2018年11月16日 (金)

地図の再編集を実施

123

23日に水戸で行われるペリリュー島戦没者慰霊祭に間に合うよう、
パラオの地図を急ぎ再編集しました。
この地図データは映画『追憶』でも使われたものです。
作成にあたって特筆すべき点は、74年前、ペリリュー島掃討作戦を
実施した米軍の観測機から撮影した航空写真がとても役にたった事です。
我が国は大変ハイテクな国と戦争したものだと、感じます。
 
パラオの詳しい地図は日本では売ってないので、そうした事柄を含め
役に立てば何よりです。

2016年12月15日 (木)

「探してます」→「知ってます」情報共有掲示板

この頁は調査をされている方の情報共有掲示板と致します。
各種調査にお使いください。検索エンジンから多くの方が訪れますので
何か手がかりがつかめるかもしれません。
 
書込みむ際のお願い
・身内の方で戦没者の調べ方についてはコチラをご覧ください。
・無記名・匿名はご遠慮ください。
・他の閲覧者に配慮が頂けない書込みは予告なく削除します。
・連絡先交換等は自由ですが、個人間のやりとりは当サイトで責任は負いかねます。

2016年11月17日 (木)

パラオ本島(バベルダオブ島)の零戦52型甲

パラオの零戦

パラオの零戦

パラオの零戦

パラオ本島(バベルダオブ島)沿岸に眠る零戦52型甲です。
地元の方には昔から知られていましたが、最近になって
公になってきたようです。 
 
写真は撮影されたM様承諾のもとお借りしています。
 
この零戦は零戦52型甲で三菱製であります。
零戦52型と比べると武装と防備が強化されたモデルとなっています。

02_10

戦域の部隊配備状況から推測すると、
第201海軍航空隊、第261海軍航空隊第263海軍航空隊
第265海軍航空隊などがあげられますが、 私は
アイライを拠点にしたパラオ局地戦闘機隊の
第343海軍航空隊(初代隼)が確立として高いのではないかと
考えています。

2016年11月10日 (木)

くろがね四起 ジャングルに眠る

くろがね四起(九五式小型乗用車)

バベルダオブ島のジャングルを探索中
伝説の名車「くろがね四起」を発見しました。
フロントグリルとガーニッシュの形が特徴的です。

 
くろがね四起(正式名称:九五式小型乗用車)は
東急くろがね工業(現在の日産工機)が開発し
昭和11年~19年まで製造された純国産の四輪駆動車(4WD)でありました。
エンジンは1.2リッターから1.4リッターで33馬力(3300回転時)でした。
(80年後の現代における最新の軽自動車が0.6リッターで64馬力です)
 
くろがね四起は昭和19年までに4000台が製造されたとの記録が
残っています。大量生産の技術が乏しかった日本です。
自動車の生産台数としては少ない数でありますが
オートバイの陸王と並んで最も有名な自動車です。
  
帝国陸軍で正式採用されたくろがね四起は
各地で活躍しました。
ここバベルダオブでも自動車部隊がありましたし
伝令や将校の移動などにおいて活躍したものと考えられます。
 

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Photo

こちらはタミヤ模型の軍用カラーなので一見地味にも見えますが
広く民間にも使われていたなら、ポルシェやフォルクスワーゲンなどと
並ぶ、とてもお洒落でかっこいい車だったに違いありません。
 
くろがね四起は、その役目を全うして、ジャングルの中、静かに眠っていました。
世界の覇者であった大日本帝国時代の名残です。

-----------------

九四式六輪自動貨車(九四式トラック)

▲そして、こちらはいすずの九四式六輪自動貨車。通称九四式トラック。
このあたりには自動車がたくさん残されています。
  

Imgp2112

Imgp2103

Imgp2102 
▲この車種だけがわかりませんでした。
フロント(ボンネット?)の溝が特徴的です。

2016年11月 1日 (火)

九五式軽戦車(バベルダオブ島)

Imgp2098

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Imgp2097

Photo 
バベルダオブ島の九五式戦車を見に行ってきました。
 
この九五式戦車は昨年、ババルダオブ島のシャングル奥地で
発見されたばかりです。全部で六両以上が確認できました。

11月24日に編成された郡司三好大尉の師団直轄戦車隊と
推定されます。
 
郡司戦車隊は、ペリリューで玉砕した天野戦車隊の補充部隊として

編成され、そのままバベルダオブ島で終戦を迎えました。 
 
武装解除の際、米軍への引き渡しを拒み
隠密裏に土に埋めたものと思われます。

砲塔は失われていますが、内部の様子は当時のまま
保存されていました。周囲にはこの戦車のほかに
軍用車両が数多く眠っておりました。
 

当時の第十四師団編成表がこちらです。

Imgp2095 

弾倉が確認できます。発掘してから雨ざらしなので
水がたまっています。

Imgp2100 
こちらも水たまりのように見えますが、同じ戦車の天蓋です。
 
パラオで撮った写真は
たくさんあるので少しずつアップしています。

2015年8月10日 (月)

パラオ戦跡ガイドブックを発売しました

 

拙著『パラオ戦跡を歩く』お陰様で本日発売となりました。
図や写真メインのビジュアル重視の本となっています。
現地MAP、ペリリュー島、アンガウル島の戦史資料
戦場写真などが付属します。
 
販売ページから少し立ち読みが出来ます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019

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http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019


2015年5月15日 (金)

『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』刊行

パラオ共和国にある日本の慰霊碑

 

倉田洋二先生の監修で『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』という
小冊子を刊行しました。私も調査に携わり、パラオの島々を巡り、
慰霊碑の現状(破損状態も含む)を徹底調査し、記録しました。
バベルダオブ島からソンソール諸島まで、116基の慰霊碑が
確認されています。「慰霊碑にお参りしたいが、どこにあるのかわからない」
という方への道しるべとしてもお使いになれますが、
歴史的な資料として後世に残すことを主旨に作成したものです。
 
