中島又雄中尉(零戦パイロット)B-29との戦い
今回は零戦パイロットで元海軍中尉の中島又雄さんに
お話を伺いました。主にB-29との空戦の模様をお聞きして参りました。
以下、中島又雄さんへのインタビューです。
◆海軍兵学校~霞ヶ浦航空隊で飛行学生卒業
海軍兵学校のクラスメート73期というのは大まかに言うと全部で
900名なんですよ。その内、船が400名、飛行機が500名と
別れたんですよね。戦死者は船が180名、飛行機160名かな。
あんまり変わらないんですね。
船は練習艦隊が昔はあったけれども
そのまま実戦配置ですよね。昭和19年3月に卒業して
戦死第一号が翌々月の5月ですよ。
それに比べると飛行機は、半年しか戦争してないんですよ。
私が実戦に出たのが昭和20年5月末からですけれどね。
飛行学生を卒業したのが昭和19年の3月なんです。
飛行機は全部で丸一年間。そのうち半年が赤とんぼ、あとの半年が
実用機のゼロ戦ということで、飛行機の卒業が終戦の年の3月なんです。
だから簡単に言うと船は一年半。飛行機は半年しか戦争してないんです。
そういうことで、私たちは赤とんぼを半年、ゼロ戦を半年やりますから一応、
操縦できるようになってます。
◆第332海軍航空隊着任~対超重爆戦に備える
第332海軍航空隊に行きましたら八木勝利中佐に
「お前たちは使い物にならん」
と言われまして実戦には上げてもらえなかった。
司令から見れば練習航空隊から出たてですから。
終戦まであまり実戦に出してもらえなかったクラスメートも居ますね。
例えば厚木の航空隊には10名近く行ったんですけどね
実戦にあがってないですね。
先輩達や予科練出身者が居ますから。
私が着任した晩に司令にあいさつしたら
「お前たちは使い物にならんから岩国で再錬成だ」
といって岩国へ行きました。
2月28日に卒業して三月一日に中尉になって第332海軍航空隊に着任したと。
それですぐに岩国行ったんです。
岩国での再錬成は二ヶ月半ほどでした。
というのもですね、この零戦の実用機で筑波で
訓練したのはいわゆるこれなんですよ。ドッグファイト。
いまの言葉で言うとドッグファイトと言いますかね。
その訓練をやってたわけですよ。
零戦はそれがとても優秀な飛行機でしてね、
グラマンのF4Fと空戦をやるのだったら完全にこっちが強かったんですよ。
旋回半径が小さいんですね。渡りあうと旋回半径小さいからすぐ敵の後ろに
入れる。そして後ろから攻撃できるからですね。
実際の訓練も筑波ではドッグファイトばっかりやっていたんですよ。
ところが、着任した鳴尾の第332海軍航空隊というのは
どういう航空隊かというと、局地戦闘機隊で大阪の防衛を担うものでした。
・・・ただし、それは表面上です。
大阪の防衛は伊丹に陸軍の三式戦闘機「飛燕」という
飛行機が300機ぐらいおりまして、上がるのはだいたい100機ぐらい。
空襲にきたときはあがって、陸軍は日本の内地を守るというような
任務でしたから。それがあがって大阪上空を守ると。
一方で、海軍というのはもともと海の上で戦う軍隊であるし
逆に内地で戦う場合は軍港の近くで軍港を守るというのが
局地戦闘機という表現をしますんですかね。
局地の防衛しかやれないわけですよね。
それじゃ鳴尾の第332海軍航空隊は何の為にあそこに
配置されていたかというと、昔は川西と言ってましたね。川西航空機。
今は新明和と呼ばれるようになりましたが、
その川西航空機で紫電改という一番新しい戦闘機を作ってまして、
その工場が鳴尾にあったんですよ。だからその紫電改の工場を守るんだと、
おおっぴらには言わないけども、お前たちの任務は鳴尾を守るんだという
事でしたね。
従って、鳴尾に飛来するB-29を追い払えばいいと。
