2016年12月15日 (木)

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2016年11月24日 (木)

中島又雄中尉(零戦パイロット)B-29との戦い

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今回は零戦パイロットで元海軍中尉の中島又雄さんに
お話を伺いました。主にB-29との空戦の模様をお聞きして参りました。
以下、中島又雄さんへのインタビューです。
 

◆海軍兵学校~霞ヶ浦航空隊で飛行学生卒業
  
海軍兵学校のクラスメート73期というのは大まかに言うと全部で
900名なんですよ。その内、船が400名、飛行機が500名と
別れたんですよね。
戦死者は船が180名、飛行機160名かな。
あんまり変わらないんですね。
 
船は練習艦隊が昔はあったけれども
そのまま実戦配置ですよね。昭和19年3月に卒業して
戦死第一号が翌々月の5月ですよ。
 
それに比べると飛行機は、半年しか戦争してないんですよ。
私が実戦に出たのが昭和20年5月末からですけれどね。
飛行学生を卒業したのが昭和19年の3月なんです。
飛行機は全部で丸一年間。そのうち半年が赤とんぼ、あとの半年が
実用機のゼロ戦ということで、飛行機の卒業が終戦の年の3月なんです。
だから簡単に言うと船は一年半。飛行機は半年しか戦争してないんです。
 
そういうことで、私たちは赤とんぼを半年、ゼロ戦を半年やりますから一応、
操縦できるようになってます。
 
◆第332海軍航空隊着任~対超重爆戦に備える
 
第332海軍航空隊に行きましたら八木勝利中佐に
「お前たちは使い物にならん」
と言われまして
実戦には上げてもらえなかった。
 
司令から見れば練習航空隊から出たてですから。
終戦まであまり実戦に出してもらえなかったクラスメートも居ますね。
例えば厚木の航空隊には10名近く行ったんですけどね
実戦にあがってないですね。
先輩達や予科練出身者が居ますから。
私が着任した晩に司令にあいさつしたら
 
「お前たちは使い物にならんから岩国で再錬成だ」
といって岩国へ行きました。
 
2月28日に卒業して三月一日に中尉になって第332海軍航空隊に着任したと。
それですぐに岩国行ったんです。
 
岩国での再錬成は二ヶ月半ほどでした。
というのもですね、この零戦の実用機で筑波で
訓練したのはいわゆるこれなんですよ。ドッグファイト。
いまの言葉で言うとドッグファイトと言いますかね。
その訓練をやってたわけですよ。
 
零戦はそれがとても優秀な飛行機でしてね、
グラマンのF4Fと空戦をやるのだったら完全にこっちが強かったんですよ。
旋回半径が小さいんですね。渡りあうと旋回半径小さいからすぐ敵の後ろに
入れる。
そして後ろから攻撃できるからですね。
実際の訓練も筑波ではドッグファイトばっかりやっていたんですよ。
 
ところが、着任した鳴尾の第332海軍航空隊というのは
どういう航空隊かというと、局地戦闘機隊で大阪の防衛を担うものでした。
 
・・・ただし、それは表面上です。
大阪の防衛は伊丹に陸軍の三式戦闘機「飛燕」という
飛行機が300機ぐらいおりまして、上がるのはだいたい100機ぐらい。
空襲にきたときはあがって、陸軍は日本の内地を守るというような
任務でしたから。それがあがって大阪上空を守ると。
 
一方で、海軍というのはもともと海の上で戦う軍隊であるし
逆に内地で戦う場合は軍港の近くで軍港を守るというのが
局地戦闘機という表現をしますんですかね。
局地の防衛しかやれないわけですよね。
 
それじゃ鳴尾の第332海軍航空隊は何の為にあそこに
配置されていたかというと、昔は川西と言ってましたね。川西航空機。
今は新明和と
呼ばれるようになりましたが、
 
その川西航空機で紫電改という
一番新しい戦闘機を作ってまして、
その工場が鳴尾にあったんですよ。
だからその紫電改の工場を守るんだと、
おおっぴらには言わないけども、
お前たちの任務は鳴尾を守るんだという
事でしたね。

従って、鳴尾に飛来するB-29を追い払えばいいと。
爆弾を落とされないようにしろということで。だから相手がB-29ですから
ドッグファイトはできないわけですね。
全然戦法が違うわけですよ。
B29に対する攻撃戦法はいくつかありまして
主に、前上方攻撃、逆落とし直上方攻撃、後上方攻撃などです。
 
一番リスクが高いのは後方からの攻撃です。
後方から攻撃しますと、まずB-29の後部には20ミリが飛び出してます。
20ミリは一発でも当たったらひとたまりもない。それから上下の
13ミリもこちらに向くわけです。
後ろから攻撃するとB-29の機銃が一斉にこちらをむくわけです。
零戦との相対速度から割るとこちらからも当たるけれど向こうからも
当てやすいと。
  
※篠原補足
B-29の機銃は20ミリ×2(後方)13ミリ×8(正面×2、上方2、下方×2、後方×2)

 
ですからB-29に対して岩国で一番訓練したのは
逆落とし直上方です。B-29に接敵して、真上から背面飛行になって
逆落としで撃っていくと。そうするとB-29の機銃がありますけど
真上は向かず死角になるんですね。接敵するときは撃ってくるけど。
そういうわけで岩国では一生懸命この直上方訓練をやらされましたね。
 
今までは巴戦、アクロバットしかやってこなかったものですから、
戦法としては全然違うんだけど、アクロバットからみれば易しいんですよね。
直線飛行から降下に入るだけで。
 
ただ、間合いが難しい。どのタイミングで逆落としすると
ちょうど射撃距離になったときB-29の真上から撃てるか。
その訓練を一生懸命やったんですね。
その訓練を岩国で2ヶ月半くらい訓練して帰ってきました。
 
◆零戦52型丙、B-29との戦い
 
ところが、大阪にも戻ったらね、「それやるな」ちゅうことになっちゃった。
何故かと申しますと、先程申し上げたように
川西航空機を守るのが私たちの任務だから、直上方やったら
B-29は諦めて爆撃針路を崩さないわけですよね。
 
B-29のほうは、正面からゼロ戦が来ると怖いわけですよね。
前上方攻撃といって、高度差があったほうがこちらは楽ですから
上から接敵してB-29の機首を狙うわけです。するとB-29は
怖いから避けるでしょう。避けるということは爆弾の命中精度が落ちる訳です。
 
零戦52型丙の武装は20ミリ×2、13ミリ×3。
前方からの攻撃であれば
B-29の13ミリ×4で、こちらが遥かに勝り、優位感を持って戦えました。
戦闘の場面においては
敵に勝る武装を持っていれば恐怖心は起きません。
 
怖いのは待避のときです。一撃後、すれ違った後には
B-29に後ろを見せる形になります。B-29の20ミリ×2、13ミリ×4が
こちらを向くわけです。
相対速度400ノットで離れて行く計算ですが
このときだけは長い時間に感じました。
 
篠原
撃墜せず、ただ追い払えば良かったのですね。

 
ええ、そういうことです。
要するに鳴尾の川西航空機の工場がやられなきゃいいということで。
 
ですけど、結果的には川西航空機の工場は爆弾が落とされたんですよ。
それは雲上爆撃というか、レーダー爆撃で落とされましたね。
そのとき私は上がらなかったんですが、我々の隊は20機近く
上げたんですがね、500メートルくらいのところで
ものすごい厚い雲があったんですよね。だから結局雲突き破って
上にあがれずに雲の下をこうまわってて、それで爆撃されたと、
記憶がありますけれどね。
 
篠原
どういった戦法でB-29と戦ったのですか

  
B-29に接敵して、照準器の覗きながら800メートルで引き金を引いて
200メートルで引き金を離して待避。逃げるわけですね。真正面に行くと
ぶつかりますから。
 
零戦のOPL照準器というのは、ガラス版で下から映像を反射する仕組みに
なっています。
映像というのはリングですね。
 
まず地上で一生懸命、お稽古したのは、今で言うところのシミュレーターです。
当時はシミュレータとは言いませんでしたけど、その装置の仕組みは
B-29の模型をレールの上で走らせるわけです。距離感を掴むために
据え付けた照準器を覗きながら、レールの上を走るB-29に照準するわけです。
 
リングは同心円で5つぐらいありましたかね。
B-29の翼の大きさがそのリングの3番目か4番目に重なるくらいだったと思う
のですが、そのときが800メートルだからその瞬間に引き金引いて。
リングの一番外側にきたときに200メートルぐらいだから逃げんとぶつかると。
 
そういう訓練をOPL照準器でやっていたので、同じことを空中でやるわけ
ですけどね、
最初だけ照準器のリングで測定してましたが、
何回もやっていると、だいたいがカンで、このくらいが800、このくらいが
200と、
わかるようになります。
 
実戦ではもちろん、向こうから弾を撃ってくるわけですよ。
5発に一発、曳光弾と言って赤い煙を吐く弾でした。最初は白い煙に見えるけど、
近くでみると赤く見える。その曳光弾がまっすぐ飛んできて、自分に当たるような
感じがするわけですよね。でも、当たらずに目の前からヒューっと横に、避けて行く
そういう印象が残ってますね。
 
そういうことで、弾が飛んでくる。だけど、エンジンがありますからね。
エンジンが盾になって、身体には絶対当たらんという感じがしました。
防弾ガラスなんかなくても、常に安心感がありました。
 
ただ、頭をやられたらイチコロですからね。
その時はしょうがねえやという感じで、苦しまず一瞬であの世へ行ける
わけですから、恐怖心なんか全然起こらないですね。
で、B-29は多少逃げますからね。
 
「これは逃げやがる」と、追いかける一心で
怖さはあんまりなかったですなあ。

篠原
結局、実戦で逆落とし直上方攻撃は実施しなかったのですね

 
それは実戦では一度もやりませんでした。先程申し上げた通り、
「やるな」というので。何の為に二ヶ月以上も苦労したんだと思いましたけど。

篠原
巨大なB-29が回避行動を取るのはどのような様子でしたか

この程度ですよね。(B-29の限界バンク角度)
旋回して追いかけて行くとすぐに観念しますけどね。
B-29は編隊を組んでたからあんまり急激な逃げ方はしないんですよ。
 
ほぼ諦めでしょうね。日本の戦闘機が来るならしょうがないと。
B-29も最初は高度8000だったのが高度5000に下げて来てますからね。
5000ちゅうたら零戦の一番性能の良いところですけれどね。
もう、なめられたなちゅう感じでしたね。
 
篠原
3号爆弾を実戦でお使いになってますが、戦果はいかがでしたか
 
3号爆弾を私も一回だけ落としたことあるんですけど
あれは当たらなかったですなあ。上で、早く落とし過ぎたんですよね。

落としてから4秒ぐらいで爆発するようになっとるんです。
バーっと爆発したけど、B-29のちょっと前でしたね
報告では7機落とした奴おりますからね。ほとんど一個編隊。
下士官だったですけど。
それからはB-29も編隊を単縦陣になって、一列で大阪へ
来るようになりました。
 
篠原
B-29への攻撃は何回経験されたのですか
 
飛行記録を焼いちゃってますから正確な数は覚えてないんですが
5月、6月、7月の間の2ヶ月半ぐらい60日、4で割ると15。
だからB29の邀撃には。12、3回はあがってますね。
 
