2018年11月16日 (金)

地図の再編集を実施

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23日に水戸で行われるペリリュー島戦没者慰霊祭に間に合うよう、
パラオの地図を急ぎ再編集しました。
この地図データは映画『追憶』でも使われたものです。
作成にあたって特筆すべき点は、74年前、ペリリュー島掃討作戦を
実施した米軍の観測機から撮影した航空写真がとても役にたった事です。
我が国は大変ハイテクな国と戦争したものだと、感じます。
 
パラオの詳しい地図は日本では売ってないので、そうした事柄を含め
役に立てば何よりです。

2018年10月17日 (水)

アンガウル島日本統治時代旧地名・陣地名称

Photo

パラオ本第二版作業を進めております。
こちらはアンガウル島の日本統治時代の名称です。
いかにも栃木なまりが聞こえてきそうです。
宇都宮連隊の歴史に興味を持ってもらえたらと思います。
 
これと同じく、ペリリュー島も高崎湾や水戸山などの名称が
ありますので、作成して参ります。

2018年7月 8日 (日)

パラオ・ゼロファイタープロジェクト(続)

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パラオに100枚寄付させて頂きましたゼロ戦Tシャツですが
お陰様で現地で大人気であります!
ご寄付を頂いた個人様、企業様に厚く御礼申し上げます。 

少しデザインを変更して第二弾を検討中です。
今後ともよろしくお願いします。

2017年5月31日 (水)

渋谷の大盛堂書店

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渋谷のスクランブル交差点の先にある
大盛堂書店。
 
創業者は船坂弘氏である。
 
船坂氏は
栃木県西方村(現在の栃木市)出身。
宇都宮五十九連隊第一大隊砲兵隊軍曹。
パラオ・アンガウル島玉砕戦の生還者。
アンガウル島の日本軍守備隊将兵1200名、玉砕戦で
生還した十数名のうちの一人である。
 
戦後は、この渋谷の一等地に大盛堂書店を開業し
書店の経営と並行して、多くの著書を残した。
 
船坂氏が残したかったもの、それは著書を読めば解る。
船坂氏は、著書の出版に際して、戦友遺族の家を一件一件
訪ねて回り、一人一人、漏れることなく、戦没者名を刻んでいった。 

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大盛堂書店は繁盛し、著書も売れた。
 
船坂氏はその資金で、アンガウル、ペリリュー、ガドブスの各島に
自費で慰霊碑を建立。そして今日に至る遺骨収集隊の先駆けとなった。
 
ところが、
戦争が終わって、誰が予想したであろう豊かな時代が訪れると、
人は欲深くなるのだろうか。
 
私心を捨てて、戦友の弔いに尽くす船坂氏とは対照的に
それを妬む者が現れた。

「本で大儲けして」 
「たかが軍曹のくせに」
「ペリリューの事など知らないくせに」
 
船坂氏はこんなバッシングにも負けず
生涯を戦友の慰霊に捧げた。
 
慰霊とは何か。まずは感謝と祈り
そして、誰がどこでどのように戦って死んだのか
記録に残すことではないだろうか。
 
船坂氏はまさにそれを戦後、貫き通した人物であった。
 
この話は本には載っていないけれど
船坂氏と、戦後の混乱期を
知る人物から取材して聞いて回った話だから
私は、少しだけならこうして書ける。 
 

大盛堂書店、今は船坂氏のご長男が経営されている。
 
スクランブル交差点を行き交う人の群れの中で、
こんなに人は多いけれど、
そんなことを考えているのは、たぶん私だけだろうと思う。

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渋谷の街は再開発が進んでいる。

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スペイン坂を上り切ったところに
A.D.2019とAKIRA金田のバイク。
西暦2019のネオ東京。
SFの世界もすぐそこか。
  
時代は過去から現在、未来へと繋がってゆく。
  

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関連エピソード
三島由紀夫と船坂弘の関孫六三本杉

2016年12月15日 (木)

「探してます」→「知ってます」情報共有掲示板

この頁は調査をされている方の情報共有掲示板と致します。
各種調査にお使いください。検索エンジンから多くの方が訪れますので
何か手がかりがつかめるかもしれません。
 
書込みむ際のお願い
・身内の方で戦没者の調べ方についてはコチラをご覧ください。
・無記名・匿名はご遠慮ください。
・他の閲覧者に配慮が頂けない書込みは予告なく削除します。
・連絡先交換等は自由ですが、個人間のやりとりは当サイトで責任は負いかねます。

2016年12月 9日 (金)

零戦の関係で土曜日から月曜日まで松山へ行くことになりました。
ジェットスターなので、成田空港から出発で松山まで7000円であります。

2016年9月16日 (金)

パラオ遺骨収集 第二次調査派遣隊

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パラオ第二次調査派遣隊は、
水戸二連隊ペリリュー島慰霊会が主体となり
平成28年9月5日から14日迄の10日間
の日程を消化し無事帰国しました。
 
