『戦鳥』クラウドファンディング開始しました!
クラウドファンディング『戦鳥(いくさどり)』第二版/補足増強版チャレンジ2
開始しました。美麗なカラーイラストで日本陸海軍機全型式500機以上収録。
主要機パイロットのインタビューも収録。付録として陸軍飛行戦隊総覧、
海軍航空隊総覧、特攻隊名簿が付属。
※予約以外の購入はできません※
立ち読み
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2021/12/post-a418.html
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クラウドファンディング『戦鳥(いくさどり)』第二版/補足増強版チャレンジ2
開始しました。美麗なカラーイラストで日本陸海軍機全型式500機以上収録。
主要機パイロットのインタビューも収録。付録として陸軍飛行戦隊総覧、
海軍航空隊総覧、特攻隊名簿が付属。
※予約以外の購入はできません※
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https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2021/12/post-a418.html
戦鳥クラウドファンディングは12月末頃~1月初旬頃公開予定で調整中です。
よろしくお願いいたします。
曖昧な日にちしかお伝えできないのは、審査が通り次第、公開となるためです。
何卒、ご理解をお願いいたします。
スタートしましたらこちらのサイトで真っ先に参加できるよう
告知を致しますので、日時が近づきましたら逐次閲覧下さいましたら幸いです。
今回は前回の反省点を活かし、様々なプランをご用意致しました。
◆存在したゼロ戦42型
零戦42型は一言で述べるならば、21型が52型にアップデート
される際に製造された21型と52型を繋ぐ為の試作機である。
52型の試作機が42型で量産型を52型と呼称する。21型と42型が
同じ製造番号で存在し52型が量産体制に入った頃には42型という
名称は抹消されている。これには諸説あるが、以下の図面記した
ように、42型と52型はデザインが異なるので、前例通り単純に
モデル番号を変更した説と量産機が42型では語呂が悪いので
52型と改めた説がある。
しかし乍ら、彗星艦爆などは43型が存在するし、試作・計画機とは
いえ紫電改は42型が存在する。 海軍機は僅かなデザインの変更でも
型式番号を変更していることから、零戦42型がそのまま量産機名称
となったと仮定しても不思議ではない。
◆なぜ零戦42型は完成機であるにも関わらず抹消されたのか
もちろん、零戦21型に次ぐ代表的なモデルである52型が仮に
42型として大量に投入された場合、連日の空戦で命のやり取りを
している搭乗員からは、語呂が悪いからやめてくれ、とクレームが
来ることは容易に想像がつくことも理解できるが。
次に、零戦42型とはどんな構造の機体だったのについて
述べて行こう。先だって、この記事に関しては調べるきかっけを
くださり、出典元を教えて下さった144ヒコーキ工房様に心より
御礼を申し上げます。ありがとうございます。
◆零戦42型のデザインについて
大きな変更点としては22型の翼端を450mm短縮し形成した。
(52型は500mmの短縮)それから、排気管脇の耐熱板が未完成
だった事から本機から採用された推力式単排気管は最下部のみ
機体の炎燃防防の為で80mm延長されている。他にはフラップや
補助翼が変更が繰り返されている。
零戦42型については、まだ謎が多い機体なので
この記事もアップデートを前提にご覧いただければ幸いである。
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出典
Scale Aviation Vol.22 / 2011.11
参考
144ヒコーキ工房
キ201「火龍」(かりゅう)は日本陸軍が開発・試作が行われた
ジェット戦闘襲撃機である。海軍のジェット特殊攻撃機「橘花」と
異なり、機体デザインは中島飛行機が担当し、Me262を参考に
三角形の胴体断面を採用したがMe262よりさらに一回り大きい。
「火龍」のエンジンは静止推力908kgの石川島飛行機製作所
(のちの石川島播磨重工、現IHI)ネ130を二基搭載し
最高速度は852km/hで航続距離は、980km(なおMe262は最高
速度869km/hと殆ど同速度、航続距離は1,050kmである)
武装は ホ5機関砲20mm二門とホ155-Ⅱ機関砲30mmを二門の
合計四門であった。全備重量は7,000kgで実用上昇限度は
12,000メートルであり、大口径の火力を用いてB-29を撃破する
目的が主となる運用計画とした。
試作機1号機は昭和20年12月に完成予定で群馬県の中島飛行機
太田製作所で制作が進められていたが、完成の雄姿を拝む事なく
終戦を迎えた。
空母信濃と艦上戦闘機「紫電改二」~その後の運命
航空母艦信濃と艦上戦闘機に回想された紫電改について記す。
昭和19年11月11、12日
船体が完成した信濃の公試運転が東京湾で行われた。その折、信濃の飛行甲板に
着艦したのが「艦上戦闘機紫電改二(試作)」である。 この特別な機体は
紫電三一型(試製紫電改二)と称され、この時、紫電改で信濃に
着艦を行ったテストパイロットは 山本重久少佐(海兵66期)で、
紫電改着艦テスト前には、零戦や天山、彩雲、流星改などの着艦テストが
完了していた。 元来、航空母艦に搭載する艦上戦闘機としては
ゼロ戦の純後継機である 「烈風」が開発中であり、堀越二郎が寝る間を
惜しんで 完成を目指していたが、戦局悪化は甚だしく事態は
急を要する。 そこで、局地戦闘機「紫電改」を急遽、艦上戦闘機に改造する
案件が まとまり、早々に試験機が一機製作された。
紫電改と紫電改二の変更点
製作したのは川西航空機株式会社の鳴尾工場で 主な変更点として
着艦フックを取り付けに伴う、附属部品の追加、補強諸々、 さらに着艦時に、
三点引き起こしの安定性を高めるため フラップ角度を増す改造が行われた。
紫電改は元来陸上基地で運用される飛行機だから 着陸の速度が速く
航空母艦の甲板ではオーバーランして海に 落ちてしまう。
そこでフラップ角度を増すことにより、低い速度でも 安定を得て、
失速速度の限度に余裕が生じる。 これによって、接地してから静止するまでの
距離は短いものとなり 航空母艦でも運用が可能となる。理屈上である。
さて、艦上戦闘機として一新した紫電改は 鳴尾飛行場で一旦、陸上基地で
着陸性能がテストされ その結果は、すこぶる良好であった。
とくに、バルーニク(接地前に尾部が浮いてふわふわする) 性質が無くなった。
紫電改は追浜飛行場へ空輸され 翌日のテストに備えた。
紫電改二、信濃へ着艦!
