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2016年1月30日 (土)

水野中隊長の初陣

昭和19年、ここはビルマの最前線。 それまで工兵中隊を率いてきた
中隊長の戦死によって、 急遽、派遣された新任の水野中隊長は、
陸軍士官学校を卒業した中尉と雖も実戦経験は無く、
歴戦の部下を指揮しなけらばならなかった。
 
最前線の戦局は士官と雖も解らない。参謀本部からは
「目前の敵を殲滅せよ」 それだけが下令されている。
部下たちは一様に思った。命を預けるには、あまりに頼りない中隊長だ。
それでも互いに命令とあらばやむなし。
真新しい軍服を纏って、水野中隊長の初陣である。
 
やがて戦闘に突入した。 敵から無数の銃弾が飛んでくる。
熾烈を極めんばかりの 修羅場である。中隊は全員、その場に伏せて
反撃の機会を伺う。 その弾幕の中で水野中隊長の部下は我を疑うような
光景を目にした。 水野中隊長が たったひとり、銃弾飛び交う真っ只中に
ヘルメットもせず、あの真新しい将校の軍服で中腰になり、背筋をピンと
伸ばして佇んでいるではないか。 これでは敵の格好の標的である。
 
この奇妙な様子を歩兵中隊で同期の橋本中尉が数十メートル後方から見ていた。
「おい!!水野!なにやってんだ!伏せろ伏せろ伏せろ!!」
助けに行くこともできず、 熾烈な銃声にその声はかきけされた。
 
この戦闘は日本が勝利を収め 奇跡的に水野中隊長も無傷であった。


・・・・・時は経って、平成27年
戦友会でも事ある毎この話題が出て尽きることはない。
 
「昨日のことのように思い出すよ。俺はあのとき水野はもうダメだと思ったよ。
勇敢だったなあ」
95歳になった橋本がコーヒーを片手に語りかける。
 
同じく95歳の水野が答える。
「あのときは戦死した前の中隊長の遺骨を抱いていたから 伏せられなかった
んだよ。でもあれで良かったんじゃないかな。 僕は鉄砲もほとんど撃ったことが
無いのに派遣されてきたばかりだったから部下にどうやって信頼してもらったら
いいか、考えていたんだ。 それで、戦死した前の中隊長の力を借りようと思ってね。
僕の命令なんか聞かなくていいからこの前の中隊長とともにみんな前進してくれ、と
いう思いを込めて遺骨を抱えて最前線に行ったんだよ。」
 
「こっちからの角度じゃ、遺骨を抱えているなんてまったくわからなかったな
何をやってるのか、全然わからなかった」
 
水野中隊はその戦闘以降、部下の信頼が一気にあがり 終戦まで生き残った。
戦友会での会話の一コマである。 これは単なる武勇のエピソードでなく
当時の若者たちがいかに、真面目に、国ために尽くしていたか
それを物語る重要な証言として書いた。 先の大戦で多くの若者が亡くなった。
きっと こういったエピソードは膨大な数が存在するのだろう。 その多くが語り継が
れることなく、命とともに消えて行った。


  
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コメント

とてもすごい話ですね。
確かに指揮官として信頼してもらうには、勇敢であるか余程の誠意を示すしかないと言われますが、ここまでできる人はそういないでしょうね。
自分がもしその場所にいたなら、何ができただろうかと思いますね。

ミッドウェイの 大ジオラマを製作、そして第343海軍航空隊搭乗員データーベースといい、
気の遠くなる様な作業ですね。
私達はジオラマ完成品、そして搭乗員のデーターベースを見せていただくだけで、「大変だっただろうな」と思うのですが、その大変さは御本人しか分らないと思います。
ほんとうにお疲れ様です。

事は違えど、先の戦いにしても同じことが言えると思います。
戦場にいて経験した人でないと本当の痛みは分らないでしょう。
しかし、その痛みのほんの少しでもいい、理解させて頂く事が英霊の皆様の御供養になるのではと思っています。
また、英霊の皆様から生かされている日本国、我々の務めだとも思っています。

靖国に眠る護国の英霊 246万6千余柱の皆様、その全てに一人一人違う物語があります。
しかし、唯一つ同じなのは「国を護る」この一念で散華されました。
感謝です。


金澤様
ありがとうございます。元中隊長の
人柄を感じるエピソードだと思います。
いきなり戦場に放り込まれ、
部下の信頼を得るということは大変なことですね。

山崎様

ありがとうございます。
おひとりおひとりの名前を書き残すことが、
これもひとつの慰霊の方法かと感じるようになってきました。
一人一人の物語があるのだなと考えながら書いています。

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