今回はペリリュー島・アンガウル島の両島へ分散して会員が
派遣されました。ペリリュー島は本隊4名で、厚生労働省職員が3名
随行、このほか現地の通訳1名、パラオ共和国文化省芸術文化局の職員1名。 
アンガウル島は本隊2名、通訳1名、厚生労働省職員なし、
文化省芸術文化局の職員1名の合計四名でした。
 
私はアンガウル隊でした。アンガウルは29年振りの遺骨収集となりました。
 
なお、水戸二連隊ペリリュー島慰霊会では
こうした遺骨帰還事業に参加頂ける方を募集しております。
もちろん旅費は日本国政府が負担します。
 
今後、遺骨収集の事業は新法人に移行しますが、
実際に派遣されるのは、それぞれの戦域でノウハウを持つ
戦友遺族会会員がメインとなるでしょう。
  
派遣先は、先ずは硫黄島となります。硫黄島で経験を積まれた方を
選抜し、外地(パラオ)へ派遣しております。
 
日本国を代表して行くので、気合が入ります。
今回は、島北西部の複郭陣地における
遺骨調査を実施しました。

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複郭陣地へのアクセスは、ジャングル内の道路を通行可能にする
ところから始まります。頻繁に現れる倒木を一本一本切断し
道を通行可能にしていきます。島民の方々の協力が必要です。
 

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青池側からのアクセスは特に困難を極めました。
台風に伴う倒木によって、日当たりがよくなったジャングルは
草が急激に成長し、茂みが深く深くなる為です。これらを蛮刀で
伐採して進むのですが、1分間で2、3メートル前身するのが
やっとの状態です。

P9100014

ガジュマルの根を切断して先へ先へ進む様子です。
ジャングルの踏破は、経験したものにしか理解できない
難しさがあります。地図上では僅かな距離も、時間がかかる上、
真っ直ぐ進むことすらままならない。こうした地形は
迂回するうちに方向がわからなくなります。GPSとコンパスを
確認しながら進みます。

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不発弾を踏まないように注意して進みます。
艦砲射撃で不発だった、巡洋艦クラスの砲弾。
こういった物が数多くあります。 

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地表骨は落ち葉が蓄積し発見は不可能なので、
岩場の窪みなどを重点的に捜索します。
 
ジャングルではアカムシと呼ばれるダニが棲んでおり、
これが地面から靴をつたって這い上がってきて主に足を刺します。
実はこれが一番厄介なやつです。
 
経験上、このアカムシにはある程度の潜伏期間があり、刺された直後は
なんともないものの、数日経過してから猛烈な痒みが発症し、
体質にもよりますが2週間ほど、痒みが残り、跡も消えません。
 
蚊のように目に見えるものでないので、
虫よけスプレーが必須ですが、それでも刺されます。
雨だったり、湿地帯で足を濡らしたりすると刺される確率が
さらに高くなります。
 
パラオではマラリアは確認されていませんが、デング熱があるので
注意は必要です。特に免疫が弱くなっているときは
リスクが大きくなります。
 

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青池からの進入が難しかったので、今度は反対側(海側)からの
進入を試みます。二荒山の麓から、山へ入っていきます。

P9110021

ここから入っていけそうということで
割合、高低差の少ない個所を選びます。

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先程のような茂みは少ないものの、
隆起珊瑚岩が剃刀のようにシャープです。
叩くとカンカンと高い音がする。
 
数年前、足を踏み外して、この隆起珊瑚岩に刺さり、
頸動脈を切って大出血した方がいるという事故の報告も
聞いています。血が全然止まらず、傷跡は消えません。
足を踏み外さないよう特に慎重に進みます。
 

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二荒山の陣地近く。
登ったり降りたりしながら複郭陣地内部へ。
 
地表骨は少ないので、
洞窟を探します。洞窟であれば、骨はそのまま残っている
可能性が高いので、今回の目標は先ず、洞窟を見つけることでした。

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左で駄目なら戻って右へ進みます。山岳部は三次元の大迷路で、
ルートを選ぶセンスがあるとのこと。
この辺り、パラオ人の現地ガイドはさすがであります。  

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隆起珊瑚岩は内陸部へ進むにつれて尖った部分が風化し
丸くなってきます。とはいえ油断は禁物であります。

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多くの場所にクレバス(大穴や亀裂)があります。
深さは数メートルから十数メートルにも及び、これを茂みが覆い
隠していることもありますので、よく見て足場を確認します。

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ガジュマルを足場に岩場を上り下りします。
 

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ようやく開けた場所に出ました。
ここが複郭陣地内部です。遺留品が多く、戦闘した形跡があります。
玉砕地点も近く。
大小の洞窟も発見し、中を捜索します。

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ここが二荒山鍾乳洞か?
大きな洞窟は何か所かあったのですが、
どれが二荒山鍾乳洞か、特定はできませんでした。
 
二荒山鍾乳洞とは、パラオ人の民間人が身をひそめていた洞窟で
最後の玉砕前、そのパラオ人たちが日本軍守備隊に
 
「我々も戦わせてほしい」と
願い出たという逸話が残っている事で有名です。
主にインターネットなどでは
ペリリュー島での出来事として語られていますが、それは誤りで
もともとは、ここアンガウルであったお話しです。
そして残念ながら、パラオ人の犠牲者もペリリュー島、
アンガウル島ともに出ています。
 