試験飛行当日、天気は快晴、
追浜飛行場を離陸した黄色い試作機色の 紫電改は、単機、青い空へ
吸い込まれるように消えて行った。 間も無く、山本の眼下、東京湾を南下する
「信濃」が認められた。 真珠湾攻撃、インド洋では赤城に乗り組み活躍、
後に翔鶴のパイロットとして転戦した経験を持つ山本であったが
信濃の巨大さには驚いたという。※1
山本少佐の操縦する紫電改二は初めに二度タッチアンドゴー
(接艦テスト)を行ったのち、いよいよ三度目で着艦を試みることになった。
低空で誘導コースに入り、着艦フックをおろし 随伴する駆逐艦の上空で
ファイナルターン(第四旋回)をおわり アプローチをして着艦パスに入った。
山本はこのときの印象として
「零戦より視界良好で、赤と青の誘導灯も飛行甲板もよく見えた。
パスに乗るのも左右の修正も容易である。スロットルを絞り操縦桿を
一杯に引くと、スーッと 尾部がさがって、三点の姿勢になり、着艦
フックがワイヤーを拘束した。これなら経験の浅いパイロットでも
着艦できるであろう。零戦よりやさしいと思った」
と記している。※1
見事な着艦に、整備兵たちから拍手が沸き起こった。しかし信濃艦長
阿部俊雄大佐だけは心配そうな面持ちで 窓から首を出して外を仰いでいた。
「B-29、一機、高度ヒトマルマル、(一万)左舷前方上空南に向かう」 との
報告があったからである。 上空のB-29が二筋の飛行機雲を引いている
のが見えた。
「畜生、また写真と撮っていやがるな」
傍らの参謀が舌打ちをした。※2
山本が機体を降り、艦橋に報告へ済ませ、飛行甲板へ戻ってくると
終始を見守っていた川西航空機の紫電改設計の菊原技師が
やってきて、成功を祝し固い握手が交わされた。
桜花とともに轟沈
11月28日
信濃の一生はあまりにも短かった。 甲板上に便乗輸送の桜花20機と
震洋数隻を 搭載し、初の外洋航海に出港した信濃は
呉に向かう途中、米潜アーチャーフィッシュの雷撃を受け轟沈。
軍籍わずか17時間で沈んだ幻の航空母艦であった。
戦艦大和の姉妹である信濃が、たった一度の雷撃で いとも簡単に沈んで
しまった原因には諸説あるが 艦内の配線などはむき出しで、
排水区画や防備も途中段階で 艦船として完成とはいえず、
最終艤装のため呉へ回航する途中であった。 最初で最後の艦長となった
安部大佐も「穴だらけの未完成艦では」と、
出港する不安を述べている。※2
出典
※1『別冊丸15 終戦への道程本土決戦記』78-79頁
※2『空母信濃の生涯』豊田穣200-202頁
イラスト参考模型提供
信濃製作者 模型製作工房 聖蹟 垂水政憲
https://www.seisekimokei.com/
『歩兵の本領』より
~敵地に一歩我れ踏めば 軍の主兵は此処に在り
最後の決は我が任務 騎兵砲兵協同(ちから)せよ~
この唄が作られた明治44年頃から支那事変にかけては
戦(いくさ)の主役・主力は歩兵であった。さりとて
腹が減っては戦は出来ぬ、兵站輸送などの後方支援も当然必要であったし
また渡河作戦で橋を構築する工兵は6年もの教育課程を経てから
ようやく一人前の兵隊として実戦部隊に配属された、縁の下の力持ちである。
大東亜戦争では騎兵が廃止され、機甲・捜索(自動車)部隊に
改編された。
ではこの時期に未だ黎明期にあった航空機はどのような役割であったか。
それでも航空機は師団主力の支援として、脇役ではあったものの、空の目、
連絡手段として無くてはならない存在であった。
九八直教/きゅーはちちょっきょう(九八式直接協同偵察機)
は同上の任務で昭和14年に初飛行を行い、昭和15年7月に一旦
生産を終了したが、前線からの本機を要望する声が強く、また
大東亜戦争の勃発から緊急生産機種に指定され、昭和17年から
生産を再開している。九八直協は軍偵や司偵にその座を譲りつつ
あったが、使い勝手が良いこの飛行機は昭和19年まで生産は続き
総生産機数は1,334機で立川飛行機が最も多く生産した機種となった。
P-51C鹵獲機。
陸軍は大陸戦線で不時着期のP-51Cを鹵獲した。内地へ空輸すべく
修復を施し飛行可能状態とした。途中、この機体の機密保持を狙った連合国の
襲撃を受けながらも、広大な大陸を何度も給油しながら、無事福生飛行場までの
空輸に成功した。
このP-51Cはファストバックであることから旧型と誤解されがちだが、最終型の
P-51Dと同様のだ大馬力のマリーンエンジンを搭載した最新鋭機であった。
福生の航空審査部では黒江少佐が元祖アグレッサーとなって、四式戦部隊を襲撃。
戦技指導を行った。
機体の稼働には高オクタン(オクタン価100程度と推される)が必要であったが
