2017年3月31日 (金)

四式戦闘機「疾風」パイロット堀山久生中尉のお話

近現代史研究会で四式戦闘機パイロットの
堀山久生元陸軍中尉のお話を拝聴したので
簡単にメモしておきます。 
 
堀山氏は、幼少期に明野で飛行機と出会い、
忽ち憧れの存在となり、将来はこれに乗ってやるぞ、と決意する。
 
陸軍士官学校57期合格。航空科を志望するも叶わず砲兵科へ。
昭和17年4月、砲兵学校、輓馬砲兵、
7月に野砲兵第五連隊配属。陸軍砲兵将校としての道を
歩むこととなった。
 
数学が大得意であった堀山氏は
その才能を遺憾なく発揮し、成績は常に砲兵科トップクラス。
 
堀山氏、曰く、
砲兵という兵科は、早く計算が出来たものが優秀なのだ。
簡単に言えば、戦で敵と撃ち合いになった状況に於いて
敵より早く弾着地点を計算して砲撃、敵を撃滅すれば
勝利である。
 
このときの教官が、
「燃えるが如き闘争心」という精神訓をよく口にしていた。
一方、堀山氏は戦場においてこそ、精神論ではなく、
沈着冷静こそが勝利に繋がるとの信念を持ち続けた。
数学を重視する砲兵においては尚のことであった。
 
陸軍士官学校第57期(以下陸士57期と称す)は
異例で、歩兵や砲兵を専攻した者でも、
途中から二度に渡って、航空科への転科が行われた。
一度目は志願、二度目は命令によるものだった。 
 
この方針転換は、陸軍でも航空の重要性が
認識されつつあり、戦局悪化に伴う航空将校の戦死・不足に
よる措置だった。
 
陸士57期の卒業者は1,550名中、志願と命令合わせて
400名が航空へ転科する。内、300名が操縦、100名が
偵察へ進んだ。
 
これに不満を漏らすものも多く
「なぜ特操を増やしてやらんのか」とむくれた。
この点、海軍では制度が優れていて、予備士官の存在が
大きかったと堀山氏は回想する。
 
この不満に対して当時の陸軍士官学校、牛島満校長は
「400名を航空にやるのは惜しいが、今は航空が足らないから
辛抱して行ってくれ」
と激励。この言葉に一同感激し、事態は収拾した。
もともと航空志望の堀山氏は、内心嬉しかったと回想する。
 
こうして、多数が航空へ転科し、訓練が始まる。57期の航空科、
特筆すべき点は、九五式中間練習機(通称赤とんぼ)をすっ飛ばして
いきなり全員を九九式高等練習機に乗せたことだった。
九九式高等練習機は実用機を改造したもので、最初からこんな立派な
飛行機に乗れるのかと、一同、大いに高揚したという。
 
訓練生の一割、死んでもいいから、最初から九九高練でやれ!
という教育方針だったというから驚きだ。
 
埼玉県の狭山飛行場と茨城県の高萩飛行場に200名、100名ずつ
別れ訓練を続けたが、一人も殉職者は出なかった。
 
この間、堀山氏は一週間に二回、着陸失敗を経験している。

一度目の事故
一度目は速度が出過ぎて着陸に失敗。
 
着陸失敗して、飛行機がつんのめった際、
腹に操縦桿が突き刺さって殉職するケースが多いと
あらかじめ学んでいた堀山氏は、
(多くのケースでは失速して墜落する瞬間、咄嗟に
操縦桿を引いて上昇しようとする)
 
墜落する瞬間、操縦桿を押し込むと同時に
エンジンのスイッチを切った。沈着冷静であった。
飛行機は墜落大破したが、これが教官から
「あの状況で大したものだった」
と褒められ、咎められることは一切なかった。
  
二度目の事故
今度は慎重になり過ぎるというもの、速度を落とし過ぎて
着陸時に失速。こういうときは頭を下げて速度を回復すれば
良いのだが、地面が迫る状況で、なかなかそうはいかない。
そのまま墜落した。一週間で二度も飛行機を壊したが、
一切、叱責を受けなかった。
 
当初、重爆撃機を志願していた堀山氏であったが
二度も飛行機を壊している奴は危なっかしくて、
大人数を乗せる重爆撃機は駄目だ。
死ぬなら一人で十分だと、いうことで戦闘機へ回される。
富士飛行場へ移動し九七式戦闘機に搭乗し戦闘機の訓練が
開始された。
 
三度目の事故
今度は三度目の墜落。編隊飛行中に
空中接触を起こし、落下傘降下。
かすり傷ひとつおわず、生還。接触した一番機の
戦友は衝撃で意識を失い、墜落しかけたが、
地上数メートルのところで意識が戻り、引き起こし
事なきを得た。
 
実はこのとき、整備員の不手際で九七戦の落下傘が
適正に備えられていなかったが、氏は、これを見逃さなかった。
正しく直して搭乗したことが命を救った。
 
壊した飛行機は当時の価格で70万円。
(一機の値段か三機の値段かわからない)
戦友からは、
「大日本帝国陸軍の航空機を三機も撃墜した貴様はトップエースだ。
ルーズベルトから勲章もんだ」からかった。
 
今でも陸軍に借金を返せていないので、申し訳なく思っている
という。
 
休暇を貰って、実家に帰ったときのエピソード
堀山氏は航空に転科してから、成績が芳しくなかったので
父に激しい叱責を受けた。その折、堀山氏は
 
「自分は特攻隊に志願して、必ず戦果をあげる。一機で敵艦一隻を
必ず沈めるから勘弁してくれ」と父に誓った。
 
しかしこの言葉を聞いていた母は
敵艦一隻沈めようと、息子が戦死しようものなら、叱責した父を
一生許すことはなかった」と戦後、長い事忘れなかった。

 
明野から数えて飛行時間150時間で訓練終わり。
(欧米のパイロット養成課程では最低500時間は必要といわれる)

 
特攻の志願募る

特攻隊の志願を募ることになった。各自へ用紙が配布された。
熱望する、希望する、可、不可、どれかにマルをつける
のだが、

「自分は飛行機を三機も壊しているヘタクソだから、
熱望にマルを書いたらからかわれるんじゃないか」と、考えて
希望にマルを書いて出した。
上から二番目の、希望だったらいつか必要となれば
特攻の声がかかるだろう、くらいに考えていた。
 
すると上官より、
「将来の戦隊長を育てているのに、特攻に志願するとは何事か!」
とのお叱りを受ける。
 
中尉任官。館林に移動し、
第194振武隊を拝命。四式戦闘機「疾風」で特攻訓練に励む
四式戦闘機は重戦で、速度計は750km/hまで振ってある。
勤労動員で造っていたので、どの辺りまで
耐えられるのか、不安だった。650km/hを
超えたら怖くなった。急降下から引き起こすと目の前が
真っ暗になった。
 
それに比べ、隼は乗り易くよかった。
機体も女性的なラインが優美だった。さらに遡れば
九七戦は手を離しても真っ直ぐすすむ良い飛行機だった。
 
振武隊(特攻隊)の出撃も本格的になった頃
特攻の教本が配られた。教本には次の如く記載があった。

--------------------------
と號空中勤務必携~昭和20年5月(特攻の教科書)▼

突入寸前、速度は最大だ。飛行機は浮く。
だが浮かれては駄目だ。力一杯押さえろ押さえろ。
人生二十五年、最後の力だ。神力を出せ。
 
頑張れ。神も英霊も照覧し給うぞ
目などつむって目標に逃げられてはならぬ。
目は開けたままだ。
--------------------------
 
堀山氏はこの教本と教育法に対し、
独自の理論を展開する。考案した戦法は次の通りである。
 
堀山中尉の研究考案した戦法▼
--------------------------
航法
離隔距離約300km、高度100メートルの低空。
予想海面では地球の湾曲に沿い、更に低空。
 
攻撃
敵発見後、超低空水平攻撃。高度10乃至20メートル
時速400km/h、敵前約10メートルの地点で短延期信管で
水面下突入。トリムタブ使用。
250キロ爆弾2発を目標の敵軍隊輸送船の船底で爆発させる。
高橋太郎参謀に館林で6月末意見具申し調査のご返事あり。
 
効果
海軍の機械水雷の爆発に似た効果を期待。
1万トンの輸送船の敵兵一千名と火砲
戦車、武器弾薬、多数を轟沈せば大満足。
(ひらがな表記にして句読点を付け加えた。)
--------------------------
  
堀山氏の解説
堀山氏は、自ら具申した上記の論理的戦法に対し
「実際に突っ込んでいないから理屈ですけど」と断った上で、
次のように解説してくれた。
  

そもそも、航空力学的に考えれば、飛行機は
最大速力では浮き上がり、敵艦船を飛び越えてしまう。
逆に、一旦スピードを落として
信管が炸裂するスピードで突入すればよい。
対撃信管と瞬発信管の切り替えが出来た。
艦船の喫水線下で機雷のように爆発すれば
最も効果がある、うまくいけばボイラー室が誘爆して致命弾となる。
かくして一機で一隻を轟沈する。
 
四式戦闘機には初めてトリムタブがついた。
(海軍では当初から零戦に装備済み)
操縦席左手のトリムタブ操作ハンドルを回すことで
軽い力で尻尾が下がれば、揚力を抑え、機首が下がる。
突入時の速度は400km/hが限度。500km/hはスピードオーバー
である。400km/hでトリムタブをうまく使って水平に飛ぶ。
 
トリムタブの無い隼では浮かないよう、必死に頭を
押さえたと聞く。
 
神力、精神力などという言葉で説明しても
戦果は期待できない。
 
突入は喫水線下を目標とする。(従来の教育法は喫水線上突入)
すなわち水中爆発のほうが効果がある。以上の如く具申したが
150時間の飛行時間ではその操縦習得は困難との返答あり。
 
命は惜しくなかった。堀山氏は戦で命を捧げることを
次のように例えている。
 
「死とは、ふすまを開けて、隣の部屋に入るような感覚でしたね」
 
8月15日、館林で終戦。その瞬間
「死に損なった!」と思った。目の前が灰色になって
机の縁を掴んで立っているのがやっとだった。

戦後、米国へ招待を受ける機会があった。
その際に戦艦ミズーリを目の当たりにし、その大きさに驚愕。
これでは250kg爆弾をぶつけようと沈まない。ミズーリを見て
 
これで私の特攻は終わった、と思った。
  
メモおわり。

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Photo

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2017年3月20日 (月)

飛燕~小林照彦戦隊長機

飛行第244戦隊の飛燕、小林照彦戦隊長機

飛行第244戦隊の飛燕、小林照彦戦隊長機です。
B-29に突撃するシーンを再現しました。
 
二機は別々に撮影し、合成したもので
撮影は同じ場所、同じ時間に行います。

これが一番簡単な方法で、
陰影(光の当たる角度)が統一され、合成した際

不自然になりません。
 
B-29を背景レイヤーに設定して、ボカしをかけ、その上のレイヤーに

切り取った飛燕をペーストします。仕上げに釣糸を消して
プロペラを回転させます。
 

主役の飛燕は神雷工房様の作品です。
B-29は篠原が製作しました。(B-29はボカしてしまうので手抜きです)
納品から公開まで随分時間がかかってしまいました。
申し訳ありませんでした。
 
今度、この画像をプリントして
飛燕のパイロットの方にお渡しする予定です。
 
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244戦隊マーク

飛燕の無線交信

1/48のB-29を作ろう

竹田五郎さんのお話「飛燕」高度1万メートルの戦い

飛燕Tシャツデザイン

飛燕戦闘機隊々歌完成

2016年12月15日 (木)

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2016年11月24日 (木)

中島又雄中尉(零戦パイロット)B-29との戦い

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今回は零戦パイロットで元海軍中尉の中島又雄さんに
お話を伺いました。主にB-29との空戦の模様をお聞きして参りました。
以下、中島又雄さんへのインタビューです。
 

◆海軍兵学校~霞ヶ浦航空隊で飛行学生卒業
  
海軍兵学校のクラスメート73期というのは大まかに言うと全部で
900名なんですよ。その内、船が400名、飛行機が500名と
別れたんですよね。
戦死者は船が180名、飛行機160名かな。
あんまり変わらないんですね。
 
船は練習艦隊が昔はあったけれども
そのまま実戦配置ですよね。昭和19年3月に卒業して
戦死第一号が翌々月の5月ですよ。
 
それに比べると飛行機は、半年しか戦争してないんですよ。
私が実戦に出たのが昭和20年5月末からですけれどね。
飛行学生を卒業したのが昭和19年の3月なんです。
飛行機は全部で丸一年間。そのうち半年が赤とんぼ、あとの半年が
実用機のゼロ戦ということで、飛行機の卒業が終戦の年の3月なんです。
だから簡単に言うと船は一年半。飛行機は半年しか戦争してないんです。
 
そういうことで、私たちは赤とんぼを半年、ゼロ戦を半年やりますから一応、
操縦できるようになってます。
 
◆第332海軍航空隊着任~対超重爆戦に備える
 
第332海軍航空隊に行きましたら八木勝利中佐に
「お前たちは使い物にならん」
と言われまして
実戦には上げてもらえなかった。
 
司令から見れば練習航空隊から出たてですから。
終戦まであまり実戦に出してもらえなかったクラスメートも居ますね。
例えば厚木の航空隊には10名近く行ったんですけどね
実戦にあがってないですね。
先輩達や予科練出身者が居ますから。
私が着任した晩に司令にあいさつしたら
 
「お前たちは使い物にならんから岩国で再錬成だ」
といって岩国へ行きました。
 
2月28日に卒業して三月一日に中尉になって第332海軍航空隊に着任したと。
それですぐに岩国行ったんです。
 
岩国での再錬成は二ヶ月半ほどでした。
というのもですね、この零戦の実用機で筑波で
訓練したのはいわゆるこれなんですよ。ドッグファイト。
いまの言葉で言うとドッグファイトと言いますかね。
その訓練をやってたわけですよ。
 
零戦はそれがとても優秀な飛行機でしてね、
グラマンのF4Fと空戦をやるのだったら完全にこっちが強かったんですよ。
旋回半径が小さいんですね。渡りあうと旋回半径小さいからすぐ敵の後ろに
入れる。
そして後ろから攻撃できるからですね。
実際の訓練も筑波ではドッグファイトばっかりやっていたんですよ。
 
ところが、着任した鳴尾の第332海軍航空隊というのは
どういう航空隊かというと、局地戦闘機隊で大阪の防衛を担うものでした。
 
・・・ただし、それは表面上です。
大阪の防衛は伊丹に陸軍の三式戦闘機「飛燕」という
飛行機が300機ぐらいおりまして、上がるのはだいたい100機ぐらい。
空襲にきたときはあがって、陸軍は日本の内地を守るというような
任務でしたから。それがあがって大阪上空を守ると。
 
一方で、海軍というのはもともと海の上で戦う軍隊であるし
逆に内地で戦う場合は軍港の近くで軍港を守るというのが
局地戦闘機という表現をしますんですかね。
局地の防衛しかやれないわけですよね。
 
それじゃ鳴尾の第332海軍航空隊は何の為にあそこに
配置されていたかというと、昔は川西と言ってましたね。川西航空機。
今は新明和と
呼ばれるようになりましたが、
 
その川西航空機で紫電改という
一番新しい戦闘機を作ってまして、
その工場が鳴尾にあったんですよ。
だからその紫電改の工場を守るんだと、
おおっぴらには言わないけども、
お前たちの任務は鳴尾を守るんだという
事でしたね。

従って、鳴尾に飛来するB-29を追い払えばいいと。
爆弾を落とされないようにしろということで。だから相手がB-29ですから
ドッグファイトはできないわけですね。
全然戦法が違うわけですよ。
B29に対する攻撃戦法はいくつかありまして
主に、前上方攻撃、逆落とし直上方攻撃、後上方攻撃などです。
 
一番リスクが高いのは後方からの攻撃です。
後方から攻撃しますと、まずB-29の後部には20ミリが飛び出してます。
20ミリは一発でも当たったらひとたまりもない。それから上下の
13ミリもこちらに向くわけです。
後ろから攻撃するとB-29の機銃が一斉にこちらをむくわけです。
零戦との相対速度から割るとこちらからも当たるけれど向こうからも
当てやすいと。
  
※篠原補足
B-29の機銃は20ミリ×2(後方)13ミリ×8(正面×2、上方2、下方×2、後方×2)

 
ですからB-29に対して岩国で一番訓練したのは
逆落とし直上方です。B-29に接敵して、真上から背面飛行になって
逆落としで撃っていくと。そうするとB-29の機銃がありますけど
真上は向かず死角になるんですね。接敵するときは撃ってくるけど。
そういうわけで岩国では一生懸命この直上方訓練をやらされましたね。
 
今までは巴戦、アクロバットしかやってこなかったものですから、
戦法としては全然違うんだけど、アクロバットからみれば易しいんですよね。
直線飛行から降下に入るだけで。
 
ただ、間合いが難しい。どのタイミングで逆落としすると
ちょうど射撃距離になったときB-29の真上から撃てるか。
その訓練を一生懸命やったんですね。
その訓練を岩国で2ヶ月半くらい訓練して帰ってきました。
 
◆零戦52型丙、B-29との戦い
 
ところが、大阪にも戻ったらね、「それやるな」ちゅうことになっちゃった。
何故かと申しますと、先程申し上げたように
川西航空機を守るのが私たちの任務だから、直上方やったら
B-29は諦めて爆撃針路を崩さないわけですよね。
 
B-29のほうは、正面からゼロ戦が来ると怖いわけですよね。
前上方攻撃といって、高度差があったほうがこちらは楽ですから
上から接敵してB-29の機首を狙うわけです。するとB-29は
怖いから避けるでしょう。避けるということは爆弾の命中精度が落ちる訳です。
 
零戦52型丙の武装は20ミリ×2、13ミリ×3。
前方からの攻撃であれば
B-29の13ミリ×4で、こちらが遥かに勝り、優位感を持って戦えました。
戦闘の場面においては
敵に勝る武装を持っていれば恐怖心は起きません。
 
怖いのは待避のときです。一撃後、すれ違った後には
B-29に後ろを見せる形になります。B-29の20ミリ×2、13ミリ×4が
こちらを向くわけです。
相対速度400ノットで離れて行く計算ですが
このときだけは長い時間に感じました。
 
篠原
撃墜せず、ただ追い払えば良かったのですね。

 
ええ、そういうことです。
要するに鳴尾の川西航空機の工場がやられなきゃいいということで。
 
ですけど、結果的には川西航空機の工場は爆弾が落とされたんですよ。
それは雲上爆撃というか、レーダー爆撃で落とされましたね。
そのとき私は上がらなかったんですが、我々の隊は20機近く
上げたんですがね、500メートルくらいのところで
ものすごい厚い雲があったんですよね。だから結局雲突き破って
上にあがれずに雲の下をこうまわってて、それで爆撃されたと、
記憶がありますけれどね。
 
篠原
どういった戦法でB-29と戦ったのですか

  
B-29に接敵して、照準器の覗きながら800メートルで引き金を引いて
200メートルで引き金を離して待避。逃げるわけですね。真正面に行くと
ぶつかりますから。
 
零戦のOPL照準器というのは、ガラス版で下から映像を反射する仕組みに
なっています。
映像というのはリングですね。
 
まず地上で一生懸命、お稽古したのは、今で言うところのシミュレーターです。
当時はシミュレータとは言いませんでしたけど、その装置の仕組みは
B-29の模型をレールの上で走らせるわけです。距離感を掴むために
据え付けた照準器を覗きながら、レールの上を走るB-29に照準するわけです。
 
リングは同心円で5つぐらいありましたかね。
B-29の翼の大きさがそのリングの3番目か4番目に重なるくらいだったと思う
のですが、そのときが800メートルだからその瞬間に引き金引いて。
リングの一番外側にきたときに200メートルぐらいだから逃げんとぶつかると。
 
そういう訓練をOPL照準器でやっていたので、同じことを空中でやるわけ
ですけどね、
最初だけ照準器のリングで測定してましたが、
何回もやっていると、だいたいがカンで、このくらいが800、このくらいが
200と、
わかるようになります。
 
実戦ではもちろん、向こうから弾を撃ってくるわけですよ。
5発に一発、曳光弾と言って赤い煙を吐く弾でした。最初は白い煙に見えるけど、
近くでみると赤く見える。その曳光弾がまっすぐ飛んできて、自分に当たるような
感じがするわけですよね。でも、当たらずに目の前からヒューっと横に、避けて行く
そういう印象が残ってますね。
 
そういうことで、弾が飛んでくる。だけど、エンジンがありますからね。
エンジンが盾になって、身体には絶対当たらんという感じがしました。
防弾ガラスなんかなくても、常に安心感がありました。
 
ただ、頭をやられたらイチコロですからね。
その時はしょうがねえやという感じで、苦しまず一瞬であの世へ行ける
わけですから、恐怖心なんか全然起こらないですね。
で、B-29は多少逃げますからね。
 
「これは逃げやがる」と、追いかける一心で
怖さはあんまりなかったですなあ。

篠原
結局、実戦で逆落とし直上方攻撃は実施しなかったのですね

 
それは実戦では一度もやりませんでした。先程申し上げた通り、
「やるな」というので。何の為に二ヶ月以上も苦労したんだと思いましたけど。

篠原
巨大なB-29が回避行動を取るのはどのような様子でしたか

この程度ですよね。(B-29の限界バンク角度)
旋回して追いかけて行くとすぐに観念しますけどね。
B-29は編隊を組んでたからあんまり急激な逃げ方はしないんですよ。
 
ほぼ諦めでしょうね。日本の戦闘機が来るならしょうがないと。
B-29も最初は高度8000だったのが高度5000に下げて来てますからね。
5000ちゅうたら零戦の一番性能の良いところですけれどね。
もう、なめられたなちゅう感じでしたね。
 
篠原
3号爆弾を実戦でお使いになってますが、戦果はいかがでしたか
 
3号爆弾を私も一回だけ落としたことあるんですけど
あれは当たらなかったですなあ。上で、早く落とし過ぎたんですよね。

落としてから4秒ぐらいで爆発するようになっとるんです。
バーっと爆発したけど、B-29のちょっと前でしたね
報告では7機落とした奴おりますからね。ほとんど一個編隊。
下士官だったですけど。
それからはB-29も編隊を単縦陣になって、一列で大阪へ
来るようになりました。
 
篠原
B-29への攻撃は何回経験されたのですか
 
飛行記録を焼いちゃってますから正確な数は覚えてないんですが
5月、6月、7月の間の2ヶ月半ぐらい60日、4で割ると15。
だからB29の邀撃には。12、3回はあがってますね。
 
いっぺん上がるでしょう。上がると2時間以上飛びますからね。
B-29は200機ぐらい来てますから、9機編隊だとしたって22個編隊以上
ありますからね。それを次々に攻撃する。3日おきぐらいに上がりました
からね。だからかなり上がってますよね。いっぺん上がったときには
少なくとも10回くらい攻撃してますからね。
 
何度も攻撃して複雑な運動になると、だんだん高度が落ちるんですよ。
そうしたら今度は前下方攻撃ですね。最初は前上方から、前下方、
最後の編隊になると
地上から電話で「これが最後の編隊だ」と言って
きますからね。
  
それを京都の方へ追っかけていくと伊勢湾へ逃げて帰っていきましたね。
B-29は京都の上に行ったって爆弾を落とさないわけですよ。
余裕があるなと、正直そう思った。京都に一発も落としてませんからね。
アメリカは余裕をもった戦争しているなと、当時から思ってました。
 
篠原
B-29邀撃の合間に潮岬へ哨戒飛行されたお話を少しお伺いします
 
潮岬の哨戒は三回くらいは行ってますかなあ。
B-29が来ない日は哨戒に上がっておりました。
 
哨戒は、のんびりでね。航空糧食といって居眠り防止のチョコレートとか
抹茶のお菓子をもらいから、それを食べながら。本当に飛んでいると
眠くなるくらいです。
何もなくて帰ってくると。
 
それで一回だけB-24にお会いしましたけどね。
あれはもう完全に水平直線飛行で逃げているB-24を
攻撃を繰り返すわけですけれど。
 
篠原
零戦でも急降下引き上げ時にブラックアウトが起こるそうですが
  
はい、急降下をやって。ギューっと操縦桿を引いて引き上げるわけですね。
目が真っ暗になります。その時はバっと緩めるんです。
空戦の時もそうですよね。空戦でスピードが出てる時に
 