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ジャングルから出てきました。
これは米軍が建てた「解放記念碑」
 
残忍な日本軍によって戦争に巻き込まれ、
虐げられたパラオ人が、正義の米軍によって救出された、
という場所を記念するものであります。
 
正義とは、長い歴史の中で常に戦勝国によってのみ
作られ、語られてきました。
 
真実はどうだったかというと、
戦後、ペリリュー島、アンガウル島にも
米軍が進駐。アメリカ領土となります。ところが、アンガウルの島民議会では
「日本時代のほうが良かった。日本の統治に戻してもらおう」
という決議が下された事実があります。
 

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アンガウル滑走路を走って宿泊地に戻ります。
 
今回は多くの遺骨を発見したほか、
個体性のあるご遺骨として頭蓋骨も見つかりました。
今後の帰還事業に繋げたいと考えております。
ご遺骨の写真掲載は控えますが、日本へ帰ることを
願って、七十年以上も我々を待っていた戦没者の姿は
涙なしには語れません。
 
拙い文章で恐縮です。南方における遺骨収集がどんなものか
写真だけでも内容が伝われば幸いです。

2016年5月13日 (金)

アンガウル島の調査派遣

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今年はアンガウル島の遺骨調査へ参ります。
 
現段階でアンガウル島の遺骨収集は、
まだ調査段階にあります。大勢を引率しての
行動は難しい為、先ずは私を含む島の地形を知る経験者
2、3名での少数精鋭が派遣となりました。

 
まず、台風で多くの木が倒木したので、それを伐採して、玉砕地点への
道を作らねばなりません。それからGPSで洞窟の場所などを
入念に調査していきます。地図をイチから作らねばなりません。

 
なるべく早く、遺族や学生などの収集団体の
受け入れ体制を整えるべく、行って参ります。

2015年8月10日 (月)

パラオ戦跡ガイドブックを発売しました

 

拙著『パラオ戦跡を歩く』お陰様で本日発売となりました。
図や写真メインのビジュアル重視の本となっています。
現地MAP、ペリリュー島、アンガウル島の戦史資料
戦場写真などが付属します。
 
販売ページから少し立ち読みが出来ます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019

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2015年5月28日 (木)

パラオ天皇陛下訪問の裏話

倉田洋二氏と土田喜代一氏

 
倉田洋二氏と土田喜代一氏の再開

ペリリュー・アンガウル島の戦いは玉砕戦なので原則的に「生き残り」は
存在しないという概念だが、
倉田氏はアンガウル島で、土田氏は
ペリリュー島で戦い、奇跡的に生還された。
 
陛下との謁見
陛下が倉田氏にお言葉をかけられると、倉田氏は
「戦友に代わってお礼申し上げます」と短く答えた。倉田氏はアンガウル島の
戦闘で重傷を負っており、
歩行はもちろん、身体を満足に動かすことすら
できなかった。
そのため最後の玉砕突撃に参加できず、死に損って
(あえてこの表現を用いる)
後藤少佐最後の突撃を見送った。
  
皇后様から身体の気遣いを受けた倉田氏は
「70年間、片手でしか顔を洗えておりません。このように汚い顔をしております」
と答えた。
「名簿」の話は最後までできなかった。
 
10キロ先に浮かぶアンガウル島が晴れていて見えた。
陛下はペリリューの慰霊碑に拝礼されたあと、防波堤付近まで歩み寄り
アンガウル島へも拝礼された。私は素直に「ああ、よかった」と感じた。
陛下はアンガウルのことも気にかけてくださっていたのだと。
そしてこれが曇天なら、島は見えなかったであろう。
 
名簿とは
「僕だけ陛下に拝謁するんじゃ戦友に申し訳ないから戦死者1200名の名簿を
作ったよ」そういって倉田氏は
戦友の名簿を大切に持って、いや戦友と共に
式典に参列した。
 
この名簿の編纂作業には私も加わったのだが、テレビ局が
「どれくらい時間がかかったのですか?」と聞く。
アンガウル島、ならびにペリリュー島の戦死者名は公式記録されておらず
船坂弘氏が戦後、全国を走り回って、個人的に独力で名簿を作成した。
現在は様々な書物に転用されているが、大元は船坂氏の努力の賜物で
あることを
忘れてはならない。すべては戦友の弔いのために。
 
これを我々の編纂チームが
さらに精査し、戦友はもとより戦闘に巻き込まれた
軍属、パラオ人(民間人)を
含めた名簿を作成した。だからかかった時間をと
問われれば
その経緯を始めから説明しなければならない。
 
名簿を作成する経緯で、遺族との温度差に泣かされる場合も多かった。
戦死者の多くは20代前半の現役兵なので妻を持たずに出征し直近の
子孫が途絶えていることが多い。兄弟が存命であれば
慰霊に対する思い
入れも強いが甥や姪に調査協力を乞うても、直系でないので
ほとんど関心
が無いか、そっけなく断られたりすることも非常に多い。
この点、士官以上
は年齢的にも妻や子が居て出征しているので
割合にご子息が協力してくれる。
 