別途列車で輸送した。昭和20年初夏、オルタネータ(発電機・ダイナモの一種)
を破損し、飛行不能となり、代替部品を探しているうちに終戦を迎えた。扱いに
繊細さを求められる鹵獲機としては比較的、長寿命な機体であった。
蛇足であるが、皮肉なことに譽エンジンを搭載した四式戦もオクタン価100の
燃料を必要としたが、当時、補給線を分断され、燃料精製も極めて僅かしか
供給できなかった(ゼロ戦のオクタン価は86と案外低い)情勢下にあり
充分なポテンシャルを発揮できた四式戦は皆無といっても良いかもしれない。
B-17鹵獲機。
陸軍航空審査部は大陸戦線で2機のB-17を鹵獲。飛行可能状態に修復した。
日の丸を描いた2機のB-17が富士山を背景に飛行する写真が実在する。
東武線を終点浅草まで走ると、最後にゆっくりと隅田川を渡ります。
隅田川は滝廉太郎の時代から船の往来は賑わいを見せております。
当該の船舶は東京都観光汽船(TOKYO CRUISE)が運営する船で
SFの巨匠、松本零士氏がデザインしました。
宇宙船のようなフォルムは「ディアドロップ」(涙滴の意)をイメージし
「子供たちが乗ってみたいと思ってくれる船」をコンセプトに
1番船ヒミコ(HIMIKO)の建造を皮切りに2番船「ホタルナ」
(HOTALUNA 月の女神、ルナ)の意、そしてこちら3番船は
「エメラルダス」(EMERALDAS)です。ヒミコの就役から約14年、
ホタルナの就役から役6年を経た最新船で、同名のSF作品がモチーフと
なっています。船内では「クイーンエメラルダス」「銀河鉄道999」のキャラクター
星野鉄郎、メーテル、クイーンエメラルダスの観光アナウンスを聞くことが
できます。
またエメラルダスの屋上デッキは木造船をイメージしているのが特徴で
天気に恵まれた日には日の出桟橋からお台場まで解放されます。(ホタルナも同様)
東京都観光汽船(TOKYO CRUISE)は隅田川を往来する船を水上バスと称しており
このほかにもユニークな観光船や屋形船などが揃っていますが、特に目を引くのが
この近未来的ビジュアルのヒミコシリーズではないでしょうか。
出典・もっと知りたい方はこちら
東京都観光汽船(TOKYO CRUISE)公式サイト
フォースインディア(Force India)は
初のインドによるF1チームである。直訳すると「インドの勢力」
フォーミラーワンは、古来よりヨーロッパのモータースポーツとして
チーム、ワークス、ドライバーが主役であった。突如出現した
アジアの勢力にF1の世界に衝撃を与えた。
やや横道に逸れるがこれを、大相撲に例えてみよう。モンゴル人力士を
はじめとした外国人力士ががハングリー精神をもって幕の内で圧倒的
強さを見せつけている。これが日本人にとって面白くないのであろう。
話をF1に戻す。こうしたアジア勢力の蜂起もヨーロッパ人にとって
面白くないのかもしれない。しかし
初の夜間開催となったシンガポールグランプリは市街地コースで
サッカー場等スタジアムの5倍とも推されるナイターの照明設備が
昼間のようにきらめく。
その眩さに照らされて鮮やかなマシーンが疾走するとき
アジアの繁栄を見るようであった。
▲市街地を利用した
マリーナベイ・ストリート・サーキット(Marina Bay Street Circuit)
市街地コースは、アメリカ・デトロイトグランプリ
オーストラリア・アデレードグランプリ、香港・マカオグランプリなどが
過去に開催されたが、現在はモナコとシンガポールのみであり、
市街地かつナイトレースが開催されるのはシンガポールグランプリのみである。
画像はフォースインディア(Force India)
2012年 P.ディ・レスタのマシン。
父の肺がんが再発し、保険提供とはいえ
多額の治療費がかかる。今まで以上に働くしかない。
私の父は定年まで下水処理場でずっと仕事をしてきて、定年を迎えたと思ったら
間髪入れず、祖母の介護である。ようやく介護認定が下りて、介護から解放され
養老院への入居が決まった途端に父、がんの再発である。
父は、これからやっと好きなことができると信じていたのに、
あまりにも悲しい。
その祖母も私に性的虐待をした過去も私の名前も顔もすっかり忘れて
身体だけは丈夫なようで、養老院で元気である。
これでは順番が逆ではないか。
とにかく私のいまできることは多くの仕事をこなして
治療費を稼ぐことである。
とにかく無理を押して働いている。
先月も救急車で搬送されてしまった。
縁起でもないことかもしれないが、書く。 万が一
これで30代の私が真っ先に死に、次に60代の父が次に死んで