希望される方には配布していますのでご連絡ください。
なお、7月により正確な慰霊碑のGPSデータを
添付したものを再版予定です。
 
 
パラオ共和国にある日本の慰霊碑

2015年3月17日 (火)

ある飛行兵の話(パラオ人の証言)

De

 
戦争中はいつもひもじい思いをしていました。 
そんなある日、私たちはガラルドの畑へ行きました。
すると、私たちの畑小屋に人の気配を感じました。
近付くと、そこに居たのは日本の飛行兵でした。
飛行兵は小屋の下で柱に家族の写真を立てかけて
それを眺めながら座り込んでいました。
 
私はバナナを持ってきて
「兵隊さん、バナナをどうぞ」と言いました。 すると兵隊さんは
「いや、いいですよ。私はもうだめだ。 私が食べればあなたたちの分がなくなる」
そう言って断りました。
 
私は家に帰ってそのことを家族に話しました。 
すると、今度は兄が小屋へ行ってもう一度 食べるよう言いました。 
それでも兵隊さんは食べなかった。
 
次の日、小屋へ行ったらもう
その兵隊さんの姿は ありませんでした。
傷ついた体で長い道を
歩いていったのでしょうか。
その後はどうなったかわかりません。
 
------------  

 
これはマルキョク出身で当時ガラルドにいたパラオ人
ニーナさんの話です。ニーナさんは日本統治時代を知る女性です。
もちろん日本語ベラベラなので、私は日本語でたくさんお話しをしました。
日本時代のことを良いこと悪いこと、たくさんお話ししてくれました。
今回はその中からひとつ紹介しました。
 
画像はインタビュー動画から切り取ったものなので
少し暗いです。すみません。私はこうして日本統治時代を知る
多くの年配パラオ人にインタビューして公開していないものが
たくさんあります。

2015年3月14日 (土)

パラオの終戦

井上貞衛中将

▲昭和20年9月3日、アイライ沖に停泊中の護衛駆逐艦アミックで調印式を終えて
艦を去る井上中将。煙草を持っている。
 
◆パラオの終戦
パラオ死守を担う第十四師団長、井上貞衛中将は、ペリリュー島
アンガウル島の玉砕に続き、自らも死ぬ覚悟でバベルダオブ決戦に
備えていたが、昭和20年8月15日、パラオ地区集団にも日本敗戦の
報せがもたらされた。
 
◆停戦交渉
それから一週間後の8月23日、米軍はアイライ沖に停泊する
護衛駆逐艦「アミック」艦上にて、停戦降伏に関する交渉・会談に応じるよう
求めてきた。そこで第一回の米軍との停戦交渉を日本側は
14師団の作戦参謀中川大佐を主席に参謀部将校付の嶋谷勇中尉
中村美彦中尉、日系2世でハワイ出身の通訳、浜野充理泰
(浜野ジュリアス)少尉、書記として反町大七准尉、以上5名を選出し
アミックに送り込んだ。大発艇の故障により会談の開始時間は大幅に遅れ
しびれをきらせた米軍ファイク海軍大佐が途中まで迎えに来るという
事態が起きた。
 
日本側の使節団一行は大発艇に白旗を掲げ、アミックへ接舷すると
武器の不携帯を確認されたのち、アミック艦上へ運ばれた。
 
停戦交渉は参謀長室で行われた。机には丁重にもラッキーストライクが
カートンごと置かれていたが、誰一人手を付けることはなかった。
そしてこの時、米軍側はいきなり降伏文書を持ち出し、サインするよう
求めてきたが、中川大佐は憤然と拒否。
「まだ陛下の御指示もないのにサインなどできるか!」
突っぱねたので、米軍はあっさりと引っ込めた。
米軍側とて予備交渉であることを承知していただろうから
単なる嫌がらせではなかろうか。
 
第一回交渉は1時間弱で終わり、会談内容を
罫線用紙20~30枚分に記していた反町准尉は
頭にきて「アメリカの馬鹿野郎」とメモの最後に
書いて中川大佐に提出した。
 
◆降伏調印式
交渉はその後も数回続けられた。そして東京湾上の戦艦ミズーリと
同様にパラオでも昭和20年9月2日、護衛駆逐艦アミック艦上にて
正式な降伏文書への調印式が行われた。参加したメンバーは
第十四師団長でパラオ地区最高司令官の井上貞衛中将、多田督知参謀長
泉莢三郎後方参謀、副官の橋本津軽少佐、そして通訳は浜野充理泰であった。
 

井上貞衛中将と多田督知参謀長

▲降伏文書に署名する井上貞衛中将と隣は多田督知参謀長。
  
◆多田参謀長の終戦処理戦略
その後、パラオ本島(バベルダオブ)では武装解除が進められた。
調印式では14師団の多田参謀長が米軍に対し 
「パラオ本島への米軍の上陸は暫く待ってもらいたい。なにしろ
ヤクザの親分国定忠治の子孫や水戸天狗党の末裔といった
血気盛んな若者が4万もいるんだから」
と脅した。水戸連隊や高崎連隊をかけたジョークなのだろうか?
 
米軍が国定忠治や水戸天狗党が何たるかを理解していたとは
言い難い。それを加味しても、実際、バベルダオブに米軍が上陸してくれば、
敗戦を認めない14師団本隊が徹底抗戦を
行ったかもしれない。

  
そのうえで多田参謀長は
「その間、我々日本軍が責任を持って統轄をする」と米軍に誓った。
そして取り決め通り、米軍がバベルダオブに進駐することなく
コロールにとどまり武装解除が進められたのだった。

01

▲バベルダオブにおける武装解除の様子

武装解除は粛々と
戦車や速射砲、九九式歩兵銃など全てを集められ
米軍の監視のもと、海洋投棄された。
 
米軍は終始バベルダオブに進駐しないことで合意したため
一見、多田参謀長の判断は、正しいようにも思えるが、食糧供給が
行われず昭和21年まで及んだ復員中、餓死者が続出したことから
必ずしもベストとは言えない。
 