ペリリューの中川大佐は妻はあったが
子供が居なかったので直系の子孫は
存在しない。代わりに烏丸連隊旗手を
子供のようにかわいがった
というエピソードが有名である。
 
最近は孫、ひ孫世代が興味を持ってここへ問い合わせをしてくれるので嬉しい。
戦没者遺族会というのは地域ごとに存在するが、慰霊旅行の補助金が政府
から
出るのは子供世代までなので、これも孫までの伝承が難しくなっている
一因ではないか。
とにかく、たいへんな苦労の末、1200名の戦友とともに
式典に参列することができた。
 
あきつしま搭載ヘリ
海上保安庁の巡視船「あきつしま」にはヘリが二機搭載されている。
ペリリュー飛行場にはこの二機ともに飛来、着陸した。
どちらに陛下が搭乗されているかはわからない。
 
ペリリュー飛行場は旧帝国海軍屈指の航空基地であった。ここから多くの
飛行兵が飛び立っていって
そして、多くは二度と帰ってこなかった。
現在は荒れ果てたサンゴダストで固められただけの未舗装の滑走路が
一本のみ残る。
未舗装とはいえ、固い珊瑚岩の上に築かれた滑走路である。
 
昭和19年頃は重武装の一式陸攻や爆撃機銀河などが離着陸していた
のだからヘリの
着陸には全く心配ないのだろうが、宮内庁の職員が事前
視察した際、着陸には
舗装の要ありと判断したため、今回の陛下訪問前に
急遽、飛行場一角に舗装した
ヘリポートを造成した。宮内庁の安全にかける
徹底ぶりには、ただただ驚く。
 
陛下の島内移動にはドルフィンベイリゾート所有の、普段はダイビング客の
送迎や戦跡ツアーに利用させている
マイクロバスが選ばれた。ドルフィンベイ
リゾートのマユミオーナーは
「こんなのでいいんですか?」と言っていたが
一番、コンディションが良く、エアコンも故障していない車だった。
 
式典の参加者
式典の当日、西太平洋戦没者慰霊碑公園には事前に認可を受けた
18社の報道機関と戦友、遺族会が参列した。式典会場までは両岸を挟んだ
一本道なので完全閉鎖した。
 
コロールで足止めをくったものも多い。どんなに頑張っても途中に海があるの
だからペリリュー島までは
行くことはできない。島へ渡るボートの数も限られて
いるうえに宿泊施設が少ないので島へ滞在できる人間は限られる。
キャンプ・野宿は禁止である。
島へ渡りたくても渡れない状況、しかしこれが
セキュリティ面で幸いした。
過激な右翼団体などはコロールに留まったし
ペリリューに居たのは
ペリリュー島民とマスコミ関係者くらいだった。
各社ともに
今や珍しくなったダイヤルアップ回線で、一生懸命日本に記事を
送信していた。
 
オレンジビーチの米軍慰霊碑へ 
太平洋戦没者慰霊碑で式典が行われた後は
オレンジビーチにあるアメリカ陸軍第81師団モニュメントにて(旧千人墓地)
で米軍兵士への慰霊が行われた。これには
米軍オフィサーが参加した。
 
ペリリュー島の攻略はふたつの部隊が行った。強襲揚陸でもっとも苦戦を
強いられたのが第一海兵師団で兵力の60%を戦死傷により損耗した。
陸軍81師団はその後、増援部隊として海兵隊に続き掃討戦にあたった
部隊であるが、
今回は、陛下のスケジュールの都合かオレンジビーチの
81師団のモニュメントの
慰霊にとどまった。
 
なお、第一海兵師団のモニュメントはもっと山を登った
ペリリュー神社近く
大山の麓にある。
 
パラオ国際空港は旧海軍飛行場
陛下の到着されたパラオ国際空港は
旧帝国海軍の航空基地(旧アイライ飛行場)である。
昭和19年には連合艦隊の武蔵がパラオに投錨し武蔵に乗船していた陸軍
一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ
飛行場建設に尽力した。
建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であった。
 
勤労奉仕を行う者の中には中学生も混じっていた。
「ここに飛行場を作れば日本の戦闘機がたくさん来るから」と言われたので
彼らは懸命に汗を流した。作業中に飛行機が飛来したので、中学生二名が
喜び飛び出していくとそれは米軍機だった。
彼らは米軍機の機銃掃射を
受け死んだ。
こうしてたいへんな努力と犠牲の末、全長1400メートルに及ぶ
滑走路を完成させるに至った。
 
完成した飛行場は戦局の悪化に伴い同年6月までという僅かな期間で
あったが
主に零戦(第343海軍航空隊「初代・隼」)の基地として運用された。
終戦とともにアイライ飛行場は米軍に接収され、アスファルトで舗装され
それが現在のパラオ国際空港となった。
 