いっぺん上がるでしょう。上がると2時間以上飛びますからね。
B-29は200機ぐらい来てますから、9機編隊だとしたって22個編隊以上
ありますからね。それを次々に攻撃する。3日おきぐらいに上がりました
からね。だからかなり上がってますよね。いっぺん上がったときには
少なくとも10回くらい攻撃してますからね。
 
何度も攻撃して複雑な運動になると、だんだん高度が落ちるんですよ。
そうしたら今度は前下方攻撃ですね。最初は前上方から、前下方、
最後の編隊になると
地上から電話で「これが最後の編隊だ」と言って
きますからね。
  
それを京都の方へ追っかけていくと伊勢湾へ逃げて帰っていきましたね。
B-29は京都の上に行ったって爆弾を落とさないわけですよ。
余裕があるなと、正直そう思った。京都に一発も落としてませんからね。
アメリカは余裕をもった戦争しているなと、当時から思ってました。
 
篠原
B-29邀撃の合間に潮岬へ哨戒飛行されたお話を少しお伺いします
 
潮岬の哨戒は三回くらいは行ってますかなあ。
B-29が来ない日は哨戒に上がっておりました。
 
哨戒は、のんびりでね。航空糧食といって居眠り防止のチョコレートとか
抹茶のお菓子をもらいから、それを食べながら。本当に飛んでいると
眠くなるくらいです。
何もなくて帰ってくると。
 
それで一回だけB-24にお会いしましたけどね。
あれはもう完全に水平直線飛行で逃げているB-24を
攻撃を繰り返すわけですけれど。
 
篠原
零戦でも急降下引き上げ時にブラックアウトが起こるそうですが
  
はい、急降下をやって。ギューっと操縦桿を引いて引き上げるわけですね。
目が真っ暗になります。その時はバっと緩めるんです。
空戦の時もそうですよね。空戦でスピードが出てる時に
 
操縦桿をグっと引くと、ブラックアウトという感覚が出てきますよね。
そう感じたらすぐ緩めんといけません。失神したら終わりですからね。
緩めると、スっと明るくなりますな。
 
でも300ノット近くにならないとブラックアウトに
ならないんじゃないですかなあ。主に急降下のときですね。
垂直旋回でのブラックアウトはまずないですね。250ノットくらいなら大丈夫
です。300ノットで急降下、引き起こして、暗くなって、
こりゃいかんと思って緩めると収まる、そういった感じです。
 
篠原
零戦52型丙は防備も強化されていた飛行機だったそうですが
卑怯だと感じて防弾装備を取り外してしまったとか
 
ええ、零戦の52丙というような言い方もしてましたけどね
防弾ガラスを取り付けられたんです。四角い5センチくらいの厚みの
ガラスを。風防の前と後ろにひとつずつ。同じぐらいの大きさだったと思います。
要するに前や真後ろから弾が来て、頭がやられないようにと。
頭やられたら終わりですからね。そういうわけで途中で取り着けようとしたん
ですけど、多少は見栄もあったのかもしれません。
 
「こんな防御装置なんか要らん!命なんか惜しくない!外せ!」
整備員に言って外させました。本当はあったら命が助かるかも
しれんのですが、
そんな卑怯な防弾ガラスと思ってましたから。
 
事実ね、防弾ガラス越しだと前が見えにくいんですよ。防弾ガラスが
5センチも間に入ると光りが屈折するわけでしょう。
真正面がよく見えない
という感じがするからね。
あんなバカなもの、見えにくいからはずせといって。
 
見えにくいというよりも、防弾なんか要らん!ということですよ。
邪魔だっちゅって。はっはっは(笑)
 
それに防弾ガラスのぶん重量が増すから飛行機の性能にすぐ影響するわけ
ですからね。
そりゃいま考えられないけれど、当時はそういう精神状態でした
からね。
我々は。教育環境というか小さいころからの気持ちの積み重なり
じゃないですかね。卑怯なことはしちゃいかんと。
 
いま考えると、おかしいですし軍の組織として考えればいけないことですよね。
せっかく命を助けてくれる、パイロットが消耗しないために考えて着けてくれた
んだと言われても・・・当時はそんなことお構いなしでしたな。
 
篠原
飛行機のトラブルはなかったですか
 
そうですね。私が乗った零戦で具合が悪くて下りたということはありませんね。
多少は油漏れとかで機体が汚れた事は
ありましたけど致命的なトラブルは
ありませんでした。
 
それにゼロ戦は軽い飛行機だったからエンジン止まってもどこにでも
不時着できるという安心感がありました。
非常に操縦し易いし、
安定しているちゅうかね。
  
篠原
零戦で高度1万メートルまで上昇されたそうですが、いかがでしたか
 
エンジンはフルで、プロペラピッチは特別調整した覚えはありませんね。
上昇角はほんの少しですよ。少しずつ。少しずつね。少しでも姿勢
傾ければ落ちますからね。
 
酸素は一定以上の高度でマスクから出てくるのですが全開にしていました。
1万メートルに到達して電話で「只今10500メートルこれから降下する」と
言ったら、それだけで息が切れて。瀬戸内海が地図と同じように箱庭のよう
に見えました。
 
篠原
士官以上とか飛行隊長は専用の飛行機があったのですか
 
専用機はありませんでした。割り当ての機番号書いてあればその機番号に
乗るだけで、
これはもう隊長機とか、そういうのはありません。
 
少なくとも私の隊ではそういう事はありませんでした。
私の隊なんかで考えると専用機は考えられないことですな。
汎用の飛行機で、古い型と新しい型はあったと思いますけれど
そういう区別はつけられていなかった気がしますね。
 
当時、飛べる飛行機の機番号書いて、搭乗割をバーっと
何も考えずに駆け込みますからね。
これはあの隊長の飛行機だとかは聞いたことはありません。
どれでもいい、みんな52型でしたけれどどれでもみんな
同じように良い飛行機だというような感じでしたな。

篠原
第332海軍航空隊の零戦の日の丸には白いフチはあったんですか。
 
なかったっと思います。淵なしでそのまま日の丸が
描いてあったと思います。
 
篠原
紫電改についての印象は如何ですか
 
一度、第343海軍航空隊の紫電改が燃料補給に降りてきたことが
ありましてね、そのパイロットが予備学生出身のパイロットだったん
ですが、いま四国で邀撃にあがって3機グラマンを落としてきたと、
指をこう三本やってね、自慢そうに話していたのが記憶に残ってます。
だから我々から見れば紫電改っちゅうのは憧れの飛行機でした。
目の前で作ってましたしね。
 
零戦が本当に良い飛行機でしたから後が続かなくてね
もうちょっと早くに紫電改を作っておればね。
 
篠原
雷電の印象は如何ですか
 
あれだけは乗りたくなかったですね。殺人機と言われましてね、
マグロに羽根をはやしたような格好で、
ずんぐりむっくりで。
エンジンは消防車みたいな音がして。
操縦席に座ったら視界も悪い。
それで一応、操縦のマニュアルを
もらったんですがね。
 
「貴様らも、いよいろ雷電に乗せるぞ!」と言われていたんですが
最後まで乗らずに零戦でした。
 
篠原
関行男大尉が霞ヶ浦で教官だったのですね
 
ちょうど関さんにフィアンセが出来た時代が私どもが霞ヶ浦におるときの
教官でしてね。フィアンセが面会にきよったですよ。
 
それで我々学生が「おい!あれ関さんのあれだぞ!」といって見てました。
それで結婚してすぐですからね。敷島隊の特攻は。
 
教官は海兵70期で10何人くらいいらっしゃいましたけどね。
関さんも我々から見れば普通の人でしたよ。
亡くなった軍神に対して申し訳ないけども。
 
印象的だったのは言葉遣いでした。関さんは
「てめえたちはなんじゃい!」というような怒り方をするんですよ。
「てれんこてれんこしやがって!」とかね。よく覚えてますよ。
 
普通は「貴様たちはなんだ!」というような怒り方をするんですが
どちらかというと関さんはヤクザ言葉でしたね。
 
※篠原補足
当時、霞ヶ浦航空隊の教官は
海兵70期が主力で関行大尉、市川大尉(戦後海自)
余田大尉(戦後八戸沖で殉職・当時石井)など。

 
◆8月16日の特攻隊編成
 
篠原
昭和20年8月16日に特攻隊を編成してというお話しですけれども
海兵出身の方が先頭で
 
我々は海軍兵学校出身のプライドを持ってましたからね。
俺たちは本当のの軍人だと。予備学生出身の方は
大学行って勉強していたけれど、戦争のことは勉強していないでしょう。
それで我々が率先して行くのは当然だというような考えでね。
 
永遠のゼロなんか見ますとね、投票箱みたいの置いて
希望を書いて部屋を出るとき出せと言ったとか。
我々から見たらバカなことをやってるなと思ったけど
事実そんな事あったんかなと思ったんですが、我々の時なんかは
そんな書いている暇なんか無いんですよね。16日の夕方、総員集合と
言われて集まって、

「明朝を期して特攻隊をやるから特攻隊を編成する!飛行士、やれ!」
 
と。それからいちいち希望なんか聞いていないわけですよ(笑)
「わかりました、やりましょう」ちゅうて
 
それで士官名簿で海軍兵学校出身の者を上から順に書いて。
ただ、予備士官が途中に入っていたからそれを外すわけですね。
外したんです。我々先任がおったけれども、予備学生出身と兵学校出身は
名簿を見ればはっきりしてますからね。
 
それは私と同じ中尉でも13期の予備学生がいっぱいいましたけれど、
私達より早く中尉になってる人がおるんですよ。13期も二種類ありましてね、
大学出身の13期と
高等専門学校出身の13期がいるんですよ。
高等専門学校出身は少尉でした。
 
我々、海軍兵学校出身の中尉、それから大学出の人は中尉と
一部に大尉が居ましたね。だからあれはどうしてなのか、
大学から召集したときの時期の違いがちょっとあたったので
差が出たんだと思います。で、予備学生はずして我々をぜんぶ入れて。
足りない分を予備学生を入れた訳です。
 
だから幹部だけで間に合ったから。特攻隊の出撃名簿に
下士官はひとりもいなかったんです。
 
その命令を出した後も私は残務整理がありましたから、指揮所に
残っていましたら
予科練出身の下士官5名程が私のところへやってきて
 
「何故、士官だけ特攻へ行けて我々予科練出身者は出撃名簿に入れないのか」
と詰め寄られました。
 
私はそれは最初は嬉しかったですね。
嬉しかったっちゅう意味は、戦争終わったんだから普通はね、ああ、これで
命助かったなーと思うでしょう。
だから戦争終わってから特攻に行くなんて
考えられないことだけどもね、
 
下士官が来て、なんで士官だけ行って俺たちを行かせないんだと言ってね。
終戦後の特攻に希望してきましたからね。涙流しながら来たんですよ。
 
鳴尾には150機くらいの零戦が残ってました。8月16日にはその内の
40機くらいが飛べるようになっていたから
40機の特攻隊を編成したわけです。
 
「飛行機はいっぱいある。我々が40機で特攻に行っても、あと110機
残ってるから、
整備すれば10機でも20機でもまた次の日飛べるように
なるから
諦めんでいい。後に続いて来い」
 