爆弾を落とされないようにしろということで。だから相手がB-29ですから
ドッグファイトはできないわけですね。全然戦法が違うわけですよ。
B29に対する攻撃戦法はいくつかありまして
主に、前上方攻撃、逆落とし直上方攻撃、後上方攻撃などです。
一番リスクが高いのは後方からの攻撃です。
後方から攻撃しますと、まずB-29の後部には20ミリが飛び出してます。
20ミリは一発でも当たったらひとたまりもない。それから上下の
13ミリもこちらに向くわけです。
後ろから攻撃するとB-29の機銃が一斉にこちらをむくわけです。
零戦との相対速度から割るとこちらからも当たるけれど向こうからも
当てやすいと。
※篠原補足
B-29の機銃は20ミリ×2(後方)13ミリ×8(正面×2、上方2、下方×2、後方×2)
※
ですからB-29に対して岩国で一番訓練したのは
逆落とし直上方です。B-29に接敵して、真上から背面飛行になって
逆落としで撃っていくと。そうするとB-29の機銃がありますけど
真上は向かず死角になるんですね。接敵するときは撃ってくるけど。
そういうわけで岩国では一生懸命この直上方訓練をやらされましたね。
今までは巴戦、アクロバットしかやってこなかったものですから、
戦法としては全然違うんだけど、アクロバットからみれば易しいんですよね。
直線飛行から降下に入るだけで。
ただ、間合いが難しい。どのタイミングで逆落としすると
ちょうど射撃距離になったときB-29の真上から撃てるか。
その訓練を一生懸命やったんですね。
その訓練を岩国で2ヶ月半くらい訓練して帰ってきました。
◆零戦52型丙、B-29との戦い
ところが、大阪にも戻ったらね、「それやるな」ちゅうことになっちゃった。
何故かと申しますと、先程申し上げたように
川西航空機を守るのが私たちの任務だから、直上方やったら
B-29は諦めて爆撃針路を崩さないわけですよね。
B-29のほうは、正面からゼロ戦が来ると怖いわけですよね。
前上方攻撃といって、高度差があったほうがこちらは楽ですから
上から接敵してB-29の機首を狙うわけです。するとB-29は
怖いから避けるでしょう。避けるということは爆弾の命中精度が落ちる訳です。
零戦52型丙の武装は20ミリ×2、13ミリ×3。
前方からの攻撃であれば
B-29の13ミリ×4で、こちらが遥かに勝り、優位感を持って戦えました。
戦闘の場面においては敵に勝る武装を持っていれば恐怖心は起きません。
怖いのは待避のときです。一撃後、すれ違った後には
B-29に後ろを見せる形になります。B-29の20ミリ×2、13ミリ×4が
こちらを向くわけです。相対速度400ノットで離れて行く計算ですが
このときだけは長い時間に感じました。
篠原
撃墜せず、ただ追い払えば良かったのですね。
ええ、そういうことです。
要するに鳴尾の川西航空機の工場がやられなきゃいいということで。
ですけど、結果的には川西航空機の工場は爆弾が落とされたんですよ。
それは雲上爆撃というか、レーダー爆撃で落とされましたね。
そのとき私は上がらなかったんですが、我々の隊は20機近く
上げたんですがね、500メートルくらいのところで
ものすごい厚い雲があったんですよね。だから結局雲突き破って
上にあがれずに雲の下をこうまわってて、それで爆撃されたと、
記憶がありますけれどね。
篠原
どういった戦法でB-29と戦ったのですか
B-29に接敵して、照準器の覗きながら800メートルで引き金を引いて
200メートルで引き金を離して待避。逃げるわけですね。真正面に行くと
ぶつかりますから。
零戦のOPL照準器というのは、ガラス版で下から映像を反射する仕組みに
なっています。映像というのはリングですね。
まず地上で一生懸命、お稽古したのは、今で言うところのシミュレーターです。