操縦桿をグっと引くと、ブラックアウトという感覚が出てきますよね。
そう感じたらすぐ緩めんといけません。失神したら終わりですからね。
緩めると、スっと明るくなりますな。
 
でも300ノット近くにならないとブラックアウトに
ならないんじゃないですかなあ。主に急降下のときですね。
垂直旋回でのブラックアウトはまずないですね。250ノットくらいなら大丈夫
です。300ノットで急降下、引き起こして、暗くなって、
こりゃいかんと思って緩めると収まる、そういった感じです。
 
篠原
零戦52型丙は防備も強化されていた飛行機だったそうですが
卑怯だと感じて防弾装備を取り外してしまったとか
 
ええ、零戦の52丙というような言い方もしてましたけどね
防弾ガラスを取り付けられたんです。四角い5センチくらいの厚みの
ガラスを。風防の前と後ろにひとつずつ。同じぐらいの大きさだったと思います。
要するに前や真後ろから弾が来て、頭がやられないようにと。
頭やられたら終わりですからね。そういうわけで途中で取り着けようとしたん
ですけど、多少は見栄もあったのかもしれません。
 
「こんな防御装置なんか要らん!命なんか惜しくない!外せ!」
整備員に言って外させました。本当はあったら命が助かるかも
しれんのですが、
そんな卑怯な防弾ガラスと思ってましたから。
 
事実ね、防弾ガラス越しだと前が見えにくいんですよ。防弾ガラスが
5センチも間に入ると光りが屈折するわけでしょう。
真正面がよく見えない
という感じがするからね。
あんなバカなもの、見えにくいからはずせといって。
 
見えにくいというよりも、防弾なんか要らん!ということですよ。
邪魔だっちゅって。はっはっは(笑)
 
それに防弾ガラスのぶん重量が増すから飛行機の性能にすぐ影響するわけ
ですからね。
そりゃいま考えられないけれど、当時はそういう精神状態でした
からね。
我々は。教育環境というか小さいころからの気持ちの積み重なり
じゃないですかね。卑怯なことはしちゃいかんと。
 
いま考えると、おかしいですし軍の組織として考えればいけないことですよね。
せっかく命を助けてくれる、パイロットが消耗しないために考えて着けてくれた
んだと言われても・・・当時はそんなことお構いなしでしたな。
 
篠原
飛行機のトラブルはなかったですか
 
そうですね。私が乗った零戦で具合が悪くて下りたということはありませんね。
多少は油漏れとかで機体が汚れた事は
ありましたけど致命的なトラブルは
ありませんでした。
 
それにゼロ戦は軽い飛行機だったからエンジン止まってもどこにでも
不時着できるという安心感がありました。
非常に操縦し易いし、
安定しているちゅうかね。
  
篠原
零戦で高度1万メートルまで上昇されたそうですが、いかがでしたか
 
エンジンはフルで、プロペラピッチは特別調整した覚えはありませんね。
上昇角はほんの少しですよ。少しずつ。少しずつね。少しでも姿勢
傾ければ落ちますからね。
 
酸素は一定以上の高度でマスクから出てくるのですが全開にしていました。
1万メートルに到達して電話で「只今10500メートルこれから降下する」と
言ったら、それだけで息が切れて。瀬戸内海が地図と同じように箱庭のよう
に見えました。
 
篠原
士官以上とか飛行隊長は専用の飛行機があったのですか
 
専用機はありませんでした。割り当ての機番号書いてあればその機番号に
乗るだけで、
これはもう隊長機とか、そういうのはありません。
 
少なくとも私の隊ではそういう事はありませんでした。
私の隊なんかで考えると専用機は考えられないことですな。
汎用の飛行機で、古い型と新しい型はあったと思いますけれど
そういう区別はつけられていなかった気がしますね。
 
当時、飛べる飛行機の機番号書いて、搭乗割をバーっと
何も考えずに駆け込みますからね。
これはあの隊長の飛行機だとかは聞いたことはありません。
どれでもいい、みんな52型でしたけれどどれでもみんな
同じように良い飛行機だというような感じでしたな。

篠原
第332海軍航空隊の零戦の日の丸には白いフチはあったんですか。
 
なかったっと思います。淵なしでそのまま日の丸が
描いてあったと思います。
 
篠原
紫電改についての印象は如何ですか
 
一度、第343海軍航空隊の紫電改が燃料補給に降りてきたことが
ありましてね、そのパイロットが予備学生出身のパイロットだったん
ですが、いま四国で邀撃にあがって3機グラマンを落としてきたと、
指をこう三本やってね、自慢そうに話していたのが記憶に残ってます。
だから我々から見れば紫電改っちゅうのは憧れの飛行機でした。
目の前で作ってましたしね。
 
零戦が本当に良い飛行機でしたから後が続かなくてね
もうちょっと早くに紫電改を作っておればね。
 
篠原
雷電の印象は如何ですか
 
あれだけは乗りたくなかったですね。殺人機と言われましてね、
マグロに羽根をはやしたような格好で、
ずんぐりむっくりで。
エンジンは消防車みたいな音がして。
操縦席に座ったら視界も悪い。
それで一応、操縦のマニュアルを
もらったんですがね。
 
「貴様らも、いよいろ雷電に乗せるぞ!」と言われていたんですが
最後まで乗らずに零戦でした。
 
篠原
関行男大尉が霞ヶ浦で教官だったのですね
 
ちょうど関さんにフィアンセが出来た時代が私どもが霞ヶ浦におるときの
教官でしてね。フィアンセが面会にきよったですよ。
 
それで我々学生が「おい!あれ関さんのあれだぞ!」といって見てました。
それで結婚してすぐですからね。敷島隊の特攻は。
 
教官は海兵70期で10何人くらいいらっしゃいましたけどね。
関さんも我々から見れば普通の人でしたよ。
亡くなった軍神に対して申し訳ないけども。
 
印象的だったのは言葉遣いでした。関さんは
「てめえたちはなんじゃい!」というような怒り方をするんですよ。
「てれんこてれんこしやがって!」とかね。よく覚えてますよ。
 
普通は「貴様たちはなんだ!」というような怒り方をするんですが
どちらかというと関さんはヤクザ言葉でしたね。
 
※篠原補足
当時、霞ヶ浦航空隊の教官は
海兵70期が主力で関行大尉、市川大尉(戦後海自)
余田大尉(戦後八戸沖で殉職・当時石井)など。

 
◆8月16日の特攻隊編成
 
篠原
昭和20年8月16日に特攻隊を編成してというお話しですけれども
海兵出身の方が先頭で
 
我々は海軍兵学校出身のプライドを持ってましたからね。
俺たちは本当のの軍人だと。予備学生出身の方は
大学行って勉強していたけれど、戦争のことは勉強していないでしょう。
それで我々が率先して行くのは当然だというような考えでね。
 
永遠のゼロなんか見ますとね、投票箱みたいの置いて
希望を書いて部屋を出るとき出せと言ったとか。
我々から見たらバカなことをやってるなと思ったけど
事実そんな事あったんかなと思ったんですが、我々の時なんかは
そんな書いている暇なんか無いんですよね。16日の夕方、総員集合と
言われて集まって、

「明朝を期して特攻隊をやるから特攻隊を編成する!飛行士、やれ!」
 
と。それからいちいち希望なんか聞いていないわけですよ(笑)
「わかりました、やりましょう」ちゅうて
 
それで士官名簿で海軍兵学校出身の者を上から順に書いて。
ただ、予備士官が途中に入っていたからそれを外すわけですね。
外したんです。我々先任がおったけれども、予備学生出身と兵学校出身は
名簿を見ればはっきりしてますからね。
 
それは私と同じ中尉でも13期の予備学生がいっぱいいましたけれど、
私達より早く中尉になってる人がおるんですよ。13期も二種類ありましてね、
大学出身の13期と
高等専門学校出身の13期がいるんですよ。
高等専門学校出身は少尉でした。
 
我々、海軍兵学校出身の中尉、それから大学出の人は中尉と
一部に大尉が居ましたね。だからあれはどうしてなのか、
大学から召集したときの時期の違いがちょっとあたったので
差が出たんだと思います。で、予備学生はずして我々をぜんぶ入れて。
足りない分を予備学生を入れた訳です。
 
だから幹部だけで間に合ったから。特攻隊の出撃名簿に
下士官はひとりもいなかったんです。
 
その命令を出した後も私は残務整理がありましたから、指揮所に
残っていましたら
予科練出身の下士官5名程が私のところへやってきて
 
「何故、士官だけ特攻へ行けて我々予科練出身者は出撃名簿に入れないのか」
と詰め寄られました。
 
私はそれは最初は嬉しかったですね。
嬉しかったっちゅう意味は、戦争終わったんだから普通はね、ああ、これで
命助かったなーと思うでしょう。
だから戦争終わってから特攻に行くなんて
考えられないことだけどもね、
 
下士官が来て、なんで士官だけ行って俺たちを行かせないんだと言ってね。
終戦後の特攻に希望してきましたからね。涙流しながら来たんですよ。
 
鳴尾には150機くらいの零戦が残ってました。8月16日にはその内の
40機くらいが飛べるようになっていたから
40機の特攻隊を編成したわけです。
 
「飛行機はいっぱいある。我々が40機で特攻に行っても、あと110機
残ってるから、
整備すれば10機でも20機でもまた次の日飛べるように
なるから
諦めんでいい。後に続いて来い」
 
そう言ってなだめたんですけどね。
それでも一人だけは最後まで、
「分隊士!分隊士の座席の後ろに積んでいってくれ」と。
そういうのがおったですね。嬉しかったですねえ。
 
篠原
中島さんご自身は中尉で士官ですからご自身は16日に特攻に行かれて
部下である下士官は助かれば嬉しいというお気持ちだったのですね
 
ええ、普通なら下士官は助かるでしょう。予備学生も私たちが勝手に
指名したわけですが
「なんだ」と不満に思われた方もいらっしゃると
思うけれども、
それはさすがに士官ですから何も文句は言っては
きませんでした。
 
文句というか、逆に行かせろと言ってきたのは、さきほどの特攻の選抜から
漏れた下士官が言ってきただけですよ。だからやっぱり、みんなの
心理状態がそういう状態だったんですね。
 
我々海軍兵学校出身者の軍人はアメリカが占領して進駐してきたら
どうせ殺されると思ってたですよ。
 
だから死に場所が与えられたからありがたいと思ってましたよ。
みんな指名されたから喜んでいるくらいですよ。正直言ってそうです。
下士官もまだ18歳ぐらいじゃないですかねえ。
やっぱり私は嬉しかったですよ。
こういう人たちまで若いのにみんなそう言ってくれるかと思って。
 
そしてあんまりに、俺は明日特攻で死ぬんかというそういう切実な
気持ちは無かったですなあ。正直言って。
普通の邀撃にあがるのとおなじぐらいの気持ちでいましたね。
特攻を命じられて不満を漏らすものは一人も居ませんでした。
 
篠原
当時は、戦死した後は靖国神社にまつってくれるから安心だと
感じていらっしゃっていたのですね
 
戦死した後の事は・・・
当時は戦死者の家族に対してはものすごく尊敬を払ってましたし
そういう人たちの遺族が苦労しているという話は全然聞きませんでした。
 
戦死者の遺族に対する手当てが具体的にはどういうものだか
知りませんでしたけど、自分が死んだらちゃんと国が家族の
面倒見てくれるはずだと思ってるから安心でした。
 
遺族年金なんかも出るでしょう。そんな言葉は当時は
知らなかったけれど、そういうのが出て安心だと思う
から、後の事は心配は全然しませんでしたね。
 
「俺はこれで死ぬかもしれない。一人息子の俺が死んだら
両親は寂しくなるが、戦没者の遺族として国が面倒を見てくれるし
神として靖国神社に祭られるのだから心配ない」
 
何の憂慮もありませんでした。
 
つづく
 
証言者プロフィール
◆中島又雄さん(元海軍中尉)
海軍兵学校73黄卒業。霞ヶ浦航空隊(第42期飛行学生)を経て
第332海軍航空隊着任。岩国で対重爆撃機邀撃の為の再錬成ののち
零戦52型、52型丙に搭乗し
対B-29本土防空戦を行う。
戦後は海上自衛隊勤務。海将。
  
  
模型製作
神雷工房様
※画像の零戦はイメージであり、中島又雄中尉搭乗の零戦とは関係ありません

2016年10月 8日 (土)

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦)52型

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦52型)

Photo_3

零戦をはじめとした陸海軍大戦機のフリー素材アイコンを作りました。
PNG形式でダウンロードできます。
画像一段目、ゼロ戦21型上、52型上
二段目、21型横、52型横
 
マーキングを省き素の状態ですので、
各自機番号等ペイントツールで入れてお使いになれます。
 
機番号やマーキングを入れてほしい方は
こちらでお入れすることもできますので、ご連絡ください。
 
21型のほかに、11型、22型、32型、52型甲、52型乙、52型丙、53型丙
62型、64型(試製54型丙)、零式練戦、二式水戦など、
全ての型式をご用意しておりますのでご希望の方は
別途お問い合わせください。三菱製、中島製がお選び頂けます。

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シルエット1、2段目、ゼロ戦52型。
3段目、晴嵐、疾風、流星
4段目、飛燕、震電となっています。
 
非営利に限り、無料でご利用になれます。
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
提供できますのでお問い合わせください。 
 

必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり

以下写真画像

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

2016年8月29日 (月)

竹田五郎さんのお話「飛燕」高度1万メートルの戦い(2)

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Q、篠原
竹田さんがお乗りになった戦闘機は

九七戦、一式戦(隼)、二式単戦(鍾馗)、三式戦(飛燕)、
最後は五式戦、いうことでよろしいでしょうか。四式戦(疾風)以外全部ですね。
 
A、竹田五郎氏
そうですね。九七戦から始まって、一式戦、二式単戦、三式戦、五式戦と
乗って、四式戦だけなかった。
 
Q、一式戦(隼)が旋回性能で二式単戦(鍾馗)が一撃離脱で
 

まあ、旋回性能というのは一式(隼)のほうが良いでしょうね。
何せ軽いですからね。小回りがききましたな。さらに、その前の
九七戦はもう本当に自由自在で、軽快な飛行機でした。
スピードは二式単戦(鍾馗)は重たいから突っ込みがあるし、
速度も出ます。着陸の速度も10キロかそこら多かったと思います。
なんとなく重たいという感じはします。
一式戦(隼)の操縦者が二式単戦(鍾馗)に乗り換えると
ちょっと苦労したと思いますね。
だけど飛行機は飛行機。そんなに変わったことはない。
 
Q、隼と鍾馗の開発者、糸川英夫博士は一式戦(隼)を短剣
二式単戦(鍾馗)を
長槍として、ペアとして運用を考えていたそうですが、
それぞれ、特徴をいかして戦法を変えたりはされましたか。
 

それは特に考えたことは無いですね。
同じように飛びました。ただ、一式戦のほうが小回りきくでしょうな。
 
Q、三式戦(飛燕)は如何でしたか。
 

三式戦(飛燕)は水冷ですからね。ちょっと使い方が違う。
だけど操縦そのものは変わらないですからね。
機首が長いですから、離陸の時ちょっと前が見えないだとか
違いはありますが、だけど飛行機は飛行機。
 
ただ水冷と空冷となれば、水冷のほうが事故は多かったでしょうな。
特に南方では三式戦(飛燕)は事故が多かったですね。
水漏れ、油漏れっていうのがありました。
 
Q、五式戦は如何ですか。
 

五式戦はよかったですね。五式戦がもう少し早く出ておれば、
だいぶ高高度戦闘にはよかったと思います。
やっぱり八千メートル以上になると、二式戦も三式戦もダメで、
四式戦は多少は良いかもしれないけど八千
メートル以上になると難しくなる。
 
八千メートル以上になると編隊が組みにくかったですなあ。
八千から八千五百メートル位ですよ。まだやれるのは。
一万メートルになる頃にはバラバラです。
 
編隊組んで最初はついてきてるけれど、映画に出てくるような
一万メートルで9機編隊なんてやったことない。
2機でくっついて
動けるのが精一杯でしょうな。
ちょっと旋回すれば失速するというような
状況ですからね。
一人でフラフラ飛んでいるような状態です。
B-29はゆうゆうと飛んでいる。
 
Q、飛行第244戦隊の飛燕でB-29を邀撃されたお話しをお伺いします。
 

もう攻撃と言ってもね、後ろから攻撃なんて八千~九千メートルでは
出来ないですな。というのは九千メートルで攻撃しようと思ったら一万メートル
で待っとかにゃならない。一万ではもうフラフラですよ。ただ、よっぽど良い時に
運よくB-29の前に居れば攻撃出来るでしょうけどね。
 
こちらが一万で、むこうが九千くらいなら、まだやりやすいですね。
B-29が離れたところにおれば、もう旋回しているうちに落ちていきますから、
前方攻撃は難しいですけれどね。ただ、大型機の編隊は簡単には回りませんから
高度さえあれば落とせるんですよ。
 
確か小林照彦戦隊長が体当たりしたというのは、
B-29の高度が九千五百メートル位。小林戦隊長の飛燕が一万五百メートル
から
攻撃かけて、失速状態の突っ込みですからね。最後は舵が利かないですよ。
 
Q、昭和19年11月1日に東京にはじめてB-29が偵察に来ました。
そのとき、最初に上がったのが竹田さんでしたね。
 

あのときは一面青空でした。キラーンと光るB-29の機影に、
見事な飛行機雲ですよ。
 
私だけでなく、各飛行隊あがったけれど
あんまり傍まで寄ったのは無いです。仰ぎ見ただけです。
B-29とは高度差五百メートル以上はあったでしょうね。
後を追いかけるったって、旋回がフラフラしてますから
追い付けない。あの飛行機を攻撃した者は誰もおらんでしょう。
見たものも少ないでしょう。
 
Q、竹田さんご自身がB-29攻撃された模様を教えてください。
 

それは何回もありますけれど、私はお恥ずかしいけれど
戦隊の中で撃墜王と言われるような事はそんなにやっておりません。
私が撃墜したB-29は1機だけです。撃破したのは2機。
 
そのときは単機です。上がってゆくスピード、飛行機のちょっとした
馬力の差(僚機)で
旋回させるとついていけなくなる。もうバラバラです。
 
Q、その撃墜した一機はどんな状況だったのですか
  

これはもう、相手が海の方に帰っていくやつを。もしかしたら
既に撃破されていたかもわかりません。
高度五千くらいだったですかな。
追いかけて行って、撃墜しました。
 
Q、B-29のどの辺りを狙うのですか
 
A、
胴体の真ん中狙うと、エンジン四つありますからな、結果的には
それのどっかに
当たったんでしょう。
 
時速250キロから300キロ同士くらいでこう、ぶつかる。
とにかくB-29が5機6機、7機編隊になりますとなあ
雨あられですよ。飛行機から撃ってくる弾を見たときは
翼端からこうパパッと避けて行く。夏みかんをパパッとさくみたいな、
それが距離近付くと
火の玉のような、よく絵に描いてありますが。
 
B-29の火砲は
前だけでも少なくとも4門はこちらを向いている。
それが9機編隊だと36門向いている訳です。こっちは2門位ですからね。
そういう状況ですから
一瞬の間ですからね。
 
私の飛行隊は非常に戦果をあげてますけれど、
飛行隊毎の待機位置が決まっていて
うちの部隊は富士山の北の大月上空が待機場所だった。はじめはね。
 
次の部隊が荻窪上空。
 
最後の部隊が宮城(きゅうじょう)直掩隊でした。
 
Q、B-29、2機の撃破をされていますが、それはどういう状況ですか
 

編隊組んで、前方法で攻撃しました。ほとんど前方から。
そしたら煙吹いて。そのまま追い続ける暇ないですから。
次の編隊が来ますから。
 
Q、被弾して不時着された時のお話をお聞きします。
 
不時着は何回もしましたよ。田んぼとかなんかにね。
落下傘降下もしました。
 
それから私は、夜間邀撃で友軍の高射砲に当たった。
夜間の高高度邀撃は手も足も出ないというのが本音ですね。
ただし夜間はB-29も低空ですからね。三千メートルくらいで空襲に来る。
 
それに照空灯(サーチライト)がつけば、という条件が揃えば
攻撃できます。照空灯がつかなければ真っ暗で見えないですから。
運の良い人は照空灯がなくても月夜の晩で
突っ込んで行ってね、月の光で落としたんですけれどね。
一度の攻撃で二機落としたのが居りました。
 
私の場合は、B-29を追いかけている時にバっとエンジンの回転が
変わったんですな。高射砲が飛燕のエンジンを貫いたんでしょう。
B-29には当たらんで私に。
 
あるいは
その晩、海軍の飛行機も上がってましたから、それの弾
かもわかりません。
自分の機体に当たったから、松戸の飛行場の
上空まで来て
「高射やめ」と無線で言った。それで松戸の飛行場に
不時着しました。
 
Q、戦友の思い出を聞かせて頂けますか
 
A 
四宮徹中尉は私が中隊長だった頃の先任将校でベットは隣。
よく一緒に飲みに行って、遺言状だとか家族に宛てた手紙だとかを
預かっているんです。この人は本当にB-29に体当たりで翼(ヨク)の
この辺り(日の丸の辺り)から切って突っ込んでいきました。
その飛行機をみんな間違いなく見ていました。
最後は特攻隊でした。
 
それから、この板垣政雄君(軍曹・震天制空隊)というのは落下傘降下して。
 
体当たりしようとしてB-29の上に乗っかったのが中野。
体当たりは二回やったかな。
 
生野(生野文介大尉・そよかぜ隊)は体当たりしてない。
生野は飛行隊長で特攻隊員じゃないですから。
彼は夜間飛行でだいぶ落としてますけれども。
友軍高射砲に撃墜されたようなものでしたよ。
 

うちの飛行隊で一番落としたのは7機落としたのが居りますよ。
要するに、良い時期に良い位置で、発見が早い事が必要なんですね。
自分が一万メートルの高度をとっていれば何とかなるでしょう。
特攻隊員でない者で、体当たりしたのは小林戦隊長だけです。
 
Q、それが五式戦だったら随分戦えましたか?
 

