パラオ人による斬込隊編成
パラオの戦いでパラオ人(民間人)の犠牲者が少なかった理由は、先ず運が良かったことです。
(民間人の犠牲100~200人と推測される。ベラウナショナルミュージアム資料より)
1944年(昭和19年)3月の空襲を受けたパラオの日本守備隊は
ペリリュー、アンガウル両島の島民の多くを、バベルダオブ(パラオ本島)へ疎開させました。
※それでも、アンガウルには僅かに島民が留まりました。一方、ペリリュー島は一人残らず疎開
したと伝えられていますが、実際はこちらも僅かに残っていたと推測されます。
その後、軍と軍属のみとなった両島で上陸戦が始まるのですが、この両島上陸作戦
(通称ステイルメイト・ステイルメイト2作戦)で大痛手を被ったアメリカ軍は、パラオ本島の
上陸を諦め、兵糧攻めを企てます。よって終戦まで疎開先であったバベルダオブ島(パラオ本島)
で白兵戦が行われることはありませんでした。
原則的に、日本軍が民間人に戦闘を強要することはあり得ません。
パラオの場合、司令部が本島にありましたから、命令系統が良く行き届いたこと
が、まずひとつ、それで民間人の犠牲を抑えられたのと、何といってもアメリカ軍が攻略を諦めた点に
あります。
決戦の準備を整えていた司令部を含むパラオ本島の部隊は、このアメリカ軍の兵糧攻めによって、
戦わずして4800人以上の兵が餓死、または病死しています。
パラオ人の中には自ら「私達も一緒に戦わせてほしい」と願い出るものが居りました。
しかし、軍はこれを一切認めることはありませんでした。戦争末期には本島で
「パラオ人斬込隊」が編成されますが、実戦に至ることなく終戦を迎えました。
この斬込隊、日本軍の軍規の大原則、民間人を巻き込んではならないという点からすれば
あり得ない事で、一部の軍規に反する将校が企てたか、あるいはパラオ人有志によって自ら結成したか
いずれかでしょう。
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