◆多くの命を救った勇敢なマーティン中尉
そんな中、勇敢な米兵のエピソードを紹介する。
終戦後の日米交渉はアルミズ水道(現在のKBブリッジ)を挟んで
コロール側を米軍、バベルダオブ側を日本軍の交渉窓口として
米軍は特に用のないかぎり
バベルダオブへの進入を禁止した。
 
このとき、米軍の将校が単身、ジープを駆ってバベルダオブのアイミリーキを
訪れた。この訪問に対し、当時南洋庁で戦後処理にあたっていた山野は
「如何なる用件でしょう。約束に反しているではありませんか」と驚いて尋ねた。
 
見れば米軍将校は丸腰である。将校
は次のように述べた。
「それは承知している。自分は食糧関係を担当するマーティン中尉だ。
終戦後、バベルダオブで
大変な飢餓状態なるとの報告を受け、寸刻を争って
対策を講じねばならぬと思い、約束を破って訪問した。最高責任者と話がしたい」
 
山野はマーティン中尉の勇敢さと厚意に深く感銘を受け
「すぐに南洋庁長官と会って頂きましょう」と答えると
長官のもとへ案内することとなった。ジャングルの中に入るとマーティン中尉は
「この辺りに陸海軍の兵隊はいるか」と尋ねるので山野は
「それは私にもわからないが、貴官は我々同胞の困窮を救うべく訪問された
のである。貴官の身辺は
私が命をかけて護りたい。どうか私の後ろをピッタリ
離れず歩いてもらいたい」と述べた。
 
このマーティン中尉の功績により、多くの将兵と民が餓死から
逃れることができた。
 
◆五十九連隊復員と陛下御忍びの行幸
多田参謀長の予想は思わぬ形で表れた。
復員の為、横須賀で下船した宇都宮五十九連隊であったが、
その姿を出迎えた横須賀市民や米軍を驚かせた。今までPW(捕虜)の服を
着た復員が多い中、五十九
連隊は、戦闘帽に階級章をつけたままの軍服を
着用し背嚢を背負い、ラッパ手を先頭に堂々と行進を始めたのである。
 
武装こそ解除されているものの、その姿は消滅したはずの帝国陸軍であった。
復員局の係官はすぐに階級章を外すよう促したが、
江口連隊長は
復員手続きが終わり解隊の命が下されぬ限り我々はあくまで軍隊で
あるとの信念をもって、これを拒否した。
 
営地では平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯までラッパを吹奏し堂々と
行進し士気の高揚をはかった。
 
これに対し、お忍びで陛下が行幸されたという逸話がある。
五十九連隊は陛下の命令を受けてようやく武装解除したのであった。
そして占領軍政下の厳しい報道管制でいっさい公表されなかった。
 
連隊は営庭に整列し、陛下をお迎えした。江口連隊長が官姓名を名乗った後
「臣八郎。不肖にして歩兵第五十九連隊長の付託の重きに応えず、戦敗れ、
あまたの陛下の赤子を失いたること・・・」
と涙ながらに報告分を上奏された。
 
陛下は最後に
「ご苦労でした」と御懇切なるねぎらいのお言葉を下された。
師団に対する昭和天皇の公式なお言葉は以下の通りである。
 
「パラオ集団ハ寔ニ善ク統率力徹底シテ立派ニ戦闘シ復員モ
善ク出来テ満足ニ思ウ」
 
こうしてパラオにおける十四師団の戦争はおわったのだった。

2015年3月 5日 (木)

パラオ戦跡と戦史概要

2015年3月 3日 (火)

パラオ地図(フリー素材配布中)

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

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▲パラオ諸島

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Photo_8

▲ペリリュー島
 

W

D

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▲アンガウル島
 
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2015年2月21日 (土)

国家運営の縮図

Imgp8187

 
写真は世界一田舎といわれるパラオの首都マルキョクにある
国会議事堂。
 
当時はドイツやアメリカへ留学する友人を羨んでいた。

自分は何故こんな場末へ来てしまったんだろうと後悔した。
今はその考えは逆転した。パラオでよかったと。
私はアポなしで大統領に会いに行ったこともある。
小国だからこそ国家の運営に関してほとんど全ての分野ついて
把握することが容易だったし、それは大国の縮図でもあったので
短時間で多くの事柄を学ぶには好都合だった。
アメリカ留学には真似できまいと思った。
 

パラオの人口は現在およそ2万と考えて良いが
そのうち純粋なパラオ人(主としてカナカ族)は
7割で、残り3割をフィリピン人、バングラディシュ人が
占める。パラオ人の年間収入が3万ドルにも満たない家庭でも
フィリピン人のメイドを雇っている。フィリピン人の賃金は安い。
 

パラオの国家財政はアメリカ、日本、台湾(中華民国)から多額の
援助で成り立ち国民の殆どはその金で暮らしている。
 

中国(中華人民共和国)とは仲が悪いので国交が無い。
一昨年、カヤンゲル環礁の北で中国船の密漁船と
銃撃戦をやって双方に死者が出た。
世界でも珍しい軍隊の無い国である。
ただし有事の際の軍備は米軍が担っている。
 

外国人の扱いについて書く。外国人は原則
帰化(パラオ国籍の取得)はできない。たとえば日本人が
パラオ人と結婚しても国籍は日本のままである。
 

現地でビジネスをしようと考えても、外国人が
不動産を所有することは認められていないので
土地や建物の名義人をパラオ人にする必要がある。
だから会社が大きくなってしまったところで
丸々乗っ取られてしまったり、名義を提供するといって
多額の詐欺に遭う事例が殊に多い。一応の
法治国家と雖も、賄賂文化も根強く残っている。
 

一方、労働者はどうか。
外国人の就労ビザは2年単位で発行されるが、これも条件が厳しい。
現地で就職先が決まって、その会社でうまくいけば良いのだが
もし途中で辞めてしまうと、向こう2年は他の会社では働けないという
制限つきだ。(実質、移籍ができない)2年間も無職で過ごさなければ
ならないのは無理に近い。だから大抵は帰国してしまう。
 