随分はないですね。「いくらか」ですね。
五式戦でB-29の邀撃したことはないけども、たぶん、よかったろうと思います。
性能はよかったから。五式戦で邀撃は一回かな。ほぼ知覧におって
攻撃任務に使いましたから。
 
Q、戦闘機とも空戦して撃破されていますね。
 

五式戦で相手したのは艦載機ですね。グラマンF6FとF4U。
私が撃破したのは、F6Fかな。昭和20年7月です。
最後までは見ておりませんが、あの様子なら海の中に落ちたとは思うんです。
 
その時、弾が出なかったんです。
試射した時はちゃんと出たんですけれど
いざ攻撃したら故障なんです。それでも最初、10発ぐらい撃って
F6Fを撃破した。F6Fは白い煙を噴いていきました。
 
F6Fの後ろの位置(斜め上後方)につけていたので、
あれは当たらん筈はないです。
ただ、弾が出なかった。
それで残念だったけど、引き上げる時に、
今度は私の方に敵機の
弾が当たって。それが五式戦の
風防の枠に当たっていた。
  
 
 
つづく
 
平成28年7月インタビュー
 
証言者プロフィール
竹田五郎元陸軍大尉
大正10年生まれ
第244戦隊で三式戦、五式戦で本土防空戦を戦う。
戦後、航空自衛隊F86Fパイロットを経て、空将、航空幕僚長を
務める。
 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌) 唄:御堂諦

2016年8月28日 (日)

笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊

紫電改

篠原Q、
零戦から紫電改に乗り換えて一番の違いは何でしたか
 
A、笠井智一さん
だいたいね、零戦は栄のエンジンにしても 800馬力やないですか。
紫電改は誉の2000馬力でしょう。 そら800馬力と2000馬力じゃ違うんですよ。
 
Q、一番大きいのは馬力ですか。

A、そうですねえ。全然違いますね。
 
Q、紫電と紫電改ではどう違いますか
 

紫電と紫電改では、同じ誉のエンジン2000馬力ですけれども、
紫電は中翼。胴体の間に、真ん中から翼(ヨク)が出てる。
しかし紫電改は改良されて紫電改は低翼ですからな。
それだけでもクセの状態が全く変わってきますから。
離着陸訓練とか、編隊訓練とか そういうものは紫電でだいぶやりました。
 
Q、紫電と紫電改では中翼が低翼になっただけで違うのですか
 
A 
ああ、違う。
見張り。敵がどっから来るかわからんから、 それを見とる訳ですよね。
視界が全然変わってきましたから。
第一に離着陸はね、中翼と低翼と差があるわけですよね。
低翼は本当に乗りやすかったですよ。

紫電と紫電改では旋回性能も全然違うしね。
そら 同じように20ミリ4挺着いとるけども。 そいで私は紫電で実戦に
参加したのは一回しかありません。 あとの実戦はみんな紫電改でやりました。

Q、紫電改はよかったですか
 

ああ、よかった。全然違う。(キッパリ)
紫電改はグラマンと空戦しても絶対に負けるような
飛行機じゃなかったんですよ。 ただ、敵機の数が多いんでね。数で負けた。
こっちが10機おったら向こうは40機、50機おるんやから。
 
だけど空戦するときは40機とぜんぶ空戦 する訳ない、こっちからお互いに
4機、5機で 空戦するんやから、どうっちゅうことはないんやけども
そらもう、なかなか数が多かったから、こっち側も2、3機やられたら
むこうは5機6機やっても あくるひにはまたおんなじだけの数が来よんのやから。
 
そら日本は飛行機の補充もない。搭乗員の補充も無い。
訓練せんことには簡単に紫電改にのれるもんでもないから。
 
あの頃、 301飛行隊新選組、701飛行隊維新隊、407飛行隊と、
飛行隊が三つあったんですよ。 飛行機会社から紫電改を受け取ってきたら
301飛行隊でみんな受領して、301はそれを最初に 使うとったんですな。
 
ほいで、407飛行隊で甲の5期で本田稔さんちゅうひとが居ります。
まあ、紫電改で 空戦経験者いうたら二人ぐらいしかおらんのじゃ。
 
Q、同じ局地戦闘機でも雷電はあまり良い噂は聞きませんでしたね。
 

そうですねえ。 せやけどね、雷電をえらい褒める人も居るんですよ。
人によってはね。あの飛行機はええ飛行機やったゆうてねえ。
まあしかし、雷電は格好が悪い。
 
Q、いや、その、雷電が好きな方も居りますので・・・
 

紫電改ぐらいの格好しとったらね、 おー、なかなか、とこう、(ニヤリ)
愛媛県の愛南町というところに紫電改が一機展示してあるでしょう。
日本ではあれ一機だけなんですよね。 そら私も年に一回ぐらいは
行きますけれども。 やっぱり、見たら紫電改は格好ええ。
 
もうね、こんなこというたら申し訳ないけれども 靖国神社の零戦、
あれもええ飛行機ですよ。 ええ飛行機ですけども、紫電改と見比べたら
華奢でね。 これではグラマンと空戦できても勝てへん。
零戦に乗っとった人には誠に申し訳ない話やけども やっぱり、紫電改は
日本、いや世界一の戦闘機ですよ。
  
Q、4月12日の喜界島上空での空戦の話を聞かせて頂けますか
 

あの時は鹿屋から出たんですよね。
そして一番機が杉田庄一、二番機が私で、三番機は宮沢豊美、
4番機は田村恒春。 田村は栃木なんですよ。彼とはだいぶ一緒に
飛んだし空戦もやったよ。
 
その田村が離陸してからエンジン不調かなんかで引き返したので
3機で編隊組んで飛んで行った。 そいでまあ、いちいち下の島見とる訳ないから
上ばっかり見とるから、そいで喜界島の上まで来たら
 
「菅野一番、敵機発見、敵機発見」
言うないなやビューーーーッと突っ込んで行ったんですよ。
 
Q、菅野直大尉もすぐ近くだったのですね
 

一区隊が菅野大尉の4機、二区隊が杉田、私、宮沢。だから一区隊と二区隊
言うたら、すぐ端に居るからね、一区隊の一番機、菅野大尉の隊長機が
突っ込んでいったら すぐ見える訳ですよ。
「あれ、やったー」思って。ほいで、それを我々も一緒になって
ついていくわけですよね。
 
あのときは随分乱戦になってですね、でも301飛行隊は未帰還機は
無かったかな。 ほいで、菅野大尉が突っ込んでいった。
私もそれについていった。ほんなら下からF4U。
いわゆるヴォートシコルスキーやな。
 
そいつがビューーーーウっと上がってきよったわ。
それに菅野大尉がダダダーーーーっと撃って一撃で一機撃墜しよったんですよ。
「やった!」と思って それから乱戦になってですね、それで記憶はないんだけども
私はとにかく杉田兵曹から 「空戦の時は編隊離れたらいかん」て
やっかましく言われとったからね。
 
敵を射撃せんでも、絶対に編隊についていかんと・・・ 思っとったやつが
結局、そこで空戦で一番機が離れてしもうて。 一番機がどこへいったかわからん。
ほいでそこで空戦やって、ほいで、2機撃墜したつもりでおったんですよ。
次に射撃しようと思ったら弾が出ない。もう弾がない訳ですよね。早く基地
帰らないかん。 で、海面スレスレでデーっと、北向いて、鹿屋向いて帰った。
 
そしたら上見たらね、グラマンが編隊で3機、追いかけてくるわけですよ。
これはいかんぞー。もしもグラマンが来やがったら 体当たりしてでもやったろうと
思っとったんですよ。 ほいで、鹿屋の近くまで来たら ちょうど鹿屋の上空で
紫電改が上空哨戒でおったんですよ。 それをグラマンが見て、帰っていった。
そいで助かった。
 
そいで、着陸して源田司令に報告。「二機撃墜しました」言うたら司令は
「よし」言うて。 横に居た杉田兵曹が
 
「おい、笠井!来い!」
「はい」
「2機撃墜した言うたな」
「はい」
「お前、それ2機とも海落ちるとか、山へ落ちるとか撃墜の確認したやろな」
 
と、こうや。私は
「しとりません」ちゅうて。
杉田兵曹は、撃墜の確認しとらなんだら、そら撃墜違うと。 そら不確実やと。
いうことで。 私は撃墜したと思っとったやつが不確実撃墜になって
不確実2機と記録に残っとる。あれは私の不確実の2機や。
 
杉田兵曹は
「俺はなあ!!空戦しとった者がどこで空戦しとるか、皆見とるんじゃ!!!」
と言うんですよ。 そんな一番機、ちょっとおらんですよ・・・。
 
「俺はお前が戦うの見とったからな」と言うんです。
撃墜にはならなんだですけれど。 まあ、そんなことは4月12日の
状態なんですね。
 
「カンノ一番」の無線が入ってきて、真っ先に突っ込んでいくのが菅野大尉で
 

そうです。そらあもう凄かったですよ。 編隊組んでわたしはここにおる
「敵機発見、敵機発見、菅野一番、菅野一番」 電話を打つ、言うやいなや
ビュウワーーーーー と突っ込んでいきよるねん。 我々はそれについて
いかないかん。それについていくのが大変やった。 訓練しとっても大変やった。
 
Q、真っ先に見つけるんですね

A 
そうなんです。ほいで、我々は一区隊の隊長機に みんなついていかないかん。
それをね、杉田さんはね、一生懸命訓練した。 編隊を組んで、いろんな訓練をね。
あそこまで、訓練してくれたから、我々はいま、生きて居るんですけれど。
 
まあ、零戦の搭乗員でも杉田はラバウルの経験があるからやとか、
いろんなことを仰る方もおられますけれどね、 杉田兵曹を「あれはなかなか凄い
男やったで」と褒めたら嫌がる人間もおる。 もうそんな人は死んでほとんど
おらなくなりましたけどね。
 
Q、杉田さんの2番機であったから生き残れたと
 

そうそう!私が生き残れたのは 杉田の教育を受けたのと、
最後に紫電改に乗れたのが大きな要因やと。
菅野直大尉も立派な隊長でした。なかなか他に類を見ない隊長でしたね。
 
もちろん、その他に家族が武運長久を祈ってくれてたとか 色んな事ありますよ。
  
特攻についてのお話し
 
Q、玉井さんの命令も苦渋の決断だったのでは
 

うん、そういうことはね、みな言うんですよ。
せやけどね、実際にそういう場面に遭遇したときにね
「お前特攻に行くのやめとけ」と言われへんやないですか。
みんな特攻に行っとんのやから。 そら、戦後になってですよ。特攻に反対
やったとか、言う人がほとんど。 だけど、そうは簡単にはいかん訳ですよ。
 
だから私たちも、死ぬとなったら誰も命は惜しいですよ。 だけど、日本の国の
ためなら、俺がやって日本が勝つなら命なんか惜しくないと、 国のために
やったるんだと、いう気持ちで特攻に行っとるわけ。
 
戦闘機が、レイセンが250キロ爆弾積んで 行くのを、俺は爆弾積んで
死ぬために戦闘機乗ったんと違うと、 空中戦でグラマンを一機でも
余計に落としたいと思って それで私は戦闘機乗りになったのに、
「爆弾抱いて体当たりで死ぬのは残念や」いうて、 死んだ奴がようけおる。
 
そらあの、343の紫電改部隊でもですよ、 本部から特攻に行かんかと、
いうような命令は来たらしいですよ。 私は飛行長の志賀淑雄さんと
戦後ずーっと長いつきあい させてもろうて、いろんな話を聞いたけれども
とにかくその時に、志賀さんは源田さんに
 
「司令、特攻に行けというのなら行きましょう。そのかわり、司令、あんた一番に
行きなさいよ」と。
 
そして部下には
「参謀を連れて行け、参謀と一緒にいくんやったら特攻に行きましょう」と。
源田さんにいうた。 ほなら、源田さんがそれを本部に伝えてそれから
特攻の話が全然来なくなったと。
 
Q、参謀というのは
 
A、
そら航空参謀や。 私がフィリピンで忠勇隊・・・
あれは10月27日やったかな。忠勇隊の特攻隊の直掩隊で
行くときに指揮所へ行ったら、黄色い憲章つけた奴がぎょうさんおるわけですね。
あれなんや?あれみんな参謀らしいでちゅう話やて。 参謀って何やねん。
何しにきとんねん。 そんなもんね、そいつらはもう特攻に行かすのがね。(仕事)
 
そう、あのときにおそらく、私らは当時わからなんだけれども
大西瀧治郎もおったんやと思うよ。 当時は顔も名前も全然知らんかった
ですけどね。 ほいで命令を受けて、特攻直掩で行ったんですけれどね、
直掩に行った連中は五人だったですかな。 行って、ほいで、その中に
343紫電改で空戦やったのも 居りましたけれどみんな死にました。
私一人だけですよ。生きとるのね。
 
Q、特攻隊と直掩隊ではどう違いますか。
 

そらね、直掩隊で行く人間と特攻で行く人間とでは精神状態はだいぶ
違うと思いますよ。 せやけどね、特攻の飛行機がやられたんなら
俺も突っ込んで死んでやるぞと いう気持ちはある。俺らは特攻隊を守るんだと。
 
特攻隊はそこで体当たりで死ぬんだという感覚と、
直掩隊は俺たちはお前たちを守るんだぞという感覚と、
そこらはなんぼかの差があるんじゃないでしょうかな。
 
Q、関大尉の特攻に関しては色々な説がありますが
ご存知のことを教えてください。
 
A、
私たちもいろんな噂話を聞いとりますけれど、 あのときに、マバラカットの
航空隊の宿舎で大西中将、それから玉井さん 指宿さん、それから横山さんが
おって なんで、艦爆あがりの関さんを特攻に指名したかということなんですよね。
 
色んな話は残ってますよ。それは真実であるかどうかはようわからん。
いろんな説があるんですよ。 一般に言われとるのが菅野大尉がおったら、
菅野が特攻に 行っとっただろうと、しかし残念ながらおらなんだ。
あれは飛行機取りに内地に帰っとったから。 私はそのとき菅野大尉と一緒やった。
 
ほいでまあ、中島飛行機の飛行場で、菅野大尉が
「おい、よう聞け、いまフィリピンでレイセンに25番抱いて体当たりで
行く戦法つこうてるらしいで」って、こう言う。
私は 「えーレイセンに25番抱けるんですか」いうて。
レイセンで25番の爆弾を抱けるなんてだーれも思ってなかった。
 
そら、ご存知やと思いますけれども 特攻の初期に離陸ようせんと、
飛行場のエンドに突っ込んで 爆発して死んだ奴がおるんですよ。
レイセンが25番抱いて離陸するなんて夢にも思ってなかった。
せいぜい6番ね。60キロ2発ぐらいが関の山やと。 そんな状態のときやから
特攻精神にはなっとると思うけれども 離陸のときに離陸しきれずに
飛行場の端っこへ 突っ込んで戦死したやつがおるんですよ。
実際におるんですよ。 マバラカットの飛行場のね、
 
 
~笠井さん、戦友に会いに行く~ 
 

だんだん生きとる人間が少なくなりますわな。 時々こういう話を取材に
来られる方が おられますけれどね、そんなにまあ、私はみなさんに
取材受けるほどの 古い搭乗員でもないし、兵隊も若いしたいしたこと
ないんですけど。 しかし、やはり、こうして生きている以上は やっぱり誰が
どこでどうして死んだかと、 いうようなことぐらいはですね、後世に残しておかんと。
みなもう消えてしまいますからね。 戦争中の話をするのは嫌だとか
嫌いだとかいうひとが おりますけれども、卑怯なんですよ。そういうやつは。
 
やっぱり自分らの一緒に戦った戦友はですよ、 戦死してですね、
そのことを言わんちゅうことは その人間をホントにもう亡き者にして
しまいますからね。
 
やはり、あれは、どこそこでどうして死んだとかね それぐらいのことは、
やはり残しておいたほうが いいんじゃないかと。私は思いますけどね。
 
毎年9月に靖国神社で慰霊祭がありますわね。
私はそれには毎年必ず参拝する予定にしてるんです。
せめて靖国神社へ行ってですね、あの大鳥居をくぐって
 
「おおい!来たぞー!!みんな元気かー!!」

私は必ず言いますけれどね。
 
 
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
 
343海軍航空隊 全パイロッデータベース

笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊

篠原Q、第263海軍航空隊(豹部隊)についてお伺いします。
 
A、笠井智一さん
あの頃はペリリューにおりました。
ペリリューは割合大きな飛行場だったんですよ。
それが随分空襲で叩かれるようになって戦死者も増えました。
これではいかんというのでガドブスへ移動したんですよね。
 
Q、263(フタロクサン・通称豹部隊)では
笠井さんと、杉田さん、他にはどなたが 生き残りましたか。
 

日光安治上飛曹(甲飛10期・のち343紫電改部隊へ)
井上武二飛曹(東京)、久留米出身で 263の先任搭乗員しとった、
一木利之さんていう方、 ほとんどおりませんね。※1
 
Q、263(豹部隊)は甲飛の10期が多いですね。
 

そうです。263空には大方40名足らず甲飛の10期が居りました。
それはね、昭和18年の11月20日に徳島での延長教育が終わって、
203空へ転勤したんですけどね 徳島で延長教育をやっとる中で
甲飛10期は300人ぐらいおったんですよ。
そん中でね、第一級選抜が37、8人で一番最初に卒業ということになって、
その一番最初に卒業した奴が263空へ配属になったんですよ。
だから集合写真でも写真見たら誰かだいたいわかりますよ。
 
Q、263の同期の方は同じ年の方が多いのですか。
おおむね17歳くらいですよね。
 

そうです。だいたいね、一番古い奴が大正13年生まれ、
一番多かったのが大正14年生まれで、私たちは15年生まれ ですから。
しかし、あの時分は年齢なんか全然関係なかったですからね。
 
Q、分隊長の輪島由雄中尉はかなり古い方ですよね。
 

ああ、これはもう、そらあんた操練の18期かなあ。
 
Q、34歳ですね。
 

そうそうそうそう。輪島中尉、 あら、もう実直な大人しい人でね、
この人は支那事変から乗っとるからね。 もう一人、生き残った人で
松山出身の 磯崎千利さんという人が、30歳位やったですよ。
この人は輪島さんより二期後輩で。 戦後、病気で亡くなられたんですよね。
 
Q、輪島中尉もベテランですけれど戦死されましたね。
 

そうやなあ。 あれがあんた、2月22日かな。輪島中尉が戦死したのが。
 
Qテニアンの邀撃戦で、輪島中尉を含む11機が未帰還です。
 

そうそう。テニアンの邀撃戦。
あのとき充分に戦闘態勢を整えていとったらそんなに負けへん。
ところが着陸寸前に襲われたとか。 戦闘態勢が全然悪かったからね。
それで亡くなった。

輪島中尉はね、機銃無しで敵を2、3機落とした。
敵機を追いかけて。(激突させて)そういう話も残っとるんですよ。
そんな話を知った人はおらんでしょうなあ。
 
Q、3月31日にパラオ大空襲があって随分損害が出ましたけれど
 

そのときは私はグアムにおった。 そして私達も戦闘に
参加さしてくれと、言うて 玉井司令にお願いに行ったんだけども
お前たちはまだグラマンと空中戦出来る技量やない、と。
お前たちがそんなところへ空戦に行ったら片っ端からみな落とされてしまう。
もっと訓練して、そいでやれと。 いうことで戦闘に参加させてもらえなかった。
 
ほいで3月31日にペリリューで263空の基幹搭乗員や古い連中が
殆ど戦死したから、これからは10期のお前たちが空戦できるか
どうかわからんけれども空戦に参加せい、言われてペリリューへ送られた。
 
Q共同した第261海軍航空隊(虎)第343海軍航空隊(隼)
ついてお聞きします
  

その時分に中部太平洋の主戦力は普通の戦闘機隊で、
261空と263空と265空と三飛行隊あって、
そいで、局地戦闘機隊で343空と、341空と二つの航空隊があった。
 
戦闘機隊は頭文字が2なんですよね。 それで局地戦闘機隊が3なんですよね。
だから343ですからね、紫電の局地戦闘機隊だったんですよね。
343(隼)で甲の10期。だから、徳島を、二次、三次に卒業した奴が
343(隼)の搭乗員でね。 僕らは263ですからレイセンね。※2
 
それからあとは艦爆隊が4、艦攻隊が5でしたかな。 中攻隊が7でしたかな。
そいから水上機は9で。 こういう航空隊番号でみな、仕分けされとったんですよね。
 
昭和19年の3月22日にサイパンとテニアンが敵の機動部隊に
木端微塵にやられてですよ、 261(虎部隊)がサイパンに基地で、
私たちはグアムが基地でね。 サイパンからグアムまでレイセンで
40分ぐらい飛んだんでしょうかね。 普段の訓練なんかは一緒に
なりませんけれども、しかし 総合訓練でね、サイパンの虎と
グアムの263(豹)と、 一緒になって訓練した経験はあるんですよ。
 
あの時分はね、まだそんなに切羽詰った戦争の感じは
無かったと思うんですが、そのとき空襲に来よって 私の同期で、
九州出身で初代の343空の隼部隊の隊員がおったんですが
あれがペリリューで司令のとこへ行って
「司令、レイセンに爆弾をワイヤーで固定してくれ」と。
「わしはそれで敵の船へ体当たりへ行くから」言うた奴が居りましてね、
それが特攻のはじまりになったみたいなんやな。
 
Q、関大尉の前ですか
 

うん、関大尉のずっと前。
 
Q、行ったんですか
 
いや、その時は司令が許可せなんだな。
しかし最後はフィリピンで特攻で死にました。
 
あの人はもう死んだかなあ261でね、甲の8期で なんちゅうひとやったか。
サイパンで敵が上陸したときにね まだ日本の兵隊がおると思って
不時着して 生き残ったのがおるんですよ。
 
Q,粒針さんですか。戦後は航空自衛隊で その後民間機で。


そうそう。粒針さん。 甲の8期だとぼくらより2つぐらい年上ですわ。
2つ3つ上ですわ。261の生き残りですね。
 
Q、その後、201空へ統合されますね。


玉井浅一さんいう人が居りましてね、
その時期にはもう第一航空艦隊(一航艦)の各飛行隊は消耗して
飛行隊としての機能が出来なくなった。 それでぜんぶ解散して201空に
統合されたんです。
 
あれは昭和19年の6月頃でしたかな。皆201空に統合されて、
そいで311(サンヒトヒト)飛行隊と301(サンマルイチ)飛行隊と
305と306と、こんだけの飛行隊ができましてね。 しかし内地から
補給に来る人も居りましたが、もう顔も知らんし 同期生か、
そんなんもう全然わからん人も居りましたけどね。 私はそこで306飛行隊に
編入されたんですよ。
 
Q、異例なエピソードがあったとか


あの時分に搭乗員はみな、丸刈りじゃないといかんかったですよ。
それが、201空では、搭乗員は不時着したときに毛があったほうが
怪我せんから 頭伸ばしてもええぞーと。お達しが出ましてね。
そんなお達しの出た部隊はおそらく他に無かったと思います。
 
Q、それは下士官でもですか?


そうそう。下士官でも。それがね、変な話やけども、
そんな油(整髪料)も何も無いわけですよ。無いから
飛行機用の機械に使う油を。あれをガーって頭にかけてね(笑)
 
Q,指宿兄弟のエピソードを教えてください
19年の11月にフィリピンから内地に帰って横須賀へ降りたときに、
指宿正信少佐(兄)と、 もうひとり古い人が二人で出迎えてくれてね
指宿さんが、「おお、お前263か」 「そうです」いうたら
「おー、よう帰ってきたなあ」いうてね。
 
そして、弟の指宿成信さんが少尉で甲の2期でしたかな。
343空で戦闘301でしたな。
 
Q、指宿成信少尉(弟)は生き残って戦後は?
 

