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2016年3月22日 (火)

第三四三海軍航空隊(彩雲隊)杉野さんのお話

元三四三海軍航空隊第四飛行隊(奇兵隊)で彩雲に
乗っていた杉野さんにお話を伺った。
 
杉野富也さんは福岡県三池郡出身。
予科練乙種の18期(土浦海軍航空隊)出身で
第343海軍航空隊偵察第四飛行隊(奇兵隊)へ配属。
「彩雲」に搭乗し電信員を務めた。邀撃戦でエンジン不調、引き返す。
その後ペアが爆撃で負傷の為、鹿屋で待機中終戦を迎える。
戦後は海上自衛隊で飛行艇搭乗員と教官を務める。
 
Q、彩雲は誉エンジンですが
 
A、杉野氏
あいつはよくなかったですねー。
 
Q、故障が多いということですか。
 
A、杉野氏
ええ。
 
Q、予科練では乙の18期ですね。
 
予科練(乙18期)では適性検査といって
敵性を見るために四回操縦桿を握らせるんです。
それを土浦海軍航空隊で、水上機でやりました。
 
Q、同期の話をお伺いします。
 
A、杉野氏
乙18期の同期は実戦に出てきたのが昭和20年の4月頃ですからね。
同期でも偵察は半年したらもう実戦部隊に出てますからね。
訓練はナビゲーションとトンツーが出来ればいいんですから。
だから昭和19年10月11日に私らは実戦部隊に出て
私は教育部隊の班長になったんですけどね。
 
中島という同期が当時、百里原で九九艦爆の教官をやっていました。
片一方は同期でも練習生ですよ。同じ同期でも一方は教員で、
もう一方は練習生。バッターくらって、それが終わってようやく出てきたら
特攻で死んでるんですよ。随分違いがあるんですよ。
だから彼らは本当に可哀相だったですね。
 
横浜出身の同期は姫路航空隊を出て串良から九七艦攻で特攻行ったんです。
そいつがね、大きな爆弾を積んで離陸するとき先任搭乗員に
離陸の仕方を教えてもらって離陸したようなんですよ。
ようやく飛べる状態ですよ。先任搭乗員から「離陸はスピードがつくまで
操縦桿を押さえて引くな」というようなことを教えてもらったそうですよ。
 
愛知県小牧出身の土屋関男、これも同期ですが
松山の基地から出て行ったのが5月13日。
沖縄の偵察に行って帰ってこんかったですね。
あいつはまだ18くらいじゃなかったかな。子供みたいな顔しとったですよ。
 
◆零式練戦の特攻機を見送る
 
松山の基地で、実際に私がチョーク外して見送った零戦の練習機がありました。
4月の5日か6日かな。城山の桜が満開の頃に、4機編隊の
零式練戦が茨城の矢田部から松山へ飛んできたんですよ。これが同期の
藪田博二飛曹(大阪)と黒野義一二飛曹(兵庫)と吉永光雄二飛曹(鹿児島)と
川端三千夫二飛曹(和歌山)でした。※1
この四人の写真が護国神社の
神楽殿にあるんですよ。背の小さいのが藪田です。
四人で編隊組んで降りてきたんで私は
「おーいお前ら、基地移動訓練か」って聞いたんです。そしたら
「いや、今から鹿屋に行って特攻だ」と。
 
土地の名前がついている航空隊は練習航空隊なんですよ、
番号が実施部隊。だから矢田部で訓練終わったばかりで出て来てるんです。
それも零戦の練習機で。あいつらは・・・いつ死んだんかな。
 
◆同期の神雷部隊を見送る
島雄順次郎という一番仲の良かった奴が居るんですよ。
予科練と飛行練習生の半年と、レーダー講習の2ヶ月と
全部で1年半近くも私と同じ班で、一緒に飯食ったんです。
こいつが、予科練で体操のナンバーワンだった。
それが高知の練習航空隊で転勤命令受けてね、急いで出て行こうと
してたんですよ。私は
「島雄、ちょっと待て待て、とにかく慌てて出て行く必要ないよ。
夕方まで待てよ。俺外出して後免の駅まで送るから下宿で待ってて」
と言って止めたんです。後免の駅で2月1日手を握って別れるとき
 
「島雄、今度は俺が転勤しそうな感じがする。お互い長生きしようぜ。死ぬなよ」
って言って別れたんです。奴はそれからちょうど50日目の3月21日、
鹿屋から神雷特攻で死んだんです。一式陸攻の野中五郎さん。
あのときの神雷特攻で同期が9名戦死してるんですよ。
 
