、機体は雷跡を追い越して、
敵艦船のマスト直上を通過する。このとき対空砲を撃つ
敵兵の顔が見えるような
距離だった。
あとは敵弾を回避すべく機体はジグザグ運動で離脱を開始する。
操縦桿を使って旋回している余裕はない。フットバーを押し込んで
空中分解覚悟で機体を横滑りさせるのだという。
戦果を確認しようと10メートル近い機体の後部の窓まで
走ったが、転倒して辿り着くことが出来なかった。
こうして奇跡的に生還したが
基地で機体を確認してみると多数の弾痕が残されていた。
◆沖縄爆撃と機長のN大尉
昭和20年、5月、米軍に奪われた沖縄、伊江島の飛行場を
爆撃せよとの命令が下る。陸攻は60キロ爆弾を12発搭載して
鹿屋を出撃した。今度の機長は経験の浅いN大尉だった。
ところが発動機が不調で、吹かしても4000メートル迄しか
上昇できない。これでは敵対空砲火の中に突っ込むだけだ。
目標に近づけないままでいると、突然、爆弾投下用の
雷管が炸裂する音が聞こえた。N機長は
「間違って爆弾を投下してしまった」
と言った。爆弾が無いのなら帰るだけだ。
機首を鹿屋へ向けた。
一瞬、唖然とした。
こんなことをしていいのか・・・軍法会議ものだぞ。
しかしそれと同時に、
「助かった!死なずに済んだ!」
と、安堵の気持ちを覚えたのも確かだった。
帰途、エンジンを吹かしすぎたのと、航法の誤りで
不時着水を余儀なくされた。
N機長とはその後もまた、伊江島の爆撃に出撃したが
その時も目標手前で爆弾を捨てて帰ってきてしまった。
搭乗員7名、誰もこれを咎める者はいなかった。
N機長は言った。
「俺には女房と子供が居る。女房と父は折り合いが悪い。
だから俺が死ぬわけにはいかないんだ」
髙石氏は不時着水したとき、海水が目に入り、結膜炎にかかった。
機長は「ゆっくり治せ。長引かせれば出撃せずに済む」と言った。
N機長は願い叶って、前線を離れることになった。
よかったですね、と言うと、機長はニコっと笑った。
その機長も、試験飛行中に墜落して死んだ。
終戦の2、3日前だった。
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少しずつ続きを書いていきます。
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