当時はシミュレータとは言いませんでしたけど、その装置の仕組みは
B-29の模型をレールの上で走らせるわけです。距離感を掴むために
据え付けた照準器を覗きながら、レールの上を走るB-29に照準するわけです。
リングは同心円で5つぐらいありましたかね。
B-29の翼の大きさがそのリングの3番目か4番目に重なるくらいだったと思う
のですが、そのときが800メートルだからその瞬間に引き金引いて。
リングの一番外側にきたときに200メートルぐらいだから逃げんとぶつかると。
そういう訓練をOPL照準器でやっていたので、同じことを空中でやるわけ
ですけどね、最初だけ照準器のリングで測定してましたが、
何回もやっていると、だいたいがカンで、このくらいが800、このくらいが
200と、わかるようになります。
実戦ではもちろん、向こうから弾を撃ってくるわけですよ。
5発に一発、曳光弾と言って赤い煙を吐く弾でした。最初は白い煙に見えるけど、
近くでみると赤く見える。その曳光弾がまっすぐ飛んできて、自分に当たるような
感じがするわけですよね。でも、当たらずに目の前からヒューっと横に、避けて行く
そういう印象が残ってますね。
そういうことで、弾が飛んでくる。だけど、エンジンがありますからね。
エンジンが盾になって、身体には絶対当たらんという感じがしました。
防弾ガラスなんかなくても、常に安心感がありました。
ただ、頭をやられたらイチコロですからね。
その時はしょうがねえやという感じで、苦しまず一瞬であの世へ行ける
わけですから、恐怖心なんか全然起こらないですね。
で、B-29は多少逃げますからね。
「これは逃げやがる」と、追いかける一心で怖さはあんまりなかったですなあ。
篠原
結局、実戦で逆落とし直上方攻撃は実施しなかったのですね
それは実戦では一度もやりませんでした。先程申し上げた通り、
「やるな」というので。何の為に二ヶ月以上も苦労したんだと思いましたけど。
篠原
巨大なB-29が回避行動を取るのはどのような様子でしたか
この程度ですよね。(B-29の限界バンク角度)
旋回して追いかけて行くとすぐに観念しますけどね。
B-29は編隊を組んでたからあんまり急激な逃げ方はしないんですよ。
ほぼ諦めでしょうね。日本の戦闘機が来るならしょうがないと。
B-29も最初は高度8000だったのが高度5000に下げて来てますからね。
5000ちゅうたら零戦の一番性能の良いところですけれどね。
もう、なめられたなちゅう感じでしたね。
篠原
3号爆弾を実戦でお使いになってますが、戦果はいかがでしたか
3号爆弾を私も一回だけ落としたことあるんですけど
あれは当たらなかったですなあ。上で、早く落とし過ぎたんですよね。
落としてから4秒ぐらいで爆発するようになっとるんです。
バーっと爆発したけど、B-29のちょっと前でしたね
報告では7機落とした奴おりますからね。ほとんど一個編隊。
下士官だったですけど。
それからはB-29も編隊を単縦陣になって、一列で大阪へ
来るようになりました。
篠原
B-29への攻撃は何回経験されたのですか
飛行記録を焼いちゃってますから正確な数は覚えてないんですが
5月、6月、7月の間の2ヶ月半ぐらい60日、4で割ると15。
だからB29の邀撃には。12、3回はあがってますね。
いっぺん上がるでしょう。上がると2時間以上飛びますからね。
B-29は200機ぐらい来てますから、9機編隊だとしたって22個編隊以上
ありますからね。それを次々に攻撃する。3日おきぐらいに上がりました
からね。だからかなり上がってますよね。いっぺん上がったときには
少なくとも10回くらい攻撃してますからね。
何度も攻撃して複雑な運動になると、だんだん高度が落ちるんですよ。
そうしたら今度は前下方攻撃ですね。最初は前上方から、前下方、