最後に生き残るのは90歳の祖母である。
こんな我が国はおかしい。
こんな我が国はおかしい。
『戦鳥』(いくさどり)第二版補足増強版の出版を検討しています。
主に増強される部分は以下の項目です。
1.海軍航空隊全ての部隊史
2.陸軍飛行戦隊全ての部隊史
3.インタビュー企画
「紫電改」パイロット&「疾風」パイロット
4.全ての陸海軍航空機の型式側面図の大幅増強
5.リアルイラストの大幅増強
6.コラム大幅追加
7.全ページ英文併記
以上を検討していますが、商業出版の目処が立たないため
自分の出版社で出すことにしました。価格を抑えるため
ある程度のロッド数を確保しなければならず、
そのためには印刷費が200万を超えてしまいます。
(300ページを越える豪華本になりますが
小売価格は4000円台に抑えたいと考えています)
資金援助をしていただける方を募集しております。
ぜひ、よろしくお願いいたします。
広告等も掲載可能です。
印刷所と相談した上で
クラウドファンディングサイトで援助額のプランを作成中です。
改めてご案内致します。
もちろん規定の金額に達しなかった場合は返金されます。
僕には宝物がふたつある。
そのうち、ひとつの話をしようと思う。
僕が小学生の頃、幕張メッセで「アメリカ博」
という大きな催し物が開催され、両親に連れて行ってもらった。
僕がそこで一番見たかったのは、アポロ11号の司令船だ。
アポロ11号は人類ではじめて月に行った宇宙船だ。
当時の僕は、宇宙に対する興味や憧れがとても大きかった。
もちろんいまでもそうだ。
展示会場の真ん中にアポロ司令船は置かれていた。
円錐形の司令船は、大気圏突入の摩擦熱で
真っ黒になって、それに付随した鮮やかな三つの
パラシュートがとてもとても印象的だったことを
憶えている。
会場の一角にはお土産売り場があった。
そこで、僕はどうしても欲しくなってしまったものがあった。
本物の宇宙ロケットの破片である。僅か数センチの正方形に切り取られ
アクリルに封入された金属片のオブジェには英文でこう書かれている。
「アトラスAC-67号機。1987年3月26日打ち上げ。
打ち上げから54秒後に閃光と共に砕け散る」
当時は英文読めなかったのだけれど(打ち上げ失敗しているとは
知らず、だけど、この金属片が遥かなる宇宙を目指したことに
変わりはない。)ただ、ただ、宇宙ロケットのパーツが手に
入るなんて夢のようで、目をキラキラさせてどうしても欲しくなった。
金属片には焦げ目がついていて、打ち上げの火力が想像できる。
普段、滅多に物をねだらない僕だったけど
母に欲しいと言った。値段はたしか6000円だったと思った。
考えようによっては、というか、大方ただの鉄屑である。
母もそう思っていたらしく、むなしくも却下された。
しょんぼり帰ろうとしていたとき、父が言った。
「僕の来月の小遣いがあるから、それで買ってやってよ」
当時の父の6000円の小遣いは大金のはずである。
父は、後にも先にもこの件で恩着せがましいことを口にすることはなかった。
僕はとても喜んで、包みを大切に持って帰って、家の棚の
一番目立つところに飾って、宇宙への想いを馳せた。
あれから30年。父に買ってもらった
宇宙ロケットの破片は、変わらず、僕のアトリエの
一番目立つところに飾ってある。最初も今も、宝物には
変わりないが、当初は物としての価値であった。最近は、
そのときの父とのエピソードが形となり残る、大切な物である。
わが屋号
アトリエ「空のカケラ」の由来である。
僕には宝物がふたつある。
そのうち、もうひとつの話。
それは名前。
「直人」という名前は父がつけた。
僕はこの名前がとても気に入っていて
父にはとても感謝している。
ぼくはこの名前に今まで何度も何度も助けられてきた。
道に外れそうになったとき、挫折しそうになったとき、いじめられて
泣きそうになったとき、悪いことに誘われそうになったとき、
その都度、名前に恥ずかしくない生き方を選ぼうと
思いを改めることができた。
お天道様が見てるからね。真っ直な人でありたい。
そう、いたってシンプルにとらえている。
僕はそうやって、小さいころから名前に助けられて、
これからも助けてもらって生きて行くんだ。
「直人くんて名前通りの人だね。直人くんの彼女になれて幸せ」
彼女がそんなことを言って勇気づけてくれたのは
亡くなる、数か月前のことだった。
だから、名に恥じるようなことはできない。
僕はこの宝物を最後まで携えていくんだ。
彼女は、24歳になっても理系大学に残り、
基礎研究を続け、世の中に貢献したいと言っていた。
「博士課程を卒業したら、直人くんと結婚するー。」