私は5月22日に鹿屋に行きましたからね。
ペアが爆弾で吹っ飛ばされて鼓膜破ってしまって
6月の初めから7月7日までフライトなしでしたから
航空弁当持って戦闘指揮所に居ました。
 
夕方になると、一式陸攻が桜花を抱いて、滑走路をいっぱいいーっぱい使ってね
上がっていくんですよ。ウワンウワンウワンウワンって(抑揚の大きな音)
本当にフルパワーでね。もういっぱいいっぱいで。ようやく離陸していくんです。
零戦が爆弾抱いて上がっていくのも見ましたけど、桜花抱いた一式陸攻は
可哀相だったですね。
 
◆鹿屋で同期の白菊特攻を見送る
それから白菊特攻で出ていった同期を
手握って鹿屋の基地で送ってやったんですよ。
白菊なんて本当に可哀相だったですよ。機上作業練習機で。
 
有賀康男一飛曹は岐阜(長野かも?)の奴でした。
これは優秀だったんですよ。偵11の同級生が「俺は小学校のとき
勉強から何から全て有賀に勝てなかったよ」って言ってました。
 
6月19日の夕方に戦闘指揮所に居りましたら
迷彩してある白菊が次々飛んできて降りるんですよ。
双眼鏡でパッと見たら高知のマークがついてるじゃないですか。
 
「わー高知の練習白菊隊が来た」ってその場ほったらかして走っ
て行って降りてきた白菊を途中で止めてねそしたら同期の奴が乗っとった。
熊本の杉村ちゅうのが。「乗っていいか?」って聞いたら「乗っていい」という
からドア開けたら500キロのマグロみたいな爆弾が座席の横にワイヤーで
くくってあったですよ。「信管抜いてあるから大丈夫」というんで
それに乗って待機所まで行ったんですよ。

そしたら「おおい、杉」と呼ぶので見たら有賀だったんですよ。再会です。
そこに基地の分隊士で教官だったミサワさんが来て
「杉、お前、何乗っとるか」というから「彩雲です」といったら
「おお、いい飛行機に乗っとるなあ」と喜んでくれてね。
 
有賀からは
「自分らは白菊で特攻に行くんだ」と聞いて
「こんなオンボロで?」と思いました。白菊はプロペラは桜の木で
出来てるって聞きました。翼はハンプで、帆かき船の帆。
あれに塗装してあるだけですよ。乗ったらボコボコ。胴体はベニア張り。
それに500キロ爆弾。翼にはぶら下げてなかったですね。
翼に250キロずつぶら下げたら翼がもたんかたんじゃないですかね。
だから、胴体の座席の横に500キロを積んだんだと思います。
 
翌朝、奴は「杉、先に行って待ってるぜ」って言って出て行ったですね。
これだけは忘れませんね。
 
有賀は、「ワレ突入ス」まで打ったんです。
駆逐艦か何かにぶちあたったんだそうです。
ミサワさんが米軍のラジオを傍受していて命中したのを
確認してるんですよ。奴は指揮官機だったから無線機を積んでいた。
 
それ以前の5月24日か25日に高知か徳島の白菊が、串良から特攻に
出てるんですけど(5月22日に、高知は鹿屋に、徳島は串良に)
私ら彩雲は同じ日に鹿屋に行ったけど待機所や時間が違うから全然
知らんかったですよ。あとで特攻に行ったのを聞きましたですけどね。
その時、飛び上がって1時間ぐらいしてからですね、生電、いわゆる
暗号に切り替えてない電報で
「お父さんお母さんさようなら」とか「お姉さんあとを頼む」
「〇〇さんお世話になりました」とか「みなさんによろしく」とかね、
1時間くらい生電が飛んだんだそうですよ。そのうちに
ヒ連送、ヒ連送というのは「ワレ敵戦闘機ノ追跡ヲ受ク」とかですね。
そういう暗号なんですよ。それでピタっと止まった。
この話はミサワさんの白菊特攻に書いてあります。
 
それから電信機はみんな降ろされて。だけど
有賀の奴は指揮官機だったから積んでいたんですよ。
でもね、本当に哀れですよ。
 
私は今でも毎年、高知の慰霊碑にはお参りに行きますけどね。
今年は有賀が出て行った6月20日に行きました。
もう私一人になりましたね、お参りに行くのは。
島雄と有賀の話は中学校でも小学校でも愛媛大学でも(講演会で)
どこへ行っても話すんですよ。
 