そう言ってなだめたんですけどね。
それでも一人だけは最後まで、
「分隊士!分隊士の座席の後ろに積んでいってくれ」と。
そういうのがおったですね。嬉しかったですねえ。
 
篠原
中島さんご自身は中尉で士官ですからご自身は16日に特攻に行かれて
部下である下士官は助かれば嬉しいというお気持ちだったのですね
 
ええ、普通なら下士官は助かるでしょう。予備学生も私たちが勝手に
指名したわけですが
「なんだ」と不満に思われた方もいらっしゃると
思うけれども、
それはさすがに士官ですから何も文句は言っては
きませんでした。
 
文句というか、逆に行かせろと言ってきたのは、さきほどの特攻の選抜から
漏れた下士官が言ってきただけですよ。だからやっぱり、みんなの
心理状態がそういう状態だったんですね。
 
我々海軍兵学校出身者の軍人はアメリカが占領して進駐してきたら
どうせ殺されると思ってたですよ。
 
だから死に場所が与えられたからありがたいと思ってましたよ。
みんな指名されたから喜んでいるくらいですよ。正直言ってそうです。
下士官もまだ18歳ぐらいじゃないですかねえ。
やっぱり私は嬉しかったですよ。
こういう人たちまで若いのにみんなそう言ってくれるかと思って。
 
そしてあんまりに、俺は明日特攻で死ぬんかというそういう切実な
気持ちは無かったですなあ。正直言って。
普通の邀撃にあがるのとおなじぐらいの気持ちでいましたね。
特攻を命じられて不満を漏らすものは一人も居ませんでした。
 
篠原
当時は、戦死した後は靖国神社にまつってくれるから安心だと
感じていらっしゃっていたのですね
 
戦死した後の事は・・・
当時は戦死者の家族に対してはものすごく尊敬を払ってましたし
そういう人たちの遺族が苦労しているという話は全然聞きませんでした。
 
戦死者の遺族に対する手当てが具体的にはどういうものだか
知りませんでしたけど、自分が死んだらちゃんと国が家族の
面倒見てくれるはずだと思ってるから安心でした。
 
遺族年金なんかも出るでしょう。そんな言葉は当時は
知らなかったけれど、そういうのが出て安心だと思う
から、後の事は心配は全然しませんでしたね。
 
「俺はこれで死ぬかもしれない。一人息子の俺が死んだら
両親は寂しくなるが、戦没者の遺族として国が面倒を見てくれるし
神として靖国神社に祭られるのだから心配ない」
 
何の憂慮もありませんでした。
 
つづく
 
証言者プロフィール
◆中島又雄さん(元海軍中尉)
海軍兵学校73黄卒業。霞ヶ浦航空隊(第42期飛行学生)を経て
第332海軍航空隊着任。岩国で対重爆撃機邀撃の為の再錬成ののち
零戦52型、52型丙に搭乗し
対B-29本土防空戦を行う。
戦後は海上自衛隊勤務。海将。
  
  
模型製作
神雷工房様
※画像の零戦はイメージであり、中島又雄中尉搭乗の零戦とは関係ありません

2016年10月 4日 (火)

彗星と航空戦艦日向

彗星と航空戦艦日向

今日の特撮は彗星と航空戦艦日向です。
 
航空戦艦「伊勢」「日向」の二隻は後方の主砲を
撤去し、空いたスペースを航空甲板に改造することで
航空機の搭載を可能としました。
 
ここから「彗星」をカタパルト射出するのですが、彗星は着水ができないので
機体を放棄してパイロットのみ脱出して収容するか、陸上基地へ着陸させる
計画でした。実際には実行されず、飛行甲板へ改造したところで

終戦を迎えました。
 
飛行機と艦船を別々に撮影し、合成しました。
日向は1/700ウォーターラインシリーズでN氏の作品、
そして彗星は1/48のファインモールド製で神雷工房様の作品です。
 
2枚の写真を合成する場合、光りの向きを揃えると自然な写真になります。
一番手っ取り早いのは同じ場所、同じ時間に、同じ角度で撮影することです。

2016年7月13日 (水)

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

神雷工房様の作品、1/48「彗星」ファインモールド製です。
機番号311-212は空母大鳳の彗星艦爆隊で
平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの
機体です。
ll-212と表記する説もありますが、写真が残っていないので
どちらだったか解明されていません。この彗星の敢闘を目撃した
藤本さん(インタビューした内容の一部)の話をまとめます。

  
◆魚雷に対し自爆した彗星
時は昭和19年6月19日、
マリアナ沖海戦、一航戦は、零戦、彗星、天山による
編隊を組み、米機動部隊へ向け進撃を開始つつあった。
そのとき、米潜水艦より発射された魚雷が二本、大鳳に向かう。
 
「私の600メートルくらい前、彗星艦爆が一機、横切ったんですよ。
彗星が編隊を離れて、250kg爆弾を抱いたまま魚雷に向けて
ザバーンと、雷跡に突っ込んで行きました」
 
瑞鶴零戦隊の藤本速雄氏の証言によれば、この彗星は大鳳から発艦した

彗星艦爆隊長、平原政雄大尉の二番機だったという。
 
資料によれば、この平原大尉の二番機は、
小松幸男飛曹長(甲7)と国次萬吉上飛曹(乙11)の機体だった。
 
彗星は大鳳を守るため、魚雷へ自爆を敢行したと云われるが、実のところ、
雷跡の存在(あるいは敵潜水艦の位置)を大鳳へ知らせる為に
咄嗟に取った行動で、急降下によってスピードがつきすぎた為、
そのまま海面へ衝突してしまったのではないか?
とも藤本氏は推測している。小松上飛曹、国次上飛曹ペアは
戦死したので現在となっては謎である。

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

2016年7月 1日 (金)

零戦画像集その1

ゼロ戦画像まとめです。
 
記事で使用しました零戦の画像・写真・イラストの一覧を作りました。
優美な姿を多くの方にご覧になって
ゼロ戦を好きになって頂ければと
思います。
 
私自身が作成した他、ライセンスを得る等、お借りしている画像もありますので
利用希望の方は必ずお問い合わせください。
 
逐次追加していきます。

52型と21型

零戦21型岩本徹三機

零戦52型

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零戦21型レプリカ(テキサン)

二式水戦

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零戦型式一覧零戦21型と52型の違い

零戦21型「赤城」進藤三郎大尉機

零戦64型(54型丙)

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零戦52型

零戦52型

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零戦52型

零戦52型(261空)

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零戦中島三菱塗装の違い

▲南溟の桜(当サイト)

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四式戦「疾風」

艦上爆撃機「彗星」一二型

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百式司令部偵察機三型

雷電(青木機)

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紫電改(菅野直機)

飛燕(244戦隊)

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2016年3月 9日 (水)

「彗星」ファイスタオルを製作しました

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彗星フェイスタオルを製作しました。試験販売中です。
液冷型と空冷型の2パターンをラインナップしました。
マイクロファイバー製のタオルです。 
一枚2,290円です。
 
液冷型
http://www.amazon.co.jp/dp/B01CY2XZZI

空冷型
http://www.amazon.co.jp/dp/B01CY3672K

 
また小ロッドから製作可能ですので
製作希望の機種や絵柄がありましたらリクエストください。
10枚から納品可能です。
こちらに私の描いたイラスト一覧があります。

 
収益は当サイトの運営、取材費となりますので
ぜひよろしくお願い致します。

2015年9月26日 (土)

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

九九式艦上爆撃機 江草隆繁少佐機01

九九式艦上爆撃機江草隆繁少佐機02

Copyright Raimundo79 / Shutterstock.com

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

機体は艦爆の神様と呼ばれた江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機である。
江草隆繁少佐の九九艦爆は海軍の指揮官機の中でも
もっとも派手で知られる。イラストは真珠湾攻撃で蒼龍艦上の機体を
再現した。
 
帝国海軍で江草隆繁少佐と双璧を成すといえば
雷撃の神様と名高い、村田重治少佐である。
 
海軍搭乗員はいずれも頭の切れる人物ばかりなので
優劣を付けることは出来ないが、今回は江草少佐に登場頂くことで
帝国海軍の一端が垣間見えよう。
 
その江草少佐の戦いに、ぜひとも触れておかねば
ならない。江草少佐の戦いは『艦爆隊長江草隆繁/上原光晴』にもっともよく
記されている。これから紹介するエピソードは、ほんの一部分でしかないから、
何かの縁で、この派手なペイントの九九艦爆に興味を持ったなら
ぜひ、江草少佐の生き様を、本で読んで知ってほしいと願う。
 
◆江草隆繁少佐
 
明治42年9月4日生まれ。
真珠湾攻撃時31歳。
広島県芦品郡有磨村出身。海兵58期。
海軍艦爆操縦員。「艦爆の神様」
身長は166センチ前後と伝わっている。
当時としては平均より高く、がっしりとした印象だった。
 
江草を回想するとき、誰もが「冷静沈着」と評する。
先にも記した通り、海軍軍人なら冷静で頭のきれる者は
数多存在するがその中でも江草ほど頭脳明晰かつ冷静な
人物は居ない。そして武人であった。
 
◆小瀬本国雄一の回想
 
小瀬本は江草の部下として真珠湾攻撃に参加。
その後、マリアナ沖海戦では「彗星」に乗り換え
最後は第751海軍航空隊で「流星」に搭乗。艦爆一代で
生き抜いたが、昭和20年8月15日午前、木更津基地より特攻出撃した
人物である。
 
以下は昭和16年10月、富岡基地で訓練に励んでいた
小瀬本国雄一等飛行兵の回想である。
 
『艦爆一代/小瀬本国雄一』
『艦爆隊長江草隆繁/上原光晴』
『サムライたちの真珠湾/早瀬利之』
 
より引用しながら、ほんの一部分を書く。
小瀬本はもとより「加賀」乗り組みであった。
居心地の良い加賀から突然の蒼龍転属命令を受け
やや消沈しているところであった。荷物をまとめていたところ
爆音がするので滑走路に目を向けると
一機の九九艦爆が着陸するところだった。
 
◆「おかしな模様の飛行機ダナァ」
 
尾翼に「蒼龍」のマークが入っている。
胴体後部には濃緑の地に黄色のペンキで虎縞の模様が
一面に塗られている。変な飛行機だった。
 
九九艦爆から降りてきた士官は用をすませると
小瀬本のそばへやってきて「小瀬本か」と声をかけた。
思いのほか優しい声に小瀬本はちょっとびっくりした。
これが江草と小瀬本の出会いであった。
 
「荷物は飛行機に積んで一緒に行こう」
 
隊長がわざわざ迎えに飛んできてくださったのかと
思うと小瀬本の不満はいつの間にか消えていた。
小瀬本が同年兵一人一人と肩を叩き合って別れを
告げている間、江草は黙って待っていた。
 
「加賀」の艦爆隊員全員が見送りの位置に着いた。
江草は黙って見送りの人々に一番近い離陸線に
九九艦爆をつけた。無言の思い遣りに小瀬元は胸を熱くした。
 
九九艦爆は総員が帽を振る中、快晴の空へと舞いあがった。
江草は機内で家族のことや「加賀」での訓練状況を話し合った。
こうして小瀬元は「蒼龍」へ転任し江草の艦爆隊に編入された。
 