現在はその面影を見ることはできないが、飛行場には大勢の人々の
血と汗と涙が染みこんでいる。
 
パラオ国際空港の滑走路は距離が短いため、離着陸が可能なのは
B-757、B-767などの中型機が限度で日本の政府専用機の
ボーイングB747
(通称ジャンボジェット機)は着陸できない。
そのため、今回陛下が搭乗した機体は民間のチャーター機で
ANA-767-300(機体番号JA625A)であった。
 
コロールで移動に使われた車はインフィニティのようである。
普段は大統領の車だと思う。こういった上等な車はパラオでも
一台か二台しか見たことが無い。
 
マスコミの取材攻勢
今回、倉田氏、土田氏ともに多くの取材を受けた。
特にアンガウルの倉田氏はあまり表に出るタイプではないが
「戦友のためなら」と報道陣の求めに必死に応じてきた。
すっかり疲れ切ってしまったが、常に無念に散って行った
戦友が傍らにいる。戦友のためだった。
 
「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ、戦死した戦友に顔向けできなくてね」
普段から、そんな話を私は聞いていた。倉田氏は取材攻勢にすっかり疲れ
切ってしまい、あれから一ヶ月
以上たった今でも体調がすぐれないという。
 
そして日本テレビは天皇陛下の訪問が正式決定する前より
ペリリューの土田氏に密着取材を行っており、今回もその一部であった。
撮影時間には常に余裕を持って高齢の土田氏に常に気を遣い、お身体の
具合が悪かったら
無理しないでくださいね、とこちらのこちらのペースに
合わせてくれた。
日本テレビはとても紳士的な対応だった。
 
ところが直前になって他社が殺到してきた。土田氏は空いた時間を利用して
他社のインタビューにも答えていたが
各社の凌ぎ合いは凄まじく、奪い合い
のような状況といっても
言い過ぎでない。お二方共に高齢である。それを
メディアごとに同じ質問をするものだから大変だった。
 
「ジャングルの中を歩くシーンを撮りたい」などとどの社もリクエストするもの
だから、お二人ともすっかり疲れてしまった。
 
民放の取材チーム(カメラマンと取材クルーなど、一通り揃って1組)は
1チームか多くても2チームである。一方、NHKは8チーム体制であった。
ある民放関係者は「とてもNHKさんにはかないませんよ」
資金力も組織力も
民放と比べ物にならないほど莫大である。
 
一番過酷なのは某新聞社の記者で、段取りが悪いのか、上司が無茶を
言うのか、
たった一人、ペリリューへ渡った。なんと宿の予約もないという。
もう島へ渡ってしまっては仕方ない。例外的に満杯の宿へ押し込んだ。
車がすべて押さえられているのでチェーンのよく外れる自転車で他社の
車を追っていた。
これを見ていた日本テレビのクルーが車に乗せてくれた。
 
一方、コロールでは
ここぞとばかりにユニークなパラオの文化をネタにしようと
各社取材を行っていた。どこの局も日本統治時代の年配パラオ人に取材が
したいらしい。シニアセンターへ行けばいいのだがシニアセンター
「取材はNO」だそうだ。それでも日本の取材チームが食い下がると
なんと出演料金表が出てきた!取材内容に応じて細かく料金が分かれている。
これは合理的なシステムだ。パラオ人は取材に振り回されることも無く
しっかりしている。
 
そしてWRTCショッピングセンターでも取材交渉が。どうしても「チチバンド」を
言わせたいらしい。
根負けした責任者が撮影許可を出して
女性店員にブラジャーを持たせて「チチバンド!」と言わせていた。
取材クルーは大真面目だが、はたからみれば滑稽だ。
それから人気のパラオ語は「ツカレナオース」だった。
これも言わせたいので、無理矢理乾杯のシーンを撮っていた。
 
嵐が去って
日本のマスコミはパラオのキャパシティを理解していなかった。
人口2万人足らず、インフラも十分に整っていない島国で過大な要求を
し過ぎた。日本のテレビ局の無茶な要求は
日本国内においてはある程度
わがまま言っても通るのだろうが、
パラオは勝手が違う。テレビ局が言っても
無理なものは無理なのである。これらは全て
過度な負担となってパラオの
住民に重くのしかかった。
 
思いつくまま書いたのでメモ書きのような形になってしまったが
陛下のパラオ訪問の状況が少しでも伝わればと思う。
 
ようやく嵐は去って、のんびりとした、いつも通りのパラオに戻りつつある。

2015年5月15日 (金)

『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』刊行

パラオ共和国にある日本の慰霊碑

 

倉田洋二先生の監修で『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』という
小冊子を刊行しました。私も調査に携わり、パラオの島々を巡り、
慰霊碑の現状(破損状態も含む)を徹底調査し、記録しました。
バベルダオブ島からソンソール諸島まで、116基の慰霊碑が
確認されています。「慰霊碑にお参りしたいが、どこにあるのかわからない」
という方への道しるべとしてもお使いになれますが、
歴史的な資料として後世に残すことを主旨に作成したものです。
 
希望される方には配布していますのでご連絡ください。
なお、7月により正確な慰霊碑のGPSデータを
添付したものを再版予定です。
 
 
パラオ共和国にある日本の慰霊碑

2015年5月 9日 (土)