病死されたよね。昭和25、6年じゃないでしょうかね。
だから兄貴の指宿少佐よりも先に死んじゃって。
 
Q、お兄さんは昭和32年に殉職されましたね。
 

わたしはあの時に新聞記事見て、びっくりしたんですよ。
あの指宿大尉が事故で亡くなった?とね。その新聞記事がどっかに
残っとるはずなんですがね。 F86Fで亡くなったんでしたな。
編隊飛行中に空中接触で亡くなられたいう話は聞いとるんです。
私は航空自衛隊で殉職された先輩たちの記録を 皆もっとるんです。
誰が、いついつ、どこで亡くなったいうね。
甲飛の10期のよく知った奴が築城かどっかでね。
これも事故で殉職したんですよ。
 
Q、航空自衛隊創設時のお話を聞かせてください。
 

航空自衛隊のジェット戦闘機の部隊ができるというときに
源田実さんから、私に電話がかかってきたんですよ。
「お前、来い」と。いうて。
そいで、よっしゃ、いったろ、とは思っとったんだけれども
願書を送ったら、私が試験を受ける資格が無かった。
その当時は、戦時中に準士官以上。それか大学出以上でなければ
受験資格はないという事やったんで。 それで私は源田さんにすぐに
「私は受験の資格がないから受験しませんと」伝えたら
「えー、そうか」いうて、源田さん驚いていたけどな。
 
それから二年後ぐらいに、予科練出でも航空自衛隊の
ジェット戦闘機の部隊に行けると決まりが変わりましてね。
 
(2)へ続く
 
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
 
※1、杉田庄一、日光安治は343空で戦死。
※2、笠井氏は零戦を一貫して「レイセン」と称した。

2016年7月 1日 (金)

零戦画像集その1

ゼロ戦画像まとめです。
 
記事で使用しました零戦の画像・写真・イラストの一覧を作りました。
優美な姿を多くの方にご覧になって
ゼロ戦を好きになって頂ければと
思います。
 
私自身が作成した他、ライセンスを得る等、お借りしている画像もありますので
利用希望の方は必ずお問い合わせください。
 
逐次追加していきます。

52型と21型

零戦21型岩本徹三機

零戦52型

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零戦21型レプリカ(テキサン)

二式水戦

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零戦型式一覧零戦21型と52型の違い

零戦21型「赤城」進藤三郎大尉機

零戦64型(54型丙)

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零戦52型

零戦52型

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零戦52型

零戦52型(261空)

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零戦中島三菱塗装の違い

▲南溟の桜(当サイト)

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四式戦「疾風」

艦上爆撃機「彗星」一二型

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百式司令部偵察機三型

雷電(青木機)

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紫電改(菅野直機)

飛燕(244戦隊)

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2016年5月16日 (月)

知覧の隼

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私の全国零戦巡りの旅(正確には陸海軍機巡りですが)
写真を整理していて色々と出てきました。
 
知覧の隼、これが残念です。
細かい部分までよく再現されているのですが
汚すぎます。元々の色が何色なんだかわからなくなっています。
ひとつ前の記事のゼロ戦と比べるとあんまりな状態です。 

  
文字通り風化しているではないですか。
まずは、この機体を綺麗してほしいと願っています。
 
この隼三型は、特攻機仕様で、左翼下に増槽、右翼下に爆装と、
その佇まいを眺めているだけで、涙が出てきます。
 
一般的な胴体下(中央)に爆装でなく、片翼に増槽と爆弾をひとつずつ、
というアンバランスな組み合わせが涙もんなのです!
展示機で爆装しているのはこの機体だけです。
説明書きはなくとも、自然と感じるものがある筈です。

2016年3月22日 (火)

第三四三海軍航空隊(彩雲隊)杉野さんのお話

元三四三海軍航空隊第四飛行隊(奇兵隊)で彩雲に
乗っていた杉野さんにお話を伺った。
 
杉野富也さんは福岡県三池郡出身。
予科練乙種の18期(土浦海軍航空隊)出身で
第343海軍航空隊偵察第四飛行隊(奇兵隊)へ配属。
「彩雲」に搭乗し電信員を務めた。邀撃戦でエンジン不調、引き返す。
その後ペアが爆撃で負傷の為、鹿屋で待機中終戦を迎える。
戦後は海上自衛隊で飛行艇搭乗員と教官を務める。
 
Q、彩雲は誉エンジンですが
 
A、杉野氏
あいつはよくなかったですねー。
 
Q、故障が多いということですか。
 
A、杉野氏
ええ。
 
Q、予科練では乙の18期ですね。
 
予科練(乙18期)では適性検査といって
敵性を見るために四回操縦桿を握らせるんです。
それを土浦海軍航空隊で、水上機でやりました。
 
Q、同期の話をお伺いします。
 
A、杉野氏
乙18期の同期は実戦に出てきたのが昭和20年の4月頃ですからね。
同期でも偵察は半年したらもう実戦部隊に出てますからね。
訓練はナビゲーションとトンツーが出来ればいいんですから。
だから昭和19年10月11日に私らは実戦部隊に出て
私は教育部隊の班長になったんですけどね。
 
中島という同期が当時、百里原で九九艦爆の教官をやっていました。
片一方は同期でも練習生ですよ。同じ同期でも一方は教員で、
もう一方は練習生。バッターくらって、それが終わってようやく出てきたら
特攻で死んでるんですよ。随分違いがあるんですよ。
だから彼らは本当に可哀相だったですね。
 
横浜出身の同期は姫路航空隊を出て串良から九七艦攻で特攻行ったんです。
そいつがね、大きな爆弾を積んで離陸するとき先任搭乗員に
離陸の仕方を教えてもらって離陸したようなんですよ。
ようやく飛べる状態ですよ。先任搭乗員から「離陸はスピードがつくまで
操縦桿を押さえて引くな」というようなことを教えてもらったそうですよ。
 
愛知県小牧出身の土屋関男、これも同期ですが
松山の基地から出て行ったのが5月13日。
沖縄の偵察に行って帰ってこんかったですね。
あいつはまだ18くらいじゃなかったかな。子供みたいな顔しとったですよ。
 
◆零式練戦の特攻機を見送る
 

松山の基地で、実際に私がチョーク外して見送った零戦の練習機がありました。
4月の5日か6日かな。城山の桜が満開の頃に、4機編隊の
零式練戦が茨城の矢田部から松山へ飛んできたんですよ。これが同期の
藪田博二飛曹(大阪)と黒野義一二飛曹(兵庫)と吉永光雄二飛曹(鹿児島)と
川端三千夫二飛曹(和歌山)でした。※1
この四人の写真が護国神社の
神楽殿にあるんですよ。背の小さいのが藪田です。
四人で編隊組んで降りてきたんで私は
「おーいお前ら、基地移動訓練か」って聞いたんです。そしたら
「いや、今から鹿屋に行って特攻だ」と。
 
土地の名前がついている航空隊は練習航空隊なんですよ、
番号が実施部隊。だから矢田部で訓練終わったばかりで出て来てるんです。
それも零戦の練習機で。あいつらは・・・いつ死んだんかな。
 
◆同期の神雷部隊を見送る
島雄順次郎という一番仲の良かった奴が居るんですよ。
予科練と飛行練習生の半年と、レーダー講習の2ヶ月と
全部で1年半近くも私と同じ班で、一緒に飯食ったんです。
こいつが、予科練で体操のナンバーワンだった。
それが高知の練習航空隊で転勤命令受けてね、急いで出て行こうと
してたんですよ。私は
「島雄、ちょっと待て待て、とにかく慌てて出て行く必要ないよ。
夕方まで待てよ。俺外出して後免の駅まで送るから下宿で待ってて」
と言って止めたんです。後免の駅で2月1日手を握って別れるとき
 
「島雄、今度は俺が転勤しそうな感じがする。お互い長生きしようぜ。死ぬなよ」
って言って別れたんです。奴はそれからちょうど50日目の3月21日、
鹿屋から神雷特攻で死んだんです。一式陸攻の野中五郎さん。
あのときの神雷特攻で同期が9名戦死してるんですよ。
 
私は5月22日に鹿屋に行きましたからね。
ペアが爆弾で吹っ飛ばされて鼓膜破ってしまって
6月の初めから7月7日までフライトなしでしたから
航空弁当持って戦闘指揮所に居ました。
 
夕方になると、一式陸攻が桜花を抱いて、滑走路をいっぱいいーっぱい使ってね
上がっていくんですよ。ウワンウワンウワンウワンって(抑揚の大きな音)
本当にフルパワーでね。もういっぱいいっぱいで。ようやく離陸していくんです。
零戦が爆弾抱いて上がっていくのも見ましたけど、桜花抱いた一式陸攻は
可哀相だったですね。
 
◆鹿屋で同期の白菊特攻を見送る
それから白菊特攻で出ていった同期を
手握って鹿屋の基地で送ってやったんですよ。
白菊なんて本当に可哀相だったですよ。機上作業練習機で。
 
有賀康男一飛曹は岐阜(長野かも?)の奴でした。
これは優秀だったんですよ。偵11の同級生が「俺は小学校のとき
勉強から何から全て有賀に勝てなかったよ」って言ってました。
 
6月19日の夕方に戦闘指揮所に居りましたら
迷彩してある白菊が次々飛んできて降りるんですよ。
双眼鏡でパッと見たら高知のマークがついてるじゃないですか。
 
「わー高知の練習白菊隊が来た」
ってその場ほったらかして走っ
て行って降りてきた白菊を途中で止めてね
そしたら同期の奴が乗っとった。
熊本の杉村ちゅうのが。
「乗っていいか?」って聞いたら「乗っていい」という
から
ドア開けたら500キロのマグロみたいな爆弾が座席の横にワイヤーで
くくってあったですよ。
「信管抜いてあるから大丈夫」というんで
それに乗って待機所まで行ったんですよ。

そしたら「おおい、杉」と呼ぶので見たら有賀だったんですよ。再会です。
そこに基地の分隊士で教官だったミサワさんが来て
「杉、お前、何乗っとるか」というから
「彩雲です」といったら
「おお、いい飛行機に乗っとるなあ」と喜んでくれてね。
 
有賀からは
「自分らは白菊で特攻に行くんだ」と聞いて
「こんなオンボロで?」と思いました。
白菊はプロペラは桜の木で
出来てるって聞きました。
翼はハンプで、帆かき船の帆。
あれに塗装してあるだけですよ。
乗ったらボコボコ。胴体はベニア張り。
それに500キロ爆弾。
翼にはぶら下げてなかったですね。
翼に250キロずつぶら下げたら
翼がもたんかたんじゃないですかね。
だから、胴体の座席の横に500キロを
積んだんだと思います。
 
翌朝、奴は「杉、先に行って待ってるぜ」って言って出て行ったですね。
これだけは忘れませんね。
 
有賀は、「ワレ突入ス」まで打ったんです。
駆逐艦か何かにぶちあたったんだそうです。
ミサワさんが米軍のラジオを傍受していて命中したのを
確認してるんですよ。
奴は指揮官機だったから無線機を積んでいた。
 
それ以前の5月24日か25日に高知か徳島の白菊が、串良から特攻に
出てるんですけど
(5月22日に、高知は鹿屋に、徳島は串良に)
私ら彩雲は同じ日に鹿屋に行ったけど待機所や時間が違うから全然
知らんかったですよ。あとで特攻に行ったのを聞きましたですけどね。
その時、飛び上がって1時間ぐらいしてからですね、生電、いわゆる
暗号に切り替えてない電報で
「お父さんお母さんさようなら」とか「お姉さんあとを頼む」
「〇〇さんお世話になりました」とか「みなさんによろしく」とかね、
1時間くらい生電が飛んだんだそうですよ。そのうちに
ヒ連送、ヒ連送というのは「ワレ敵戦闘機ノ追跡ヲ受ク」とかですね。
そういう暗号なんですよ。それでピタっと止まった。
この話はミサワさんの白菊特攻に書いてあります。
 
それから電信機はみんな降ろされて。だけど
有賀の奴は指揮官機だったから積んでいたんですよ。
でもね、本当に哀れですよ。
 
私は今でも毎年、高知の慰霊碑にはお参りに行きますけどね。
今年は有賀が出て行った6月20日に行きました。
もう私一人になりましたね、お参りに行くのは。
島雄と有賀の話は中学校でも小学校でも愛媛大学でも(講演会で)
どこへ行っても話すんですよ。
 
◆その他

Q、戦後海上自衛隊では飛行機乗られたんですか。

A、杉野氏 
ええ。PVに乗って、それから大村に行ってJRFグースゆうて
飛行艇ですね。それからPBYカタリナ、UF2、そこまで乗って地上勤務に
なりました。大村で地上の教官過程ができたんですよ。
トレーナー使って計器飛行の指導とか簡単なシミュレーターですね。
フードかぶって。
そいつで計器飛行のやり方をしとったですね。
実際に教官配置でしたのは13年半ぐらいでした。
岩国に1年、宇都宮に行って、宇都宮3年。それから小月(山口県)に
行って9年。ここは海上自衛隊の
練習航空隊があります。
最後は三佐にしてもらって、飛行隊長の下に
飛行班長と飛行教育班長と
地上教育班長といて、私は地上教育を
受け持ってました。
 
最後は下関におりましたが、計器飛行をやっていて
「これは敵性無しだから落とせよ」っていう防衛大出の人がいたんです。
危なかった。でもやめないからフライトの教官に、やめさせたほうがいいよって
言ったんです。結局、それが岩国の飛行艇で高知の檮原に激突して
11名全員殉職です。それが昭和53年の事故だったかな。
昭和53年のついの頃です。やっぱりついの頃には航空事故が多いんですよ。
視界不良でね。
 
それから覚えてるのが、山田さんっていう甲の1期の人やったけど
あの人がなんで死んだか不思議なんです。とても慎重な人でしたから。
海上自衛隊で最後は二佐だったかな。旧海軍時代は「東海」という
対潜、潜水艦用の急降下爆撃機に乗っていたみたいです。

木更津か豊橋の基地だったか。その前は、水上機だった。
戦争生き残って、海上自衛隊生き残って(定年退官)
その後、民間航空に行って、鈴鹿山脈のどこかに突っ込んだ。
事故の原因がわからなかったんですが、おおむね黙って死ぬのは
山だということです。
海の上だったら何とか電波を出します。
だけど突然山に衝突したら
電波出す間もないから、黙って死んだときは
だいたい山を捜せばいいよってことですね。
慎重な人だったから本当に不思議です
  
 
※1
藪田二飛曹、川端二飛曹、吉永二飛曹は昭和20年4月29日
鹿屋より出撃戦死。黒野二飛曹は同年5月11日出撃戦死。

2015年9月29日 (火)

一式陸攻を見学(河口湖自動車博物館)

一式陸攻 河口湖自動車博物館

 
一式陸攻を見学に山梨県へ行ってきました。
ここ、河口湖自動車博物館は世界で唯一、現存する一式陸上攻撃機(本物)が
見学できる場所です。現在、胴体と尾翼の修復まで終わり
残りは主翼のみとなりました。格納庫の隅に展示してあります。
 
一式陸攻は「中攻」とも呼ばれ、ゼロ戦と並んで
先の大戦の主戦力となりました。それにしても、
 
75年も前にこんな大きな飛行機を2400機以上も製造した
日本は凄い。それらを必死に支えた国民の底力に敬意と
感謝を表する次第であります。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ 
 
河口湖自動車博物館の別館「飛行館」は8月のみ営業開館し
見学できる。それ以外の期間はレストア作業に専念しているようだ。
8月もおわりに差し掛かった頃、出かけたが、午前中の開館直後にも
かかわらず、多くの人が訪れていた。 
 

一式陸攻 河口湖自動車博物館 
 
いきなりだが、入口に掲げてある撮影禁止の注意書き。
ケータイ(携帯)でのみ撮影が許可されている。三脚、自撮り棒は
もちろん、一眼レフ・コンパクトデジカメに関わらず、一切のカメラは持ち込み
禁止。i-padも禁止。
 
なぜデジカメは禁止で携帯だけOKなのか?
こういう理由らしい。

一式陸攻 河口湖自動車博物館 

館長さんだって本来こんな注意書きしたくないだろうに、
携帯だけでも撮影できるなら有難い!自分は充分であります。私は
実物の質感をこの目で見に来たので写真はオマケであります。
 

一式陸攻 河口湖自動車博物館


それにしても大きい。 

まずは機首の風防から見てみよう。
この写真ではわかりにくいが、風防の透明度が高いので
風防越しに内部が細部までよく見える。とても興味深い。
内部に入れる見学企画があれば、喜んで参加したいのだが
これだけでも満足。
   
風防に使われている。
アクリルは当時、最先端の樹脂素材だった。

 

一式陸攻 河口湖自動車博物館

 
▲一番前(ドーム型の先端)は爆撃手が座る。爆撃手の席は
よく見える。写真は写り込みがあるが、実際は触れられる距離にあり
細部まで非常に緻密に復元されている。
 
爆撃の照準を行う際、眼下がよく見えるように、
床はアクリルの透明張りだ。
特にこの展示機「一式陸攻二二型」の風防は一一型より
窓が多くなっており
良く視界が確保されている。
 
一式陸攻の水平爆撃
一式陸攻は雷撃と爆撃が可能だが、
爆撃(水平爆撃)の場合、敵陣上空へ到達すると
翼も触れんばかりの爆撃編隊を組み、先頭の一番機より
爆撃する。これを合図に、後続の機が続く。よって
一番機に最も優れた爆撃手が搭乗する。
単機では命中しない爆撃も、このような複数編隊による
網を形成することにより、いずれかの命中が期待された。
 
戦争初期には爆撃専門・専科の搭乗員育成プカリキュラム(特修科練習生)を
卒業した熟練の爆撃手が存在したため、命中率は非常に高かった。
戦争後期にはそうした熟練の搭乗員が多く戦死した。
 
地上爆撃の場合は高度をあがれるだけ上がって
7000メートル程度。地上目標は動かないから優秀な爆撃種が
一番機に乗っていればそれでよかった。
 
問題は艦船の爆撃である。
敵艦に爆弾を投下する際は徹甲弾を用いて
3000-4000メートルで行われた。これは対空砲火を避ける以外に
敵艦船の装甲を貫くために最も適した高度とされた。
これより低い1000-2000メートルでは艦船のアーマーを
突き抜けず、爆弾が跳ね返って表面で爆発してしまいダメージを
与えられない。
 
戦闘行動中の艦船に爆弾を命中させるのは至難である。
戦艦や空母など巨大な船は舵を切ってから曲がり始めるまで
3分もかかるため、命中しやすかったが、巡洋艦や駆逐艦は
すぐに進路を変更できるため、進路を予測しなくてはならない。
こればかりは運であった。優秀な爆撃手ともなると敵艦の
ウエーキ(航跡)のでぐあいで面舵になるか取舵になるか
見極めたという。
 
一式陸攻の雷撃
一式陸攻の最も最初の活躍といえば
イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスの
レパルスの撃沈が有名である。
雷撃は水面スレスレの20メートルから1トンの魚雷を投下し
大凡30度の角度で入水。この方法が魚雷が真っ直ぐに進む。
敵戦闘機も超低空では照準できず、後ろから近付いても
20ミリ機銃があるのでボカンとやられるだけで手が出せない。
理想的な高度とされた。
 
ところが実戦ではプロペラが海面を叩くほどの
超低空で飛行した。これは敵艦の高角砲が仰角プラス9度まで
しか下がらないという先入観から、超低空で接近すれば
敵の弾は当たらないという考えであった。それで敵艦に突っ込んで行って
魚雷を投下すればあとは逃げるだけなのだが、訓練では
回避行動を取ったが、実戦では腹を見せると撃たれることがわかった。
そこで、雷撃を済ませたら全速力で一直線に敵艦の上空を突っ切る
戦法に切り替えたのである。結果的にこのほうが被弾率は少ない。
 
しかし回避行動もせず敵艦の真上を突っ切るのだから、その度胸たるや
並大抵でないし、被弾せずに済むか、こればかりは運でしか
かわせない。プリンス・オブ・ウェールスでは
腰まで水に浸かりながら懸命に高角砲を撃つ敵兵の顔が見える。
さすがは伝統のロイヤルネイビー。敵ながらあっぱれと思ったそうである。
 
その後、ニューギニアに進出し、連日のように
連合軍基地への爆撃、艦船への雷撃を繰り返すようになると
一式陸攻の消耗は激しくなった。
 

2015082710460000_2

▲その右上が操縦席。
高い位置にあり、操縦席の様子や計器盤までは見えないが、
全体の配置などはよくわかる。全て復元が終了した暁には
ステップなどを備えて、操縦席が見えるように工夫してほしいと願う。
 
一式陸攻は原則7人乗り(搭乗員概要)
主操縦士と副操縦士の二人が横並びに座る。
主操縦士が右の席、副操縦士が左の席。 戦中の
日本の飛行機だからそういう並び。
 
一式陸攻は原則、7人乗りである。
・主操縦士 ・副操縦士 ・搭発員(搭乗整備員、現在の航空機関士。機銃兼任)
・射爆員(爆撃・雷撃手。操縦員兼任の場合あり。機銃兼任)
・主偵察員(航法士、機銃を兼任) ・副偵察員(機銃を兼任)
・電信員(機銃を兼任)
 
電信、偵察は兼任するケースが多い。大戦初期においては
7人全員が、操縦、電信、偵察など全てを一通りこなすことが出来た。
 
これに編隊の指揮官や同乗者が加わると
8名~10名になる場合、また、戦争末期で
副操縦士が不在で5名で飛行するケースもあった。
 
一式の搭乗員が機内でどんなことをしていたのか?
よろしければ以下もご覧ください。
 
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(1)一式陸攻のイロハ 
  
(一式陸攻の後継で新型の銀河は、これらの仕事の効率化を図り
兼任できるようになって、搭乗員数も3名となっている)
 
主操縦士が機長を務めると思われがちだが、必ずしもそうではない。
後席に座る偵察員のほうが経験を積んでいたり、階級の関係などもあり
そちらが機長となっている場合もある。
 
これは、二人乗りの艦上爆撃機や三人乗りの艦上攻撃機なども同じで
真珠湾攻撃で九七艦攻に乗っていたある機長(偵察員)によれば
「操縦員は操縦に専念してればいい。後席の偵察員が見張りや
航法、色んな仕事をして指示を出す方が何倍も大変だった」と
語っている。
  

2015082712040000

▲操縦席の風防を開けたところ。
これを、ぜひとも上から覗けるようになってほしい。
 
内装色は三菱系内装色だが、実は一式陸攻の内装色は
諸説あって、ジュラルミン地剥き出し、または防錆塗装の青色だったとも
色々な説がある。
 
機体の開口・乗降部は操縦席上と日の丸に設けられたハッチのみである。
 

2015082711460000

▲鮮やかな日の丸。入口のハッチがある。
 
誰がなんと言おうと、美しい。
鮮やかな日の丸に感激する。格納庫の中で最も兎角
目を引くのだ。白い縁取りがまたそれを際立たせている。
一式陸攻は大きいので、感激はなおのことだ。
この日の丸の鮮やかさが、一度は戦争に負けた日本が復興し
主権を取り戻し、あらゆる形で再生をとげてきた、私は
サンライズに思える。
 
一式陸攻の生存率
一応、搭乗員全員が落下傘を背負っているものの
一式陸攻の任務は
敵陣へ攻め入ることが殆どの為、
脱出せず、そのまま自爆、7名全員が未帰還となる
ケースがほとんどであった。
 
一式陸攻は、敵艦、敵陣に絶対命中を狙う為
一旦爆撃、雷撃進路に乗ると、動かない。
敵機に補足された場合、機銃で応戦するか、
護衛のゼロ戦に守ってもらうくらいしか生き延びる道はないのである。
とにかく、回避行動はとれない。 
 
戦後、我々がゼロ戦などの、戦闘機の生存者に講演などを
聞く機会はあるが、この中攻で生き残った者は非常に少なく
滅多にお目にかかる機会はない。幸運中の幸運が重なり
生存した者を除いて、一式陸攻の搭乗員は多くが
終戦までに戦死している。
 
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(3)ソロモン海戦
  

2015082710480000 
▲この機体はヤップ島のジャングルから回収されたもので
翼の付け根から後ろが完全なオリジナル。前方は図面に基づいて
復元された。
 

2015082710370000

▲バラレ島の一式陸攻
復元の際に参考にされたバラレ島に残された
一式陸攻一一型。 
 
関連記事
硫黄島の一式陸攻

2

 

2015092021500000

▲20ミリ動力銃塔。
 
電動の20ミリ銃塔。
敵機と遭遇した場合、機銃の扱いは通信士が兼任する。
敵戦闘機に捕捉された場合、
通信士は「敵機見ユ」「敵機ト交戦中」を打電すると、すぐさま機銃座に
飛んで行って機銃に取りつき、戦闘を開始するのである。
 

2015082710530000

▲上面の機体色と下面の灰色の境目が
グラデーションになっている。
実際にこれと同様の位置およびグラデーション塗装が施されて
いたのかは謎から、様々な文献や資料から想像するしかない。
 

2015082710580001

▲銘板
ステンシルで刻印された銘板。
復元機は第761海軍航空隊(龍)の機体である。
第761海軍航空隊は大宮島(グアム)・サイパン・テニアン・
ペリリュー・ヤップなどを拠点に活躍した部隊で
一式陸攻を主戦力に据えたほか、銀河や彗星などを保持した。
最終的にはマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
ペリリュー島から連日、マリアナへ出撃、そのほとんどは未帰還となり消耗。
 
航空機を失った地上員(整備員等)は応急陸戦隊となって
ペリリュー島玉砕戦に参加。中川州男大佐とともに
玉砕した。土田喜代一氏は第761海軍航空隊の
地上見張り員だった。
 
関連記事
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(1)一式陸攻のイロハ
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(2)東京初空襲
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(3)ソロモン海戦

 
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テニアン島へ行こう
帝国海軍ペリリュー航空基地跡へ行く
土田さんの天皇陛下拝謁
中川大佐玉砕の地へ
  

2015082711520000 

▲主翼の断面を見ることができる。
 
復元が完了してしまえばこの部分は見られない。貴重である。ゼロ戦同様
主翼は超々ジュラルミンを桁(けた/主翼の軸となるもっとも重要な部分)に
アルミ合金が貼ってある。
 
一式陸攻といえば、航続距離を増やすため、インテグラルタンクを採用した。
このため防御力に乏しく、ワンショットライターと呼ばれたと
言われているが、ちょっと待ってほしい。
 
ここで「防弾をおろそかにし、命を粗末にするから
日本は戦争に負けたんだ」などと言うのはおかしい。
それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
防御というものは、サムライ的考えで卑怯と考えられていた。
当時、攻撃こそ最大の防御だと考えられていたし。アメリカと戦争してみて
はじめてそれが不利なこととわかったのだ。

 

2015082711510000 
館是なのか、天声人語(朝日新聞の社説)が館内の目立つところに
掲示されていた。何はともあれ、戦時中の兵器をこうして忠実に
復元してくれる後世の為に最も重要であるし、ありがたい。
 