最後の編隊になると地上から電話で「これが最後の編隊だ」と言って
きますからね。
それを京都の方へ追っかけていくと伊勢湾へ逃げて帰っていきましたね。
B-29は京都の上に行ったって爆弾を落とさないわけですよ。
余裕があるなと、正直そう思った。京都に一発も落としてませんからね。
アメリカは余裕をもった戦争しているなと、当時から思ってました。
篠原
B-29邀撃の合間に潮岬へ哨戒飛行されたお話を少しお伺いします
潮岬の哨戒は三回くらいは行ってますかなあ。
B-29が来ない日は哨戒に上がっておりました。
哨戒は、のんびりでね。航空糧食といって居眠り防止のチョコレートとか
抹茶のお菓子をもらいから、それを食べながら。本当に飛んでいると
眠くなるくらいです。何もなくて帰ってくると。
それで一回だけB-24にお会いしましたけどね。
あれはもう完全に水平直線飛行で逃げているB-24を
攻撃を繰り返すわけですけれど。
篠原
零戦でも急降下引き上げ時にブラックアウトが起こるそうですが
はい、急降下をやって。ギューっと操縦桿を引いて引き上げるわけですね。
目が真っ暗になります。その時はバっと緩めるんです。
空戦の時もそうですよね。空戦でスピードが出てる時に
操縦桿をグっと引くと、ブラックアウトという感覚が出てきますよね。
そう感じたらすぐ緩めんといけません。失神したら終わりですからね。
緩めると、スっと明るくなりますな。
でも300ノット近くにならないとブラックアウトに
ならないんじゃないですかなあ。主に急降下のときですね。
垂直旋回でのブラックアウトはまずないですね。250ノットくらいなら大丈夫
です。300ノットで急降下、引き起こして、暗くなって、
こりゃいかんと思って緩めると収まる、そういった感じです。
篠原
零戦52型丙は防備も強化されていた飛行機だったそうですが
卑怯だと感じて防弾装備を取り外してしまったとか
ええ、零戦の52丙というような言い方もしてましたけどね
防弾ガラスを取り付けられたんです。四角い5センチくらいの厚みの
ガラスを。風防の前と後ろにひとつずつ。同じぐらいの大きさだったと思います。
要するに前や真後ろから弾が来て、頭がやられないようにと。
頭やられたら終わりですからね。そういうわけで途中で取り着けようとしたん
ですけど、多少は見栄もあったのかもしれません。
「こんな防御装置なんか要らん!命なんか惜しくない!外せ!」
と整備員に言って外させました。本当はあったら命が助かるかも
しれんのですが、そんな卑怯な防弾ガラスと思ってましたから。
事実ね、防弾ガラス越しだと前が見えにくいんですよ。防弾ガラスが
5センチも間に入ると光りが屈折するわけでしょう。真正面がよく見えない
という感じがするからね。あんなバカなもの、見えにくいからはずせといって。
見えにくいというよりも、防弾なんか要らん!ということですよ。
邪魔だっちゅって。はっはっは(笑)
それに防弾ガラスのぶん重量が増すから飛行機の性能にすぐ影響するわけ
ですからね。そりゃいま考えられないけれど、当時はそういう精神状態でした
からね。我々は。教育環境というか小さいころからの気持ちの積み重なり
じゃないですかね。卑怯なことはしちゃいかんと。
いま考えると、おかしいですし軍の組織として考えればいけないことですよね。
せっかく命を助けてくれる、パイロットが消耗しないために考えて着けてくれた
んだと言われても・・・当時はそんなことお構いなしでしたな。
篠原
飛行機のトラブルはなかったですか
そうですね。私が乗った零戦で具合が悪くて下りたということはありませんね。
多少は油漏れとかで機体が汚れた事はありましたけど致命的なトラブルは
ありませんでした。
それにゼロ戦は軽い飛行機だったからエンジン止まってもどこにでも