その頃、僕はクロネコヤマトで働いていた。
在学中でもいい、結婚したら、この子を応援すると決めた。
やりたいことをやらせたかった。彼女が好きな事をして、
その話を楽しそうに聞かせてくれる。その顔を眺めているだけで、
僕は幸せだった。
だけど、何の前触れもなく、突然、この世から消えてしまった彼女。
あれから、今日に至るまで、悲しくても涙も出ないようになった。
棺に納めるものは何もなかった。彼女は東日本大震災の折、
少しでもお金になるようなものはネットオークションで処分し
お気に入りの綺麗な服も全部、売ってしまった。
だから、棺に入れたとき、彼女に着せてやれるのは部屋着の
ようなものしかなかった。
見事な最期であった。
と、ここまで書いて、実は僕は彼女の最期に立ち会えていない。
これはお母様から聞いた話。
事故での急逝だったから、慌ただしく、誰にも連絡せず、
彼女は骨になってしまったから。
お葬式が終わって、彼女のバックから出てきたのが
小さなメモ書き。書いてあったのは、父、母、弟、祖父、祖母の連絡先。
そして、メモ書きの一番下に一人だけ身内でない姓の違う人の名があった。
それが僕だった。東日本大震災の折から万が一のことを考えて
ずっと持っていたようだった。
火葬して、骨を拾うのは、変わり果てた故人の姿を
目の当たりにして、「諦めてもらう」儀式なのだと、あるご住職から聞いた。
でも、僕にはその過程が無い。
錯覚なのだろうが、
いまも150cmくらいの、背格好の似た人を人混みで見かけると
空しくも淡い期待を抑えきれずにいる。
雨の降る日が好きだった。
雨は車でお迎えの日。大学のゲートの前で
こっちにやってくる人混みの中から小柄な彼女を見つけるのが好きだった。
亡くなってしばらく経ってから、お母様と、
「あの子は空や飛行機、戦闘機が好きでしたねー。今頃大好きな
大空で私達を見守ってくれてるのかな」という話題になる。
そうだ、彼女はもういないけれど、もう一度、僕一人で、飛行機をやろう。
それで「アトリエ空のカケラ」を作った。
前回からの続き
落語「彦六伝」で8代目林家正蔵、のちに彦六となる師匠の伝記
の中の小噺です。彦六伝は新作落語ですが、古典のように
アップデートが繰り返されています。
以下、彦六伝より抜粋
-----------------------
「お前は戦争で捕虜になったことがあるか?」
「いや、ないんですけど」
「ロシアというのはひどい国で、捕虜になると、飯に固い固い
パンが出るよ。その半分ぐらいのパンの、中身ほやわらかいほうを食べるか、
外側の固い皮(ミミ)を食べるか、お前はどっちを選ぶ」
「どちらかというと、やわらかいほうを食べたいですね」
「ああ、それが間違いだ。そこがパンの秘密だな」
「はあ、秘密ですか」
「捕虜仲間が中身のやわらかいほうをわけてくれるんだ
すると、貰ったほうは感謝するな。
ああ、美味しい譲ってくれて、自分は不味いところを食べて
この人は人格者だなと。
よく考えてみな。やわらかいほうはすぐに腹が減ってしまう。
固いほうは、噛んでも噛んでも、固い。なかなか腹が減らないな。
したがって生き残るのは固い方だ。
捕虜になったときのためによく覚えておきな」
「はあ、弟子に捕虜になったときのことも考えてくれて
ありがとうございます」
YouTube: 麦と兵隊 ザ・ドリフターズ
ドリフターズが歌う『麦と兵隊』
ドリフのアレンジが素晴らしいんです。
哀愁漂いつつも、こんなに力強く、勇ましい歌は
他にないと思っております。
戦争経験者のおじいちゃん方が集まるでしょう。
少しお酒を飲んだりして、盛り上がってきた頃に
戦争の話になる、そして、あの頃の歌を「歌え唄え!」という雰囲気になる。
指名されたおじいさまは何度か「いやいやいや私はいいですよ」と
数回断ったうえで、照れながら、
「えー、それじゃ、ご指名ですので、誠に僭越ながら」
と、断りを入れつつ、シッカリ歌い上げるのです。
おじいちゃんたちにとって軍歌はイデオロギーでもなく、
なんでもなく、ただ懐かしい思い出そのものなのであります。
戦後、こうしたものをタブー視する傾向が強くなりつつあります。
素敵なおじいさま方と共に過ごしてきた
最後の世代としましては、ぜひともこうした事実を
残したいと考えておるわけですが
なかなか、難しいのであります。昨今は
「ナニ?軍歌?けしからん!軍国主義の再来だ!」
となるわけです。
私は軍歌・戦中・戦後歌謡を通じた時代背景解説本を一冊
書きたいくらいなんです。たとえば
『轟沈』
「青いバナナと一緒に積んだ可愛い魚雷が」
このひとつの文言で、全てが表現されており、あとはオマケみたいなものと