ここまで読んで
「すいぶん外国人に厳しいんだなぁ~。だから発展しないんだよ」と
安易に思う人は甘い。この対応は国家として至極当然といえる。
 

人口1万人強しかいないのだから
外国人に利権を与えてしまったら、国家そのものの
乗っ取りなど容易い。乗っ取りを企む第三国が
国策として外国人を送り続けたらパラオ乗っ取りは
赤子の手をひねるようなもので数年もかからないだろう。
 

冒頭にこれは大国の縮図でもあると書いた。だから日本も同じだ。
外国人差別は良くないが、日本は日本人のものであるから
国家主権は是が非でも守らなければならない。
日本もしっかり危機感を持ってほしいと思う。

2015年2月12日 (木)

パラオ戦跡ガイドを発売します(追記)

ペリリュー戦跡ガイド01

ペリリュー戦跡ガイド02

ペリリュー戦跡ガイド03

ペリリュー戦跡ガイド04

ペリリュー戦跡ガイド05

 
パラオ戦跡ガイド刊行のお知らせ

パラオ戦跡(ペリリュー島・アンガウル島・バベルダオブ島等の戦跡を収録)
ガイド本を製作中です。今年の夏までに刊行します。
 
平成27年8月追記
発売しました!
 
いままでこのようなガイドブックはありませんでした。
(ほんの少し紹介されているものはあるのですが間違いが多く、
実用にたえうる代物ではありませんでした)
 
写真・イラスト、わかりやすい地図等を満載
イラスト、写真等のビジュアルを満載しわかりやすく、
また、島の詳細な地図を載せますので、これひとつあれば
現地の戦跡を巡れるように作り込んであります。
 
現在パラオでは戦跡が単なる見世物と化し、また戦跡ツアーのガイドも
付け焼刃な案内しかできずに、正確な情報が伝わっていないことを
由々しき事態と考えました。
 
詳しい戦闘経緯の解説
しかし、この本では、戦跡に付随する逸話を詳しく明記しています。
たとえばこの戦車がどのような戦いを繰り広げたのか、
あるいはトーチカに立て籠もって戦った若き士官の人物像など、
多くの証言や記録から得た情報をもとに、戦いの実態に迫ります。
 
パラオ玉砕戦 生還者による監修
監修役に各専門家とパラオのペリリュー島・アンガウル島玉砕戦の
元日本兵で生き残りの倉田洋二先生、またペリリュー島でも
生還者の方の協力をいただきました。
 

A4

A4f

A4d 
現在と当時の写真を掲載し戦闘の模様を想像し易くしました。
多くの時間とお金をかけて調べ尽くしたものです。

パラオの旅行ガイドブックは
『るるぶ』と『地球の歩き方』の二種類が刊行されていますが
その中でパラオ戦跡・戦争に関する扱いはほとんどなく
るるぶでは4分の1ページがペリリュー島の戦跡ツアーについて
触れてあるだけです。

この本は戦跡案内に特化したものですので、パラオ旅行、
ペリリュー島慰霊を検討中の方、
ぜひ、お求めください。発売日が決まり次第お知らせします。
画面は製作途中のものです。
 
平成27年8月追記
発売しました!

2015年1月30日 (金)

バベルダオブ島地図

パラオ本島バベルダオブ島地図

▲地図をクリックすると拡大されます

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2014年8月12日 (火)

アルモノグイの零戦(吉田機)へ

Imgp3390

 
毎回、パラオを訪れた際は

ここへお参りします。
 
以前、プロペラが一本盗難に遭い、心配していましたが
私がご遺族をお連れして、テレビ放映されたのをきっかけに、
地主の方が以来、気にかけてくださっています。

本当にありがたい気持ちでいっぱいです。
除草作業も行われています。

 
戦死された吉田久光飛長に合掌。
 
吉田機不時着、戦闘の経緯はこちら

2014年4月 4日 (金)

KBブリッジ

KBブリッジ(パラオ)1

KBブリッジ(パラオ)2

KBブリッジ(パラオ)3

KBブリッジ(パラオ)4

KBブリッジ(パラオ)5

KBブリッジ(パラオ)6

KBブリッジ(パラオ)7

 
新KBブリッジ
KBはKoror-Babeldaob Bridgeの略であるが
正式名称は「Japan-Palau Friendship Bridge
ジャパン・パラオフレンドシップブリッジ(友好の橋)という。
 
2002年竣工。旧ブリッジ崩壊後、
日本の鹿島建設により再建された。
 
パラオ国際空港(バベルダオブ島)と最大の街コロールを繋ぐ橋であると同時に
バベルダオブ島の発電所と水源をコロール島へ供給する
パラオの国家生命線である。
 
通常、深夜便で到着し、同じく深夜便で出国する観光客は必ずこの橋を
経由する。暗闇の中その勇壮な姿を見る機会は少ないが
日本とパラオ友好のシンボルであるので、旧KBブリッジの
崩壊事故と合わせてその歴史に触れておきたい。
 
旧KBブリッジ(韓国製)の崩壊
旧KBブリッジは1977年に、韓国企業SOCIOにより建設された。
建設業者選定入札において、SOCIOは鹿島建設の半額の入札価格を
提示し落札している。
  
1996年9月26日木曜日
ちょうど二日前に行われた大統領予備選挙の開票作業が
進めらていたその日はごく普通の日であった。

夕方遅く
コロールガルミッド地区(旧ニッコーホテル付近) に住む住民によると
突然、ドーンという轟きとともに 電気が止まり、最初はダイナマイトか
何かが爆発したのかと錯覚したという。
 
「KBブリッジが落ちた!」
まもなく血相を変えた友人がそう言って飛び込んできた。
KBブリッジの見える裏山に登ると、かつて橋のかかっていた辺りに見えるのは
立ちのぼるもうもうとした 灰色の粉塵のみで、あるべき橋の姿は失われていた。
不幸にも崩落中に通行していた二名が海へ投げ出され死亡した。
 