不時着できるという安心感がありました。非常に操縦し易いし、
安定しているちゅうかね。
篠原
零戦で高度1万メートルまで上昇されたそうですが、いかがでしたか
エンジンはフルで、プロペラピッチは特別調整した覚えはありませんね。
上昇角はほんの少しですよ。少しずつ。少しずつね。少しでも姿勢
傾ければ落ちますからね。
酸素は一定以上の高度でマスクから出てくるのですが全開にしていました。
1万メートルに到達して電話で「只今10500メートルこれから降下する」と
言ったら、それだけで息が切れて。瀬戸内海が地図と同じように箱庭のよう
に見えました。
篠原
士官以上とか飛行隊長は専用の飛行機があったのですか
専用機はありませんでした。割り当ての機番号書いてあればその機番号に
乗るだけで、これはもう隊長機とか、そういうのはありません。
少なくとも私の隊ではそういう事はありませんでした。
私の隊なんかで考えると専用機は考えられないことですな。
汎用の飛行機で、古い型と新しい型はあったと思いますけれど
そういう区別はつけられていなかった気がしますね。
当時、飛べる飛行機の機番号書いて、搭乗割をバーっと
何も考えずに駆け込みますからね。
これはあの隊長の飛行機だとかは聞いたことはありません。
どれでもいい、みんな52型でしたけれどどれでもみんな
同じように良い飛行機だというような感じでしたな。
篠原
第332海軍航空隊の零戦の日の丸には白いフチはあったんですか。
なかったっと思います。淵なしでそのまま日の丸が
描いてあったと思います。
篠原
紫電改についての印象は如何ですか
一度、第343海軍航空隊の紫電改が燃料補給に降りてきたことが
ありましてね、そのパイロットが予備学生出身のパイロットだったん
ですが、いま四国で邀撃にあがって3機グラマンを落としてきたと、
指をこう三本やってね、自慢そうに話していたのが記憶に残ってます。
だから我々から見れば紫電改っちゅうのは憧れの飛行機でした。
目の前で作ってましたしね。
零戦が本当に良い飛行機でしたから後が続かなくてね
もうちょっと早くに紫電改を作っておればね。
篠原
雷電の印象は如何ですか
あれだけは乗りたくなかったですね。殺人機と言われましてね、
マグロに羽根をはやしたような格好で、ずんぐりむっくりで。
エンジンは消防車みたいな音がして。操縦席に座ったら視界も悪い。
それで一応、操縦のマニュアルをもらったんですがね。
「貴様らも、いよいろ雷電に乗せるぞ!」と言われていたんですが
最後まで乗らずに零戦でした。
篠原
関行男大尉が霞ヶ浦で教官だったのですね
ちょうど関さんにフィアンセが出来た時代が私どもが霞ヶ浦におるときの
教官でしてね。フィアンセが面会にきよったですよ。
それで我々学生が「おい!あれ関さんのあれだぞ!」といって見てました。
それで結婚してすぐですからね。敷島隊の特攻は。
教官は海兵70期で10何人くらいいらっしゃいましたけどね。
関さんも我々から見れば普通の人でしたよ。
亡くなった軍神に対して申し訳ないけども。
印象的だったのは言葉遣いでした。関さんは
「てめえたちはなんじゃい!」というような怒り方をするんですよ。
「てれんこてれんこしやがって!」とかね。よく覚えてますよ。
普通は「貴様たちはなんだ!」というような怒り方をするんですが
どちらかというと関さんはヤクザ言葉でしたね。
※篠原補足
当時、霞ヶ浦航空隊の教官は
海兵70期が主力で関行大尉、市川大尉(戦後海自)
余田大尉(戦後八戸沖で殉職・当時石井)など。
※
◆8月16日の特攻隊編成
篠原
昭和20年8月16日に特攻隊を編成してというお話しですけれども
海兵出身の方が先頭で
我々は海軍兵学校出身のプライドを持ってましたからね。
俺たちは本当のの軍人だと。予備学生出身の方は