言っても、言い過ぎでない、秀逸な文句であります。
内地からシンガポールを経由して、青いバナナを積んだ。
それが、もう今はインド洋にいる。
そして日本海軍は酸素魚雷だから、メンテナンスにかける
手間とぜひとも戦果をあげねばならぬという思いが
伝わってくるのであります。
『誰か故郷を想わざる』
こちらの記事で少し書きました。英軍が作戦に使う程の
郷愁を誘う歌でした。
英軍からの出前寿司
一気に時代を進めまして、戦争が終わりまして、とっても有名な
『青い山脈』は作ってる途中で軍歌になってしまったんですね。
そして、純粋な歌謡曲としては
昭和22年
『港の見える丘』
戦争直後につくられた歌。戦争直後と思えない程
ロマンチックなんです。そして同時期に流行したのが
解り易い『りんごのうた』です。
YouTube: りんご娘 「リンゴの唄」 2007.5.5
『りんごのうた』は青森のご当地アイドル
りんご娘がカバーしてます。私が実現したいコンテンツは
これに近いのかもしれません。
次世代への継承はアレンジが必須。
しかし、まだ外地では抑留が続いており、社会問題化。
『あゝモンテンルパの世は更けて』が昭和27年です。
私が子供の頃は、こうした戦争の話題も
タブー視せず、ユーモアを交えてお話しするおじいちゃんたちが
数多くいらっしゃいました。戦争は悲惨、悲惨といって
なにもなくなってしまうくらいなら、
エピソードを伝えるために、かくあるべきと思う訳です。
次に「パンの秘密」を紹介して終わります。
篠原「あのー」
アシスタント「なんですか?」
篠原「1時間半ばかり、お花見に行ってきてもいいでしょうか?」
アシスタント「たまには休んだほうがいいですよ。1時間半と言わず、
ゆっくりしてきて下さい」
篠原「ありがとうございます!行ってくるであります!」
日曜日の講演会に、どうしても人出が足りなくて、
ライブに行く予定だった、アシスタントを
動員してしまった。彼女はその場でチケットを
キャンセルしてくれて、ライブにそれほど
乗り気でなかった理由と、キャンセルしたお金で
欲しいものが買えることを話してくれた。
出掛けて、一人になって考えた。
・・・あれは後から考えた理由だよな。
優しい人に恵まれて、もう感謝しかない。
神社の境内でしゃがみこんで、シャッタースピードを
多めに取って風を待った。桜の淡い色と、水色の空と、
欲張って躍動感も出したい。
木の反対側ではレジャーシートを敷いて
花見に賑やかなおばちゃん二人組がいる。
うららかなる陽光。
おばちゃんたちの、お重箱のおむすびがいくつか消えた頃、
望んでいた風がやってきて、桜の梢を揺らした。
僕はスローシャッターを切った。
ごゆっくりどうぞの言葉が有難い、
平成最後の花見であった。
雀宮の駅名は諸説あるが、雀宮神社に由来する説が有力で、
雀宮神社は歴史と趣のある神社として、地元民に敬愛されている。
この地域を治めていた宇都宮氏の信仰は篤く、雀宮神社を、
城を守る四神の内、南の『朱雀』と位置づけ、城主がしばしば
遠乗りをしてお参りに来たと伝わる。
雀宮神社は皇族である御諸別王を祭神としていることから、
1713年(正徳三年)東山天皇から金文字で『雀宮』と書かれた
勅額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、
諸大名は下馬して参拝したと伝えられている。
明治22年、町村制施行により、雀宮村、下反町村、下横田村、東谷村、
中島村、上御田村、羽牛田村、針谷村、御田長島村、茂原村が合併し
河内郡雀宮村が成立する。昭和28年には 雀宮村が町制施行し雀宮町となり
昭和30年、 姿川村とともに宇都宮市へ編入された。これらの旧町村名は
現在も住所として残されている。
また、雀宮はノモンハン空戦で勇名を馳せた戦闘機パイロットで
トップエースである篠原弘道少尉の出身地としても知られる。
現在の雀宮駅は再開発が終了し、移転新築された宇都宮工業高校と
宇都宮市立南図書館、併設のサザンクロスホール、を有する。
公共交通機関のほか、自家用車保有台数全国一位の県民の為、駅駐車場と
図書館駐車場を合わせると740台分の駐車スペースが確保されており
通勤通学等で上京の折は、駅前に自家用車をとめ
そのままドアトゥドアで鉄道を利用するのが常である。
黒磯、宇都宮などを出発した湘南新宿ラインは
雀宮にも停車し、上野新宿までの最短所要乗車時間は1時間28分である。
その先、東海道本線へも乗り入れ、横浜、鎌倉を経て逗子・小田原へ至る、
日本屈指の長距離列車である。
早く起きた日曜日の朝は
「タミヤRCカーグランプリ」が見られる!