◆真珠湾攻撃
 
真珠湾攻撃で江草は
第二次攻撃隊の急降下爆撃隊総指揮官であった。
江草の率いる第二次攻撃隊急降下爆撃隊の九九艦爆は
総数78機。それぞれの母艦から発進し
「蒼龍」「飛龍」「加賀」「赤城」の順で編隊を組んだ。
濃緑色の地に虎の縞模様の入った指揮官機は
すっかりおなじみになっていた。
 
指揮官機のスピードは速すぎても遅すぎてもいけない。
編隊を混乱させてしまうからだ。
78機を引っ張る江草機は遠くからも視認が容易であった。
GPSの無い時代、編隊からはぐれることは死に直結する。
 
江草は操縦席の風防をいっぱいに開け
仁王立ちになり四方八方に目を配らせている。
これは江草の習慣で
風防に付着したゴミを艦船と見誤る恐れがあるためと言っていた。
  

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

▲真珠湾へ出撃する蒼龍艦上の江草隊 
 
第二次攻撃隊急降下爆撃隊第一中隊二十小隊は
次の通り
 
一番機(虎縞の九九式艦爆)
江草隆繁少佐/操縦
石井樹飛曹長/偵察
 
二番機
山崎武男二飛曹/操縦
遠藤正/偵察
 
三番機
川崎悟三飛曹/操縦
高橋亮一一飛曹/偵察
 
江草小隊の三機を先頭に九九艦爆78機が
大編隊で真珠湾へ向かう。
第二次攻撃隊は第一次攻撃隊の発艦後間もなく出撃。
 
午前3時23分、
飛行中の各機機上において「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)を
傍受した。
無線には華々しい戦果が続々と入ってくる。
第二次攻撃隊各機は「今度は俺たちの番だ」と指信号で成功を誓い合った。
 
午前4時10分、第二次攻撃隊はオアフ島北端のカフク岬に姿を現した。
江草指揮の急降下爆撃隊は
オアフ島を右に見てカネオ飛行場へ近付いて行く。
 
江草隊がオアフ島上空へ到達したとき、高度は4000メートル
真っ黒い雲がたちこめていた。よく見ると雲では無く
敵の高角砲による猛烈な弾幕であった。湾内は見えない。
 
ようやく湾内の様子を視認すると
停泊中の戦艦何隻かは既に撃沈され、炎を上げ
重油を流し、真っ黒な煙があがっている。その間にも
爆風で翼が震え、対空砲火は以前熾烈を極める。
まだ江草指揮官機から「トツレ」(突撃体制とれ)が
下令されない。
 
・・・・まだか、まだなのか
すると江草機は大胆にも4000メートルという
リスキーな高さから大編隊のまま弾幕を突っ切って
湾上空を大きく旋回し、悠々と一巡した。江草指揮官機の行動は
第一次の戦果確認と第二次攻撃の目標の見極めであった
じつに冷静沈着であった。
 
江草機が小さくバンクを振る。ついに「トツレ」の下令である。
江草艦爆隊は瞬く間に編隊を解散し、一本棒の突撃陣形を形成した。
各機の感覚は最初は200メートル間隔だったのが50メートルまで
グングン縮めてプロペラの先端と尾翼が触れそうなほどである。
 
間もなく「ト連送」(突撃せよ)が発進され
江草を先頭に、急降下爆撃を開始する。
真っ赤なアイスキャンディーのような対空砲火の中を
果敢にダイブして行く九九艦爆。爆弾を投下すると、ダイブブレーキ
(急降下制動版)を展開する。
身体には13Gがかかり、引き起こしにかかる。
真っ赤な炎が上がった。命中。
 
後続の機体も次々とダイブし戦艦に爆弾を叩きつける。
米軍側の反撃体制が整い最も接近戦を行ったゆえ
江草隊は真珠湾攻撃に参加した隊の中で最も損害が大きかった。

最も損害が多かった江草艦爆隊
 
第一次攻撃の損害9機
(雷撃機5、急降下爆撃機1、戦闘機3)に対し
第二次攻撃は20機が未帰還。
 
この内、江草の急降下爆撃隊(九九艦爆)は
14機が未帰還となっている(戦闘機は6機)
九九艦爆は二人乗りなので28名が戦死ということになる。
 
川崎悟三飛曹と高橋亮一三飛曹ペアの
九九艦爆も炎に包まれ自爆した。
 
江草機も被弾していた。後部座席の石井樹偵察員が叫んだ
 
「被弾しました!燃料が漏れています!」
 
これは帰艦の見込みが失われたので自爆しましょうという石井の
訴えであった。
ところが江草は大声で
「飛ぶんだ!」と後席の石井に伝えた。
 
蒼龍へ帰還すると派手な虎縞模様の指揮官機は
予想通り敵の格好の目標となり穴だらけだった。燃料はカラだった。
 
真珠湾攻撃の一部を紹介したが
江草はこの後もジャワ沖、印度洋等で活躍し多くの連合軍艦船を撃沈した。
ミッドウェイで母艦を失った後、第521海軍航空隊へ転属となる。
 
昭和19年6月15日
第521海軍航空隊所属の江草は銀河に搭乗し、ペリリュー島を発進
マリアナ沖の機動部隊に雷撃を敢行し未帰還となった。
享年34。戦死後大佐に昇進。
 

▲黎明の蒼龍艦上。発進を待つ江草隊

 

2015年6月19日 (金)

彗星艦上爆撃機の型式一覧

彗星/艦上爆撃機/型式一覧

 
◆艦上爆撃機「彗星」

彗星は愛知航空機が開発し帝国海軍で運用された
艦上爆撃機。九九式
艦上爆撃機の後継機として開発が進められ昭和17年に
正式採用された。
大幅に向上した速度と機体剛性により、完全格納式の爆弾倉に
収められた
500キロ爆弾を急降下爆撃により敵艦船へ叩きつけ戦果を上げた。

 
ダイムラーベンツ社製でメッサーシュミットBf109にも装備された
水冷エンジン、DB-601のライセンス
生産型である日本海軍名「アツタ」
エンジンを採用したが、日本海軍は水冷式に不慣れであったため
稼働率の低下を招いたという説がある。
 
◆DB-601エンジンと陸海軍の確執
機体は日本機離れしたシャープな印象があるが、
同じエンジンを用いたのは
「彗星」のほかに陸軍の三式戦「飛燕」、海軍の「晴嵐」と三機種のみで
あり、
極僅か。さらに陸海軍の確執により、「飛燕」と「彗星」のエンジンは互換性
がなく
同じエンジンであるが互いに融通し合うことができなかった。そのため
純国産三菱製の金星エンジンに
換装され、終戦まで運用された。四三型は
ロケット推進機なども備えた。

 
彗星はその機動性と敵戦闘機との空戦にも耐えうる機体性能だったことから
敵陣に突入し挺身偵察を行う強行偵察機としても運用された二式艦偵ほか、
戊型は斜め機銃を
備え、夜間戦闘機として本土防空戦におけるB-29撃墜
にも活躍した。


◆航空戦艦「伊勢」搭載カタパルト射出型  

二二型は航空戦艦「伊勢」に搭載されカタパルト射出された。
この運用方法では艦隊への帰艦は100%不可能であり、建前上は
陸上基地への着陸を前提としたものであったが、空戦では未帰還機が必ず
出るため航空母艦への着艦が求められた。
 
型式一覧 
 
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◆彗星一一型(二式艦上偵察機)/D4Y1-C

全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m 主翼面積23.6㎡ 自重2,565kg
全備重量3,650kg 過荷重量4,361kg 翼面荷重155kg/㎡
エンジン/アツタ21型 離昇1,200馬力 燃料1,083L 増槽330L2個
最高速度/546km/h at 4,750m 巡航速度/426km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分28秒 航続距離(増槽装備)/3,339km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃
 
敵陣強行偵察機
九九式艦上爆撃機の後継機として十三試艦上爆撃機が正式採用された際、通常艦爆と
艦爆としての機動力を活かし戦闘機の追従からも脱出が可能な強行偵察機モデルの
二派が製造された。一一型は爆弾倉を撤去し、敵陣偵察用のカメラを備えた
モデルで彗星一一型、或いは二式艦偵と称する。唯一の尾輪引き込み式。121空
(雉部隊)では二式艦偵と呼ばず、単に「彗星」と呼称していたようである。
  
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◆彗星一二型/D4Y2・彗星一二戊型/D4Y2-S
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
 
艦上爆撃機「彗星」
旧来の九九艦爆から大きく進化し、爆弾倉(ウエポンベイ)の扉を開閉式として
500キロ爆弾を搭載が可能となった。機体剛性と三枚のダイブブレーキを活かした
急降下爆撃により、敵艦に500キロ爆弾を叩きつける。本格的に運用されたのは
主にマリアナ沖海戦であるが、敵機動部隊とは四倍以上の兵力差があり、敢闘するも
母艦に帰還できたの機体は僅かであった。一二戊型は後席に斜め銃を取り付け
夜間戦闘機として本土防空戦に活躍した。
 
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◆彗星二二型/D4Y2改(航空戦艦「伊勢」搭載機)
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
カタパルト射出機
 
彗星一一型・一二型をベースにカタパルト射出を可能に改造したモデル。
航空戦艦「伊勢」のカタパルトから射出発艦した。艦隊への帰艦は不可能で
カタパルト射出出撃後は友軍地上基地への着陸が建前上前提とされた。
実際には多くが未帰還となったほか、未帰還機の増加で搭載機に空きが出た
航空母艦への着艦が求められた。 
 
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◆彗星三三型/D4Y3・彗星三三戊型/D4Y3-S
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,501kg
全備重量3,751kg 過荷重量4,657kg 翼面荷重159kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」離昇1,560馬力 燃料1,040L 増槽310L2個
最高速度/574km/h at 6,050m 巡航速度/370km/h at 3000m
上昇力/6000m/9分18秒 航続距離(第一過荷)/2,911km
武装 7.7mm機銃×2 7.9mm旋回銃 500kg爆弾×1 または翼下250kg爆弾×2
 
不慣れなアツタ液冷エンジンの運用により稼働率低下が相次ぎ、空冷の三菱製金星に
換装したモデル。機体の構造変更も施したが、エンジンを取り替えたといえば解り
易い。幻の最終型零戦六四型/五四型丙と同型の金星エンジンという説がある。
戊型は一二型と同じく、斜め銃を取り付けた夜間戦闘機型。
宇垣纏中将、中津留大尉が8月15日に特攻隊として大分飛行場から
出撃したモデルとして有名。
 
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◆彗星四三型/D4Y4
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量4,542kg 過荷重量4,733kg 翼面荷重193kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」 離昇1,560馬力 燃料1,345L
最高速度/552km/h at 2,600m 巡航速度/333km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分22秒 航続距離(突撃第一)1,654km 
(突撃第二)1,550km(空輸第二)2,593km 武装 800kg爆弾×1
 