プルメリア(エリライ)

プルメリア

プルメリア

プルメリア

プルメリア

パラオのプルメリアは美しい。プルメリアは英名であり、
パラオ語では「エリライ」と称する。
 
木によって形や色が違う。上の写真2枚はアンガウル島で撮影した
エリライで、近くにある木だが形がかなり異なる。次の二枚は
ペリリュー島の小学校近くで撮影した。
 
プルメリア(エイライ)はキョウチクトウ科に属する植物で高さ5メートルほどの
木に咲く。木の高いところは届かないが、枝下の花なら充分観察できる。
パラオの花は白から黄色が多く、ピンクの割合が少々。
(そういえばグアム島ではピンクが多かった印象を受ける)
ただし乳汁は有毒なので注意が必要。
 
気に入った花があれば、立ち止まって観察してはどうだろうか。
 

プルメリア

 

2015年4月25日 (土)

アンガウル慰霊碑の現状

アンガウルの慰霊碑をアンガウル島の方々(パラオ人)が
ほぼ独力で直してくれました。今回、天皇陛下はペリリュー島を
訪問されましたが、アンガウル島の住民も慰霊碑もしっかり修復して
くれていました。
 
ペリリュー島の慰霊碑は厚労省の管轄なので日本政府が修復して
くれましたが、アンガウルは民間扱いされてしまい
日本国政府は
関与できないと断られてしまってます。一方で
栃木県知事の福田富一さんは
「アンガウルで叔父が戦死している」と言って
県民にアンガウルの戦いを周知
させるとともに10万円を私費で寄付してくれました。

   
今回の修復は

アンガウル島のパラオ人の独力で修復を成し遂げました。
重機もないのにあの大きな下野観音を、どうやって持ち上げたのか
わかりませんが、ふたたび綺麗な慰霊公園が完成しました。
本当にパラオ人の創意工夫と、底力にただただ、敬服と感謝です。 

こんなに尽力してくださっているのに日本人が無関心すぎて恥ずかしい。
 
また続報が入り次第写真付きで

掲載します。

2015年4月23日 (木)

パラオ・ペリリューの戦いにおける民間犠牲者について

パラオ・ペリリュー島の戦いにおいて民間人(パラオ人)の犠牲者は
いなかった(ゼロ)とネットを中心に美談として広がっているが、残念なことに
実際のところは死者が出ている。戦没者名簿には島民の名前が
記されている上、実際にペリリュー島から逃げず、戦争が終わるまで
隠れていたという証言も私は現地で聞いた。
 
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Photo▲ペリリュー北のガラカヨ(現在のカープ島)で米軍将校に救出されたパラオ人家族。
 米兵からキャンディーを受け取る様子(上)家族はこの後軍医の診察を受けた(下)
 昭和19年9月

 
しかし日本陸軍としては、当初から島民の命を救うべく強制疎開を最優先
事項として実施したのは事実である。日本陸軍は原則、民間人を戦闘に
巻き込まないのが鉄則であり、軍規である。そんな陸軍の
懸命な策あっても、疎開の船に乗り遅れたり、故郷を離れることを拒んだ
島民も存在した。そのため一人も漏らさず、というのは残念ながら
達成できずにいた。
 
そして皮肉にも疎開先であるパラオ本島(バベルダオブ島)で
米軍の銃爆撃を受け、命を落としたパラオ人も多かった。
これは天皇陛下もパラオ訪問時に言及されている。
 
「バベルダオブで米軍機の機銃掃射を受けて父が死んだ」などの
悲惨な戦争証言がパラオ人の間で根強く残っているが
これはもちろん、米兵による非戦闘員への虐殺行為であり、
重大な戦争犯罪として立件されるべきなのだが、裁かれることは無かった。
 
当時、 どれくらいの島民を疎開させる必要があったのだろうか。
昭和18年6月末の統計によると、当時
ペリリュー島の人口は日本人が160人、パラオ人が899人、朝鮮人1人
アンガウル島は日本人が1325人、パラオ人が754人、朝鮮人が539名
であった。
 
アンガウル島のほうが人口が多いのは良質な燐が採掘できたからで
ペリリューにも燐鉱はあったが、規模は小さかった。朝鮮人のほとんどは
燐鉱採掘の従事者である。
 
朝鮮人軍属の戦死
ペリリュー島においては、上陸戦が行われる前の昭和19年
トンネル掘削や飛行場整備のための朝鮮人軍属が動員されていた。
この朝鮮人軍属を臨時の歩兵として北部守備隊に編入し、ペリリュー
戦を展開したので、それで戦死した朝鮮人は民間人の死亡あたらないのか、
見解がわかれるところだ。朝鮮人は正規の日本兵と異なり
配属の指揮官によるところが大きいが、戦闘を強いられず
米軍に投降した例も多い。
 
パラオ人の戦死
ペリリュー島に限ればおよそ900名の民間人を
疎開させる必要があったが、これを拒んだり、疎開船に乗れず
島に残った者、数名が戦死した。アンガウル島はもっと多い。
最後一隻の疎開船が上陸戦までに間に合わず、犠牲と
なってしまった。