大学行って勉強していたけれど、戦争のことは勉強していないでしょう。
それで我々が率先して行くのは当然だというような考えでね。
永遠のゼロなんか見ますとね、投票箱みたいの置いて
希望を書いて部屋を出るとき出せと言ったとか。
我々から見たらバカなことをやってるなと思ったけど
事実そんな事あったんかなと思ったんですが、我々の時なんかは
そんな書いている暇なんか無いんですよね。16日の夕方、総員集合と
言われて集まって、
「明朝を期して特攻隊をやるから特攻隊を編成する!飛行士、やれ!」
と。それからいちいち希望なんか聞いていないわけですよ(笑)
「わかりました、やりましょう」ちゅうて
それで士官名簿で海軍兵学校出身の者を上から順に書いて。
ただ、予備士官が途中に入っていたからそれを外すわけですね。
外したんです。我々先任がおったけれども、予備学生出身と兵学校出身は
名簿を見ればはっきりしてますからね。
それは私と同じ中尉でも13期の予備学生がいっぱいいましたけれど、
私達より早く中尉になってる人がおるんですよ。13期も二種類ありましてね、
大学出身の13期と高等専門学校出身の13期がいるんですよ。
高等専門学校出身は少尉でした。
我々、海軍兵学校出身の中尉、それから大学出の人は中尉と
一部に大尉が居ましたね。だからあれはどうしてなのか、
大学から召集したときの時期の違いがちょっとあたったので
差が出たんだと思います。で、予備学生はずして我々をぜんぶ入れて。
足りない分を予備学生を入れた訳です。
だから幹部だけで間に合ったから。特攻隊の出撃名簿に
下士官はひとりもいなかったんです。
その命令を出した後も私は残務整理がありましたから、指揮所に
残っていましたら予科練出身の下士官5名程が私のところへやってきて
「何故、士官だけ特攻へ行けて我々予科練出身者は出撃名簿に入れないのか」
と詰め寄られました。
私はそれは最初は嬉しかったですね。
嬉しかったっちゅう意味は、戦争終わったんだから普通はね、ああ、これで
命助かったなーと思うでしょう。だから戦争終わってから特攻に行くなんて
考えられないことだけどもね、
下士官が来て、なんで士官だけ行って俺たちを行かせないんだと言ってね。
終戦後の特攻に希望してきましたからね。涙流しながら来たんですよ。
鳴尾には150機くらいの零戦が残ってました。8月16日にはその内の
40機くらいが飛べるようになっていたから40機の特攻隊を編成したわけです。
「飛行機はいっぱいある。我々が40機で特攻に行っても、あと110機
残ってるから、整備すれば10機でも20機でもまた次の日飛べるように
なるから諦めんでいい。後に続いて来い」
そう言ってなだめたんですけどね。それでも一人だけは最後まで、
「分隊士!分隊士の座席の後ろに積んでいってくれ」と。
そういうのがおったですね。嬉しかったですねえ。
篠原
中島さんご自身は中尉で士官ですからご自身は16日に特攻に行かれて
部下である下士官は助かれば嬉しいというお気持ちだったのですね
ええ、普通なら下士官は助かるでしょう。予備学生も私たちが勝手に
指名したわけですが「なんだ」と不満に思われた方もいらっしゃると
思うけれども、それはさすがに士官ですから何も文句は言っては
きませんでした。
文句というか、逆に行かせろと言ってきたのは、さきほどの特攻の選抜から
漏れた下士官が言ってきただけですよ。だからやっぱり、みんなの
心理状態がそういう状態だったんですね。
我々海軍兵学校出身者の軍人はアメリカが占領して進駐してきたら
どうせ殺されると思ってたですよ。
だから死に場所が与えられたからありがたいと思ってましたよ。
みんな指名されたから喜んでいるくらいですよ。正直言ってそうです。
下士官もまだ18歳ぐらいじゃないですかねえ。