2015082710520000 

一式陸攻の尾翼上部には「桜花」が吊り下げられていた。
桜花は母機である一式陸攻二四型丁に吊り下げられ、戦域まで飛行し
切り離された後は、単機、ロケット推進で敵艦に突っ込む特殊攻撃機だ。
私はかつて、この桜花生存者の話も聞いたことがある。 
 
関連記事
桜花の胴体に日の丸がなかった理由
神雷部隊「桜花」別杯の地へ
鹿屋航空基地資料館
桜花カタパルト基地跡へ

2015092021440000 
▲貼り付けられた桜花の説明文。
私はブラックユウモアでもBAKABOMBでもないと思うが。
桜花は桜花だ。
 

2015082710410000

2015082710490002

  
一式陸攻を見学したところでゼロ戦の見学に移る。
ここは日本で唯一ゼロ戦二一型を展示しているところでもある。
 
関連記事
 

2015082710490000

2015082711040000

2015082711050000 
骨格も展示されている。骨格が見られるのも全国でここだけ。
ゼロ戦のデザイン段階から理解できる。
 
後ろは第263海軍航空隊(豹)のゼロ戦五二型
 

2015082712030000

2015092021410000 

こちらは一式戦闘機「隼」
ジュラルミン地剥き出しで、その鈍い輝き、質感などがよく見てわかる。
みんな地味だからと素通りしていたが、これこそ展示の真骨頂。
資料としての価値は最高に高いのだが。写真ではわかりにくいから
ぜひ足を運んでみてください。隼の後ろには戦意高揚のため
印刷されたポスターが展示されている。こういったものも非常に貴重。
まさか南郷少佐にお目にかかれるとは思わなかった。
 
関連記事
知覧~ある特攻隊員と少年の実話「少尉と隼」
 

2015082711080000


ここはエンジンの展示も素晴らしく、保存状態も良い。
これは独名DB-601こと海軍名アツタ、陸軍名ハ40

「彗星」「飛燕」「晴嵐」「南山」に搭載された国産唯一の液冷エンジン。
細部までオーバーホールされたように綺麗で、これ一つだけでも
充分に見る価値がある。後ろにあるのがこのエンジンに搭載された
過給器(スーパーチャージャー)だ。
 
関連記事
航空機に見る陸海軍の確執

Db601

  
このほかには中島の最高傑作「誉」エンジンが新品のような形で
保存されれている。誉エンジンは素晴らしい。誉エンジンを
搭載した機体はいずれも優秀だ。
「紫電改」に「彩雲」、「流星」「銀河」などである。
 

2015082710420000 
機体は細部までよく観察できるようになっている。
あまりにも近いので機体をゴンゴン叩いているオッサンがいたが

頼むからやめてください。そういうことをするから制約が
増えてしまうんですってば。
 
オレオ式の脚。うーむ・・・。75年前とは思えないほど良い仕事してる。
まさに芸術作品だ。 
 

2015082711390000


青色塗装は腐食防止用塗装。
海軍機に多く見られる特徴だ。
本来、アルミ合金やジュラルミンは腐食しにくいのだが
それでも腐ることは腐る。白っぽくなったり、赤っぽくなっているのが
それだ。可動部は腐食を防止するために腐食防止塗料が塗られた。
 
後年「青竹色」と言われるようになったが、それは戦後の呼び方で
当時はそんな呼び方は存在しなかった。
 
写真ではコントラストが少し強く出てしまっていているが、実際はもっと
薄い色だ。工業従事者なら誰でも知っている「青タック」をやや薄めて
ジュラルミン地に吹き付けたようなイメージだ。すなわち
ブルーメタリックとは全くことなる、透明度が高い、ジュラルミン地が
空けた青色と説明すればわかるだろうか。
 

 
航空自衛隊の黎明期を支えたF-86。
 
歴史の勉強ならびに工業芸術鑑賞を終え、見学終了し、外へ出てきた。
どれも素晴らしかった。また来ようと思う。
カメラには決して収まらない素晴らしい世界がある。
 
一式陸攻はこの後、主翼を取り付け完成するが
展示スペースが確保できず探しているそうだ。
来年にはぜひとも展示スペースを新設して堂々の一式陸攻を見たい。
 

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2015年6月24日 (水)

竹田五郎氏のお話(1)飛燕・五式戦での本土防空戦

飛燕

 

最近、ご縁あって、元244戦隊で飛燕と五式戦に搭乗し
B-29邀撃戦に参加された元陸軍大尉でパイロットの
竹田五郎先生にインタビューする機会に恵まれたので
また、少しずつ書くことにします。
 
Q、篠原

竹田先生は飛燕でB-29を撃墜されていますね。
 
A、竹田五郎先生
いや、あれは部下が皆優秀だったんです。
 
Q、高度1万メートルはどうですか
 
A、1万メートルではちょっと姿勢を崩しただけで(翼をやや傾ける仕草)
失速してサーッと2000メートルくらい落っこちちゃう。だから旋回する時も
ほんの少しだけ翼を傾けて、
ちょっとでも角度がつくと、あっという間に
落っこちちゃうから。
 
逆落としの直上攻撃ね、あれはよく本に書いてあるのを私も読みましたが
ほとんど不可能じゃないかなと思いますよ。1万メートルでは。
直上攻撃というより、事実上の墜落に違いです。それで落ちた先に
運よくB-29がいて、
たまたま機関砲がそっちを向いていれば理論上当たる
ということなんでしょうけれど、相当な幸運じゃないと。
 
酸素も薄いから、すぐ酸素を吸引しないとすぐコロっといっちゃう。
ですからB-29を撃墜した、というのは7000メートルくらいじゃないかな。
私もそのくらいなら戦えました。
 
Q、五式戦はどうですか
 
A、あれは良い飛行機でした。
機体は三式戦ですけれど
百式司偵のエンジンを載せてね。
これがもっと早く出来ていれば随分、戦えたんではないかと思いますね。
それでもB-29相手には歯が立ちませんでした。
 
Q、戦後は小林照彦戦隊長とともに86Fで飛んでいますね。
 
A、244戦隊で
小林戦隊長は上官だったんだけれど
それが戦後は、私が86Fパイロットの第2期生、小林さんは
3期生の後輩ということで。
 
最も黎明期に活躍された指宿正信さんは一番最初の1期生でしたね。
そのほかに1期生では同じ海軍で艦爆に乗っていた鈴木瞭五郎さん
という方が居ました。指宿さんは、無口な方で寡黙でとにかく真面目な
方でしたね。
 
あれは浜松だったかな。離陸直後に編隊を組む時、指宿さんが教官で
二番機の訓練生、訓練生とは
いっても海軍時代のだいぶ上の方でしたけどね。
それで編隊を組む時、指宿さんが、ぶつけられた形になって、二番機は
その場で緊急脱出して助かった。指宿さんも
緊急脱出をしたんだけれど
間に合わなかった。
 
指宿さんと小林さん、どっちが先だったかな。
86Fの航空自衛隊の殉職者第一号となってしまいました。※1
 
Q、今度、鹿屋で零戦を飛ばすそうです。
 
A、今はなかなか許可しないね。航空ショーは。
 
Q、アメリカの航空ショーではP-51などで当時のパイロットが飛んでいる
そうです。90代で宙返りしたり。
 
A、私も飛ぶだけならできますよ、空戦をやらなければ(笑)
宙返りと言ったって、あんなものはそう難しくない。
今はちょっと身体がいう事きかないけど、去年や一昨年だったら
できたんじゃないですかね。
 
Q、竹田先生は一式、二式、三式、五式とほとんどの
戦闘機に搭乗されたんですね。
 
A、ええ、私は一式戦の前、九七戦から乗っている。
一式戦、二式単戦、三式戦と、五式戦。四式戦以外は乗りました。
九七戦は地上滑走のほうが難しいですよ。機体が軽いから。
風が強いとなかなか難しいですよ。それでも何とかなりますけれど。
 
最後に、竹田先生の歌声で
飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)を拝聴した。
 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌) 唄:御堂諦

  
飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機々隊歌)
 
一、
皇国(すめらみくに)の大空を
醜翼ひとたび侵すとき
高度一萬、厳として
我がつばくろの守りあり
輝く空の梓弓
おゞそは飛燕戦闘隊
 
二、
高く綾なす飛行雲
衝撃一瞬砕け散る
彼方に咲くは白薔薇か
みるみる降る(くだる)神鷲の
瞳に宿る我が愛機
おゞそは飛燕戦闘隊
 
三、
黒潮踊る大洋に
米機を屠(ほふ)る幾そ度
撃墜マーク燦(さん)として
神州守るこの翼
空の近衛と人は呼ぶ
おゞそは飛燕戦闘隊(※注2)
 
作曲:古関裕而
作詞:南郷茂宏
  
A、この歌はあれで見れるんですよ。YOUTUBEで。ただあれは原曲と
節が少し違っていますね。(第42回陸海軍軍歌演奏会軍装会)
女の子が歌っているのもあるけど(おそらく初音ミクのことを仰っている)
やっぱり昔、戦友で歌ったように男性の声で聴きたいですね。
空の梓弓っていうのが確か一番だったかな。
それから実は3番の歌詞があるんですが、太平洋の向こうからやってきた
ことを歌ってますよ。海を越えてきたやつをやっつけるという。※2
 
陸軍士官学校の同期生会で航空は私だけになりましたから
これを知っている人はいないんです。だから機会があれば歌います。
 
それと、いつも同期生会では、会計の人が会費があとこれだけしかないからと
心配しているけど、私は会費よりもいつまで生きられるか、
本人の心配をしたほうがいいんじゃないかと(笑)
 
Q、いえいえ、いつまでもお元気で、またお話を聞かせてください。
 
 
つづく
 
竹田五郎氏のお話し「飛燕」高度1万メートルの戦い(2)
 

証言者プロフィール
竹田五郎元陸軍大尉
大正10年生まれ
第244戦隊で三式戦、五式戦で本土防空戦を戦う。
戦後、航空自衛隊F86Fパイロットを経て、空将、航空幕僚長を
務める。
  
※(1)関連記事
指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

※(2)3番の歌詞は後日、篠原調べ
 
大きな画像の表示
 

2015年6月19日 (金)

彗星艦上爆撃機の型式一覧

彗星/艦上爆撃機/型式一覧

 
◆艦上爆撃機「彗星」

彗星は愛知航空機が開発し帝国海軍で運用された
艦上爆撃機。九九式
艦上爆撃機の後継機として開発が進められ昭和17年に
正式採用された。
大幅に向上した速度と機体剛性により、完全格納式の爆弾倉に
収められた
500キロ爆弾を急降下爆撃により敵艦船へ叩きつけ戦果を上げた。

 
ダイムラーベンツ社製でメッサーシュミットBf109にも装備された
水冷エンジン、DB-601のライセンス
生産型である日本海軍名「アツタ」
エンジンを採用したが、日本海軍は水冷式に不慣れであったため
稼働率の低下を招いたという説がある。
 
◆DB-601エンジンと陸海軍の確執
機体は日本機離れしたシャープな印象があるが、
同じエンジンを用いたのは
「彗星」のほかに陸軍の三式戦「飛燕」、海軍の「晴嵐」と三機種のみで
あり、
極僅か。さらに陸海軍の確執により、「飛燕」と「彗星」のエンジンは互換性
がなく
同じエンジンであるが互いに融通し合うことができなかった。そのため
純国産三菱製の金星エンジンに
換装され、終戦まで運用された。四三型は
ロケット推進機なども備えた。

 
彗星はその機動性と敵戦闘機との空戦にも耐えうる機体性能だったことから
敵陣に突入し挺身偵察を行う強行偵察機としても運用された二式艦偵ほか、
戊型は斜め機銃を
備え、夜間戦闘機として本土防空戦におけるB-29撃墜
にも活躍した。


◆航空戦艦「伊勢」搭載カタパルト射出型  

二二型は航空戦艦「伊勢」に搭載されカタパルト射出された。
この運用方法では艦隊への帰艦は100%不可能であり、建前上は
陸上基地への着陸を前提としたものであったが、空戦では未帰還機が必ず
出るため航空母艦への着艦が求められた。
 
型式一覧 
 
------------------------------ 
 
◆彗星一一型(二式艦上偵察機)/D4Y1-C

全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m 主翼面積23.6㎡ 自重2,565kg
全備重量3,650kg 過荷重量4,361kg 翼面荷重155kg/㎡
エンジン/アツタ21型 離昇1,200馬力 燃料1,083L 増槽330L2個
最高速度/546km/h at 4,750m 巡航速度/426km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分28秒 航続距離(増槽装備)/3,339km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃
 
敵陣強行偵察機
九九式艦上爆撃機の後継機として十三試艦上爆撃機が正式採用された際、通常艦爆と
艦爆としての機動力を活かし戦闘機の追従からも脱出が可能な強行偵察機モデルの
二派が製造された。一一型は爆弾倉を撤去し、敵陣偵察用のカメラを備えた
モデルで彗星一一型、或いは二式艦偵と称する。唯一の尾輪引き込み式。121空
(雉部隊)では二式艦偵と呼ばず、単に「彗星」と呼称していたようである。
  
------------------------------
 
◆彗星一二型/D4Y2・彗星一二戊型/D4Y2-S
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
 
艦上爆撃機「彗星」
旧来の九九艦爆から大きく進化し、爆弾倉(ウエポンベイ)の扉を開閉式として
500キロ爆弾を搭載が可能となった。機体剛性と三枚のダイブブレーキを活かした
急降下爆撃により、敵艦に500キロ爆弾を叩きつける。本格的に運用されたのは
主にマリアナ沖海戦であるが、敵機動部隊とは四倍以上の兵力差があり、敢闘するも
母艦に帰還できたの機体は僅かであった。一二戊型は後席に斜め銃を取り付け
夜間戦闘機として本土防空戦に活躍した。
 
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◆彗星二二型/D4Y2改(航空戦艦「伊勢」搭載機)
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
カタパルト射出機
 
彗星一一型・一二型をベースにカタパルト射出を可能に改造したモデル。
航空戦艦「伊勢」のカタパルトから射出発艦した。艦隊への帰艦は不可能で
カタパルト射出出撃後は友軍地上基地への着陸が建前上前提とされた。
実際には多くが未帰還となったほか、未帰還機の増加で搭載機に空きが出た
航空母艦への着艦が求められた。 
 
------------------------------
   
◆彗星三三型/D4Y3・彗星三三戊型/D4Y3-S
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,501kg
全備重量3,751kg 過荷重量4,657kg 翼面荷重159kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」離昇1,560馬力 燃料1,040L 増槽310L2個
最高速度/574km/h at 6,050m 巡航速度/370km/h at 3000m
上昇力/6000m/9分18秒 航続距離(第一過荷)/2,911km
武装 7.7mm機銃×2 7.9mm旋回銃 500kg爆弾×1 または翼下250kg爆弾×2
 
不慣れなアツタ液冷エンジンの運用により稼働率低下が相次ぎ、空冷の三菱製金星に
換装したモデル。機体の構造変更も施したが、エンジンを取り替えたといえば解り
易い。幻の最終型零戦六四型/五四型丙と同型の金星エンジンという説がある。
戊型は一二型と同じく、斜め銃を取り付けた夜間戦闘機型。
宇垣纏中将、中津留大尉が8月15日に特攻隊として大分飛行場から
出撃したモデルとして有名。
 
-------------------------------
 
◆彗星四三型/D4Y4
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量4,542kg 過荷重量4,733kg 翼面荷重193kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」 離昇1,560馬力 燃料1,345L
最高速度/552km/h at 2,600m 巡航速度/333km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分22秒 航続距離(突撃第一)1,654km 
(突撃第二)1,550km(空輸第二)2,593km 武装 800kg爆弾×1
 
三三型の機体腹下を大きく切り抜いて、800キロ爆弾を吊り下げ可能に
改造したモデル。戦局を凌ぐ為、急造されたのと、航空母艦が壊滅したため、
艦上での運用はされず、着艦フックは撤去された、名目上は艦上爆撃機であるが
陸爆、或いは事実上の特攻機でもあった。重くなった機体を増速させる為
ロケット推進機を6本取り付けた。ロケット装備機は実戦投入前に終戦となる。
 
------------------------------
  
彗星という飛行機について思う事
パラオ・ペリリュー等に残骸として残る、或いは墜落した彗星の機体を
実際に何機か見てきたから思い入れが強い。アルミ合金の機体外板は
そのままに、
計器や艤装部品も実に洗練された作りになっている。
彗星は
間違いなく傑作機であるのだが、本格的に運用された昭和19年
前半は日米の兵力差が最も顕著になってきた頃であり、
海軍はそれでも
まだ成功法で連合軍と戦っていた。確かに彗星は傑作機であるが
5倍も10倍も敵との差があれば生還は望めない。それでも敵艦を
強襲し
撃沈していたのである。その功を、散って行った多くの搭乗員を
忘れてはならないと感じる。
 
彗星は新鋭急降下爆撃機としての威力を十分に発揮することなく
大戦末期には特攻に多く用いられた。
平成26年の夏に中津留達雄大尉のお嬢さんが
宇垣中将特攻の件でテレビに出演していたので驚いた。
8月15日に戦死したことを悔やんでいるのは勿論だと思ったが、それでも
「父を誇りに思います」とコメントしていたのが印象的だった。
 
宇垣の取った行いを私兵特攻だと批判する者も多いが、人物評価は
別として、
武人であったことは確かだ。宇垣は『戦藻録』で
「皆死ね、皆死ね、俺も死ぬ」と書き残している。
終戦後、ここまで復興した日本を当時、誰が想像しただろう。
現在の物差しで特攻を、当時の出来事を良いとか悪いとか
後出しジャンケンのように批判することなど本来ならできないはずだと思う。
  
彗星画像

彗星と航空戦艦日向

彗星/艦上爆撃機

▼平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの彗星

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

  
彗星ファイスタオル試験販売中

Photo

 
◆関連記事
 
パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉
航空機に見る日本陸海軍の確執
朝日村に不時着した彗星
宇垣纏中将8月15日特攻出撃の跡地へ

------------------------------
 

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2015年6月12日 (金)

原田要さんの話(6) 関行男大尉の教官を務める

艦上爆撃機「彗星」

 

霞ヶ浦航空隊へ
私がガダルカナルで撃墜された後、病院を転々として

手もなんとか治ってきて、こっち側の手が、今でもあんまり
握力がないですけれど、なんとか操縦できるようになって
霞ヶ浦の教官を命じられました。その時、私は准士官になっていました。
  
関行男大尉の教官を務める
そこで出会ったのが、海兵出身の関行男さん、蔵田脩さん、
それから機関学校から回された鈴木さんでした。
その3人を受け持ちなさいと言われて、練習機に乗って
ほとんどかかりきりで、その3人に教えました。
 
3人、みんな中尉なんです。私は准士官でしょう。
それが教えにくいんだ。もう言葉遣いがね、普段、自分の後輩の
予科練なら「ダメだ!」で言えるのが、言えないから、丁寧な口調で
「それはダメですよ。そうすると飛行機がこうなっちゃうから
こういう風な操縦をしなきゃいけません」といった第三者の言葉遣いで
指導しました。ところがそれを向こうは理解してくれていて、関さんは
 
「教官、そんな遠慮はいらないからダメなときはダメと
言ってください。
私たちは階級は何であれ、技術指導者として
尊敬しているんですから。
何でも好きに喋ってください」

そう、言われてね、かえって、こっちが恐縮しちゃいました。
海軍兵学校出てきた人は鼻ばっかり高くて、威張っているばかりで
プライドだけは高いのに中身が伴わない、当時は下士官から
そういった印象を持たれていました。だけど私の身近では海兵出だからと
威張る人はあまりいなかった。
 
蒼龍戦闘機隊では菅波政治さんも、飯田房太さんも、藤田怡与蔵さんも
一番最初の教官だった村田重治さんも、みんな海兵出だからと威張るような
ことはありませんでした。立派な人たちでした。
小園安名さんも、我々下士官と
士官を一心同体のように
大事にしてくれました。
 
蔵田さんもそうだし、鈴木さんは途中で肺結核で亡くなっちゃったけど
みんな立派な人たちでした。蔵田大尉は後に元山航空隊で
特攻隊の
隊長になって。

私が一番最初に教えてあげた関行男さんは、その海兵のプライドの犠牲に
なった人なんです。
下士官が活躍してるのに、兵学校出の一番偉いエリート
コースが
何やってるんだと。それで誰か代表で一番先に行かざるをえなくなった。
 
ところが私が後から考えるとね、戦後まで元気で喋ってた偉い人が
あれが、特攻に行くべきだった。ところが、それは自分で行きたくない。
それが関さんをね、特攻にやったんですよ。関さんは戦闘機じゃないんです。
急降下爆撃がね、上手なんです。戦友に聞いたんですが
関さんは言っていたそうですよ。
 
「俺は何も零戦で爆弾を抱いて行かなくたって、九九艦爆で何でも沈められるよ」

って。
結婚したばかりなんですよ。関さんは
 
「本当は、俺は行きたくないんだけれども、日本が負けたら家内がどんな事に
なるかわからない。
だから日本が負けないために。私が第一号で、敷島隊の
隊長で海兵出の名誉のために行きます」
 
そう言ったんだそうです。
 
つづく
 

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関連記事
関行男大尉と敷島隊の祀られる楢本神社へ
私は敷島隊の5機を整備した~中野整曹

※画像は彗星艦爆
 
-------------

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和を訴え続ける
 

--------  

海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2015年5月30日 (土)

どうしても「疾風」グッズを宇都宮で売りたい

Cimg0272

 
大谷資料館へアポなしの突撃交渉してきました!
 
