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2012年7月17日 (火)

パラオ人による斬込隊編成

パラオの戦いでパラオ人(民間人)の犠牲者が少なかった理由は、先ず運が良かったことです。

(民間人の犠牲100~200人と推測される。ベラウナショナルミュージアム資料より)

 

1944年(昭和19年)3月の空襲を受けたパラオの日本守備隊は

ペリリュー、アンガウル両島の島民の多くを、バベルダオブ(パラオ本島)へ疎開させました。

 

※それでも、アンガウルには僅かに島民が留まりました。一方、ペリリュー島は一人残らず疎開

したと伝えられていますが、実際はこちらも僅かに残っていたと推測されます。

 

その後、軍と軍属のみとなった両島で上陸戦が始まるのですが、この両島上陸作戦

(通称ステイルメイト・ステイルメイト2作戦)で大痛手を被ったアメリカ軍は、パラオ本島の

上陸を諦め、兵糧攻めを企てます。よって終戦まで疎開先であったバベルダオブ島(パラオ本島)

で白兵戦が行われることはありませんでした。

 

原則的に、日本軍が民間人に戦闘を強要することはあり得ません。

パラオの場合、司令部が本島にありましたから、命令系統が良く行き届いたこと

が、まずひとつ、それで民間人の犠牲を抑えられたのと、何といってもアメリカ軍が攻略を諦めた点に

あります。

 

決戦の準備を整えていた司令部を含むパラオ本島の部隊は、このアメリカ軍の兵糧攻めによって、

戦わずして4800人以上の兵が餓死、または病死しています。

 

パラオ人の中には自ら「私達も一緒に戦わせてほしい」と願い出るものが居りました。

しかし、軍はこれを一切認めることはありませんでした。戦争末期には本島で

「パラオ人斬込隊」が編成されますが、実戦に至ることなく終戦を迎えました。

この斬込隊、日本軍の軍規の大原則、民間人を巻き込んではならないという点からすれば

あり得ない事で、一部の軍規に反する将校が企てたか、あるいはパラオ人有志によって自ら結成したか

いずれかでしょう。

 

パラオ地図

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