◆クニオ・ナカムラは国家非常事態宣言を発令
水道、電気、電話線など、コロールで使用される ライフラインは
全てKBブリッジを通じて供給されていたので 崩落により、すべての
生命線を分断された。 クニオ・ナカムラ大統領は国家非常事態宣言を発令。
ほどなく官民あげて不眠不休の復旧作業が始まるのである。
 
資材や重機も不充分なままであったが 事故から4日後、
まず橋の両岸に電線を建てて電気が確保された。
コロールの住民にとって切実なのは電気より水の確保であったが
アメリカ軍がすぐさま通信基地に備蓄していた非常用飲料水を提供し
日本やアメリカからの緊急援助も得て、海水淡水化装置も設置された。
またパラオ政府は消火用ホースを橋の両端に渡すことで 仮復旧を試み、
10月6日には朝夕二時間の限定ではあるものの 給水を確保した。
 
両岸の輸送体制も、民間の協力により 渡し船が就航するとともに
バージ船(ハシケ)を用いた 車両の輸送を開始した。
 
◆ヒロシマを引合いに出し国民を奮い立たせるナカムラ大統領
こうした官民一体必死の努力により 事故後10日ほどでとりあえず、
最低限の仮復旧は成った。 ナカムラ大統領は、事故の数日後
原爆の惨禍から立ち上がり今日の繁栄を築いた広島を引合いにだし
「この危機は国民をより強靭にする」と」鼓舞、
今回の危機への国民の対応が何よりの誇りであると称揚した。
 
またKBブリッジの崩壊はナカムラ大統領の再選に僅かながらも影響を与えた。
対抗馬のトリビオン候補が「一致団結してKBブリッジ崩壊の復旧に務めなければ
ならない。 こんなときに政争をしている場合ではない」として立候補を取り下げた。
これは「名誉ある撤退」とも賞賛された一方、現職ナカムラ大統領に
予備選挙で大差をつけられ、事実上決戦で勝ち目がないと悟ったことも大きい。
 
パラオ共和国独立への道筋をつけ その後も潤沢な資金を集め
パラオを活気付けるナカムラ大統領の手腕は 選挙前から広い支持を
得ていたものの、この事故と復旧により さらに求心力を高め、
次の四年間の指導力の根源となった。
 
二期目に入ったナカムラ大統領の最優先課題はKBブリッジの再建であった。
ここで資金と技術提供を求めたのが日本だった。 1997年1月に大統領は
日本を訪問しKBブリッジの再建を強く要請。 パラオのような小さな国に対しては
異例の23億円の無償資金供与が決まった。 かくして鹿島建設による
新KBブリッジ再建工事が着工、 旧ブリッジの土台を利用することも
検討されたが質が悪すぎたため 一からの作り直しとなった。
 
新KBブリッジの竣工
こうして2002年に竣工した新KBブリッジは
正式名称「Japan-Palau Friendship Bridge」と名付けられ
パラオ国民の生命線として根付いている。
 
なお、旧KBブリッジの瓦礫は現在も新ブリッジ真下に沈んでいる。
橋の下を流れるのは「アルミズ水道」である。
コロール側の橋の下は公園として整備されており、自由に立ち入ることができる。
ローカル憩いの場であり、朝や夕方は釣り人の姿が目立つ。
一画にはシャワーもあり 水も澄んでいるので、アルミズ水道側の深い箇所へ
近寄らなければ 泳ぐこともできる。
 
我が国の民といえば
山があればトンネルを掘り、谷があれば橋を架ける。
そんな土木技術を極めた日本製の橋である。
 
私がこの橋を渡るとき、運転していたパラオ人がこう言ったのである。
「頑丈な橋。日本人、ありがとうね」

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

KBブリッジ


 

 

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パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2012年10月31日 (水)

アルマテン砲台

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アルマテン海軍砲台
安式四十口径十五糎速射砲(アームストロング式40口径15cm速射砲)
呉海軍造兵廠~明治36年~15サンチ速射砲

旧朝日村西に位置するアルマデン海軍砲台は、西水道を望む
高台に設けられ
トーチカに格納された砲が当時のまま残されている。
西水道は、外洋とコロール環礁内を繋ぐ交通の要衝で
最少幅110メートル、全長8.5キロに及ぶ狭水路であった。
 

アルマテン海軍砲台は、この狭水路に進入する敵艦艇に対し照準し
迎え撃つ構えであったが、
米軍はパラオ南端のアンガウルおよび
ペリリュー島攻略で大損害を受け
パラオ本島の攻略を中止。
兵糧攻めに徹した結果、砲台が活躍する機会なく終戦を迎えた。
 

海軍はこのほか、マラカル、アイライ、コイグルの各地に砲台を
設置し敵艦艇の侵攻に備えた。
 

※トーチカ格納の一門以外は戦後此処へ運ばれたもので
原型をとどめたものが三門と、解体され砲身のみとなった
二門が茂みに残されている。

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2012年8月13日 (月)

誇り高きサムライここに眠る パラオの零戦

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パイロットの調査
ここはパラオ本島中部(現在のアルモノグイ州)
翼を横たえて眠る零式戦闘機、その経緯は長らく不明であったが
ここに記す出来事から68年を数えた今、ようやく概要が明らかとなった。
 
機体は第261海軍航空隊所属 吉田久光(上等飛行兵)と判明した。
長崎県現在の島原市出身、19歳。
 
1944年(昭和19年)3月31日のパラオ大空襲で米機動部隊の艦載機F6Fが
150機以上が来襲。 第261海軍航空隊(通称虎)指宿正信大尉指揮する戦闘
機隊の 零式戦闘機28機がペリリュー基地より邀撃。 この日の編成で、第一中
隊三小隊四番機として出撃したのが吉田上飛兵で、吉田機は空戦により未帰還
となっている。
 
不時着を目撃した住民の証言
島民の証言を照合すると、機体は被弾した後、旋回しながら降下、不時着した。
三名の島民と日本軍人、朝鮮人軍属(いずれも人数不明)が現場に急行したが
機体は間もなく、爆発炎上した。 操縦席から搭乗員を救出し、手当を試みたが、
重度の全身火傷と外傷により 間もなく息を引き取った。
 