三三型の機体腹下を大きく切り抜いて、800キロ爆弾を吊り下げ可能に
改造したモデル。戦局を凌ぐ為、急造されたのと、航空母艦が壊滅したため、
艦上での運用はされず、着艦フックは撤去された、名目上は艦上爆撃機であるが
陸爆、或いは事実上の特攻機でもあった。重くなった機体を増速させる為
ロケット推進機を6本取り付けた。ロケット装備機は実戦投入前に終戦となる。
 
------------------------------
  
彗星という飛行機について思う事
パラオ・ペリリュー等に残骸として残る、或いは墜落した彗星の機体を
実際に何機か見てきたから思い入れが強い。アルミ合金の機体外板は
そのままに、
計器や艤装部品も実に洗練された作りになっている。
彗星は
間違いなく傑作機であるのだが、本格的に運用された昭和19年
前半は日米の兵力差が最も顕著になってきた頃であり、
海軍はそれでも
まだ成功法で連合軍と戦っていた。確かに彗星は傑作機であるが
5倍も10倍も敵との差があれば生還は望めない。それでも敵艦を
強襲し
撃沈していたのである。その功を、散って行った多くの搭乗員を
忘れてはならないと感じる。
 
彗星は新鋭急降下爆撃機としての威力を十分に発揮することなく
大戦末期には特攻に多く用いられた。
平成26年の夏に中津留達雄大尉のお嬢さんが
宇垣中将特攻の件でテレビに出演していたので驚いた。
8月15日に戦死したことを悔やんでいるのは勿論だと思ったが、それでも
「父を誇りに思います」とコメントしていたのが印象的だった。
 
宇垣の取った行いを私兵特攻だと批判する者も多いが、人物評価は
別として、
武人であったことは確かだ。宇垣は『戦藻録』で
「皆死ね、皆死ね、俺も死ぬ」と書き残している。
終戦後、ここまで復興した日本を当時、誰が想像しただろう。
現在の物差しで特攻を、当時の出来事を良いとか悪いとか
後出しジャンケンのように批判することなど本来ならできないはずだと思う。
  
彗星画像

彗星と航空戦艦日向

彗星/艦上爆撃機

▼平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの彗星

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

  
彗星ファイスタオル試験販売中

Photo

 
◆関連記事
 
パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉
航空機に見る日本陸海軍の確執
朝日村に不時着した彗星
宇垣纏中将8月15日特攻出撃の跡地へ

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◆◆◆

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2015年3月 5日 (木)

パラオ戦跡と戦史概要

2015年1月31日 (土)

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零戦21型と52型の違い

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに三菱重工、
中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

 
零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコンはこちらのリンクから

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に搭乗する。
従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。ただし、指揮官
(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)が入り専用機が与えられる。
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと証言されるが
これは、特に改造を施したということではなくて、指揮官クラスがべらぼうに
コンディションの良い機体を占有していた、という意味合いではなかろうか。
 
一方、整備員は担当する機体が決まっており、
それぞれの担当機を責任を持って整備した。零戦の尾翼等に
〇〇一整曹などと整備担当長の名が記されれいるのはこのため。
 
その他項目一覧

なぜゼロ戦と呼ぶのか 零戦は無敵だったのか
零戦のパイロットになるには 零戦操縦方法
零戦の撃墜王(エース)は誰か
零戦の色(カラーリング)について 機体はいつから緑?
零戦21型と52型の違い
  

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

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十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

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零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

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零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

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二式水上戦闘機(二式水戦)

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二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

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K

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零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

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ゼロ戦(零戦)32型/三二型

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零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

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零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

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ゼロ戦(零戦)52型/五二型

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零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

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零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

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零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

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零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

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零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

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零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

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ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

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なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

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搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

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ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

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▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

06_2

高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

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ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

08_3

零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

Photo_50

▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

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宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

09_4

エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

Photo_2

▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

Photo_18

作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

Photo_19

航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
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零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

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零戦Tシャツ

 

零戦Tシャツ(ネイビー)

零戦Tシャツ(グリーン)

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amazon販売ページへ
 

ネイビー ブラック ブルー アイビーグリーン(機体色)


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模型製作代行は「神雷工房」へ

2014年10月 4日 (土)

「矢矧」航海士が見たマリアナ、レイテの回想

巡洋艦「矢矧」航海士、池田武邦さんのお話しをまとめたので書きます。
 
池田武邦さん(元海軍中尉) 海兵73期。巡洋艦「矢矧」航海士。
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、 天一号作戦(大和特攻)に参加。
 
マリアナ沖海戦の地獄・翔鶴の最期
遺族には「壮烈な戦死を遂げました」といって知らされるけれど、
現実は そのような体の良いものでは決してない。
兵士が死にゆく様は実に惨たらしく、目を背けたくなるような光景であった。
 
わが矢矧でも 甲板は血で真っ赤に染まり、彼らは医務室へ運ばれる
余裕など 無く放置されている。片腕を失った水兵(兵卒)が
自ら止血処置を施し「大丈夫であります!」と気丈に振舞っていた。
 
翔鶴の最期
マリアナ沖海戦では空母「翔鶴」の最期を目の当たりにした。
翔鶴を見ると既に絶望の中にあった。波がかぶる都度、甲板の血は洗われるが
すぐにまた真っ赤に染まる。手足が四散し息絶えた水兵が高角砲に
引っかかっている。 血なまぐささと、煙硝の混ざった匂いは口では言い表せない
ほどひどいものであったという。
 
艦の傾斜が次第に急になり、残った水兵もつかまっていられなくなると
甲板から、次々すべり落ちる。そこには引っ掻いたような血痕が残った。
避けるも何も運であるが、そのまま海へ転落すれば まだ幸運であった。
成す術もなく、エレベーターの開口部にバラバラと 落下してゆく水兵。
その内部には炎が燃え盛っていた。地獄であった。
 
接舷して救助したかったが、翔鶴の沈没に巻き込まれるので
何もできずにやや離れた位置からただ見ているほか無かった。
 
やがて艦は転覆し、大きな渦を巻き起こし沈んでいった。
翔鶴の最期であった。
 
こうした経緯でマリアナ沖海戦では虎の子である
正規空母 「翔鶴」「飛鷹」そして、新鋭の「大鳳」までもが 失われ、
海軍は大敗北を喫した。 なお、マリアナ沖海戦は、日本海軍史上、
最後のZ旗掲揚の戦いだったと 伝わる。Z旗とは国家存亡
(皇国の興廃この一戦にあり)をかけた戦いで のみ掲げられる旗で
過去には、日本海海戦、真珠湾攻撃で掲揚された経緯がある。
そしてこのマリアナ沖海戦で3回目となったが、決戦に敗れ最後の機会となった。
 
レイテ海戦
池田氏の戦いは続く。 この後、レイテ海戦、坊の岬沖海戦(大和特攻)にも
参加している。 足が震えていた地獄のような戦場も、一度経験すると
良くも悪くも、すっかり慣れてしまうという。 最後の大和特攻においては
「平常心そのものだった」と語る。
 
「新造艦は弱い」
レイテ、坊の岬沖海戦いずれも敵弾飛び交う中、池田氏は
淡々と自らの任務に集中し航路の計算を行った。
氏が何度も強調していたのは 「新造艦は弱い」ということだった。
どんなに新鋭技術が盛り込まれた艦船でも 練度が低く、敵の標的に
なった場合は脆いという。 空母「大鳳」はその最たる例で、新鋭艦にも
かかわらず 戦線参加と同時に撃沈された。大鳳沈没には様々な要因が
重なり 一概に言えるものではないが、この「初陣による脆弱性」は
決して無視できないものだ。
 
修羅場を潜った者の強さ
これと同時に強調されていたのは
「ただし、その修羅場さえ生き残ればものすごく強くなる」 という話だった。
一度実戦を経験し生き残った艦でこそ 真価を発揮するのだという。
氏の二度目以降の戦いがそれを証明している。
 
栗田艦隊を率いる 
あの堂々の栗田艦隊を引っ張ったのは実は矢矧であった。
池田氏は矢矧航海士として、狭い水道を一列陣で 突破してみせた。
後続の艦に航路指示のサーチライトで信号を送る。 それがまた後続の艦に
伝わり、そのまた後ろに、といった具合で 戦艦武蔵、大和も然り経由し、
信号灯が最後まで伝わると 今度は最後尾の艦から矢矧に問題なく
伝令されたことを 伝える信号が返ってきた。
 
戦場での平常心と死への麻痺
レイテ沖海戦では死の恐怖はなく、 ただ、自らの職責を果たすという思い
しかない。 冒頭で記した惨たらしいと感じていた修羅場もだんだんと慣れて
「平気になってくる」のだという。 レイテ沖海戦の戦闘中握り飯すら作れなくなると、
カンパンが配られるのだが 修羅場ゆえべったりと血の付着したカンパンが
多かったので、 運よくあまりついていないものを選んで食べたという。
 
甲板では腸がはみ出して苦しんでいる戦友がいたので
氏はそれを見かねてその長い腸を素手で体の中に戻してやったという。
「もう助からないと思ったが、戻してやった。なぜそんなことを したのか
よく自分でもわからない。とにかくどんな惨い光景でも 平気になっていた。」
と回想する。
 
戦友の水葬・沈まない棺
それでも同期の死は言葉にできないものであった。
海戦を生き残った後、戦死者の亡骸を新南群島(現在の南沙諸島)で水葬した。
同期の中尉がレイテで戦死し、即日大尉となり 水葬をとりおこなうため
「これより水葬の行う」と、その旨旗艦に 信号を送り艦隊を一旦離脱した。
新南群島は比較的穏やかで敵襲の恐れも低い海域であった。
士官の水葬はそれなりの棺に入れられた。棺はそのままでは沈まないので
石など可能な限りの重りを入れ、5、6人の力でようやく かつぐことが出来た。
 
しかし、それでも棺は沈まない。 棺はしばらく波間を漂い、それが別れを惜しむ
ようで見るに堪えないものであった。 兵卒の水葬は棺はなく毛布にくるむ
のみであった。
 
坊の岬沖海戦
坊の岬沖海戦では大和と自身の矢矧も沈み、
いよいよこれで 最期かと思ったが、立ち泳ぎで一晩耐えて、
運よく駆逐艦に救われた。 漂流時、丸太が浮いていたが、
つかまっていた者は格好の標的とされ 米軍機の機銃掃射を受けて死んだ。
 
特攻作戦を部下に下令する
生きながらえた氏はその後、大竹にある潜水学校で教官を務める。
「もう潜水艦も残っていないというのに」 と呟いた。
そこで回天特攻隊の編成を下令するに至る。
 
部下には
「第二熱望」、「熱望」、「可」、「否」 いずれかを選び、紙に書いて
提出するように指示したが 「否」と記した者が三人いて上官に
ひどく殴られていたという。 池田氏は彼らがその後どうなったか、
ずっと気になっていた。が知る由もなく現在に至るという。
 
日本は戦争に負けたが
これからを担う世代へ向けて、池田氏の見解として
日本は戦争に負けた。だが、その負けっぷりは歴史上比類なきもので
日本と戦った連合国は「日本と戦争したらひどい目にあうぞ」という教訓を
得たのは 少なからず確かである。
 