やっぱり私は嬉しかったですよ。
こういう人たちまで若いのにみんなそう言ってくれるかと思って。
そしてあんまりに、俺は明日特攻で死ぬんかというそういう切実な
気持ちは無かったですなあ。正直言って。
普通の邀撃にあがるのとおなじぐらいの気持ちでいましたね。
特攻を命じられて不満を漏らすものは一人も居ませんでした。
篠原
当時は、戦死した後は靖国神社にまつってくれるから安心だと
感じていらっしゃっていたのですね
戦死した後の事は・・・
当時は戦死者の家族に対してはものすごく尊敬を払ってましたし
そういう人たちの遺族が苦労しているという話は全然聞きませんでした。
戦死者の遺族に対する手当てが具体的にはどういうものだか
知りませんでしたけど、自分が死んだらちゃんと国が家族の
面倒見てくれるはずだと思ってるから安心でした。
遺族年金なんかも出るでしょう。そんな言葉は当時は
知らなかったけれど、そういうのが出て安心だと思う
から、後の事は心配は全然しませんでしたね。
「俺はこれで死ぬかもしれない。一人息子の俺が死んだら
両親は寂しくなるが、戦没者の遺族として国が面倒を見てくれるし
神として靖国神社に祭られるのだから心配ない」
何の憂慮もありませんでした。
つづく
証言者プロフィール
◆中島又雄さん(元海軍中尉)
海軍兵学校73黄卒業。霞ヶ浦航空隊(第42期飛行学生)を経て
第332海軍航空隊着任。岩国で対重爆撃機邀撃の為の再錬成ののち
零戦52型、52型丙に搭乗し対B-29本土防空戦を行う。
戦後は海上自衛隊勤務。海将。
※画像の零戦はイメージであり、中島又雄中尉搭乗の零戦とは関係ありません
貴重な取材レポートの掲載ありがとうございます。
いつも大変興味深く、拝見しております。
投稿: 陽太郎 | 2016年11月26日 (土) 00:48
陽太郎様
ありがとうございます。
録音した素材や、これからインタビュー予定の方々も控えており
これからも少しずつ増やして行く予定であります。
いつもご覧くださいましてありがとうございます。
投稿: 篠原 | 2016年11月26日 (土) 07:04
初めましてコメントいたします。
約10年前に亡くなった父が予備学生13期で三三二空にいました。
戦争中のことはほとんど話さなかったので、8月16日に特攻隊が編成されたことも知りませんでした。
今更ながら父のことを知りたいと色々と調べております。
これからもHPを拝見したいと思います。
投稿: 杏子 | 2016年11月26日 (土) 19:39
杏子様
ありがとうございます。
先日もお会いして8月16日の特攻の話を聞いて参りました。
こちらの記事も少しずつ記事を更新して参ります。
どうぞよろしくお願い致します。
投稿: 篠原 | 2016年11月28日 (月) 17:32
篠原直人様
はじめまして。
大阪地区の防空戦を調査している者です。
掲載されている「専用の飛行機」についてのお話で、思い当たることがありましたので、コメントさせていただきます。
「専用の飛行機」については、中島又雄中尉はなかったとされています。中島中尉の在隊期は、司令・八木勝利中佐の時代でしたが、前任の柴田武雄中佐時代では違いました。当時の飛行長・山下政雄少佐が、申請すれば専用機を使えるようにしていました。その具体例としては、分隊士・林藤太中尉(当時)の愛機、零戦五二型丙夜戦(32-82)がありました。
また、開隊から終戦まで、332空の雷電には小隊長機用の塗装があったようです。機体番号の下に、味方識別帯と同色の横帯一本を描いていたそうです。この塗装は、終戦後の鳴尾海軍基地を撮影した写真からも確認できます。
以上です。長文失礼いたしました。
投稿: 塩鯖上飛曹 | 2023年10月26日 (木) 21:43