遺体は島民の手により機体近辺に埋葬された。
島民は戦後もこの出来事を忘れず
「ヨシダの遺骨を日本へ帰してやりたい」と言っていたことから
篠原が調査に着手、平成24年8月、不時着から68年を経てようやく
概要が判明、遺族による迎えが実現した。
 
261空は原隊を鹿児島に置く、サイパン基地進出中の航空隊。
3月30日パラオ空襲を受け(パラオ近海へ展開中の米機動部隊へ攻撃の
522空彗星隊12機の護衛を261空の戦闘機隊55機が担った)パラオ上空へ
向うも 会敵せず、ペリリュー基地へ着陸。翌31日、再度の空襲によりペリリュー
からの 迎撃に至るこの空中戦により同部隊28名のうち准士官以上2名、下士
官兵18名 合計20名の搭乗員が自爆または未帰還となった。
 
戦地から姪宛てに手紙を書いている。これは一部である。

吉田久光上飛兵、戦地から姪宛ての便り
(但し、旧字を現代文字に改めた。文中の二十一歳は数え年)
 
-----------

前略 スミエ、達者で何よりだ。俺も相変わらずだ。安心してくれ。
この間、母の写真が届いた。欲を言えばお前たちのも貰いたかった。
家に帰って母の老いたる姿で淋しくなった。だけど元気だけは人に
敗けられないようだった。姉さん達が近所に居られる。
非常に心強く わしも心配していない。

敵米国の反攻も猛烈だ。今年こそ決戦の秋。 このとき、飛行兵として
初陣する。
叔父の喜びを察してくれ。 四月に帰郷した所以もわかるだろう。


花は桜木戦闘機乗りは 若い命も欲しみやらぬ
花はつぼみのニ十才で散るも 何の、国の為、君の為
と言う歌がある。
 
俺も今年二十一才(満19)になった。 欲しい命は遠くに過ぎた。
お前たちが待つのはニュースだけだ。 帰郷の際、姉さんの子供たちが
紀興やサチエに至るまで「叔父さん叔父さん」と 送ってきた姿を思い
浮かべて感無量だ。この可愛い弟や妹を 立派に育ててくれ。
 
一番俺の心細いのは、兄さんが体が弱い事だ。俺が帰ったとき
休んで居られたが、お前から体に気を付けられるように充分すすめてくれ。
兄が病気などされると内も困るけど横道も困るからね。
 
俺のことは何もかも忘れてくれ。
 
自由の効かぬお前であるけど、戦地より親助兄さんが帰るまで
老いたる母の面倒を見てやってくれ。 駅にて頼んだ通りだ。頼むぞ。
だけど母には話してくれるな。 ますます寒くなる折柄、お体を大切に。
 
敬具 スミエ様へ 叔父より
 
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昭和18年の年末、吉田上飛は一度帰郷している。
皮の飛行服に飛行帽姿で突然玄関に現れたので驚いたと
友人は回想する。 そしてこのように言い残している。
 
「敵が三機くらい、束になってかかってきても全て撃墜してみせる自信がある
先ず一番機を落とせばいいのだ」
 
大晦日の晩には母が久光のために年越しそばを作った。
しかし、どこを探しても久光が見当たらない。
彼は別れの挨拶をすることなく 黙って静かに消えたのだった。
それが家族や友人に見せた最後の姿となった。
 
三か月後の昭和19年3月31日、パラオ上空において散華した。
どんなに技量が優れていようとも 歴然たる戦力差は到底埋められるもの
ではない。 私たちは忘れてはならない。 護国に身を奉げた彼らは誇り高き
サムライであった。

Photo 
吉田久光飛長
 

2012年7月21日 (土)

マルキョクの朝鮮人慰霊碑-パラオにもあった捏造問題

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マルキョクにある朝鮮人慰霊碑へ行ってきました。
※韓国人慰霊碑」と刻まれていますが、当時、朝鮮半島は現在の
ように南北に分断される前で、当然、現在で言うところの北側の
方々も居たでしょうから、朝鮮という表現を用いることに致します。

私が訪れたこの時も、韓国人観光客がツアーの途中で立ち寄っていました。
日本の慰霊碑と違い、除草が行き届いていますね。日本の慰霊碑は本島
(ガスパン等)にありますが日本人が慰霊に訪れることなく草が伸びる一方です。
日本と韓国の認識の違いがはっきりと出ていますね。

さて、この慰霊碑、碑文は立派なのですが・・・
ひとつ、問題があります。

犠牲者の人数なのです。

この戦争によって朝鮮人が犠牲になったのは事実ですが、
慰霊碑に刻まれている人数が事実と異なり、あまりに多すぎるのです。

この点は日本の立場から事実に基づき、しっかりと抗議しなくてはなりません。
韓国といえば最近では慰安婦問題で記念館を建設したり、それがアメリカ本土に
まで及んだりと問題となっていますが・・・

実はパラオでも同じ問題があるのです。

2011年11月10日 (木)

朝日村のパイナップル工場

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旧朝日村鳳梨工場跡
大正15年、南洋庁が初めてこの一帯を訪れ実地調査を行った際、
辺りはガルミスカン川に沿う湿地帯と密林に覆われ、未だ人跡未踏の地であった。
 
昭和7年に福島県出身の宍戸佐次郎がはじめて鳳梨栽培に着手。
その後、南洋殖産公司社長の「羽生兵四郎」が缶詰事業に着眼し
 
昭和12年にパイナップル加工工場を設立。躍進を果たした。
設立後2、3年の全盛期は常時従業員数60名で稼働する。
 
昭和13年8月
北海道旭川市出身の開拓民が多くを占めたこの集落を
旭を転じて「朝日の昇る如く」その意味も含めて「朝日村」と名付けられた。
朝日村の開拓以来、バベルダオブ島には
清水村、瑞穂村、大和村と呼ばれる入植地が相次いで誕生した。
 