他国軍隊に玉砕という概念は理解できない。
あの栗田艦隊が一年半で全滅したのである。
損耗率100%で降参する軍隊は世界どこを探しても 日本だけだ。
勝ったとしても、甚大な損害が予想される 日本との戦争は絶対に避けたい。
それが目に見えない形で 国際社会から評価されているのではないか。
「歴史をきちんと見ないと明日はつくれない。これからの世代には
歴史に学ぶことを切に願う」と締め括った。
 
戦後
凄惨な戦争を経験し、一度は死んだ身 どんな逆境であろうと、
殺されることはない、と思えば 気持ちが楽になり、なんてことはなかった。
氏は終戦後、復員業務に従事した後、東京帝国大学(現・東京大学)で
建築を学んだ。そして昭和42年に日本設計事務所(現・日本設計)を設立。
新宿三井ビル、京王プラザホテルなどを設計し、超高層ビル建築の草分け的
存在となった。その後も日本を代表する建築物の設計総括などをつとめ、
ハウステンボスを手掛けたことでも知られている。
 
また、池田氏は海上自衛隊の観艦式に招待された折
その堂々たる海原そびえる護衛艦隊が あの日見た
栗田艦隊そっくりであったと記憶を蘇らせたという。 
 

 

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マリアナ沖海戦航空母艦一覧

翔鶴

瑞鶴

大鳳

隼鷹


Photo_6

飛鷹

龍鳳

Photo_9

千歳

千代田

Photo_12

瑞鳳

Photo_15


Photo_14

マリアナ沖海戦参加の第一機動艦隊、空母9隻の戦闘機隊一覧です。
このほかに基地航空隊として第61航空戦隊が主力として敢闘しました。
 
第一機動艦隊 第三艦隊・甲部隊/第601海軍航空隊
正規空母「翔鶴」(沈没)
正規空母「瑞鶴」(小破)
正規空母「大鳳」(沈没)
 
同・乙部隊/第652海軍航空隊
正規空母「隼鷹」(中波)
正規空母「飛鷹」(沈没)
軽空母「龍鳳」(小破)
  
第二艦隊 第三航空戦隊/第653海軍航空隊
軽空母「瑞鳳」
軽空母「千代田」(小破)
軽空母「千歳」 
 
第61航空戦隊参照
第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲強行偵察隊。テニアン、ペリリュー基幹
第261海軍航空隊(虎)ゼロ戦戦闘機隊。サイパン主基地
第263海軍航空隊(豹)ゼロ戦戦闘機隊。グアム(大宮島)主基地
第265海軍航空隊(雷)ゼロ戦戦闘機隊。パラオ・アイライ主基地
第321海軍航空隊、月光戦闘機隊、テニアン主基地
第343海軍航空隊(隼)ゼロ戦戦闘機隊、パラオ、グアム主基地
第521海軍航空隊(鳩)銀河爆撃隊、ヤップ基地
第523海軍航空隊、彗星艦爆隊、ペリリュー基地
第761海軍航空隊(龍)一式陸攻、彗星による強襲部隊。ペリリュー基地
第1021海軍航空隊、輸送隊。
 


 

2014年4月15日 (火)

テニアン島戦跡(3) 第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

 
前回からの続き

テニアン島の海軍航空隊司令部跡である。

この建物、ペリリュー島に残る西カロリン航空隊司令部
ものとまったく同じ構造、間取りをしている。 
 
昭和18年~19年にかけて
第一航空艦隊の司令部となった建物である。

第一航空艦隊基幹

第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲

第261海軍航空隊(虎)零戦五二型

第263海軍航空隊(豹)零戦五二型

第265海軍航空隊(雷)零戦五二型

第321海軍航空隊 夜間戦闘機「月光」

第343海軍航空隊(初代/隼)零戦五二型

第521海軍航空隊 陸上爆撃機「銀河」

第523海軍航空隊 艦上爆撃機「彗星」

第721海軍航空隊(龍)一式陸上攻撃機

第1021海軍航空隊 輸送機

 
それにしても
第一航空艦隊というと、紛らわしい呼び名だが航空母艦は無い
 
第一航空艦隊といえば、かつては真珠湾攻撃に始まり
太平洋やインド洋でおおいに
暴れ回った空母機動部隊であったが
昭和17年6月のミッドウェイ海戦で四隻の主力空母を撃沈されて以来
一旦解体し、
再建なかばにあったのだ。強いて言うならば島を
一時的に不沈空母としての運用した
のである。
 
そのため、まずはマリアナ・パラオなどで地上基地航空隊を発足させ、
訓練の
後、完成予定の航空母艦に搭載させふたたび大海原へと繰り出す
予定であった。しかし、帝国海軍の意図は脆くも崩れ去り、ふたたびその
堂々たる空母艦隊の雄姿を見ること叶わなかった。 

第一航空艦隊司令部

 
昭和19年5月、米国機動部隊がいよいよマリアナへと
進攻を開始した。マリアナ沖海戦(あ号作戦)の始まりである。
第一航空艦隊は米機動部隊を迎え撃つ形で遊撃戦に参加したが
搭乗員の大部分は未だ訓練途中であったため、大損害を受けた。
この損害により再建の望みは遠のく結果となった。
 
昭和19年7月7日、南雲忠一第一航空艦隊司令長官はサイパン島
地獄谷付近で玉砕。サイパン島はまもなく陥落し
同島アスリート飛行場を失ったうえ、多くのパイロットが
島を脱出できずに地上戦で戦死した。
 
同年8月2日、テニアン島玉砕。
南雲中将の後任となった角田覚治中将も
地上戦で戦死。海軍屈指のテニアン島ハゴイ飛行場と
ここでも脱出に失敗した多くのパイロットを地上戦で失う。
最後まで飛行機を与えられなかった飛行兵たちはさぞ無念であったろう。
 
同年8月10日、大宮島(グアム島)陥落。
さらに航空拠点を失う。
 
こうして第一航空艦隊の再建は絶望的なものとなった。
皮肉にも最も飛行場整備に適していたテニアンは
アメリカ軍の占領後、B-29の最大拠点として整備されることとなる。 
 
残存の航空兵力はパラオ・ペリリュー島とフィリピン
各地へ転進したが、その後は特攻作戦へと進んでゆく。
  

第一航空艦隊司令部▲日本海軍ハゴイ飛行場駐機場跡。

 

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部


続く

2013年6月28日 (金)

第261海軍航空隊

2


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第261海軍航空隊(第二六一海軍航空隊)
通称『虎』
 
第261海軍航空隊、通称『虎』は昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。
昭和19年、韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、名の通り
迫り来る米機動部隊に第263海軍航空隊『豹』とともに、マリアナ防衛の
双頭を成し、鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスには中堅以上か真珠湾以来の猛者を迎え編成、
列機は17~18歳の搭乗員が占めた。 パラオ大空襲邀撃戦では
ペリリューより発進、グラマンF6F戦闘機、150機以上を
僅か28機で迎え撃ち、敢闘。 大宮島上空ではB-24への体当たり撃墜を
行ったほか爆装し、艦船への攻撃をかけるなど、勇猛果敢な部隊として知られる。
 
マリアナ沖海戦(あ号作戦)でも76機以上の爆撃機、戦闘機を 撃墜したが、
米機動部隊との歴然たる戦力差の前に未帰還機は増え、7月に解体、
残った搭乗員の一部は フィリピンの201空に編入されたが、
上田司令をはじめ サイパンに残った者は地上戦を展開、最後の突撃を
敢行し玉砕した。
 
機材は零式戦闘機五二型。
 
なおPLANES OF FAME(プレーン・オブ・フェイム)航空博物館所有
(平成25年、所沢航空記念公園に里帰り展示)
零式艦上戦闘機五二型『61-120』号機は
第261海軍航空隊所属機で、サイパンで鹵獲された機体である。(下)
 
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昭和18年6月1日、鹿児島で開隊された261空は
定数72機 実働機零戦五二型45機とし
19年2月、第一航空艦隊マリアナ進出とともに
アスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)に進出。
 
格闘戦、急降下、機銃掃射、三号空中爆発焼夷弾の
投下演習、訓練を 繰り返し、 3月から7月にかけて 同飛行場を拠点に、
ペリリュー、パラオ大空襲邀撃戦、サイパン邀撃戦 メレヨン、
大宮島(グアム)空戦、 あ号作戦(マリアナ沖海戦)で敢闘した。
 
同年7月、マリアナ沖海戦で稼働機が消耗し僅かとなった261空は解隊。
この時点で残された搭乗員の一部は陸攻機でフィリピンへ脱出し
以降、201空に編入されたが 上田猛虎司令をはじめとする多くの
搭乗員は地上に残り サイパン守備隊に編入、最後の突撃を敢行、玉砕した。
また、潜水艦に乗り込み脱出した搭乗員は撃沈され戦死した。
 
共同作戦部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
テニアン、大宮島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第261海軍航空隊編成
および搭乗員
 
司令、上田猛虎中佐(海兵52期)
飛行隊長、指宿正信大尉(海兵65期)
分隊長、伴健一大尉、岡佐古昌人中尉、東山市郎中尉
田中民穂飛曹長ほか
 
機関長、小橋実大尉
主計長、藤原治計大尉
 
医務隊 軍医長、岡本新一軍医大尉(昭和11年、昭士会)
分隊長、石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年、たて、よこ組)
分隊士、井手次郎軍医中尉(昭和18年10月、青島組)
分隊士、北川徹明歯科中尉(昭和17年、九月、元山組)
看護長、川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)
下士官兵、35名(佐世保鎮守府所属)

第261海軍航空隊所属搭乗員一覧
 
岡佐古 昌人中尉
(海兵70)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
鈴木 信男二飛曹
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへあ号作戦に参加6/19未帰還
 
二本森 憲二上飛曹
(操45)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
岩田 増雄二飛曹
(乙15)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
古賀 他四郎一飛曹
(乙11)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
長谷 登太郎飛長
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ 東山 市郎中尉■3/20サイパン飛行艇狩
■3/30ペリリューへ■サイパン地上戦玉砕
 
杠 勇男飛長
■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ
 
井竜 憲一二飛曹
(乙15)■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ3/31未帰還
 
林 重則二飛曹
(乙14)■3/20サイパン飛行艇狩■6/19未帰還
 
興津 健市飛長
■3/20サイパン飛行艇狩3/30ペリリューへ
 
伴 健一大尉(海兵69)■3/21サイパン飛行艇狩■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■5/29大宮島空中哨戒■戦斗306へ
8月10日グアムにおいて戦死
 
小関 静飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■あ号作戦参加
 
河野 茂上飛曹
(操55)■3/21サイパン飛行艇狩■201空編入
 
片岡 敏郎二飛曹
(乙15)■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/17未帰還
 
黒川 昌輝少尉
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/24あ号作戦において未帰還
 
岡村 恒三郎飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■201空へ
 
鮎川 喜七郎中尉
(海兵70)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒
■4/11メレヨン上空哨戒■4/13「松江丸」直掩■4/16、2機で、PB2Y×2機以上邀撃
空中戦で戦死
 
気谷 順次飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■あ号作戦参加
 
田中 民穂飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒■4/11メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒4/17上空哨戒■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
■戦後全日空機長
 
