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2015年4月23日 (木)

パラオ・ペリリューの戦いにおける民間犠牲者について

パラオ・ペリリュー島の戦いにおいて民間人(パラオ人)の犠牲者は
いなかった(ゼロ)とネットを中心に美談として広がっているが、残念なことに
実際のところは死者が出ている。戦没者名簿には島民の名前が
記されている上、実際にペリリュー島から逃げず、戦争が終わるまで
隠れていたという証言も私は現地で聞いた。
 
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Photo▲ペリリュー北のガラカヨ(現在のカープ島)で米軍将校に救出されたパラオ人家族。
 米兵からキャンディーを受け取る様子(上)家族はこの後軍医の診察を受けた(下)
 昭和19年9月

 
しかし日本陸軍としては、当初から島民の命を救うべく強制疎開を最優先
事項として実施したのは事実である。日本陸軍は原則、民間人を戦闘に
巻き込まないのが鉄則であり、軍規である。そんな陸軍の
懸命な策あっても、疎開の船に乗り遅れたり、故郷を離れることを拒んだ
島民も存在した。そのため一人も漏らさず、というのは残念ながら
達成できずにいた。
 
そして皮肉にも疎開先であるパラオ本島(バベルダオブ島)で
米軍の銃爆撃を受け、命を落としたパラオ人も多かった。
これは天皇陛下もパラオ訪問時に言及されている。
 
「バベルダオブで米軍機の機銃掃射を受けて父が死んだ」などの
悲惨な戦争証言がパラオ人の間で根強く残っているが
これはもちろん、米兵による非戦闘員への虐殺行為であり、
重大な戦争犯罪として立件されるべきなのだが、裁かれることは無かった。
 
当時、 どれくらいの島民を疎開させる必要があったのだろうか。
昭和18年6月末の統計によると、当時
ペリリュー島の人口は日本人が160人、パラオ人が899人、朝鮮人1人
アンガウル島は日本人が1325人、パラオ人が754人、朝鮮人が539名
であった。
 
アンガウル島のほうが人口が多いのは良質な燐が採掘できたからで
ペリリューにも燐鉱はあったが、規模は小さかった。朝鮮人のほとんどは
燐鉱採掘の従事者である。
 
朝鮮人軍属の戦死
ペリリュー島においては、上陸戦が行われる前の昭和19年
トンネル掘削や飛行場整備のための朝鮮人軍属が動員されていた。
この朝鮮人軍属を臨時の歩兵として北部守備隊に編入し、ペリリュー
戦を展開したので、それで戦死した朝鮮人は民間人の死亡あたらないのか、
見解がわかれるところだ。朝鮮人は正規の日本兵と異なり
配属の指揮官によるところが大きいが、戦闘を強いられず
米軍に投降した例も多い。
 
パラオ人の戦死
ペリリュー島に限ればおよそ900名の民間人を
疎開させる必要があったが、これを拒んだり、疎開船に乗れず
島に残った者、数名が戦死した。アンガウル島はもっと多い。
最後一隻の疎開船が上陸戦までに間に合わず、犠牲と
なってしまった。

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