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2012年7月24日 (火)

「私達も一緒に戦わせて欲しい」アンガウル玉砕戦

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◆アンガウルの戦いを、どうか忘れないでください。


これだけの兵力差がありながら約1ヶ月間もの間、
抗戦を続けたアンガウル島守備の宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言えます。

私は生まれも育ちも栃木の宇都宮で、その縁あって
パラオでの慰霊を続けています。近所にも遺族がお住まいです。

ペリリュー島ばかりが目立つけれど、アンガウル島の戦いも
どうか忘れないでください。

◆ペリリュー島では民間人の犠牲者がゼロだったと
美談の如く、流布されていますが、間違いです。ペリリュー島でも
疎開せず隠れていた島民がおり、犠牲になった島民の方が存在します。
さらには「わたしたちも戦わせてほしい」と島民が
申し出たといった逸話も、やはりアンガウルが発端です。

◆昭和19年10月19日、そのアンガウル島で最後の突撃間際に島民と
松澤豊中尉(砲兵第二中隊小隊長、長野県出身)の間で交わされた会話が
あります。
次のようなものでした。

島民「わたしたちも一緒に戦わせて欲しい」

松澤中尉「皆さんは日本人でないのに今までよく協力してくれました。
我々軍人は祖国日本の為に死なねばなりません。皆さんはその必要は
ありませんから投降して米軍の保語を受けなさい。これは後藤隊長の厳命です」


◆米軍による投降勧告は9/25以降続けられていたが
10月に入り、今まで糧秣搬送、陣地監視に協力していた
島民の投稿が出てきた。(松澤中尉のすすめなどあり)
10/9まで168名(栄養失調150名)投降した。※

※栄光の五九聯隊246頁より


◆以下資料
アンガウル玉砕戦

■アンガウルで上陸戦が開始されたのはペリリュー上陸の二日後、
9月17日であった。
上陸したのは米陸軍第81師団の2コ連隊、砲兵4コ
大隊(50門)戦車1コ大隊(M4戦車
50輌)基幹の約21000名で日本守備隊
(兵站等含む総勢1200名)の20倍の大兵力であった。

日本守備隊はアンガウル島でも複郭陣地に潜みゲリラ戦を展開し、徹底抗戦した。

■10月19日、守備隊長後藤少佐は最後の斬り込みを敢行。守備隊は玉砕し
アンガウルの組織的戦闘は終結した。これだけの兵力差がありながら
約1ヶ月間もの間、抗戦を続けた宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言える。

アンガウルでの戦没者 陸軍1144名、海軍6名 合計1150名
米軍の戦死260名戦傷1354名

ペリリュー玉砕戦

■上陸戦は昭和19年9月15日に開始された。
アメリカ軍戦力は第一海兵師団24234名、予備隊として陸軍第81師団
19741名。総勢48140名

重機関銃1436挺、火砲迫撃砲から榴弾砲など729門、ロケットランチャー180門、
戦車117輌。

これに対し、日本軍守備隊は9838名。主要兵器は機関銃58挺、
13ミリ対戦車砲から
105ミリ曲射砲まで火砲200門程度、軽戦車17輌。

兵力で比較すると四倍、機関銃は6倍、火砲3.5倍、戦車10倍であった。

さらに、沖合を取り巻く艦船や艦載機により、ペリリュー島へ対する事前の砲爆撃は
熾烈を極め、艦砲射撃で3490トン、空爆で507トンもの爆弾が投下されていた。

■海兵隊を率いるリュパータス少将はこの圧倒的優勢を楽観視し
戦闘は二日ないし三日で
終わるであろうと予想した。しかし、日本守備隊は
水際作戦で海兵隊に大打撃を与え、
上陸後も複郭陣地を利用したゲリラ戦を展開。

この戦いで水戸第二連隊全部隊、高崎第十五連隊(内、第二大隊、第三大隊)
海軍(応急)陸戦隊が玉砕した。

■11月24日16時、守備隊長の中川大佐は、玉砕を告げる電文
『サクラ・サクラ』を連送し、自決。

これをもって守備隊の組織的戦闘は終結し、米軍は事実上のペリリュー島
占領を達成した。

■この後もなお抗戦を続けた将兵が存在した。最後の34名が澄川道男少将の
説得、
命令解除によりようやく戦闘を中止したのは降伏から2年を経た
昭和22年4月28日であった。

■アメリカ軍の戦死傷者は8844名(戦死1684名)でさらに錯乱や精神異常を
訴える者が続出した。

2012年7月21日 (土)

マルキョクの朝鮮人慰霊碑-パラオにもあった捏造問題

IMGP0957

マルキョクにある朝鮮人慰霊碑へ行ってきました。
※韓国人慰霊碑」と刻まれていますが、当時、朝鮮半島は現在の
ように南北に分断される前で、当然、現在で言うところの北側の
方々も居たでしょうから、朝鮮という表現を用いることに致します。

私が訪れたこの時も、韓国人観光客がツアーの途中で立ち寄っていました。
日本の慰霊碑と違い、除草が行き届いていますね。日本の慰霊碑は本島
(ガスパン等)にありますが日本人が慰霊に訪れることなく草が伸びる一方です。
日本と韓国の認識の違いがはっきりと出ていますね。

さて、この慰霊碑、碑文は立派なのですが・・・
ひとつ、問題があります。

犠牲者の人数なのです。

この戦争によって朝鮮人が犠牲になったのは事実ですが、
慰霊碑に刻まれている人数が事実と異なり、あまりに多すぎるのです。

この点は日本の立場から事実に基づき、しっかりと抗議しなくてはなりません。
韓国といえば最近では慰安婦問題で記念館を建設したり、それがアメリカ本土に
まで及んだりと問題となっていますが・・・