浅川 峯男上飛兵
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
 
木村 ?雄飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/14「松江丸」直掩■4/18メレヨン空戦
 
久保 典義飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
■昭和20年3/19松山において戦死
 
指宿 正信大尉
(海兵65)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■4/18サイパン邀撃戦
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■201空-横須賀空
■戦後航空自衛隊F86Fパイロット、昭和32年殉職
  
大塚 明一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
児島 猛二飛曹
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃未帰還
 
吉岡 康飛長■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
閏野 護二飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
貝原 良兼上飛兵
(特丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
藤川 史雄二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
土屋 喜輔上飛兵
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
永井 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■7/8戦死
 
吉田 久光上飛兵
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
平成24年、バベルダオブ島にて機体が発見される 
 
中山 正次二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
浜田 勇二飛曹
(特丙12)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
林  茂一飛曹
(操55)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
大谷 敏男二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
宮崎 保飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/17未帰還
 
渋谷 正雄少尉
(予11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
高坂 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
中尾 隆美飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
岡田 盛樹飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
紀田 四郎二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
佐藤 直人上飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
山本 隆造上飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
本武 敏治上飛兵
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
瀬津 賢三一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進
 
俵谷 法邦二飛曹
(乙15)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
内山 隆雄一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
近藤 三津男上飛兵
(特丙11)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■5/27サイパン空中転進■6/19未帰還
 
伏見 清一飛曹
(乙14)■4/8空中転進■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒■4/18メレヨン空戦4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
駒走 俊雄飛長
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■5/27サイパン空中転進
■昭和20年7月31日,戦斗701,大村において戦死
 
石川 要太郎一飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
塚部 義己上飛兵
(特丙11)■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加■5/27サイパン
空中転進■9/12比島にて戦死
 
斉藤 善次上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
堤 貞四郎上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦において
敵機体当たり撃破,不時着■6/24戦斗361、硫黄島にて戦死
 
小柳津 益次一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23大宮島邀撃戦
あ号作戦参加
 
内田 隆夫飛長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中
転進■6/19未帰還
 
佐藤 庄司飛長
(丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4月戦死
 
坂本 健次郎上飛兵■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/19未帰還
 
梶原 靖夫一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦、敵機体当たり
撃破、未帰還
 
西田 勝次上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリン
諸島において戦死
 
粒針 靖弘上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■生還。戦後航空自衛隊パイロットを経てYS-11フェリーパイロット
アフリカ大統領機機長を務める。

 
菊池 政男飛曹長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11南洋群島において戦死
 
永沼 重雄二飛曹
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
中島 三郎上飛兵■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■6/11未帰還
 
内山 忠行一飛曹甲8■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/12未帰還
 
中林 正三郎二飛曹■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中転進
 
阿部 順市飛長
(特丙)11■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリンにて未帰還
 
野村 淳飛長
■6/11未帰還
 
石橋 仁志一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
鈴木 節一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
武藤 忠雄一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
原田 保久一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
田中 仁飛長
■6/12未帰還
 
二木 正美上飛曹
■あ号作戦参加■201空編入■19年9月12日比島において戦死
 
岡村 好夫二飛曹
■あ号作戦参加 寺島 大一飛曹■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
菊池 政治飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
安藤 武吉飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
立壁 邦雄二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
坂元 盛彦一飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
中村 正三郎二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
杉本 正勝飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
金原 菊馬飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
小田 喜一飛曹長
(操18)■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
生還
 
山本 豊治一飛曹
(甲10)■6/9サイパン戦死
 
竹内 薫一飛曹
(甲10)■7/7サイパン戦死
 
魚住 勝一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
堀田 芳夫
(予11)■7/15サイパン戦死
 
岡田 忠雄一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
鈴木 千秋一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
高橋 定義一飛曹
(甲10)■5/11サイパン戦死
 
小西 間佳
(特丙11)■3/11東太平洋戦死
 
光野 正一飛曹
甲10■6/11サイパン戦死

山本 久二雄
(特丙11)19年1月19日サイパン殉職
 

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第263海軍航空隊

Photo


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第263海軍航空隊(第二六三海軍航空隊)
通称『豹(ヒョウ)』
 
第263海軍航空隊、通称『豹(ヒョウ)』は
昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。 韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、
名の通り 迫り来る米機動部隊に、第261海軍航空隊『虎』とともに
マリアナ防衛の双頭を成し 鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスに中堅以上、もしくは熟練搭乗員、
列機は17~18歳(甲種10期)の搭乗員が占めた。
 
昭和18年10月に元山で開隊された第263海軍航空隊は
定数72機をもって編成。司令官に玉井浅一中佐が選任された。
 
11月に元山での訓練を終えると、翌昭和19年2月、先発隊は香取基地を
発ち、硫黄島を経由後、21日にテニアンに到着した。
テニアンは飛行場、掩体、防備は不完全であり、
 
到着直後の2月23日、米機動部隊、戦爆連合の大編隊が来襲。
263空は当初、艦爆隊の直掩隊として進出した部隊であったが
この空襲により、急遽邀撃戦を展開。この日の空戦で輪島由雄中尉以下
11機が自爆および未帰還となり、地上の6機も破壊された。
 
そこで、飛行隊長の重松康弘大尉以下生存者は輸送機で内地へ
代替機の受領に飛んだ。 2月末から3月中旬頃、補充後は艦戦49機となり
ふたたびマリアナ、大宮島(グアム)第一飛行場へ進出した。
 
3月30日、パラオ大空襲の応援要請を受け、261空とともにペリリュー
駆けつけたがこの日は会敵せず、一旦ペリリューに着陸する。
翌31日、朝からふたたび米機動部隊の来襲を受け、邀撃発進。
 
261空とともにグラマンF6F戦闘機150機以上を相手に敢闘したが
18機出撃中、15機が未帰還となった。地上の3機も大破炎上し、
生存者は輸送機でサイパンへ転進した。
 
5月25日、ビアク作戦参加のため、残存主力28機を玉井司令が率いて
ペリリュー、ついでワシレへ進出。
 
5月15日、大宮島へ30機が復帰、この間残留隊は11日のグアム上空戦で
4機が未帰還。15日から18日、サイパン沖の艦船攻撃では20機が未帰還となった。
 
5月19日、あ号作戦で戦力のほとんどを失う。
 
7月8日、重松大尉以下、残存6機がペリリューへ空中転進の途中
グラマンに奇襲され、重松大尉を含む5機が未帰還。 たった1機のみ
ペリリューに到着した。この1機は杉田庄一で、のちに松山の二代目
343空で戦うこととなる。
 
グアムに残留した部隊はその後も少数で攻撃を繰り返したがついに稼働機は
ゼロとなり解隊、搭乗員は陸攻で脱出。ペリリューの残留8機はダバオへ転進
201空へ編入された。
 
263空時代から生き残った中瀬清久一飛曹も特攻第一号『若桜隊』として
敵艦に体当たり、散華した。
 
共同作戦部隊
 
第261海軍航空隊(虎)
サイパン島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
編成および搭乗員
 
司令、玉井浅一中佐(海兵52期)
飛行隊長、重松康弘大尉(海兵66期)
分隊長、武藤陳彦大尉、輪島由雄中尉、吉川芳博中尉ほか
 
第263海軍航空隊戦没者
 
■2/23テニアン邀撃11機未帰還
吉川 芳博(中尉) 海兵70期
輪島 由雄(中尉) 操練18期
大久保 富正(一飛曹)甲種7期
岡田 良三(一飛曹) 甲種7期
川崎 熊男(二飛曹) 乙種15期
門脇 克悦(上飛兵) 丙種12期
品田 安蔵(上飛兵) 丙種12期
 
■3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
武藤 陳彦(大尉) 海兵70期
島田 義人(予備少尉) 予備学生11期
西本 彰吉(上飛曹) 乙種10期
栗田 勝司(上飛曹) 甲種6期
菊池 武一(飛曹長) 甲種1期
長瀬 正郎(飛曹長) 甲種1期
芳野 定俊(一飛曹)
田渕 武夫(一飛曹) 甲種8期
植田 正治(二飛曹) 乙種15期
矢鍋 幸男(上飛兵)
小野 敏春(上飛兵) 特丙11期
横池 武治(上飛兵) 丙種12期
下瀬  卓(上飛丙) 丙種12期
神田 秀雄(上飛兵) 丙種12期
進藤 勝治(上飛兵) 丙種12期
 

野口 健太 乙種15期,12/23,南洋群島
坂口 貢 丙種12期,1/19佐多沖
青木 晃(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
高木 哲郎(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
飯沼 一郎 甲種8期,4/24,サイパン
安藤 清秋(一飛曹) 甲種10期,4/26,大宮島
本田 健一郎(大尉) 海兵69期,5/7,大宮島
梶川 勝造(予備少尉) 予備学生11期,5/7大宮島
田中 三一郎(飛曹長) 操練43期,5/7大宮島
楠森 可(一飛曹) 甲種10期,6/6大宮島
石田 明正(一飛曹) 甲種10期,6/8,小笠原諸島父島
次郎丸 隆(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
福島 統(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮久 昭義(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮尾 芳雄 丙種12期,6/18,南洋群島
蕪木 幾二(上飛曹) 丙種4期,6/18,マリアナ沖
青木 腋雄(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
金木 雄一(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
永谷 尚(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
真家 和夫(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
重松 康弘(大尉) 海兵66期,7/8,ヤップ
富田 隆治(一飛曹) 甲種10期,7/21,ヤップ
井上 聖一郎(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
秋山 日出一(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
青山 一朗(一飛曹) 甲種10期,9/12,セブ
丸山 茂樹(一飛曹) 甲種10期,10/15,クラーク※201航空隊へ編入
城所 竜男(一飛曹) 甲種10期,10/17,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
中瀬 清久(一飛曹) 甲種10期,10/25,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
 

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2013年6月17日 (月)

海軍航空隊一覧

Photo_3
パラオのペリリュー、ガドブス、アイライ各飛行場から出撃した航空隊史および
ペリリュー島で玉砕した海軍部隊を記載
■偵察隊

第121海軍航空隊(雉)

■水上飛行機隊

第30根拠地隊附飛行隊

 
■戦闘機隊
第201海軍航空隊

第265海軍航空隊(雷/狼)
第321海軍航空隊
 
■艦爆・艦攻隊
第513海軍航空隊
第521海軍航空隊(千歳空)
第523海軍航空隊(美幌空)
 
■陸攻隊
第732海軍航空隊
第751海軍航空隊
第752海軍航空隊
第761海軍航空隊(龍)
 
■飛行艇(派遣隊 第11、12偵察隊)
第851海軍航空隊
 
海軍陸戦隊
特設第33、35、38機関砲隊
第3通信隊(一部)
西カロリン航空隊ペリリュー本隊
第3隧道隊
第21魚雷調整班
第30建設部(一部)
第30工作部(一部)
第45警備隊ペリリュー派遣隊
第214設営隊
南西方面海軍空技廠(一部)
 
順次更新

2012年9月25日 (火)

パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉

パラオの彗星

パラオには手付かずの戦跡がまだ多く残っています。 
あの戦争が終わって56年、誰の目にも触れず
ジャングルの中で眠り続けていた日本の飛行機がありました。
 
発見の経緯はコウモリハンター(パラオではコウモリを料理にします) が
コウモリを追っている最中の出来事でした。
後の調査により機体の搭乗員が判明し、2000年3月12日の読売新聞に
『密林に眠る彗星墜落の旧海軍機56年ぶりパラオで発見』 と題した記事が
大きなカラー写真と共に紙面を飾った経緯があり テレビでも報道され
大きな話題となりました。

彗星の銘板

 
製造されて、70年になるというのにアルミニウムは
朽ちることなく残っています。機体は海軍の「彗星」でした。
正確には「彗星/二式艦上偵察機」彗星艦爆のプロトタイプで
爆弾の代わりにカメラを備え付けた偵察機仕様の機体です。
 
この銘板と尾翼にマーキングされた数字が手掛かりとなりました。
第121海軍航空隊、通称「雉」部隊。機体はその「雉13号機」
搭乗員は永元俊幸大尉(山口県出身/23歳)と判明しました。
あれから10年、現地へ足を運ぶことが困難なこともあり、充分な
調査がされないまま 現在に至ります。私は後の為にも緯度経度だけ
でも記録しておく必要があると思い立ち 現地調査の段取りを整えました。
 
パラオ人の漁師に頼み、漁船を一日チャーター。発見者で位置を知る、
唯一の人物であるコウモリハンターを探し出し同行してもらいました。
 
墜落地点のウルクタープル島はコロールからは40分~1時間ほど
かかります。 島には砂浜が無く、切り立った岩場のみで、上陸が極めて
困難です。 それでも満潮時を狙い、せり出した木の幹に足をかけて
海に落ちそうになりながらも 無事、這い上がりました。

03

 
さらにそこから山頂付近を目指して登ります。 直線距離にすると僅か
200メートルほど(標高60m程度)ですが 急斜面を真っ直ぐ進む事は
できませんので、道を探りながらジグザグに登ります。 僅かな距離でしたが
40分~1時間ほどかかってようやく到着します。 現場もやはり急斜面で
足場が悪くバランスを保って立っているのがやっとの状態でした。
 

04

 
到着しました。
山頂近くに眠る永元大尉乗機「彗星/二式艦上偵察機」です。
  

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機体は墜落の衝撃で、大破四散し、唯一、尾翼の形を認める程度ですが
炎上しなかった為に、個々の部品の保存状態は良好で、そこから
当時の様子を知ることができます。現場からは大尉の軍刀も発見されました。
搭乗員の多くはコンパスが狂うという理由で軍刀を機内に持ち込むことを
嫌うのですが なぜこの日に限って携えていたのか、不可解な点が残ります。
 

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私がこの現場で見つけて一番印象に残っているものは
風防ガラス(アクリル)でした。 多くは曇っていましたが、綺麗なものも残っており
付着していた土を擦って落とし 、透かしてみると、向こう側が鮮明に見えました。
約70年前に製造されたものです。同じようにこのガラス越しに、永元大尉は
どんな空を見ていたのかと思いを馳せました。
 

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10

 
第61戦隊121空ペリリュー派遣隊の永元大尉は、上陸戦が始まる前の
6月18日、ガドブス島に残っていた最後のゼロ戦隊を率いて
グアム上空へ誘導、ゼロ戦隊は全機未帰還。
彗星搭乗の永元大尉ひとり生き残り、グアム上空の強行偵察をした後、
帰還の途につきました。
 
ところが機体はペリリューの飛行場へ降りる直前で燃料が
尽きてここへ墜落したと 推測されています。飛行機から見ればペリリューは
目と鼻の先です。 もう少しだけ燃料が残っていたら、高度をとっていたら、
帰還できたかもしれない あるいは新型機の「彩雲」があてがわれていたなら・・・
様々な仮定が過りますが
 
私は飛行機を見る度、倉田洋二先生(アンガウル玉砕戦の生存者)のお話で
印象に残っているものがあり それを思い出します。
 
「僕らは一銭五厘で集められて、ジャングルの中で餓死する。助けも来ない。
だけど飛行機が不時着するとどんなに遠くでも搭乗員を助けに行く。
飛行機乗りはいいなぁ・・・なんてみんな言ってたけど、それは死ぬまで
使われるってことじゃないか」
 
ここで命を繋いだとしても次はなかったのではないでしょうか。
 

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10年前の慰霊と収容作業で大尉のご遺骨はこのコクピット付近から
脊椎骨2個のみを回収したのみでした。 まだ残っているかもしれませんが、
現場の調査は極めて困難です。
 
私はGPS機器で位置を計測し、一通り写真を撮りました。
そういえば、帰るときの方が大変だったのを、すっかり忘れていました。
こういった不安定な場所では、必ず、手と足4本ある内の3本を固定して
残りの一本のみを動かして移動するよう心がけます。
 
今度は崖の上からボートに降りなければなりません。
なんとか海に落っこちずに済みました。
 

17

  
遠くのほうを観光客を乗せたスピードボートが走っていきます。
やがてうねりがやってきて 停まっているこちらのボートを揺らします。
ボートの上でリゾートを楽しむ観光客 その様子から戦争は遠い日の
ものとなってしまったのだろうか、と思いました。
 
この彗星(二式艦偵)は流線型をしたとても綺麗な飛行機で
復元された同型の機体が靖国神社の遊就館に保存されており、
見学することができます。
 

18


※戦記でも名高い121航空隊、通称「雉」強行偵察部隊です。
彩雲でメジェロ強行偵察し、敵戦闘機に襲われるも それを振り切り
「我に追いつくグラマン無し」と打電したことで有名な部隊です。
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2011年8月18日 (木)

帝国海軍ペリリュー航空基地跡

ペリリュー飛行場1

▲現在も一本だけ残る滑走路跡
 
帝国海軍ペリリュー航空基地・滑走路跡

昭和14年(1939年)に完成したペリリュー飛行場は
当時東洋一とも称された日本海軍の航空基地で
太平洋の最重要拠点として絶大な存在を誇った。
 

ペリリュー飛行場2

▲ペリリュー航空基地(米軍占領後に再整備された状態)画面上部がガドブス島
 

零戦、彗星、銀河、月光、彩雲、帝国海軍航空隊の全盛期
飛行場は長さ1200メートル、幅80メートルの滑走路をニ本有しており
昭和18年~19年初めの全盛期にはおよそ200機の航空機が配備され
ゼロ戦、戦闘機隊を筆頭に、月光、彗星、彩雲、一式陸攻、銀河、など
いずれも新鋭機を揃えていた。また、ペリリューのすぐ北に位置するガドブス島
には
1000メートルの滑走路が一本あり、こちらは零戦など小型の航空機の
離着陸に用いられた。
 
この飛行場を飛び立った航空隊一覧
 
米軍のペリリュー攻略は
この飛行場奪取が最大の狙いであり
その後行われるであろうフィリピン攻略の重要な足がかりとするのが
当初の思惑であった。
 

ペリリュー飛行場3

▲空爆と艦砲射撃により焦土と化すペリリュー島南部飛行場

 
昭和19年3月30日、31日両日のパラオ大空襲で日本航空部隊は
大損害を受けたが機体の補充により再建をはかった。
ところが同年6月のマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
その衰退は決定的となる。この戦いでペリリューからも
多くの戦闘機、攻撃機がマリアナ方面へ出撃。
そのほとんどは二度と帰ってこなかった。
 
その後は、海軍軍令部の方針により
フィリピン、本土決戦へ備えるため、航空機は温存され、
新たな航空機がペリリューへ補充されることなく
連合艦隊司令部も3月にフィリピンへ転進しており、
パラオは海軍から事実上放棄される運命となった。
上陸戦直前にはコロールに僅か数機の水偵を残すのみとなり
残された整備兵などの航空要員は
航空隊司令の大谷龍蔵大佐(兵51熊本)のもとで
陸戦隊を組織、のちの地上戦で玉砕した。
 

ペリリュー飛行場4 
▲米軍占領後のペリリュー飛行場

米軍占領後
米海兵隊が飛行場を制圧した際

飛行場格納庫にはおよそ130機の航空機が残されていたが
いずれも破損し飛行可能な状態ではなかった。
この中には新型の一式陸上攻撃機二四型(761龍所属か)や
最新鋭機「銀河」なども含まれていた。

米海軍設営大隊は上陸戦のわずか8日後には、滑走路を再建し
幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成させた。これは比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。その後、アンガウル飛行場とあわせて
完全に再整備されたペリリュー飛行場は、米軍当初の計画通り
フィリピン攻略の足がかりとする目標を達したが
既にフィリピン攻略は半ばに差し掛かっており、飛行場利用の重要度は低く
多くの犠牲を払ったペリリュー攻略の必要性については現在においても
議論が尽きない。
 

ペリリュー飛行場5

▲現在も滑走路脇のジャングルにひっそりと眠るゼロ戦(52型)

戦後、日米双方とも、多くの機体が残骸としてありましたが
スクラップ回収業者が、これを資源として目をつけ大部分を持ち去ってしまいました。 

 
海軍航空隊司令部跡

ペリリュー飛行場6

ペリリュー飛行場7

ペリリュー飛行場8

▲海軍航空隊司令部跡

 
海軍航空隊司令部としての役割を担った鉄筋コンクリートの建物である。
現在は木々で覆われているが、当時は広大な飛行場の北に位置し
滑走路を一望できた。地下には重厚な退避壕を備えている。
爆撃の跡が生々しい。
 

ペリリュー飛行場9

米軍占領後~ルパータス司令部へ
米軍占領後は第一海兵師団、
ルパータス少将の司令部として
海兵隊の引き上げまで利用された。なお、戦いを引き継いだ81師団の
ミューラー少将は
この建物をあくまで「前線指揮所」とし自身の司令部は
パープルビーチ近くに移転した。
 

ペリリュー飛行場10

ペリリュー飛行場11

 

なお、これと全く同じ構造、間取りの建物がテニアン島に存在する。
テニアン島へ行ってみる

 
--------
メモ

◆ペリリュー飛行場(主力飛行基地)
長さ1200メートル幅80メートル、クロスした2本の滑走路を有する

◆ガドブス滑走路(ペリリューの補助的飛行場)
1000メートル×80メートル×1

◆アイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)
1400メートル×100メートル×1

よくこの戦跡名を「西カロリン航空隊司令部」といわれるが、そのほとんどは
機能していない。

9月18日、アベンジャーが緊急着陸
9月20日、海軍設営大隊に建設機材が到着し
9月23日には幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成した。比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。
 

2011年8月 6日 (土)

海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)

Imgp3430

Imgp3428

Imgp3451_2

Imgp3465_2

Imgp3425

 

◆二式大艇の陸揚げ整備基地

アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。

水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。

九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。

スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。

近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
 
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。

2012110116321807a

Imgp7651_3

 

現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く

感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。

ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。

  

※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが

同じようなスロープがあります。

 

◆アラカベサン水上基地概要

アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる
巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。

この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
 
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
 
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。

◆アラカベサン水上基地の歴史

昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)
を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が
認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し
2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、
飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
 
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
 
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。

基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった
軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の
指揮下におかれた。
 

◆海軍乙事件の発生

昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)

3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。

同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。

 



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