◆その他

Q、戦後海上自衛隊では飛行機乗られたんですか。

A、杉野氏 
ええ。PVに乗って、それから大村に行ってJRFグースゆうて
飛行艇ですね。それからPBYカタリナ、UF2、そこまで乗って地上勤務に
なりました。大村で地上の教官過程ができたんですよ。
トレーナー使って計器飛行の指導とか簡単なシミュレーターですね。
フードかぶって。そいつで計器飛行のやり方をしとったですね。
実際に教官配置でしたのは13年半ぐらいでした。
岩国に1年、宇都宮に行って、宇都宮3年。それから小月(山口県)に
行って9年。ここは海上自衛隊の練習航空隊があります。
最後は三佐にしてもらって、飛行隊長の下に飛行班長と飛行教育班長と
地上教育班長といて、私は地上教育を受け持ってました。
 
最後は下関におりましたが、計器飛行をやっていて
「これは敵性無しだから落とせよ」っていう防衛大出の人がいたんです。
危なかった。でもやめないからフライトの教官に、やめさせたほうがいいよって
言ったんです。結局、それが岩国の飛行艇で高知の檮原に激突して
11名全員殉職です。それが昭和53年の事故だったかな。
昭和53年のついの頃です。やっぱりついの頃には航空事故が多いんですよ。
視界不良でね。
 
それから覚えてるのが、山田さんっていう甲の1期の人やったけど
あの人がなんで死んだか不思議なんです。とても慎重な人でしたから。
海上自衛隊で最後は二佐だったかな。旧海軍時代は「東海」という
対潜、潜水艦用の急降下爆撃機に乗っていたみたいです。

木更津か豊橋の基地だったか。その前は、水上機だった。
戦争生き残って、海上自衛隊生き残って(定年退官)
その後、民間航空に行って、鈴鹿山脈のどこかに突っ込んだ。
事故の原因がわからなかったんですが、おおむね黙って死ぬのは
山だということです。海の上だったら何とか電波を出します。
だけど突然山に衝突したら電波出す間もないから、黙って死んだときは
だいたい山を捜せばいいよってことですね。
慎重な人だったから本当に不思議です。

  
 
※1
藪田二飛曹、川端二飛曹、吉永二飛曹は昭和20年4月29日
鹿屋より出撃戦死。黒野二飛曹は同年5月11日出撃戦死。

コメント

いつ聞いても練習機による特攻隊の話はやるせないですね。
飛ばせる機体が払底したとは言え、白菊や赤トンボまで駆り出すのは最早狂気としか言えないです。美濃部少佐の芙蓉部隊のように最後まで通常攻撃をしつくしての特攻ならまだ納得はできますが・・・・・・。
他にも電信機による特攻隊員の方の最期の叫びもあったのですね。この話は初めて聞きました。

いつも貴重なお話をありがとうございます。
練習機で出撃した人たちの心情は、今に生きる私たちでは到底理解できないでしょう。
内心「無理だ」と思っていても、彼らは逃げ出したりはしなかった。
でも喜び勇んで行ったわけでもない事を忘れてはいけないと思います。

「終わらせる事」は一番難しい。
責任ある人たちが腹をくくって「止めよう」となかなか言ってくれなかった。
今もあまり変わらない気がします。
「これは無駄だから止めよう」って矢面に立てない議員さんが多い気がします。

金澤さん
ありがとうございます。
比島沖の機動部隊を一時的に行動不能にするための、特攻作戦(敷島隊)が
いつのまにか慢性化してしまい練習機まで使われるようになったのは
本当に気の毒でした。機体は練習機と雖も搭乗員の方々はいずれも立派でした。
最期の電信は今日日本を生きる我々へのメッセージでもあるでしょうから
本当に大切にしなければなりませんね。

ふらんか~さん
ありがとうございます。本当ですね。終戦を知って「生き残った」と
ホッとしたという証言がある一方、
機動部隊に最後の特攻をしよう、あるいは自決をしようという話も聞きます。
現在の常識とは全く違ったことを残しておかねばなりませんね。

初めまして。特攻で亡くなった叔父の名を検索したらここに辿り着きました。
叔父の名は「有賀康男」です。
長野県諏訪市出身、19歳で戦死しました。
叔父の話をしてくださった杉野さん、そして杉野さんにインタビューし、話をまとめてネットに上げてくださった方にお礼申し上げます。

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