「どうしてもこの疾風グッズを宇都宮で、とくにここ大谷で売りたいんです。
置かせて下さい!この疾風はネット販売でなく、宇都宮へ足を運んでくださった
方のみが購入できる仕組みを作りたいのです」
  
と、疾風と宇都宮の縁を語って説得しましたがうまく伝わらなかった。
悔しい。でもまた行きます。店に置いてもらうのは大変だ。
 
ただ、もう一件の交渉はうまくいきました。資料館に疾風の写真を
飾って頂けることになりました。今まで部品を製造する様子は写真
展示されていたものの疾風の機体写真そのものは開館以来、ずっと
無かったのでこれから来た方は戦闘機「疾風」の雄姿を見ることで
地下工場が担った役割と、イメージが掴めるでしょう。写真は大氣氏に
提供してもらうことになりました。

2015年5月18日 (月)

四式戦闘機「疾風」と中島飛行機宇都宮製作所

四式戦闘機「疾風」

四式戦闘機「疾風」


キ84四式戦疾風

キ-84 四式戦闘機「疾風」
キ-84、四式戦闘機「 疾風 」(以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、速度、運動性、
武装と防備、航続距離など 最もバランスに優れ、
昭和19年(1944年)4月の正式採用後、 陸軍は「大東亜決
戦機」と称して最も
重要な航空機として位置付け、 大戦における運命を託した。
 
日本国民の総力を注い
で送り出されたキ-84は終戦迄の短い期間におよそ
3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン
戦線、および本土防空戦
において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮でき
ず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯と
なり 南溟に散った。
 
戦後、 連合国は、接収したキ-84に再整備を施し飛行テストを実施したところ、
秘め
られた性能を発揮、P-51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。

倉井利三少尉機 キ84四式戦疾風

▲倉井利三少尉機(四式戦闘機「疾風」)B-29を3機撃墜。最後の一機は体当たりを
敢行撃墜。
野木町へ墜落、戦死した。

◆宇都宮陸軍航空廠と陸軍航空部隊
宇都宮近辺には陸軍(清原・壬生)と中島飛行機で、三か所の飛行場を有した。
 
宇都宮南飛行場
中島飛行機の飛行場は宇都宮南飛行場と呼ば
れ、現在は陸上自衛隊
北宇都宮駐屯地となっている。飛行場と誘導路で接続された中島飛行機
宇都宮製作所ではキ84を専門に生産が行われ
ていた。
 
宇都宮陸軍飛行場
宇都宮飛行場(通称清原飛行場)は鬼怒川の東側高台上の清原村中央
に所在した陸軍の飛行場で昭和15年
の宇都宮陸軍飛行学校本校開校・陸軍
航空廠宇都宮支廠開庁により運用が開始された飛行場である。
 
宇都宮陸軍航空廠
陸軍航空廠宇都宮支廠
は昭和17年に宇都宮陸軍航空廠
(師・第34206部隊)に改編され、戦地への航空機補給基地として本格的な
運用に至る。航空
廠は陸軍航空本部直轄の組織として、中島飛行機で完成した
新造機を受領し艤装( 兵装の取付け等 )や塗装を行った後、廠内
に駐屯する
陸軍航空輸送部により各部隊へ空輸された。廠内の技能者養成所では
エンジニア養成が行われ、ここを巣立った軍
属の少年整備員が各戦地で
整備に腕を振るった。 戦局が悪化すると民間の中島飛行機の工場
(兼飛行場)に 出張所を設け直
接陸軍航空部隊へ航空機を配備する
仕組みへと 移行した。
 
宇都宮教導飛行師団・壬生飛行場
昭和19年に、大陸の白城子 陸軍飛行学校が 清原に移駐、作戦性
を持った
宇都宮教導飛行師団が編制された。飛行場内は飛行学校の訓練に加え、
中島飛行機から航空廠へのキ-43、 キ-49、
キ84の納入に伴うテストフライト、
さらに教導飛行師団の編成によりかなり過密になり航空事故が頻発したため
そのため宇飛校は本
校を壬生飛行場に移駐した。
現在のおもちゃ団地近辺である。
 
第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川隊
宇都宮教導飛行師団は後に教導飛行師団司令部となり、昭和20
年には
第6航空軍より特攻機の誘導隊編成が下令され、宇都宮教導飛行師団の
教官、掛川義雄大尉を隊長とする97式重爆
撃機2機、搭乗員7名、
地上要員7名の計20名が清原を発つ。この部隊は後に
「第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川
隊」として沖縄に出撃、
搭乗員7名は未帰還となり戦死と認定された。
 

◆中島飛行機宇都宮製作所
キ-84は 中島飛行機太田製作所と宇都宮製作所で生産を担った。
(またハルピンの満州飛行機製造ではキ-116と称しライ
センス量産予定で
あったが 終戦直前、ソ連軍の侵攻を受けて量産中止) 太田には開戦当時は
糸川英夫博士の傑作機 キ-43、
一式戦「隼」や、キ-44、二式戦「 鍾馗 」
そして、キ-49百式重爆「呑龍」の生産ラインがあったが、昭和19年以降は
生産機の多く
がキ-84へ移行する。
 
宇都宮空襲 
昭和20年7月12日から13日未明にかけた宇都宮空襲ではB-29、130機が
来襲、宇都宮市街地を中心に
焼夷弾を投下( 投下目標は中央小学校であり
市街地の壊滅 に重点が置かれた)宇都宮製作所はB-29空襲の直撃を免れた
が米軍は宇都宮南飛行場を大規模な陸軍補給処と位置づけており、艦載機や
P-51の襲撃を度々受け、施設や掩体内の機体な
どに被害を受けたが工場は
大谷地下空間(現在の大谷資料館)と大田原市の工場に 分散疎開中であり
発動機は戸室山、部
品工場は大谷地区の地下空間で稼働、機体組み立ての
本工場も、 辛うじて稼働を続けた。宇都宮製作所から出荷されたキ-84
は全て
無塗装のジュラルミン剥き出しで配備先の部隊ごとに迷彩等の塗装が施された。
 
女子挺身隊(16,7の女学生)必死の努力
特筆すべきは宇都宮製作所におけ
る女子挺身隊の尽力である。 女子挺身隊は
16、7の女学生であったが細身との理由でキ-84の胴体後部に潜り込み外側
から何
百本と打ち込むリベットをカシメる作業を担った。胴体内に響くリベットの
打撃音と強烈な振動は、脳天が割れるようで、例え屈
強な男でさえ、10分も
耐えられるようなものでなく、気が狂う程であったが、女学生の忍耐強さは
驚くべきもので、細い両腕と
足で懸命に踏ん張り、握った当て板を最後まで
支え続けたのである。キ-84を語る上で、この女学生達の必死の努力が
あったこ
とを忘れてはならない。
 
そして終戦後の8月16日、生産ラインには新鋭20mm機関砲(ホ5)4門を
備えたキ-84乙型が二機、 殆
ど完成状態で出荷を待っていた。
 
文と絵:篠原直人
監 修:大氣高大 
 

※記事は調査継続中につき随時加筆訂正を行う場合があります。
 
 

2015年4月21日 (火)

横山岳夫さんの訃報

元海軍大尉で戦闘機搭乗員の横山岳夫さんが亡くなりました。
先日、訃報を知ったところです。横山さんは97歳、3月5日に
ご自身で車の運転をされ、買い物へ行った際に、駐車場で倒れ

そのまま救急車で運ばれましたが、間もなく亡くなったそうです。
直前までお元気だったことから
肺塞栓症(エコノミークラス症候群)だったと聞いています。
 
私は横山さんと親交の深い方にお願いし、近日取材を行う予定でした。
週末にお会いする予定だったのですが、数日前に伺う予定を
お電話で確認しようとしたところ、一向にお出にならないので
おかしいなと、思っていたところ、先に記した通りです。

  
横山岳夫元少佐は海兵67期、水上戦闘機(二式水戦)出身で、のち
零式艦上戦闘機へ転向。201海軍航空隊でもっとも知られるエピソードといえば

指宿正信大尉とともに初の神風攻撃隊である「敷島隊」編成に関与された
といわれる方です。横山さんと指宿さんの名誉のために書いておきますと

これは201海軍航空隊副長の玉井浅一中佐の命令であり
お二人には特攻を制止できる権限はありませんでした。
 

指宿さんに関しては戦後航空自衛隊初のジェット戦闘機パイロットとなり
昭和32年に殉職されましたが、生前、このようなエピソードが
残っています(篠原調べ)
空に生きた武人~指宿正信の生涯

 
横山岳夫さんはその指宿大尉の戦友でもっともよく知っている
ということで
戦友としての思い出を伺う予定だったのですが、残念です。
 
貴重な歴史の証言者が亡くなられたことは誠に残念です。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

2015年1月31日 (土)

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零戦21型と52型の違い

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに三菱重工、
中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

 
零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコンはこちらのリンクから

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に搭乗する。
従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。ただし、指揮官
(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)が入り専用機が与えられる。
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと証言されるが
これは、特に改造を施したということではなくて、指揮官クラスがべらぼうに
コンディションの良い機体を占有していた、という意味合いではなかろうか。
 
一方、整備員は担当する機体が決まっており、
それぞれの担当機を責任を持って整備した。零戦の尾翼等に
〇〇一整曹などと整備担当長の名が記されれいるのはこのため。
 
その他項目一覧

なぜゼロ戦と呼ぶのか 零戦は無敵だったのか
零戦のパイロットになるには 零戦操縦方法
零戦の撃墜王(エース)は誰か
零戦の色(カラーリング)について 機体はいつから緑?
零戦21型と52型の違い
  

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

Photo

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十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

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零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

Photo_5

零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

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二式水上戦闘機(二式水戦)

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二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

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K

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零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

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ゼロ戦(零戦)32型/三二型

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零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

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零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

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ゼロ戦(零戦)52型/五二型

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零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

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零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

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零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

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零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

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零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

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零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

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ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

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なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

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搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

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ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

Photo_2 
▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

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高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

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ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

08_3

零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

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▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

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宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

09_4

エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

Photo_2

▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

Photo_18

作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

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航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
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零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

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零戦Tシャツ

 

零戦Tシャツ(ネイビー)

零戦Tシャツ(グリーン)

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amazon販売ページへ
 

ネイビー ブラック ブルー アイビーグリーン(機体色)


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模型製作代行は「神雷工房」へ

2014年12月10日 (水)

富安俊助中尉とエンタープライズ

◆実在した「永遠の0」宮部久蔵のモデル

映画『永遠の0』最後のシーンを見た私は即座に
これは実在した富安俊助中尉のエピソードとそっくりだ!
富安中尉をモデルにしたのではないか?そう確信した。
 
以下、ネタバレを含む。映画『永遠の0』ラストシーンで
宮部久蔵は特攻隊として爆弾を抱いて敵空母へ突入する。
遂に横っ腹に突入するという寸前、90度急上昇し、敵空母の直上から
機体を真っ逆さまにして甲板へ突っ込むという壮絶なものであった。
 
ここまでは『永遠の0』の内容であり、フィクションである。
-------- 
 
◆以下、ノンフィクション
以下はノンフィクション。富安俊助という実在した零戦搭乗員の物語である。
富安俊助中尉は私が運営を務める第二師団の戦友会でお世話になっている
元第二師団第二連隊の陸軍大尉、水足氏(陸士56期)のポン友(親友)であり
家も向かいだったということで、思い出話をよく聞いていた。
そのエピソードを紹介する。
 
  
◆富安 俊助(とみやす しゅんすけ)
大正十一年、長崎県に生まれ、まもなく東京へ引っ越した。幼少期

は「メバチ」のあだ名で呼ばれた。早稲田大学に進学、大学では柔道
部に所属した他、全てのスポーツに長けており、また音楽を愛した。
在学中はハーモニカバンドを結成しコンサートを行うほどであった。
 
水足氏によれば「富安は兎に角、運動神経が抜群で、中学の鉄棒で
大車輪を何度もやっていた」という光景をよく覚えているそうだ。
 
昭和十七年九月、早稲田大学政治学と経済学の学士号を取得卒業後

満州鉄道に就職したが、僅か一年後の昭和十八年九月、学徒出陣を受
け海軍へ入隊。飛行専修予備学生として、筑波海軍航空隊へ配属され
僅かばかりの期間、訓練に励んだ。
 
◆鹿屋進出
昭和二〇年 四月二十二日
出撃を控え海軍鹿屋航空基地に移動。
 
◆神風特別攻撃隊「第六筑波隊」出撃
同年 五月十四日 午前五時三〇分
第六筑波隊の爆装零戦隊十五機は、五〇〇キロ爆弾を抱いて鹿屋飛行場を
飛び立った。滑走路の端一杯まで滑走して、ようやく機体が浮い
たという。
途中、一機がエンジントラブルで引き換えし十四機となっ
たが、同じく鹿屋を
発進した第十一建武隊第八七生隊第六神剣隊
の爆戦十二機と合流し、
合計二十六機となって南方の米機動部隊を目
指した。これを察知した機
動部隊はただちに迎撃隊を発進させた。特攻隊のうち
十九機が迎撃戦闘
機により撃墜され、六機が対空砲火によって突入前
に撃墜された。

◆富安機の突入
午前六時五十六分
戦友の犠牲のもと、ただひとり生き残った富安俊助中尉は、対空砲火
を避けて一旦雲に身を隠した。そして時折雲間から顔を出してはエン
タープライズの位置を確認しつつあった。一方のエンタープライズは
20分前からレーダーで富安機を捉えていたが、雲に隠れた富安機に
効果的反撃ができずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けた
瞬間、富安機は満を持して急降下突撃を敢行。エンタープライズは集
中砲火を浴びせたが、横滑りを駆使する富安機に致命弾を与えられぬ
まま、ついに懐への進入を許した。
 
そのまま横っ腹に突っ込むかと思
われた刹那、富安機は五〇〇キロ爆弾
を抱いたまま、一気に引き起こ
し、艦の真上へ上昇した。雲間から射した
日光を浴びてゼロ戦の腹が
輝いていた。富安機は一八〇度左旋回すると
揚力を抑えた背面飛行
のまま、艦直上より前部エレベーターに突入した。
突入時の衝撃によ
り前部エレベーターは上空およそ一二〇メートルまで
吹き上げられた
エンタープライズは大破し、沈没こそまぬがれたが、航空機の
運用は
不可能となり、戦線離脱を余儀なくされた。
 

富安俊助 
▲エンタープライズ直上より背面飛行のまま突入を敢行せし富安俊助中尉機
 

◆艦上で富安中尉を称える式典が行われる
エンタープライズ艦上ではこの攻撃で死亡した空母クルーの水葬を
行ったのち、別の式典が行われた。これは敵であった富安中尉を称え
る名誉式典で、同式典により富安中尉の遺体は米水兵と同様に手厚く
水葬された。
 
米本土へ回航されたエンタープライズは入渠修理のまま終戦を迎える。
修理完了後は兵員引揚船として僅かに運用されたが空母としての
戦線復帰は果たせぬまま除籍。「ビッグE」栄光の歴史に幕を閉じた。

富安俊助の突入後
▲富安機突入の瞬間。上空120mまで吹き上げられたエレベーターが確認できる。
戦艦ワシントンより撮影。
 

富安俊助の突入後のエレベーター 
▲突入直後のエンタープライズ甲板。消火活動を行うクルー。
 

◆犠牲となった特攻隊員
この攻撃で犠牲となった特攻隊員全員をここに記す。

以下昭和二十年五月十四日海軍鹿屋基地出撃。
機種はいずれも爆戦(爆装零式戦闘機)である。
氏名、出撃時の階級、出身都道府県、出身大学もしくは
予科練期別、生年の順。

  
第六筑波隊

富安 俊助  中 尉 東京 早稲田大 大正十一年生まれ

大木 偉央  少 尉 埼玉 宇都宮高農 大正十二年

大喜田久男 少 尉 徳島 日本大学 大正十年

小山 精一  少 尉 東京 中央大学 大正十年

黒崎英之朗 少 尉 福岡 慶応義大 大正十二年

時岡 鶴夫  少 尉 兵庫 京都帝大 大正十一年

藤田 暢明  少 尉 徳島 東京農大 大正十二年

中村 恒二  少 尉 茨城 早稲田大 大正十一年

高山 重三 少 尉  愛知 同志社大 大正十二年

荒木 弘   少 尉  愛知 東洋大学 大正九年

本田 耕一 少 尉 兵庫 法政大学 大正十一年

西野 実   少 尉  石川 拓殖大学 大正十一年

折口 明   少 尉  長崎 専修大学 大正十一年

桑野 実  少 尉  京都 慶応義大 大正十二年
 

第十一建武隊

楠本二三夫 中 尉 長 崎 久留米高工 大正十三年生まれ

日裏啓次郎 中 尉 東 京 法政大学  大正十年

花田 尚孝 一飛曹 北海道 飛練十二期 昭和二年

古田 稔  一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年

鎌田 教一 一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年


第八七生隊

藤田 卓郎 中 尉 愛 媛 拓殖大学 大正九年

橋本 貞好 一飛曹 富 山 乙飛十八 大正十五年

荒木 一英 二飛曹 新 潟 特乙三期 大正十五年


第六神剣隊

牧野 カイ 少 尉 石 川 明治大学 大正十二年

川野 忠邦 上飛曹 宮 崎 甲飛十期 大正十二年

淡路 義二 二飛曹 群 馬 乙飛十八 大正十四年

斉藤 幸雄 二飛曹 宮 城 乙飛十八 大正十四年
  

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富安俊助機

宮部久蔵機宮部久蔵機

 

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篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース
指宿正信大尉 空に生きた武人

 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年11月21日 (金)

知覧特攻基地の実話 黎明の蛍

少尉と隼
YouTube: 少尉と隼

 
 
『黎明の蛍』

知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
 
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。
私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
 
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。

 
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
 
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
 
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。

 
「すまん又敵に逃げられてしまった」

 
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。

 
「仕方ないですよ」

 
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。
一対五の空戦はざらであった。
 
「そんなことより背中を流しましょう」

 
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
 
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
 
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
 
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
 
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」

 
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。

 
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」

 
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。

 
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」

 
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
 
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。

 
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」

 
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。

 
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」

 
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると

 
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」

 
と尋ねた。

 
「ああ、あれで行くよ」

 
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。

 
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」

 
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。

 
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」

 
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
 
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
 
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。

 
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」

 
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
 
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」

 
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。

 
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」

 
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。

 
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」

 
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い

 
「分かりました」

 
と答えた。
 
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
 
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。

 
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」

 
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
 
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。

 
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。

 
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』

 
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
 
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
 
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
 
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
 
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。

 
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」

 
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」

 
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
 
叔父は酔っ払うと

 
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、哀川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」

 
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
  

有田 直史(著)
 
---------
  
この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
 
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
 
なお、動画中の曲「黎明の蛍」はピアニストで作曲家の
久保亜未先生に依頼し作曲・演奏して頂いた。
 
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
 

篠原 直人(解説)
 

2014年1月10日 (金)

故人の人権を考える

ひとつ前の記事で、戦没者の軍歴調査について
ご案内しましたが、最近、イレギュラーな出来事が
ありましたので
少し書いておきます。
 
問い合わせを頂いたのは40代の女性でしたが
内容は次のようなものです。
 
女性
「19〇〇年〇月〇日ごろ、呉の飛行場から特攻で

沖縄方面へ飛んで亡くなった人のことを教えてほしい」
 

「そうですか。その方とはどんなご関係ですか」
 
女性
「私の前世なんです!」
 
私「うーむ」

私は前世や生まれ変わりという概念を持っておりませんので
研究調査にも加味したことはありません。
実にイレギュラーな例でしたが、女性は真剣でしたので
私は一旦、回答を保留し、後日、本に載っている
特攻隊の名簿をお見せしますということになったのですが
これでよかったのかと、今でも考えてしまいます。
 
女性は今流行のスピリチュアルに精通しており
時間や空間などの概念を超越してものを考えることができるそうです。
 
「なるほど。貴方の前世は調べた結果、この人ですよ」
とお答えすれば、自身に誇りを持って暮らしていけたのでしょうか。
しかし故人の意思はどうなるのか?乱暴な物言いではありますけれど
勝手に前世に認定されて迷惑ではないのか?とも思いました。
(すみません。スピリチュアルを否定するつもりは一切ありません)
 
そもそも故人の人権は何処にあるのか?
誰かが持っているとするならそれは一番近い遺族ではありますが・・・
遺族はあくまで遺族であり、故人の思惑や意向と異なる部分は
当然あるでしょう。亡くなった人をアレコレ評価するのは
実に難しい問題であります。
 
※注
なお、呉には飛行場はありません。(昭和17年に於いて)
呉海軍航空隊は岩国に飛行場を有しました。

2013年11月13日 (水)

日本の戦跡一覧

日本各地の戦跡、平和資料館、零戦の見られる場所一覧
随時更新

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地図の拡大版はこちら  

 
◇青森県
◆八甲田山・雪中行軍遭難資料館
冬は大豪雪地帯だが通年営業。
雪中行軍で亡くなった兵士の墓が並ぶ。
夏は十和田湖へ至る八甲田の山々の緑が美しい。
温泉ファン憧れの「酸ヶ湯温泉」近く。
 
◆三沢航空科学館
十和田湖より引き上げられた陸軍練習機を展示
そのほか多数の航空機を展示。航空ファン必見。

 
◇新潟県
◆山本五十六記念館(長岡市)
ブーゲンビル島より慰霊団が持ち帰った一式陸攻の左翼、長官の座席を
展示。そのほか山本の多くの品を展示
近くの寺には山本の墓所があり、また
山本五十六公園には山本の生家が残されている。 


◇栃木県
◆四式戦闘機「疾風」地下工場その2
カッパドキアより凄い!採石場跡は世界最大級の巨大地下空間。

◆疾風地下工場(大谷資料館)外観とその周辺

◆宇都宮飛行場

◆洞窟戦車工場(那須烏山市) 

 
◇茨城県
◆予科練平和記念館

◇山梨県
◆河口湖自動車博物館
零戦二一型と零戦五二型を展示。ただし夏季のみ営業
現在世界唯一となる一式陸攻機を製作中。
 
◇長野県
◆松代大本営
長野県長野市。戦況の悪化とともに
大本営の移設を意図して掘り進められた壕。
当時の「徹底抗戦」という概念を理解できる。
 
◇東京都
◆靖国神社・遊就館
零戦五二型展示
 
◆小笠原戦跡
須崎飛行場(作成中)
 
◇千葉県
◆房総半島戦跡群

◆館山航空隊地下壕

◆「震洋」基地

◆「桜花」カタパルト基地
完成間際、終戦を迎えた陸上発射型桜花
カタパルト(発射基地)跡がある。 

◇神奈川県
◆横須賀鎮守府
 
◇静岡県
◆航空自衛隊浜松基地広報館(エアパーク)
ジェット戦闘機の操縦席に実際に座れるのは日本でここだけ。
ラダーを動かせる。その他歴代の自衛隊機多数をハンガーに
展示。航空ファン必見。零戦五二型。
 
◇愛知県
◆三菱重工小牧南工場史料室
三菱重工工場併設の資料館。見学は平日のみで要予約。
ロケット戦闘機「秋水」復元機のほか零戦五二型展示。
敷島隊の五機と秋水に携わった整備兵のお話し
 
◇京都府
◆舞鶴鎮守府
 
◇広島県
◆呉鎮守府
レンガ造りの呉鎮守府が残っており
週末は見学が出来る。
 
◆戦艦大和ドック(歴史の見える丘)
戦艦大和を建造したドックは現在も健在で
丘の上から望む

◆からすこじま公園
日本一、潜水艦を近くで見られる公園。
 
◆大和ミュージアム
呉の誇り、戦艦大和のテクノロジーを
紹介したミュージアム。零戦六三型展示。

◆てつのくじら館
退役した潜水艦を丸々、そのまま陸揚げ。
中を見学できる。実物の潜望鏡や潜水艦の操縦席に
座れ、舵を握れるのは全国でここだけ。

◆海軍墓地
呉の市街地を見下ろす丘に、先の大戦で
活躍した特務艦、駆逐艦から戦艦航空母艦まで
多くの戦没艦船の慰霊碑が並ぶ。

◆江田島
海軍兵学校の建物は現在も残る。

◇山口県
◆大津島・回天基地
人間魚雷「回天」の基地。徳山からフェリーで渡る。
透き通った海が実に美しい場所。

◆徳山プラント群
連合艦隊の燃料補給基地である
徳山の燃料庫は今も健在。西日本屈指のプラント群は
工場夜景スポットとして有名。各種夜景ツアーを催行。
 
◆柱島・周防大島の戦艦陸奥記念館
瀬戸内海の穏やかで青く美しい海が魅力。
柱島沖には戦艦陸奥が沈む。資料館は一見の価値あり。
 
◇愛媛県
◆楢本神社
(ならもとじんじゃ)
伊予西条は関大尉の出身地である。関大尉をはじめとする
特攻隊「敷島隊」の五人それぞれの慰霊碑は、
250kg爆弾を模した衝撃的なものだった。
 
◆小島・芸予要塞
フェリーで渡る。芸予要塞は110年までの
ほぼ原形をとどめた稀な要塞の戦跡。島の自然が美しく、
潮風が心地よい。復元された旅順攻城砲を展示。対岸は今治造船
  
◆松山第343海軍航空隊
空港周辺に掩体壕が点在する。

◆佐田要塞・未机湾(真珠湾九軍神の碑)
三机湾は別名東洋のパールハーバーと呼ばれる。
真珠湾に突入した特殊潜航艇九軍神が訓練を行った
場所として有名。伊方原発近く。
 
◆由良要塞
 
◆南レク「紫電改」
日本唯一「紫電改」の見学できる場所。
紫電改のほか343空搭乗員の遺品の数々を展示している。 
入場無料。
 
◆宿毛湾・宿毛泊地
戦艦大和の有名な写真はここで撮影された。
 
◇高知県
◆高知航空隊
高知竜馬空港周辺には掩体壕が点在。
 
◆三魂之塔
「彩雲」がエンジントラブルから帰還を諦め
敵機に体当たり、刺し違えた後、この地に墜落した。
慰霊碑とともに機体の一部が残されている。
 
◆番外編~素晴らしい四国
 
◇福岡県
◆大刀洗平和記念館
(たちあらい)陸軍大刀洗飛行場の歴史を紹介。
特攻隊の遺書を展示。零戦三二型を展示。
 
◇熊本県
◆ペリリュー島守備隊長中川大佐の墓所
 
◇大分県
◆大分飛行場跡(宇垣特攻の地)
現在は大洲運動公園。その一角に宇垣特攻の慰霊碑があり
彗星で散華した全員の名と経緯が記されている。
 
◆宇佐海軍航空隊(永遠のゼロ) 
映画「永遠の0ゼロ」で使われたゼロ戦のセットを展示。
また、航空母艦の甲板を再現し、自由に歩ける。
映画のセットであるが、ゼロ戦のコクピットに座って記念撮影が出来る。
桜花の風防ガラスを展示。
 