実はパラオでも同じ問題があるのです。

2012年7月17日 (火)

パラオ人による斬込隊編成

パラオの戦いでパラオ人(民間人)の犠牲者が少なかった理由は、先ず運が良かったことです。

(民間人の犠牲100~200人と推測される。ベラウナショナルミュージアム資料より)

 

1944年(昭和19年)3月の空襲を受けたパラオの日本守備隊は

ペリリュー、アンガウル両島の島民の多くを、バベルダオブ(パラオ本島)へ疎開させました。

 

※それでも、アンガウルには僅かに島民が留まりました。一方、ペリリュー島は一人残らず疎開

したと伝えられていますが、実際はこちらも僅かに残っていたと推測されます。

 

その後、軍と軍属のみとなった両島で上陸戦が始まるのですが、この両島上陸作戦

(通称ステイルメイト・ステイルメイト2作戦)で大痛手を被ったアメリカ軍は、パラオ本島の

上陸を諦め、兵糧攻めを企てます。よって終戦まで疎開先であったバベルダオブ島(パラオ本島)

で白兵戦が行われることはありませんでした。

 

原則的に、日本軍が民間人に戦闘を強要することはあり得ません。

パラオの場合、司令部が本島にありましたから、命令系統が良く行き届いたこと

が、まずひとつ、それで民間人の犠牲を抑えられたのと、何といってもアメリカ軍が攻略を諦めた点に

あります。

 

決戦の準備を整えていた司令部を含むパラオ本島の部隊は、このアメリカ軍の兵糧攻めによって、

戦わずして4800人以上の兵が餓死、または病死しています。

 

パラオ人の中には自ら「私達も一緒に戦わせてほしい」と願い出るものが居りました。

しかし、軍はこれを一切認めることはありませんでした。戦争末期には本島で

「パラオ人斬込隊」が編成されますが、実戦に至ることなく終戦を迎えました。

この斬込隊、日本軍の軍規の大原則、民間人を巻き込んではならないという点からすれば

あり得ない事で、一部の軍規に反する将校が企てたか、あるいはパラオ人有志によって自ら結成したか

いずれかでしょう。

 

パラオ地図

2012年7月14日 (土)

恒久平和

以前にも紹介しましたがペリリュー島のミュージアム(戦争博物館)は

大戦中、日本守備隊が弾薬庫として使っていた建物を

そのまま利用しています。その隣にこのような慰霊碑があります。

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広島で被爆した岩が埋め込められています。ぜひ碑文を拡大してご覧ください。

「原子爆弾が投下され、悲惨な思いをした日本は、平和憲法を制定し

二度と侵略戦争をしない」旨、刻まれています。

 

IMGP0984

恒久平和を願う気持ちは万国共通の思いです。

しかし、その平和は願うだけでは実現しないのです。

 

平和は乞うものではなく、護るものです。

現実に、平和を乞い願う多くの国や地域が戦争に巻き込まれています。

 

例えば、永世中立国のスイスがどれだけの血を流したことでしょうか。

(スイスはナチスドイツが進攻を断念した唯一の国でありました)

平和は我々自身の知恵と行動によって初めて実現するものです。

その為には歴史から学ぶことが不可欠です。

シナ事変と日本の真珠湾攻撃、そして原子爆弾の投下まで

なぜ起きたのか。考えてみる必要があります。

無罪と無実は違う

Imgp0985

  
パラオ・ペリリュー島にこんな慰霊碑がある。
戦争博物館(海軍弾薬庫跡)の隣だ。
  
「ひろしま・祈りの石の会」という団体が作ったもので
世界中に同じものを建てているようだ。
 

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これだけは少々場違いな気がしてならない。 
米国は原爆投下の大義として「戦争の早期終結」を主張する。
確かに、広島と長崎への原爆の投下によって戦争は早く終わった
かもしれない。 
 
しかし、原爆投下が無差別大量虐殺であることに何ら変わりない。
アメリカは間違いなく大罪を犯した。
ただ、裁かれることがなかっただけだ。
 
無罪と無実は違う。
 
パラオに限っていえば歴史上、侵略戦争云々とは関係ない。
国連から統治を委任された、正式な日本の国土であった。
アメリカが戦争で奪いにきたものだから、国土を守るために血が流れた。
ただそれだけだ。
 
戦後、アメリカの事実は無罪となり、日本の無実は有罪となった。
 
戦争は悲惨だと、目を瞑ってはいけない。
誰だって争いなんか好まない。日本人はみんな穏やかで清らかだ。
だけど目を瞑っていたらナイフを持った奴が背後から近付いてくるかもしれない。
 
どうか、みんな一緒に考えてほしい。

2012年7月 8日 (日)

新しく出てきた待避壕

つい最近のことです。
ジャングルが切り開かれ、大きな待避壕が姿を現しました。
艦砲射撃や空爆、そして火炎放射で丸裸になったペリリュー島も
いまでは緑が蘇り戦跡も多くがその姿を覆い隠しています。
  

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しかし、まだまだ目に触れず、 隠れている壕が多くあるのです。
ご遺骨はもちろんですが、 土日を除いた毎日、不発弾処理も続けられています。
 

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反対側を撮影したところです。壁面に多くの弾痕があります。
分厚く重い鉄の扉を開いてみました。中は真っ暗で、瓶や遺品が
散乱していました。 ご遺骨を踏んだらいけませんので、入口から
覗いただけで中へ入ることはしませんでした。