2015年3月14日 (土)

パラオの終戦

井上貞衛中将

▲昭和20年9月3日、アイライ沖に停泊中の護衛駆逐艦アミックで調印式を終えて
艦を去る井上中将。煙草を持っている。
 
◆パラオの終戦
パラオ死守を担う第十四師団長、井上貞衛中将は、ペリリュー島
アンガウル島の玉砕に続き、自らも死ぬ覚悟でバベルダオブ決戦に
備えていたが、昭和20年8月15日、パラオ地区集団にも日本敗戦の
報せがもたらされた。
 
◆停戦交渉
それから一週間後の8月23日、米軍はアイライ沖に停泊する
護衛駆逐艦「アミック」艦上にて、停戦降伏に関する交渉・会談に応じるよう
求めてきた。そこで第一回の米軍との停戦交渉を日本側は
14師団の作戦参謀中川大佐を主席に参謀部将校付の嶋谷勇中尉
中村美彦中尉、日系2世でハワイ出身の通訳、浜野充理泰
(浜野ジュリアス)少尉、書記として反町大七准尉、以上5名を選出し
アミックに送り込んだ。大発艇の故障により会談の開始時間は大幅に遅れ
しびれをきらせた米軍ファイク海軍大佐が途中まで迎えに来るという
事態が起きた。
 
日本側の使節団一行は大発艇に白旗を掲げ、アミックへ接舷すると
武器の不携帯を確認されたのち、アミック艦上へ運ばれた。
 
停戦交渉は参謀長室で行われた。机には丁重にもラッキーストライクが
カートンごと置かれていたが、誰一人手を付けることはなかった。
そしてこの時、米軍側はいきなり降伏文書を持ち出し、サインするよう
求めてきたが、中川大佐は憤然と拒否。
「まだ陛下の御指示もないのにサインなどできるか!」
突っぱねたので、米軍はあっさりと引っ込めた。
米軍側とて予備交渉であることを承知していただろうから
単なる嫌がらせではなかろうか。
 
第一回交渉は1時間弱で終わり、会談内容を
罫線用紙20~30枚分に記していた反町准尉は
頭にきて「アメリカの馬鹿野郎」とメモの最後に
書いて中川大佐に提出した。
 
◆降伏調印式
交渉はその後も数回続けられた。そして東京湾上の戦艦ミズーリと
同様にパラオでも昭和20年9月2日、護衛駆逐艦アミック艦上にて
正式な降伏文書への調印式が行われた。参加したメンバーは
第十四師団長でパラオ地区最高司令官の井上貞衛中将、多田督知参謀長
泉莢三郎後方参謀、副官の橋本津軽少佐、そして通訳は浜野充理泰であった。
 

井上貞衛中将と多田督知参謀長

▲降伏文書に署名する井上貞衛中将と隣は多田督知参謀長。
  
◆多田参謀長の終戦処理戦略
その後、パラオ本島(バベルダオブ)では武装解除が進められた。
調印式では14師団の多田参謀長が米軍に対し 
「パラオ本島への米軍の上陸は暫く待ってもらいたい。なにしろ
ヤクザの親分国定忠治の子孫や水戸天狗党の末裔といった
血気盛んな若者が4万もいるんだから」
と脅した。水戸連隊や高崎連隊をかけたジョークなのだろうか?
 
米軍が国定忠治や水戸天狗党が何たるかを理解していたとは
言い難い。それを加味しても、実際、バベルダオブに米軍が上陸してくれば、
敗戦を認めない14師団本隊が徹底抗戦を
行ったかもしれない。

  
そのうえで多田参謀長は
「その間、我々日本軍が責任を持って統轄をする」と米軍に誓った。
そして取り決め通り、米軍がバベルダオブに進駐することなく
コロールにとどまり武装解除が進められたのだった。

01

▲バベルダオブにおける武装解除の様子

武装解除は粛々と
戦車や速射砲、九九式歩兵銃など全てを集められ
米軍の監視のもと、海洋投棄された。
 
米軍は終始バベルダオブに進駐しないことで合意したため
一見、多田参謀長の判断は、正しいようにも思えるが、食糧供給が
行われず昭和21年まで及んだ復員中、餓死者が続出したことから
必ずしもベストとは言えない。
 
◆多くの命を救った勇敢なマーティン中尉
そんな中、勇敢な米兵のエピソードを紹介する。
終戦後の日米交渉はアルミズ水道(現在のKBブリッジ)を挟んで
コロール側を米軍、バベルダオブ側を日本軍の交渉窓口として
米軍は特に用のないかぎり
バベルダオブへの進入を禁止した。
 
このとき、米軍の将校が単身、ジープを駆ってバベルダオブのアイミリーキを
訪れた。この訪問に対し、当時南洋庁で戦後処理にあたっていた山野は
「如何なる用件でしょう。約束に反しているではありませんか」と驚いて尋ねた。
 
見れば米軍将校は丸腰である。将校
は次のように述べた。
「それは承知している。自分は食糧関係を担当するマーティン中尉だ。
終戦後、バベルダオブで
大変な飢餓状態なるとの報告を受け、寸刻を争って
対策を講じねばならぬと思い、約束を破って訪問した。最高責任者と話がしたい」
 