◇長崎県
◆佐世保鎮守府
レンガ造りの佐世保鎮守府は現在の海上自衛隊佐世保地方総監部。
 
◆SSKドック(旧佐世保海軍工廠)
潜水母艦「伊四〇二」、航空母艦「伊吹」、など誕生の地。
 
◆セイルタワー
ペリー来航から、日本海海戦、太平洋戦争まで
模型やジオラマなど、ビジュアルを重視したわかりやすい展示が魅力。
七階からの展望は、佐世保の街と、停泊中の海上自衛隊、アメリカ海軍の艦艇を一望。
 
◆大村海軍航空隊

◆海軍針尾通信所(巨大通信塔)
世界が動いたあの日「ニイタカヤマノボレ」発信の地。
丘の上から巨大な塔を異世界のような眺め。
 
◆三菱重工長崎造船所(戦艦武蔵ドック)
 
◇鹿児島県
◆万世特攻記念館
知覧を訪れたなら、こちらも是非 
 
◆知覧特攻平和会館
 
◆海上自衛隊鹿屋資料館(海軍特攻資料館)

知覧と合わせてこちらも一生に一度は見て置くべき場所。
特攻隊員の遺書を数多く展示。 
 
◆神雷部隊「桜花」別杯の地

桜花を抱いた一式陸攻の飛び立った場所。 
 
◇沖縄県
◆南部戦跡

2013年11月 7日 (木)

大谷資料館 宇都宮の巨大地下空間~採石場跡(四式戦闘機「疾風」地下工場)見学その2

大谷資料館 地下空間 栃木県宇都宮市 中島飛行機四式戦闘機「疾風」地下工場

大谷採石場跡(大谷資料館)01

大谷採石場跡(大谷資料館)02

大谷採石場跡(大谷資料館)03

大谷採石場跡(大谷資料館)04

 
採石場跡内部へ
大谷資料館採石場跡内部へ階段を下って行きます。

夏場は寒いので上着をお持ちください。
  
年間を通じて気温湿度とも一定しており
天然の冷蔵庫として酒造会社の酒蔵にもなっています。
 

大谷採石場跡(大谷資料館)05


地上から注ぐ青い自然光
青いのは電気ではありません。自然の光です。

地上から注ぐ太陽の光がここでは青く見えるんです。
時間帯や季節によって光の見え方が異なります。


壁には昭和初期につけられたツルハシの跡が残ります。
 
四式戦闘機「疾風」地下工場
ここでは昭和19年から20年、空襲を避けるため
中島飛行機の地下工場として稼働しました。女学生が動員され
四式戦闘機「疾風」のエンジン部品が製造されました。
 
撮影に使われたドラマ、PV、映画など
さまざまな撮影に使われています。個人での坑内の撮影は自由ですが
2時間を超える撮影、三脚の持ち込みは事前の許可が必要です。 
 

映画
セーラー服と機関銃/東映/1981年/薬師丸ひろ子
19/東映/1987年/少年隊
ウルトラマンティガ/2000年/V6 長野博
オトシモノ/松竹/2005年/沢尻エリカ・若槻千夏
魍魎の匣/2007年/松竹/堤真一・阿部寛・椎名桔平・黒木瞳・田中麗奈
LIAR GAME FINAL STAGE/2009年/松田翔太・戸田恵梨香
ほか
 
テレビドラマ
青春牡丹燈篭/NHK/1993年/宮沢りえ
らせん/フジテレビ/1999年/岸谷五郎
アナザーヘブン/テレビ朝日/2000年/大沢たかお
金田一少年の事件簿/日本テレビ/2001年/松本潤
潜入探偵トカゲ/TBS/2013年/松田翔太・松岡昌宏
 
PV
長淵剛/ハングリー/1985年
GLAY/SOUL LOVE/1998年※
工藤静香/BLUE ZONE/1999年※
DA-PUNP/I wonder/2000年※
B'z/MAY/2000年※
野猿/太陽の化石/2000年※
島谷ひとみ/赤い砂漠の伝説/2003年※
JUJU/明日がくるなら/2009年※
Do As Infinity/生まれゆくものたちへ※
takiamiy(高見沢俊彦)/雷神の如く/2013年
ほか 
 
※YOUTUBEで視聴可能作品

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ステージがあり、コンサートが行われたり
幻想的な地下教会での結婚式プランもあります。
 
大谷資料館・住所
〒321-0345
栃木県宇都宮市大谷町909
028-652-1232

老若男女入場600円。
JAF割引(会員証提示)で500円。
 
なお、PVや各種撮影のためにお休みすることが
ありますので、見学の際は要確認です。
 
宇都宮にお越しのさいはぜひ大谷資料館を
見学されることをおすすめします。
 

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大谷採石場跡(大谷資料館)15

大谷採石場跡(大谷資料館)16

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▲地下工場で生産された四式戦闘機「疾風」
 
主にエンジンをこの地下工場で生産し
機体組立を地上の宇都宮製作所と群馬県太田製作所で生産し、前線へ送り出した。

2013年10月 4日 (金)

回天基地(大津島)

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山口県周南市(旧徳山市)大津島の戦跡
人間魚雷「回天」基地を訪れた。
 
徳山港よりフェリー「新大津島」で40分、高速船「鼓海Ⅱ」で20分。
(画像はフェリー)どちらも料金は変わらず、およそ2時間おきに
交互に出ている。瀬戸内海の島々へ渡る航路は他にも多くあり、ここ
徳山港が拠点。新幹線の徳山駅からも歩いてすぐで、アクセスは良い。
車で行く場合は、朝一番の便か午前中の便であれば、波止場となりの
無料駐車場が空いている可能性が高い。満車の場合は離れた
有料駐車場を利用する。
 
波止場の券売機で「馬島行き」を求める。
大津島はもともとふたつの島が数百年前に繋がった
細長い島で、フェリーは「馬島」と「刈尾」、二ヵ所の波止場を巡るが
どちらも同じ大津島の波止場である。
 

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徳山の大プラント群を見ながら進む。
この辺りは屈指の工場夜景スポットで、地元のツアー会社が
工場夜景クルーズや、普段は立ち入ることのできない
工場内の夜間見学ツアーなどのプランを実施している。

なお、徳山は連合艦隊の燃料補給基地であり
東は柱島泊地と、呉軍港である。
 
フェリーに乗っているのは釣り人が数人。穏やかな瀬戸内海を進み
大津島馬島港へ到着。波止場には「回天の島」という大きな看板と慰霊碑。
回天発射基地跡と回天記念館は、波止場から歩いて5分ほど。
 

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遠くに回天発射基地が見えてきた。
 

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途中、断崖があるので、トンネルを抜けて発射基地へ向かう。
このトンネルは当時つくられたもので
回天はトロッコでこのトンネルを通り、発射基地へと運ばれた。
また、回天搭乗員もこのトンネルを通り訓練、また出撃した。
 
見学客は自分だけ。
釣竿を背負ったおじさんが何の歌かわからないけど鼻歌を歌いながら
トンネルのずっと先のほうを歩いて行くのがわかった。
 
これは空襲を監視するための横穴。

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長いトンネルを抜けて、回天発射基地へ到着。
 
同じように、回天搭乗員は、このトンネルをくぐったのか
と思うと、こんなに悲しいことは無い。
 
※注(発射訓練はここで行われたが、実際の出撃は沖合に停泊する母艦(潜水艦)
に一旦乗り込み、出撃。目的の戦域で切り離されて発進する)
 

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なんと、透き通った綺麗な海だろうか。
回天を海面へ降ろすためのクレーンの跡が残っている。
(白いフェンスの支柱のあたり、タコ足のような形をした部分)
 
大津島は通常魚雷の発射場として昭和14年に建設されたが
昭和19年9月から、人間魚雷「回天」の搭乗訓練および出撃基地となった。
 

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この縦穴から回天艇に乗り込む。
 
飛行機の特攻隊なら、機体トラブルで、あるいは
自分の意志で帰ってくることも可能であろう。
しかし、回天艇は一度、出て行けば、何があろうと
脱出は不可能で、二度と帰ってくることはできない。
 

次に

回天記念館へ向かう。
小中学校の敷地は回天搭乗員の宿舎などがあった。
現在も当時の壁や点火調整室などの建物が残る。
 

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回天記念館を見学する。記念館への道の両側には桜の木、そして
両側の石板には戦没者のお名前と出身地が刻まれている。
 

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館内は回天の資料と
回天搭乗員の遺影、遺書が展示されている。
 
見学者は他におらず、受付の年配男性が、たったひとりのために
入場切符を売ってくれて、中に入った。
 

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回天の内部セット。映画『出口のない海』で使われたもの
以前、この内部に入らせてもらったことがあるが(現在は見るだけ)
とても表現しきれない、閉塞感と絶望感があった。
 
外は潜望鏡で僅かに見えるだけ。
 
搭乗員はこれから突入すべき敵艦の予想進路と
速度を計算し、進む。仮に失敗しても
脱出はできず、再度計算し直し、突入しなければならない。
飛行機と違って、何があっても生きては帰れない。
絶対に命はないのである。 
 

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帰りのフェリーの時間を計算して波止場へ戻る時間となった。
 
記念館を出て、回天坂を下る。見学客は誰もいないのだけど、回転坂の
桜の落ち葉は綺麗に掃かれていて、ほうきをもった年配の女性が
「ありがとうございました」と言ってくれた。
 

2013年10月 3日 (木)

万世特攻平和祈念館

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有名な子犬を抱いた少年飛行兵の写真です。
この飛行兵は荒木幸雄さんという方で
群馬県桐生市出身の陸軍少尉、17歳です。
 

子犬を抱いて、自分の飛行機に爆弾を取り付けている
様子を見ている、といわれています。
 
昭和20年、5月27日
荒木さんはこの写真が撮影された直後、陸軍特別攻撃第72振武隊として
沖縄へ出撃、戦死しました。
(第72振武隊は10名中7名が10代の飛行兵でした)
 

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知覧を訪ねたのなら、ぜひとも万世も
 
知覧の特攻平和会館は実に有名ですが

同じ鹿児島県内に、同様に特攻隊員の遺書を展示した
施設があります。鹿屋(かのや)と万世(ばんせい)です。
今回は、そちらの、あまり知られていない
万世特攻平和祈念館
へ行って参りました。
  
こちらは知覧と比べると規模は小さいのですが
展示内容は決して引けを取らないものです。
 
万世飛行場は吹上浜をならした急造の飛行場で
荒木さんが出撃したのは、この万世飛行場だったのです。
荒木さんの遺書、遺品は二階フロアに展示してあります。

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▲海軍零式三座水上偵察機
本来、海軍の飛行機はここ陸軍の記念館にはミスマッチであるが、
吹上浜の沖から引き揚げられたのでその縁もあり、展示していると、
新人ガイドさんの話。
なお、この機体の搭乗員三名は無事生還、
その経緯も記してあります。

 

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▲慰霊碑自体は沖縄の方角を向いているが
搭乗員は東を向いている。これは再会を誓った九段の方角だという説
もうひとつは鹿児島は日本の西端なので、故郷の方角すべてを
向いているという説があります。
 

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▲ベテランのガイドさんに案内して頂き、飛行場跡へ。
この側溝の板は当時からあり、画面右側が飛行場滑走路跡。
 

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▲駐機場。荒木さんの写真の背景には松林が写っているので、
現在もそのまま松林である、記念館からこの辺りのどこか駐機場で撮影したの
ではないか、
という説があります。
 

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 飛行場跡は直線道路。
 

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特攻隊員の方々が、この神社を通りがかりに
ちょうど桜の花が咲く頃だったので、その枝を持って
コクピットに飾った。その桜の木は今はないのですが、
神社の石柱は当時のまま残されています。 
 

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飛行場跡地の海浜公園から吹上浜を望む。
 
万世特攻平和記念館 アクセス
鹿児島県南さつま市加世田高橋1955-3
大人300円、小人200円
9:00~16:30(閉館17:00)
無休(12月31日~翌1月1日休)

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

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 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館
 
一度は訪れておきたい場所です

  
知覧の特攻平和会館は実に有名ですが
同じ鹿児島県内に、同様に特攻隊員の遺書を展示した
施設があります。鹿屋(かのや)と万世(ばんせい)です。
 
今回は、そちらの、あまり知られていない

鹿屋資料館へ行って参りました。知覧からは鹿児島湾を挟んで
大隅半島側。交通の便が悪いところにあるので
なかなか見学者が来ないのかもしれません。

 
しかしながら、こちら鹿屋も
決して知覧に引けを取らない資料館です。
 
鹿屋は海軍の特攻基地として
もっとも多くの海軍特攻機が出撃しました。
二階フロアには鹿屋から出撃した
海軍搭乗員の遺影(集められる限り全て)と遺書が展示してあります。
 
敷島隊から梓特別攻撃隊、神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで
資料、展示も充実しています。

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▲戦艦「比叡」の錨、海上自衛隊のUS-1A(おおとり)
紫電改、天山のプロペラなど、屋外展示も多数。
なお資料館二階には吹上浜沖から引き揚げられたゼロ戦五二型が
展示されています。なお、

世界唯一の二式大艇はここにあります
 
余談
敷地内の食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」がとても美味しくて
びっくりした。おすすめです!
 
アクセス 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館
鹿児島県鹿屋市西原3丁目11−2
午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
年末年始(12月29日~1月3日)を除く毎日開館
入館無料
個人でも申し出ればガイドが案内します

ゼロ戦、二式大艇など各種グッズを扱った土産物店、
海軍カレーが食べられる食堂あり

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

神雷部隊「桜花」別杯の地

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海上自衛隊鹿屋航空基地から少し離れたところに
神雷部隊「桜花」の碑がある。
 
慰霊碑には山岡荘八の書で神雷部隊「桜花」別杯の地、である旨と
建立の経緯が記されている。なお、ここから近くの
鹿屋航空基地資料館には神雷部隊「桜花」に関する遺品、資料が数多く
展示されている。
   
 
アクセス
鹿児島県鹿屋市野里町4219
朝日神社となり

大刀洗平和記念館

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マーシャル諸島タロア島より帰還した零戦三二型
大刀洗(たちあらい)平和記念館のゼロ戦です。

マーシャル諸島タロア島から里帰りし修復された機体です。
珍しい三二型。
 
大刀洗~陸軍の特攻基地としての歴史
ここ大刀洗は陸軍の航空基地があり

戦争末期には特攻隊が出撃した地でもあります。
館内にはここ大刀洗から出撃した特攻隊員の方の遺書、遺影などが
展示されています。
 
幻の戦闘機「震電」
また、九州飛行機が製造した幻の戦闘機「震電」が終戦直前に
蓆田飛行場
(現在の福岡空港)で飛行した経緯もあり
「震電」の展示に力を入れており
資料も豊富でした。
 
B-29のオブシェ
ゼロ戦の上、天井に金網のようなものが見えますが
これはB-29のシルエットのオブシェです。翼とエンジンの形がわかるでしょうか。
大きさ比較のためだそうです。

なお、館内は撮影禁止
ただしゼロ戦のみ撮影可能で九七戦闘機は禁止。
ゼロ戦も九七戦闘機も区別つかない人が多いのに
これは混乱すると思う。
 

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▲現在も残る営門と、道路を挟んだ反対側はユニークな大刀洗駅。

大刀洗平和記念館アクセス
福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1
 
入場料
大人500円 高校生400円 小中学生300円
入館時間、午前9時 ~ 午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日は年末年始 (12月29日~1月3日)
 
各種ゼロ戦グッズの売店あり
 
館内撮影禁止
(ただしゼロ戦のみ撮影可能。九七式戦闘機は禁止)

2013年10月 2日 (水)

永遠の0ゼロ(映画のセット)

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大分県宇佐市がこのたび開設した
「宇佐市平和資料館」で映画永遠の0(ゼロ)の撮影に使われた
ゼロ戦(レプリカ)が見学できます。
 
このゼロ戦は、映画の撮影が終了した後、宇佐市が1000万円で
購入し、ここに展示しているものです。
 
鉄板を貼り付けたレプリカなので、実物のゼロ戦と比べると
ずいぶんと重い質感がありました。

入場は無料。

宇佐市は旧海軍宇佐航空隊の掩体壕などが現在でも残り
戦跡を観光の目玉にして行く構えの様です。
 
展示のほとんどは映画のセットですが
桜花の風防ガラスなど、一部だけ貴重な資料もあります。
レプリカ機の尾翼番号(第721海軍航空隊)は神雷部隊のものです。
 

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これは映画の撮影に使われたコクピットのセットです。
「岡田くんの汗が染みこんでいるから、
ファンの女性は喜ぶんじゃ
ないでしょうかね!うへへへへ」と、市の担当者。
 
アホか!

でも、実際に座れるのは良いアイディアだと思います。もちろん座らせて
もらいました。「思ったより狭いでしょう」と言われましたが、
身長175センチの私の印象では、広くはないけど、狭くもない。
そんな感じでした。
 

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こういった実際に体感できるセットはありがたいです。
隙間をぜんぶ埋めてあるんですね。
 

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宇佐市平和資料館 アクセス
宇佐市大字閤440-5
火曜日定休(祝日の場合はその翌日)および年末年始12/9-1/3
9時~17時(入場は16時30分まで)

老若男女入場無料

宇垣纏 8月15日特攻の碑

昭和20年(1945)8月15日
 
玉音放送の後、ここ大分飛行場より、宇垣纏中将の命により
1番機操縦中津留達雄大尉をはじめとし、宇垣自身を含む
11機、総員23名搭乗の彗星が神風特別攻撃隊として沖縄へ出撃した。
(うち3機は不時着)いわゆる終戦後の「宇垣特攻」であるが
 
彗星隊が飛び立った地に、戦没者全員の名が刻まれた
慰霊碑が残されている。 

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大分飛行場は戦後、民間飛行場を経て
現在は野球場や各種スポーツ設備を備えた
大洲総合運動公園となった。
  
慰霊碑は現在も生花が供えられ
綺麗に維持されている。

 
アクセス:大洲総合運動公園
大分市青葉町1番地
慰霊碑はテニスコート西側、芝生の広場一画にある

2013年9月29日 (日)

250kg爆弾を模した敷島隊の碑

初の神風特別攻撃隊である「敷島隊」五名の慰霊碑が
隊長の関行男大尉の出身地である、伊予西条市の楢本神社にある。
 
この衝撃的な慰霊碑は、五名がゼロ戦に抱いて飛び立った
250キログラムの爆弾そのまま模している。

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左側は戦艦「大和」の砲弾、右は「三笠」 
 
なお、境内には神風特攻隊記念館もある。
入場は300円。
 
私は以前、敷島隊の五機を整備した元整備兵の方に
お話を聞いたことがある。あわせて谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹の
回想も少し書いた。
 
敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」

伊予西条に慰霊碑があると聞いたので、以前から訪ねたいと
思っていたのが、ようやく、お参りができた。
 
関さんは、軍神として、またこのような形で顕彰され
関さん自身、それが嬉しいことなのかどうか、私には
知る術もないけれど、今日の日本のために命を奉げたことには
心から感謝します。
 
楢本神社
住所:愛媛県西条市大町1138
 
国道11号線から住宅街へほど500メートル入ったところにある。
慰霊碑と鳥居の前が駐車場。
隣が緑色の外装をした畳屋さん。

九軍神と三机湾

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九軍神の訓練が行われた三机湾
ここは愛媛県瀬戸町。佐田岬の伊方原発を過ぎて西へ10kmほど走ったところに
三机湾と呼ばれる静かな湾がある。 

三机湾は東洋の真珠湾と呼ばれ地形が真珠湾に似ていたことから、
特殊潜航艇「甲標的」で出撃した10名(内9名が戦死しのちに九軍神と呼ばれた)
の訓練が行われた場所である。
 

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須賀公園内にある「九軍神の碑」


慰霊碑の近くでバーベーキューをしていた中年男性のグループがいて
私たちが熱心に慰霊碑の写真を撮っていると
それまでは興味はなかったのだろうけど、近づいてきて

「へ~っ、真珠湾の攻撃訓練したのか」と頷いていた。

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こちらは何故か夜間戦闘機「極光」のプロペラらしいが
説明書きが読めない。
 
極光とはオーロラの意で「銀河」の夜間戦闘機型。
 
住所:愛媛県瀬戸町三机
須賀公園

2013年7月21日 (日)

第一御楯隊、第二御楯隊の碑-硫黄島摺鉢山山頂

硫黄島摺鉢山山頂に
「第一御楯隊」ならびに「第二御楯隊」の慰霊碑がある。
御楯(みたて)とは天皇陛下の盾、すなわち祖国の盾という意味である。
 
第一御楯隊は昭和19年11月27日に、
第二御楯隊は昭和20年2月21日に
出撃、大戦果をあげ散華した。

第一御楯隊、第二御楯隊の碑

 
第一御楯隊

第一御楯隊は第252海軍航空隊戦斗317の零式戦闘機12機
をもってサイパン島のアスリート飛行場に集結するB-29を
強襲、生還を前提とした攻撃隊であった。機体は識別用の国籍マーク
を除いて黒に塗られた。
 
この勇猛果敢な攻撃によりB-29炎上4、大破6の戦果をあげた。
強襲後はパガン島へ不時着、潜水艦で救出される作戦であったが
結果的に全機が失われた。
  
※なお、岩本徹三が第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと後に回想している。
 
零戦隊とは別に、戦果確認用に「彩雲」2機が、前日の26日には
先発隊として
海軍中攻機、海軍少尉搭乗の陸軍機、百式司偵が
出撃している。
このため、第一御楯隊の碑の左側面には
「陸軍重爆隊」右側面には「海軍中攻隊」と刻まれている。
彩雲一機は帰還した。
 
なお、山頂の慰霊碑とは別に
第一御楯隊が硫黄島からの出撃前夜に過ごしたトーチカが
自衛隊基地内に現在も残されている。
 

第一御楯隊 零戦

▲黒一色に塗られた第一御楯隊の零戦
 
第一御楯隊で散華した搭乗員は次の通り。

第一御楯隊
零戦11機、昭和19年11月27日
サイパン・アスリート飛行場強襲において散華

◆大村 謙次 中尉(静岡)
海兵72期・大正11年生・22歳

◆小野 康徳 飛曹長(香川)
甲飛3期・大正10年生・23歳

◆北川 磯高 上飛曹(福井)
甲飛13期・大正12年生・21歳

◆住田 広行 一飛曹(大阪)
甲飛11期・大正13年生・20歳

◆東 進 一飛曹(滋賀)
甲飛11期・大正14年生・19歳

◆加藤 正人 一飛曹(山形)
甲飛11期・大正11年生・22歳

◆司城 三成 二飛曹(大分)
丙飛16期・大正13年生・20歳

◆新堀 清次 飛長(東京)
特乙1期

◆上田 祐次 飛長(神奈川)
特乙1期

◆高橋 輝美 飛長(香川)
特乙1期・昭和2年生・17歳

◆明城 哲 飛長(京都)
特乙1期・大正15年生・18歳
 
第二御楯隊
 
第二御楯隊は昭和20年2月21日、第601海軍航空隊
天山、彗星、爆戦(爆装零戦)をもって編成された特別攻撃隊で
香取基地を出撃、八丈島で燃料補給後、硫黄島東南東海上の
米機動部隊に体当たり攻撃を敢行。航空母艦二隻に大損害を与えた。
搭乗員は次の通り。 

 
第二御楯隊
天山6機、彗星11機、爆戦6機、昭和20年2月21日
硫黄島周辺にて散華

◆村川 弘 大尉(新潟)
海兵70期・大正10年生・23歳

◆飯島 晃 中尉(長野)
海兵72期

◆桜庭 正雄 中尉(広島)
海兵72期・大正12年生・21歳

◆茨木 速 中尉(高知)
高等無線技術13期・大正12年生・21歳

◆佐川 保男 少尉(香川)
香川技13期・大正14年生・19歳

◆木下 茂 少尉(大阪)
関西大学13期・大正12年生・21歳

◆中村 吉太郎 少尉(石川)
中央大学13期・大正12年生・21歳

◆原田 嘉太男 飛曹長(鳥取)
甲飛2期・大正8年生・25歳

◆小島 三良 上飛曹(東京)
乙飛14期・大正12年生・21歳

◆石塚 元彦 上飛曹(山形)
甲飛9期・大正13年生・20歳

◆小石 政雄 上飛曹(神奈川)
甲飛9期・大正14年生・19歳

◆村井 明夫 上飛曹(大分)
甲飛9期

◆志村 雄作 上飛曹(山梨)
乙飛15期・大正13年生・20歳

◆岩田 俊雄 上飛曹(福井)
乙飛13期・大正13年生・20歳

◆青木 孝充 上飛曹(千葉)
丙飛10期・大正9年生・24歳

◆牧 光廣 上飛曹(広島)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆小松 武 上飛曹(高知)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆中村 伊十郎 上飛曹(千葉)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆窪田 高市 上飛曹(山梨)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆小林 喜男 上飛曹(山形)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆幸松 政則 上飛曹(大分)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆小山 照夫 上飛曹(香川)
乙飛16期・大正15年生・18歳