とソワソワしてしまう。番組が終わって18年も経つのに
日曜日の朝7時になるとずっとソワソワしてます。
タミヤの前ちゃん、いま何してるのかな。
徳田ザウルス先生は47歳で亡くなってますよね。
よく勘違いされるのが
これが会社(正確には私は個人事業主です)のブログだと
思われてること。篠原個人のブログなんです。
SNSと違って、フォロワー数とかはないんですが
アクセス数は業界屈指になってしまった。
気付いたら記事数は今日で1,200です。
何事も続けるコツは「やめないこと」です。
習慣化すると書く時間もすごく短くなる。
そういうわけで、会社(法人)のホームページはないんです。
以前はあったんですけど、作っても更新が大変で、
集客の必要もないのでやめました。そういうことで、
トップページに出てくる会社概要は「食べログ」と一緒で、
グーグルとユーザーがやってくれてるだけなんです。
私はノータッチであります。
画像は長髪時代のわたくしであります。
腰まで届かないけど、背中の3分の2くらいまで伸ばしました。
もっと写真撮っておけばよかった。だから髪が長くて面倒という
女性の気持ちは少しだけ理解できます。金髪やエクステ着けた
時代もありました。
ここで述べたいことは、青年期になんでも経験しておくと、
壮年期以降に価値観の違う人に対する
理解力として姿を現すのであります。
それにしても、イラストレーターという仕事も
AI化が進んで早ければ3年後になくなるかもしれない。
なんでもやったほうがいいですね。そうだ。
3年後に職業は?と訊かれたら
「ひっくり返したおもちゃ箱みたいなものです」と答えます。
お疲れ様でした!ありがとうございました!
イベントで参加者の方々と交流することは私の生き甲斐です!
時間が僅かで全ては見られませんでしたが、
本当に楽しい一日でした。誠にありがとうございました
私のスペースの写真がありませんが(笑)
こがしゅうと先生、お隣で嬉しかったです!
サインをくださりありがとうございました。
竹田先生ならびにひにひに様
当日はありがとうございました。先生に拙スペースに
お越し頂けて感激致しました。「さよならタマちゃん」の
感想もお伝えできてよかったです。
極東工廠(仮)FALL先生、素晴らしいドイツ機の漫画を
ありがとうございます。
じゃーまんかとふぇる様、綺麗な本をありがとうございました!
次回もよろしくお願い致します!
バーバラ・アスカ様、いつもお世話になっております。
ただいまコラムを爆笑しながら拝読中です。
岸の護り伝承会様
いつも楽しみにしております。今回はメーカーと種別ごとの
波消しブロックの本、とてもよかったです。
出掛けた先の海で重宝しそうです。
肉まん子様
今回の表紙、涙ものでした!
お目にかかれてよかったです!
ありがとうございました!
朝海家の朝ごはん様
いつも貴重な本をありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します!
14日の閉店後、
天井の吊りポップ「バレンタインデー」を「ホワイトデー」に
一気に差し替える。背丈の1.5倍ある脚立を使って、
通路の端から端まで交換して行く。
天井付近は暖房の暖かい空気が滞って暑い。
真冬だが半袖で汗をかきながら。
一時期は店長を含め、スタッフ全員女性だった。
若い男子は使い勝手が良いらしい。
たうそう重宝される。みんなの役に立つのはとても嬉しい。
だから一生懸命に働いた。
閉店後、レジ締めなど全ての仕事が終わると、一時間程、
女性店長(一人称・姉さん)が、細い煙草の煙を
漂わせながら「彼氏に直してほしいところ」等のお話しを聞く時間となる。
毎日閉店後、約一時間。「あたし的には~」で始まるお話しに
熱心に耳を傾けていた。時給は出ない。姉さんは車を持っていないので、
このお話しを一通り聞いてから、家の近くまで僕の車で送って
いくのが常だった。他の女性スタッフは閉店と同時に
すみやかに帰宅している。
姉さんの煙草が灰皿の上で短くなってくると
淡い期待を持つ。ふたたび火をつけると、それは裏切られた。
ひととおりお話しすると、姉さんは全ての疲れが
取れたような顔をしていた。家までの夜道の心配もなく、
姉さんの話も面白かったので、すべてがうまくいき、
これでよかったと思う。
話を戻す。
2月15日、朝。天井POPは閉店後に差し替えたが、
売り場変更はまだこれからだ。
バレンタインデーの売り場づくりで重視したのは雰囲気だったが、
今度はホワイトデー。今度の売り場はわかりやすさを重視する。
女性にとっての買い物は見て迷って楽しむことだと考えているが
男性は買うことが目的である。
だから値段の位置を揃えて、商品もキッチリ陳列する。
どれを選んでいいかわからない男性も多いので
きめこまかいおすすめのPOPを書く。僕が女子っぽい字で。
ゴールデンラインの位置をやや上げる。
店内から適当に品物を持って来て
手が届かない棚にディスプレイを施す。
女性向け売り場は手の届く棚にもディスプレイして構わないが
男性向けの売り場で同じことをやると男性は混乱するので
基本的に手の届く範囲は陳列である。
(陳列:同じ品物を種類ごとに一列に並べること
ディスプレイ:商品を無造作に並べること)
チョコレートの棚を解体しようとしていると
女性客がきて
「まだバレンタインデー用の包装紙でやってくれますか?」
と言う。
僕はバックヤードから嬉々として包装紙を五種類も持ってくると
女性客に選んでもらい、丁寧に包装した。