この間、開拓民は大変な努力と苦労を経て村の発展に尽力。
昭和13年から昭和17年にかけて朝日神社建立、医療機関完備、次いで
尋常小学校、郵便局、駐在所などが設置され
113世帯、705人が暮らしていた。(昭和15年調査)
 
※鳳梨(ほうり)パイナップルの当時の名称

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▲パイナップル工場の機械を作動し、缶詰を圧着するために用いたボイラー
 
朝日村のパイナップルについて

朝日村産のパイナップルは大きく
甘く美味であったという。品種はスムースカイエンで
沖縄出身の16、17歳くらいの女工が製造に従事した。
殊に芽の部分を螺旋状に切り込みを入れ取り除く作業は
機械には不可能で、手間を要した。パイナップルは
輪切りにされ、五枚入り一個の缶で出荷された。
 
このほか規格外や形が崩れたものをクズパインと称して安価で出荷。
コロールでも手軽に食べることができた。
 
昭和18年頃になると鉄資源である缶が不足し
パイナップルはジュースに生成したほか、発酵させてパイン酒を作った。
 

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パイナップル工場の道路を挟んで反対側に彗星の残骸がある。
この機体は
 
昭和19年3月21日に付近へ不時着した

第一二一海軍航空隊所属の二式艦偵(彗星)で
雉一号機と推定される。機体は大破したが
搭乗員は無事であった。(篠原現地調べ)

2011年10月13日 (木)

「彗星」のプロペラ盗まれる

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パラオ本島(バベルダオブ島)ですが、日本の統治時代には入植地として
それぞれ、朝日村、清水村、大和村、瑞穂村、という名の4つの村がありました。

ここは、その内の旧朝日村付近、
現在のアルモノグイ州です。

小川の側に残るのは、艦上爆撃機「彗星」のエンジンです。
水冷型ですから、鼻先がシャープな一一型か一二型、搭載のものです。
翼の一部も残っています。

日本の飛行機も、制空権を取られる前はこの上空を飛んでいたのですが、
どういった経緯でここにエンジンが残るのかはわかっていません。
ちょうど近くで道路工事をしていた地元の方がいたので、お話を伺ったところ
米軍の飛行機だと勘違いしていました。

道路を挟んだ反対側にはパイナップル加工工場の跡があります。

プロペラが三枚ありますが、これは2010年5月に撮影したもの。

そしてこちらもご覧下さい。
以下は約一年後の2011年6月に撮影したものです。

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プロペラが切断されています。
おそらく、何者かが盗んで鉄屑業者に売ってしまったのでしょう。
切断した際に出た鉄粉がまだ残っていて、ごく最近の犯行だと推測されます。

残る一枚も刃の跡があり、途中で断念したのでしょう。

これは由々しい事態です。

しかし、これも我々日本人の戦争に対する関心の薄さが招いた事件に他なりません。
ダイビングばかりでなく、こうした貴重な戦跡にも関心を向けることで、しっかりと
保護を要請していれば、パラオ当局もきちんとその価値を認識し、防げたことでしょう。

とても残念な事件です。

2011年8月19日 (金)

アフリカマイマイと寄生虫

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アフリカマイマイです。

その名の通り、アフリカが原産ですが、1935年(昭和10年)日本移民が

食用を目的としてパラオに持ち込み、旧朝日村(現在のアルモノグイ辺り)で養殖を始めました。

しかし、川の氾濫で逃げ出し、ガルミスガー川流域に広がり

やがてパラオ全域に繁殖しました。

 

植物や果物への食害がひどく、駆除されましたが、絶滅できず現在に至ります。

コロールの市街地でもよく見かけます。(特に雨の夜に多い)

 

気をつけたいのは、『広東住血線虫』という恐ろしい寄生虫を持っていることです。

 

戦時中、食べるものがなく、このカタツムリで命を繋いだ兵隊さんがいるので

命の恩人とも言える一方で、生煮えを食べた兵隊さんは、寄生虫にやられて亡くなりました。

 

船坂弘著『ペリリュー島玉砕戦』によると

「我慢できずに生煮えで食べた者は、どういう訳か、脳をやられて死んだ」と記してあります。

広東住血線虫は、人間に寄生すると、脳へ進入し、死に至ります。

 

同様にネズミもこの寄生虫を持っていますから、気をつけてください。

もし、触れてしまった場合は、よく手を洗いましょう。

2011年8月16日 (火)

ガラスマオの滝と戦跡史跡探索

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ガラスマオの滝へ行ってきました。
オプショナルツアーが一般的ですが個人行っても問題ありません。
行く場合は滝への入口で、5ドルの入州税のみ支払いましょう。
 
ジャングルを流れる川をザブザブと歩いて行きます。
とても涼しげです気分が良いです。滝までは入口から40分くらいでしょうか。
歩く速度で個人差があります。
 
滝のすぐそばに行けます。打たれることもできます。
肩に重くのしかかり、けっこう痛いですけど。
日本人のオキャクサンここにくるとみんな
シュギョウといってあぐらをかくのが恒例だそうです。
 
滝までの道のり
 

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ケーブルカーのレール跡が残っています。
これは日本統治時代の名残です。
ガラスマオで採掘されたボーキサイト(アルミの原料)をトロッコで運んだ跡です。
機関車も残っています。 この石がボーキサイト。これがアルミになり
最終的に飛行機の材料となります。
 

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ようやく川に出ました。涼しくて気持ちが良いです。
ここから先は腰まで水につかって歩くので、濡れても良い恰好で。

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川の途中にあります小さなダムのようなところは
これもボーキサイト産業の名残。洗鉱(せんこう)場です。
 
泥や土にまみれたボーキサイトの原石をここで
綺麗に洗い流します。
 

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これは水神様の祠(ほこら)です。「水天宮」と刻まれています。
70年以上前の当時から、ここに鎮座しています。

水上様をお祀りすることで、作業の安全を祈ったんですね。
 
ちょっとだけ川の上流へ寄り道したところにあるのですが
これを見つける人はすくないだろうなぁ。歴史あるものだから
ツアーで紹介すればいいのに、と思います。
 

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約30分のトレッキングで滝へ到着。
パラオといえば、海もいいけど
ジャングルもいい!
 