◆戸倉 勝二 上飛曹(三重)
乙飛16期・大正15年生・18歳

◆下村 千代吉 上飛曹(鹿児島)
乙飛16期

◆森川 博 一飛曹(京都)
甲飛11期・大正14年生・19歳

◆三宅 重男 一飛曹(岡山)
甲飛11期

◆池田 芳一 一飛曹(和歌山)
丙飛10期・大正10年生・23歳

◆大久保 勲 一飛曹(茨城)
丙飛11期・大正12年生・21歳

◆田中 武夫 一飛曹(滋賀)
丙飛10期・大正11年生・22歳

◆原田 章雄 一飛曹(熊本)
丙飛17期・大正11年生・22歳

◆稗田 一幸 一飛曹(福岡)
丙飛13期・大正13年生・20歳

◆鈴木 辰蔵 一飛曹(東京)
乙飛17期・大正14年生・19歳

◆伊藤 正一 一飛曹(宮崎)
乙飛17期・大正12年生・21歳

◆清水 邦夫 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正14年生・19歳

◆叶 之人 二飛曹(北海道)
甲飛12期・昭和2年生・17歳

◆信太 廣蔵 二飛曹(秋田)
甲飛12期・大正14年生・19歳

◆川島 茂 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正15年生・18歳

◆竹中 友男 二飛曹(兵庫)
乙飛16期・昭和2年生・17歳

◆長 与走 二飛曹(福岡)
丙飛11期・大正12年生・21歳

◆小山 良知 二飛曹(長野)
乙飛18期・昭和3年生・16歳

◆北爪 円三 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正11年生・22歳

◆和田 時次 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正13年生・20歳

◆岡田 金三 二飛曹(広島)
丙飛15期・大正10年生・23歳

◆水畑 辰雄 二飛曹(兵庫)
丙飛15期・大正13年生・20歳

◆川崎 直 飛長(宮崎)
特乙1期・大正14年生・19歳

 

 

2013年6月13日 (木)

桜花カタパルト ロケット特攻機という悲しい歴史

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千葉県南房総市(旧三芳村)にロケット特攻機「桜花」の
カタパルト跡があります。
 
「カタパルト」というのは打ち上げ発射台のことです。
ロケット特攻機「桜花」はその名の通り、パイロットが搭乗し、
打ち上げられた機体は、
燃料尽きるまで飛び、敵艦に突っ込み、
二度と帰ってきません。
 
画面奥に向けて発射される造りで、完成間際で終戦を迎えた為
実際に使われることはありませんでしたが、本気でこのような
計画があったことがうかがい知れます。
 
発射台から射出された桜花は、ジェット推進により、200kmの
航続距離があり、
房総半島沖の敵機動部隊に肉弾となって
突入、自爆します。

 

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▲桜花の模型を合成し再現してみました。
戦時中は画面奥の木は伐採され、
開けていたのでしょう。
見据える先は太平洋です。
  

当時を記憶する地元の神職の女性(77)にお話を聞くことができました。
終戦間際(8月)突然、大勢の人たちがやってきて工事が始まりました。
カタパルトの直下に神社があり、立ち退きを命じられたということです。
「神様に立ち退きを命じるなんて、もうこの戦争はダメだね」
と当時を回想されていました。

 

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▲カタパルト直下にある神社は立ち退き、現在は小さな祠(ほこら)として
地元の方が綺麗に守っています。
 
カタパルト建設と並行して進められたのが壕を用いた格納庫の建設で、
掘削、発破作業とか
危険な仕事は朝鮮労働者が従事しました。
無理な工事がたたり事故も多く、現場からむしろがかかったご遺体が
運び出されるのを
何度か見てしまったとも仰っていました。
 
土地や財産は全て軍に接収され、土地の境界線に関しては
戦後の混乱もあり
現在でも所有権が有耶無耶のままだそうです。
畑の真ん中に作られたカタパルトもそのままです。

 

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▲コンクリートの土台のみ残っています。
ここにレールが敷設される予定でした。

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▲少し離れた山中にレールも残っています。

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▲横から撮影しました。画面中央、緑の土手の上にカタパルトが
敷設されています。

 

Photo

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▲桜花一一型の模型です。ゼロ戦と同じスケールです。

靖国神社の遊就館の売店で購入できます。


「桜花」四三型とは
このカタパルトで運用される予定だった
「桜花」四三型、乙について記す。
同機は桜花の初期型である一一型(一式陸攻に吊り下げて
敵艦隊の近くまで接近し、発進させるタイプ。実際に使用)
の改良型で、重量は1.15トン。一一型のおよそ二倍。しかし爆薬は
三分の二しか積めず、800キロだった。主翼の面積を
広げてグライダー的要素を強くした。
 
機体は名古屋市の愛知航空機および九州、大分の第十二航空技術廠で
生産され、エンジンは「橘花」と同じ20型ターボジェットを採用した。
 
カタパルトは巡洋艦用「呉式二号」の5倍の長さがあって
ここ南房総のほか、比叡山にも設ける予定があった。
なお、横須賀の武山では発射テストに成功している。
 
第725海軍航空隊は、昭和20年7月に開隊された
桜花部隊である。搭乗員を浦戸、三保空の甲飛14期生で
編成し、5機を1グループとして長野県の野辺山農場にて
まずグライダー訓練を行い、その後、練習機で操縦技術を
養ったが、実戦に至る前に終戦を迎えた。
 
※桜花四三型の出典
『別冊「丸」 太平洋戦争証言シリーズ15 終戦への道程』446頁

 「桜花」パイロット生き残りの証言

当時、桜花のパイロットで、出撃直前に終戦を迎えたため

生き残った鈴木英男さんのお話しはこちらに掲載しました。

2013年4月 5日 (金)

「君を忘れない」三沢航空科学館の零戦

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青森県の三沢航空科学館に展示の零戦(レプリカ)です。
映画『君を忘れない』の撮影に使われたものです。
 
映画をご覧になった方も多いと思います。
キャッチコピーは
『ヒコーキに乗れて、女の子にモテる。そんな青春のはずでした』
特攻隊に選ばれた若者の出撃までの様子を描いた作品で、零戦パイロットの役は
唐沢寿明、木村拓哉、反町隆史、松村邦洋、袴田吉彦、池内万作などが出演。
今では一流の俳優ですが、まだ世に出る前であり、ファンにとっては実に貴重な作品です。
 
キムタクは長髪だし、松村は太っているという、時代背景をきちんと
描こうとすれば、まず有り得ない設定です。キムタクは劇中で
海軍に入ってヒコーキに乗る動機が「髪を伸ばせて女にモテるから」と堂々
のたまうし、明るくコミカルで戦争映画としては実にくだけています。
 
若者に戦争映画を気軽に受け入れてもらいたくて作ったんでしょうけど、
それらを加味しても、くだけすぎている印象が払拭できません。
それでもこの映画で特攻隊に関心を持ってもらえるなら、何も知らないよりマシかなぁ・・・と
考えてしまいます。この映画に関心を持った若者は、これにとどまらず
さらに掘り進めて欲しいと願っています。
 
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Imgp0495■長髪はOKだったのか?
実際のところ、本当に海軍では長髪は許されて
いたのでしょうか?単純なアンサーならば
YESです。
海軍には陸軍のように頭を丸刈りにしろなどと
いう規則はありません。ただし、士官以上(少尉
以上)に限られていました。これは多少ローカル
ルールがあったようで士官と言っても、大尉以上
でないとダメだとか言われた部隊もあったようです。
 
特攻第一号で有名な関行男大尉は長髪で有名ですね。
 
 
しかし、現在の基準とは違うことを忘れてはなりません。当時は、軽く耳に髪がかかる
くらいで長髪と呼ばれました。だからキムタクはいくらなんでも極端です。
 
 
ところで、長髪といえば山本五十六の有名な逸話があります。
あるとき、山本五十六が新聞記者の質問に答えていたときの発言です。
「わしは面倒で五分刈りにしているが、パーマネントだっていいじゃないか。
坊主にしたってだらしないやつはだらしないよ。要するに坊主だろうとパーマネントだろうと
どちらでもいいじゃいか。とくに搭乗員は髪があったほうが怪我もしないからね」
メモを取っていた記者は驚きました。当時の風潮としてはあり得ない発言だったのでしょう
そして山本は堂々「記事に書くならどうぞご自由に」と言ってのけたのです。
 
 
■松村みたいなおデブくんでもゼロ戦に乗れたのか?
これにはふたつのアンサーが存在します。まず時代背景から。この場合の
アンサーは「有り得ない」となります。当時の食糧事情は悪化の一途を辿っていました。
確かにパイロットは優先的に食糧を分けてもらえまたし、飢えることは無かったでしょう。
それにしても、松村は太り過ぎです。戦闘機パイロットともなれば例外なく体力の優れた者です。
仮にあの体型だったとしても、日々の訓練を重ねるうちに絶対痩せるはずです。
そして、物理的な問題。そもそもゼロ戦に乗れるのか?
乗れます。乗ることはできますが、コクピットで身動きはとれないでしょう。
特攻機の零戦は爆装といって250キロの爆弾を吊り下げることが可能でしたし
外部燃料タンクを吊り下げる場合もありました。松村の体重が150キロだったとしても
離陸は理屈上可能です。
 
 
■飛行機乗りの志望動機が女の子にモテるため
飛行機に乗ると言う憧れは誰もがあったでしょう。憧れの飛行機に乗るためなら
その為なら、なんでもやる!といった方がほとんどです。だからこの動機は矛盾します。
第一にお国の為に死ぬ覚悟でしょう。
でも、ひとつだけ言わせてください。当時の彼らの日記などから
休暇の様子などをうかがい知ることが出来るのですが、休暇ともなれば
違いますよね。久しぶりに歩くシャバで女の子に心奪われる様子などが書いてあります。
そこだけは、今も昔もかわらないんです。普通の若者でした。 
 
 
映画は映画で楽しんでくださいね
 
三沢航空科学館には他にも魅力的な飛行機が数多く展示してあります。
機会あればぜひお立ち寄りください。

2012年8月31日 (金)

敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」

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◆敷島隊の五機を整備
 
昭和十九年 十月十八日 フィリピン、ルソン島クラーク飛行場
暁闇の中、中野はたったひとり、五機並んだ零式戦闘機の暖機運転に
取り掛かっていた。彼は零戦のプロペラに手をかけるとゆっくりと回してゆく。
十数回も回せば次第に滑らかになりエナーシャ(スターター)を鳴らして
操縦席に飛び乗ると 右足にエナー車の引き手を繋いだまま、さらに回し
続けながら操縦桿を引いた。
 
「コンタクト!」
 
始動の合図を呼称しスイッチを入れるとエンジンが轟きプロペラが回転した。
これを微速にして油圧の安定を確認すると、隣の飛行機に移る。
次は谷一飛曹の機体である。
 
谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹はサイパンで初めて顔を合わせて以来、
寝起きを共にした搭乗員だ。下級の整備兵だった中野にも親しく接してくれる
優しい人だった。彼の操縦する零戦の後席に乗せてもらった思い出もある。
ここフィリピン戦線でも愛機の整備は中野が担っていた。
 
中野が初めて空襲を経験したのはサイパンに派遣された折でその頃は
恐怖のあまり蛸壺の中で念仏を唱えていたが、それも数を重ねると随分
大胆不敵となった。パラオのペリリュー、フィリピンと転戦し、この頃は
空襲警報が鳴ると「ああ、また敵さんが来たか」といった具合で慣れたもの。
 
「まわせー!」
  
空襲警報が発令されるとエンジンを急ぎ回し、搭乗員へ引き渡すと
蛸壺に飛び込んだ。 「操縦員から地上を見たとき、動くものが目立って特に
狙われる 空襲に遭ったら無闇に逃げてはダメだ。その場で寝てろ。じっとして
いるんだ」 谷の話を思い起こせば、常に冷静に努めることができた。
 
搭乗員達は空中待避ならびに邀撃態勢を取るが、敵の奇襲となれば
飛び上がる 順番など入り乱れて我先に離陸して、殊に経験の浅い搭乗員は
慌てて舞い 上がったところを敵機に撃たれた。一方、老練の兵は滑走路端まで
移動してから離陸しジャングルをかすめてしばらく低空で飛んだ後に
勢いを付けて敵機に襲い掛かる。 度重なる空襲でひどくやられた。
 
今ここクラークに健在なのは虎の子の零戦二十一型、五機であった。
 
「コンタクト!」
 
中野が五機目のエンジンが回すと、東の空が白み始めていた。
レイテの決戦が迫っている。
 
◆突然の帰国命令、谷との別れ

「中野は明朝内地から来る一式陸攻に乗って帰国せよ」
突然の異動命令だった。一切の口外無用、 整備兵として極めて重要な任務が
内地で待っているとだけ告げられた。
 
「明朝、内地から陸攻が迎えに来る。給油を済ませたらすぐに離陸するから
今夜中に帰国の準備をしておくように」
 
突然の別れにあわただしく荷物をまとめていると 谷を含む四人がやってきて
餞別とホマレ(煙草)を差し出した。 命令といえども、ここで戦友と共に最後まで
戦うと、潔く腹をくくったものだが、 まさか死に損ない、一人内地へ引き揚げねば
ならぬ後ろめたさといったら、 悔しさが込み上げた。 翌19日の朝、内地へ戻る
中野を皆が笑顔で見送った。
 
「谷さん、さようなら。ご武運を」
 
陸攻は飛び立った。
日を同じくして、201航空隊本部へ交互するように現れた将官こそ
大西瀧治郎海軍中将であり、この夜、後年の歴史に残る異例の航空作戦が
立案されることとなる。
 
◆三菱で試験機の開発に携わる
 
内地へ戻った中野は明治航空隊の監督官に任命され
日々、三菱から納入される航空機の試験に立ち会った。
 
「谷さんは今頃レイテで敵を撃ち落としているだろうか」
 
11月末にはペリリュー島守備隊が玉砕し、翌3月末には硫黄島が陥落した。
硫黄島を占領した米軍は瞬く間に飛行場を整備し、B-29が護衛のP-51と共に
飛来し本土の無差別爆撃を繰り返すようになった。 日本の戦局は悪化の一途を
辿っていたが それでも中野は三菱から次々納入される機体の試験立ち会う
とともに 新型機の開発に携わっていた。
作業に追われ開戦から四度目の夏が訪れた。
 
◆秋水の整備と飛行試験に立ち会う
 
昭和二十年七月七日
海軍横須賀航空隊追浜飛行場
 
初夏の青い空が滑走路の果てるまで広がっていた。
中野は新型機を木製の台坐とともに格納庫から押し出し滑走路へと移動させた。
褐色の機体が初めて日の光を浴びた瞬間だった。
ロケット戦闘機「秋水」の初飛行試験である。
 
秋水は三菱が独自に開発した日本史上初のロケット戦闘機だった。
実戦配備が成されれば、離陸後3分半で高度1万メートルに達し
B-29に 一撃を加え、燃料の尽きたところで重滑空機となって帰投コースに入る。
 
当初、14時に予定されていた発進はエンジンがかからず再整備のため
遅れていた。 テストパイロットは海軍大尉犬塚豊彦で 滑空機「秋草」での
滑空試験を重ね、それが概ね成功したので いよいよこの日、ロケット
エンジンを搭載しての初飛行となった。 準備された飛行服は
超高高度飛行を考慮し 冬用飛行服の内側や襟に銀狐の毛皮を縫いつけた
特別なもので 犬塚はそれを身にまとったまま整備完了をじっと待っていた。
 
初夏の地上での暑さは想像を絶するものであったが、犬塚から整備の遅れを
責める言葉は一切なかった。周りの者は飛行の翌日延期を進言したが、
かれは これを断り整備完了を待ち続けた。 16時、整備が完了し、
犬塚が全面褐色の秋水戦闘機に乗り込むと 発火を防ぐための放水が
行われ、エンジン始動の準備があわただしく行われた。
 
持田勇吉設計課長が彼の誠意ある対応に感謝し 握手を求めると、
かれは少し微笑みながらその手を握った。
 
「大尉殿、少しでもおかしく感じたら、まっすぐ海へ向かって不時着水して
下さい。沖に待機している船の艇指揮は七十期と七十一期だから心配は
要りません!この機が沈んでも次が用意してありますから大丈夫です」
 
同期の絆は兄弟以上に強い。どんなに無理をしてでも救助してくれるはずだ。
 
◆中野の手から離れ飛び立つ秋水
 
エンジンが始動すると虎の尾と呼ばれる縞模様の排気炎が現れ、
陽炎となって 背景を歪めてゆく。
 
16時55分、機体は滑走を開始した。廣瀬大尉が左翼を、
中野が右翼を支えた、その手からは振動が伝わってくる。
10メートルほど 走ったところで機体は中野の手から離れて行った。
機体はしばらく滑走路を這ったが、220メートルで遂に地面を離れ
車輪が切り離されると、機体は澄み渡った青い空へ吸い込まれていった。
その急上昇の勢いたるや、天地をひっくり返して空へ落下するの勢いであった。
地上で見守っていた者達から一斉に歓声が上がった。
 
試験飛行成功かと思われた瞬間、高度350メートル程のところで
パンパンという異音を発して黒煙を排出するとともにエンジンが停止して
しまった。余力で、なおも150メートル上昇を続けた後、犬塚はエンジンの
再始動を試みたが失敗に終わった。 「少しでもおかしく感じたら、まっすぐ
不時着水して下さい」 離陸前の言葉が思い出されたが、犬塚は海へ
向かわず操縦桿を傾け滑走路への 着陸を試みた。虎の子の機体を
無傷で持ち帰ろうと考えたのである。 燃料の投棄が開始されたが、
これがなかなか進まず高度は徐々に 下がっていった。
 
犬塚は、爆発を懸念し大勢の見学者が居る滑走路への 着陸を避け、
再度旋回、隣接した埋立地への不時着を目指したが、倉庫を 飛び越そうと
機首を上げた瞬間失速し倉庫に接触、鷹取川の水面を反跳
飛行場西端で大破して止まった。
 
◆犬塚大尉の死
 
意識のあった犬塚は救助され、ただちに防空壕内の病室へ運ばれたが
頭蓋低骨折の為、その深夜に息を引き取った。 試験飛行の失敗原因は
本来満載すべき燃料を過小積載した為 急速上昇した際にタンク内の燃料が
傾きエンジンへ供給されず停止したものと 結論付けられた。
 
◆身を隠した戦後
 
秋水の開発は事故後も続けられたが、試験飛行が行われたのは
これ一度きりであった。この他に陸軍仕様のキ-200が千葉県柏飛行場で
試験飛行に備えていたが、飛び立つ機会を待たず終戦となり
残っていた試験機は進駐軍の鹵獲を恐れて直ちに解体された。
 
「中野整曹、貴様は秋水に関わったからじきに進駐軍がやってきて
逮捕される恐れがある。行方不明扱いにしておくから今すぐ逃げろ」
 
中野は先ず部下を故郷へ帰し、自らも行方を暗ませた。
それから空白の50年間を過ごすことになる。
 
◆敷島隊五人との再会
 
戦友会が中野の身元を辿って連絡してきたのは平成となってからのこと。
いま空白の50年間を少しずつではあるが取り戻しつつある。

中野、姓を改め河辺は戦友の誘いで戦地を巡る慰霊の旅をはじめた。
平成17年にフィリピンを訪ねた折である。ダニエル・H・ディソン氏の尽力で
マバラカット飛行場の脇に建てられた折「敷島隊五人の勇士」の碑の
除幕式に立ち会うこととなった。その名に見覚えがあった。
 
「関行男大尉、中野磐雄一飛曹、谷暢夫(のんぷ)一飛曹、 永峰肇飛長、
大黒繁男上飛、初めてカミカゼが飛び立った飛行場」
 
「・・・この零戦五機はわしが整備しとったやつじゃ」
 
このとき河辺は初めてその事実を知った。あの零戦が爆弾を抱えて
母艦に体当たりする運命を秘めていたとは当時、思いもしなかった。
 
10月18日に河辺が整備した機体は直後、マバラカットに派遣された。 19日夜、
大西が立案したとされる特攻作戦は、20日に関大尉を 指揮官とする
神風特別攻撃隊「敷島隊」として結成され、爆装し マバラカットを離陸した。
索敵のミスから会敵せず、またトラブルで 出撃帰還を繰り返したが、
25日に至っては敷島隊の五機、全員が母艦に 突入、散華した。
谷一飛曹はこの敷島隊三番機であった。
 
以下は谷の遺書である。

「何一つ親孝行できなかった私も最初で最後の親孝行をします。
ご両親の長命を切に祈ります」
 
谷 暢夫 享年20。
 
-------------------
ここまで話をしてくれたのは愛知県に在住の
河辺勇さん93歳。(旧姓中野)秋水離陸の際、その右翼を支え見送った
中野上整曹、その人である。今でも谷一飛曹や犬塚大尉など、
パイロットの顔が 忘れられないと言う。私は敷島隊について続けて尋ねた。
 
「戦闘機として整備したのですか」
 
「内地へ帰ってから映画館でニュースを見たんじゃが、間違いなく
あのゼロ戦はわしが整備しとった。関大尉や谷さんがレイテに出撃した
ということだけは知っとったんじゃが、まさか爆弾を抱えとることまでは・・・
それは戦後知ったんじゃ」
 
河辺氏は玄関まで見送ってくれた。一番よく目立つところに敷島隊の五人と
三菱重工により復元された秋水の写真がかけてある。
 
「こう、零戦で谷さんの後ろに座っとってな・・・わたしは空を見とった」
 
私は丁重に礼を述べてその場を辞した。 玄関を出た住宅街の路地では
子供たちが元気に駆け回っている。 見上げると関大尉や谷さん、
犬塚大尉が飛んでいたあの日と同じ どこまでも続く青い夏の空だった。
 
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2011年11月22日 (火)

桜花の胴体に日の丸は無かった

IMGP2732

桜花の胴体に日の丸は描かれていませんでした。
これはご自身が桜花のパイロットであり、訓練中に終戦を迎えた迅雷部隊の方が
証言しました。(お話し/元桜花搭乗員・鈴木英男さん)

元来、全ての航空機は敵見方を識別するため機体には
国籍シンボルが描かれています。

桜花の航続距離は、母機の一式陸攻により高度6000メートルで切り離された場合
30キロを滑空が可能で、ロケットに点火するとさらに若干の航続距離が稼げました。
(ロケットの燃焼時間は一本につき約9秒間で三本を備えていました)

ロケット特攻機という印象が強い桜花ですが、用いる火薬ロケットは補助的な役割で
どちらかというとグライダーに近いと航空機と言えます。

さらに一式陸攻は目標への接近時
レーダーに捕捉されないよう、低空を飛行するので、桜花投下時に
6000メートルの高度を確保できた例はとても少なかったのです。

よって桜花が単独で飛行できるのはほんの一瞬です。
日の丸が描かれなかったのは、航空機としての扱いを受けなかった。
桜花は一式陸攻に吊るされた大型の誘導爆弾に過ぎず、パイロットは
その誘導装置を担う、つまり部品の一部でしかなかった。非常に悲しい事ですが
そういう見方もできます。

靖国神社、遊就館のレプリカには日の丸が描かれています。
散華した桜花搭乗員への、せめてもの敬意と私は考えます。

桜花について詳しくお知りになりたい方には
『証言.桜花特攻-人間爆弾と呼ばれて』(文芸春秋)
をお読みになることをおすすめします。

(※注 ここで言う桜花は全て、唯一実戦に用いられた「一一型」を前提として記述してあります)

 

※追記、鈴木英男さんはこの記事を書いた後の平成二十三年十二月に亡くなりました。

心よりご冥福をお祈り致します。



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