僕は包装作業が好きだった。ただ、こういうのを
姉さん(もとい店長)に見つかると、いつも
「あなたの仕事は脚立でしょ」
と言われてレジから追い出されてしまうのが寂しかった。
だから姉さんの目を盗んで速やかに実施し、笑顔の
女性客を送り出した。
踵を返すと、始終を見ていた姉さんが
ニヤニヤしながら
「包装してるあなた、楽しそうねー」と言った。
すべてがうまくいっていた。
忙しさにもまれて、忘れかけていた
春が、もうそこまで来ていた。
トライアンフです。オートバイは
剥き出しの部品が多いので、クルマと比べると4倍の時間がかかります。
拡大すれば、まだまだ描き込みできそうな個所が多くありますが
どれくらいの解像度で描くかと・・・。
メカ描写の師匠であるラプターさんが
「メカ絵は描き込むほどリアルになる」と教えてくれたのがきっかけで
細かい個所を描き込むことに夢中になりました。
手抜きはできるのですが、惜しみない時間をかけるのであります。
(ちなみに、そのとき、ラプター師匠はダイソンの掃除機をキチガイのように
描いていました。)
この作品はここまで描いて納品キャンセルになったので、
浮いているのであります。それまではどこにも公開せず、
オーナーさんの為だけに描いてました。その縛りもなくなった今です。
もうちょっと仕上げをしたかったのですが、
ちょっと残念です。特にエンジン部分の着色が未だですし、チェーンや
サスペンション、リフレクターなども描き込みできれば
もっとリアルになると思います。主を失ってしまった今、
私も絵も、パッタリと死んだように止まってしまったのであります。
受け取ってくれる人がいないのは寂しい。最後まで描きたかった。
クリエイター同士、打ち合わせや電話で、よく言う言葉です。
「お互い長生きしましょうね!」
私達は絵を描くことが好きで好きで仕方ないんです。
描くことが大好きなんです。でも楽しすぎるあまり、体に負担がかかっていることを
忘れていることがあります。
先日のコミケの記事で描いた通り若くして亡くなる方もいます。
だから、お互い、こうして励まし合ってます。
陸軍機スケールポスター / クリアファイルが完成しました。
コミティアで頒布予定です。
海軍はこちらです。
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2018/10/post-645c.html
これでペアになりました。一応、ノモンハンから大東亜戦争末期までの
機体はほとんど書きましたが、どこまでカテゴライズするか、これ以上はそう
いった問題になってきます。
今回は、高速研究機「研三」、鍾馗二型丙、特殊攻撃機「剣」、キ115、キ109、
萱場ラムジェット戦闘機「かつをどり」、試作ジェット戦闘機「火龍」
桜弾機、九八式直協機、九七偵察機(朝日新聞の神風号)
飛燕二型改、Bf-109ドイツ技術供与機、そして幻の計画に終わった
隼の四型を描きました。「富嶽」も架空です。
次いで、大きさ比較の為、B-29と鹵獲機B-17、P-51Dも描き込みました。
今週はラジオ深夜便で午前2時頃に
『楢山節考』(ならやまぶしこう)の朗読を放送してるんです。
今夜が最終回。朗読は美川憲一です。
小説を自分で読むのも良いのですが
朗読に込められた魂ってすごい。
美川さんは60%の出来と仰っていて
まだまだ完成度を上げていきたいとの由。
お話しそのものは悲しいのですが
つい聞き入ってしまいます。
Tシャツの生産を外注していたので、自社で行いたいと
以前から考えていました。そこで、昨年秋に
西新宿のEPSONショールームにお邪魔し、最新鋭のプリンターを見学し
サンプルを作ってきました。
今回、導入を検討したのは
6色インクジェットのフルカラーTシャツ用プリンターです。
機械そのものは家庭用のインクジェットプリンターと同じ仕組みでですが
大きさは畳二畳分あります。Tシャツの生地が真っ黒でも
良質な白インクをふんだんに吹き付けることによって、
鮮やかな色が出ます。最高品質と言っても良いと思います。
価格ですが、
定価で購入した場合、約160万円で
これに補機類(高熱プレス機等)を入れるとざっくり200万円くらいの
設備投資です。インクが一色10リットルで8万円くらい。
ランニングコストとしては、画像のTシャツ一枚あたり800円くらいが
原価になります。内訳は電気代とインク代、Tシャツの生地代です。
電気代はプレス機が1キロワット/アワーで8時間稼働したとして
一日千円くらいになります。これに人件費と利益を計算すれば
現時点でのおおまかな損益分岐点が計算できるかと思います。
これを導入すれば小ロッドのお客さんにも在庫を抱える必要なく
欲しいものを届けられる。今まで売ってきた実績や販売経路も
あるので利益も出るでしょう。
しかし、これを導入すると、弊社はデザイン業を大幅に縮小して
ほとんど製造専念になります。
デザインでずっとやってきましたので、今回は導入を見送ることにしました。
そこで、
起業をお考えの方で、
弊社のイラストやデザイン(主に飛行機のストックが多いですが、
その他キャラクター、オリジナルデザイン等、基本的に何でも描きます)
を使って、Tシャツ販売会社を
はじめたい、という方がいらっしゃいましたら
相談に乗ります、よろしくお願いします。
上記の通り、資本金を用意して頂く形になりますが、
デザインはこちらで提供できます。
法人・個人問わず
興味のある方はお気軽にお問い合わせください。