このスケールは必見!

日本の観光地では滝つぼで
滝に打たれる経験など
まずできないでしょう。
  







 
ボーキサイト積載場跡へ
さて、来た道を戻りまして、ボーキサイトの遺構を見学していきましょう。
 
ガラスマオの集落を抜け、海を目指します。
レンタカーは日本の中古車マーチ号。
 

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どんどん走って突堤の先端まで行きましょう。道沿いに

コンクリートの基礎が並んでいます。これはなんの跡だろう?
 

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何か見えてきました。
 

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でーん!!!!
 
これはさきほど、ガラスマオの滝で見たボーキサイトの鉱石が
ここまでコンベアーで運ばれ船に積み込まれるところです。
 
道沿いに点在していたコンクリートの基礎は
コンベアーの支柱でした。
 
およそ70年前。戦前から戦中にかけて
我々日本人の先輩方が南洋開拓で一生懸命汗を流し、頑張っていた

その遺構です。
 

アルミの村
ガラスマオ一帯はかつてボーキサイト採掘により賑わった。
 
昭和13年、南洋アルミニウム鉱業株式会社によって着手された
ボーキサイト(アルミニウム原料)の採掘はガラスマオ鉱区において
年産3万トン、翌昭和14年は8万トンを採掘するに至り
アンガウル島の燐鉱とともにパラオの主要産業として
祖国の繁栄に寄与した。
 
現在でもその跡を工程順に見ることができる。
採掘場から採取されたボーキサイトの鉱石は
ガソリン機関車(合計10台)に牽引されたトコッコ(合計550台)で
銑鋼場へ運ばれる。精鉱後、ベルトコンベアーで貯鉱場に運ばれ
波止場から船積みされ内地へ輸送された。
敗戦とともに消滅したボーキサイト産業であったが現地に
おける埋蔵量は600万トンとも推定され、現在に至っても
パラオ共和国の有効な鉱物資源として活用可能である。
 
※このほかアルマテン鉱区が稼働したが
付近に海軍砲台(アルマテン砲台)があったため
昭和17年7月に稼働を中止した。

 

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さて、帰りながらまた別の遺構を見学していきましょう。
 

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これはコンパクト道路沿いに残る機関砲陣地跡。
14師団の主力はペリリュー島で第二連隊が玉砕した後も
パラオ本島決戦に備えていましたが、大痛手を食らった米海兵隊は
直接対峙を避け、本島を兵糧攻めにし、終戦まで孤立させました。
この兵糧攻めより、4800名以上の兵隊さんが飢えと病気により
亡くなっています。
   
この機関砲陣地はかなりわかりにくい場所にあるので、
ガイドに聞くのが一番です。 

 

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バベルダオブのコンパクト道路を通って帰ります。途中
世界一、人口が少ない首都といわれる
マルキョクの国会議事堂がポツンと丘の上に立っています。
 
 
以上、
ガラスマオには多く日本統治時代の歴史がつまっています。
当時に思いを馳せてみると何倍も味わい深いものになるでしょう。

2011年8月 9日 (火)

洞窟秘密基地の零式水偵(アイライ)

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干潮時に姿を現すのは、零式水偵のプロペラ先端です。

正式名称『零式三座水上偵察機』と呼ばれ、海軍さんでは最もよく使われ、

活躍した水上偵察機です。

 

水面に見えるのはペラの先端だけですが、シュノーケリングですぐ近くまで

いって潜ってみると、翼やその骨組み、コクピットなどを間近に見ることができます。

 

背後の洞窟はハンガーケーブと呼ばれていて、飛行機を隠すには絶好の

天然格納庫でありました。しかし、この機体は、その格納庫から出して水上に

浮かんでいるところを敵機(てっき)に見つかり銃撃を受けて、破壊されました。

 

この水偵は篠原福次郎中尉率いる第30特別根拠地隊附飛行隊

の機体で、このほかにもアラカベサン、アミオンス水上基地跡など

水上飛行機基地の跡を見ることができます。

 

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シュノーケリングでエンジンに近付いてみます。大きなピストンです。

水の中を覗くと、そのほかに主翼や操縦席の様子を見ることができました。

洞窟格納庫の中に入ってみましょう。広くひんやりしています。


 

零式水上偵察機

同じ「ゼロ」という文字が使われていますが、ゼロ戦とは違います。

ゼロ戦は正式名称『零式艦上戦闘機』と呼ばれ

一人乗りで、敵と空中戦をする為の戦闘機です。

一方、この機体は、零式水上偵察機。敵の基地や艦船を偵察したり、

見張りをするために使われた3人乗りの偵察飛行機です。

 

飛行機に少しでも詳しい方には

「くどくど説明をしなくても、そんなことは当たり前だ」と言われてしまいそうですが

日本人観光客は、それを知らない人が多いのです。

もっとひどいのは、パラオ人のガイドです。

アメリカの飛行機(B-24の残骸など)まで「ゼロ戦」といいます。

あれもゼロ戦、これもゼロ戦、落っこちている飛行機はみんなゼロ戦なのです。

 

しかし、ここでパラオ人のガイドが悪いとは決して言ってはいけません。

我々、日本人の戦争に対する関心の薄さから、こうした事態を招いていること

他ならないからです。

このほかにB-24の残骸や大発もあり、主なダイビングショップのツアーで

リクエストすると気軽に行くことができますので興味のある方は

問い合わせてみてください。

2011年8月 6日 (土)

海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)

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◆二式大艇の陸揚げ整備基地

アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。

水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。

九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。

スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。

近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
 
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。

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現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く

感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。

ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。

  

※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが

同じようなスロープがあります。

 

◆アラカベサン水上基地概要

アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる
巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。

この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
 
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
 
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。

◆アラカベサン水上基地の歴史

昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)
を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が
認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し
2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、
飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
 
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
 
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。

基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった
軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の
指揮下におかれた。
 

◆海軍乙事件の発生

昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)

3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。

同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。