山野はマーティン中尉の勇敢さと厚意に深く感銘を受け
「すぐに南洋庁長官と会って頂きましょう」と答えると
長官のもとへ案内することとなった。ジャングルの中に入るとマーティン中尉は
「この辺りに陸海軍の兵隊はいるか」と尋ねるので山野は
「それは私にもわからないが、貴官は我々同胞の困窮を救うべく訪問された
のである。貴官の身辺は
私が命をかけて護りたい。どうか私の後ろをピッタリ
離れず歩いてもらいたい」と述べた。
 
このマーティン中尉の功績により、多くの将兵と民が餓死から
逃れることができた。
 
◆五十九連隊復員と陛下御忍びの行幸
多田参謀長の予想は思わぬ形で表れた。
復員の為、横須賀で下船した宇都宮五十九連隊であったが、
その姿を出迎えた横須賀市民や米軍を驚かせた。今までPW(捕虜)の服を
着た復員が多い中、五十九
連隊は、戦闘帽に階級章をつけたままの軍服を
着用し背嚢を背負い、ラッパ手を先頭に堂々と行進を始めたのである。
 
武装こそ解除されているものの、その姿は消滅したはずの帝国陸軍であった。
復員局の係官はすぐに階級章を外すよう促したが、
江口連隊長は
復員手続きが終わり解隊の命が下されぬ限り我々はあくまで軍隊で
あるとの信念をもって、これを拒否した。
 
営地では平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯までラッパを吹奏し堂々と
行進し士気の高揚をはかった。
 
これに対し、お忍びで陛下が行幸されたという逸話がある。
五十九連隊は陛下の命令を受けてようやく武装解除したのであった。
そして占領軍政下の厳しい報道管制でいっさい公表されなかった。
 
連隊は営庭に整列し、陛下をお迎えした。江口連隊長が官姓名を名乗った後
「臣八郎。不肖にして歩兵第五十九連隊長の付託の重きに応えず、戦敗れ、
あまたの陛下の赤子を失いたること・・・」
と涙ながらに報告分を上奏された。
 
陛下は最後に
「ご苦労でした」と御懇切なるねぎらいのお言葉を下された。
師団に対する昭和天皇の公式なお言葉は以下の通りである。
 
「パラオ集団ハ寔ニ善ク統率力徹底シテ立派ニ戦闘シ復員モ
善ク出来テ満足ニ思ウ」
 
こうしてパラオにおける十四師団の戦争はおわったのだった。

2015年3月 8日 (日)

アンガウル玉砕戦

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「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ。自分だけ死に損なって
戦友にどんな顔をしたらいいか・・・申し訳なくてね。」
 
パラオ・ペリリュー・アンガウルの玉砕戦で生還した
倉田洋二氏は語る。
 
倉田氏と私は、パラオが注目される以前から
個人的な付き合いをさせて頂いていたが、
今までは倉田氏本人に迷惑がかかると思い、ほとんど
書かなかった。しかし今年こそ出すべきと思って少しずつ思い出や
やってきたことを書いていこうと思う。倉田氏との
思い出は、とにかくたくさんありすぎて
書ききれないので、まずは概要だけ記す。

多くはビールを飲みながら倉田氏本人から私が直接聞いた話なので、
本には載っていない。取材とよべるものでもないので荒削りで申し訳ない。
 
倉田氏が徴兵後配属されたのはパラオ・アンガウル島。ペリリュー島の南
10kmに位置する島は、ペリリューと同様の激戦地で
後藤丑雄少佐率いる宇都宮五十九連隊歩兵一個大隊(第一大隊)と
兵站あわせておよそ1200名が守備、米一個師団を相手に
一ヶ月間もの間、抗戦を続け玉砕した。生還者は原則いないという概念で
考えてよいが、負傷、最後の突撃に参加できず、生き残った兵士は50名である。
 
倉田氏は昭和19年、パラオ・南洋庁勤務中に現地召集を受け
陸軍第14師団(照)五十九連隊第一大隊、日野中尉指揮する
砲兵隊に配属、同年9月17日の上陸戦でアンガウル島日野中隊は
47mm速射砲を構え、上陸進攻する米軍と対峙した。
 
「死ぬのは怖くなかったよ。とにかく一生懸命だったからね」
 
アンガウル島に上陸したのは米陸軍第81師団で、上陸後も
複郭陣地に籠城する守備隊に苦戦を強いられた。
 
狭い山道を先鋒部隊である米戦車群は一列で進撃するほかなく、
倉田氏所属の日野砲兵隊はその先頭車両に狙いを定め撃った。
先頭車両を擱座され、さらに後部の車両を撃破された米戦車隊と
随行歩兵は行き場を無くし大混乱に陥った。
 
「最初は互角の戦いができたよ。LVT(水陸両用戦車)は装甲が薄いから
簡単に破壊できた。M4戦車はそれよりかは少し頑丈だったけど
徹甲弾を打ち込んで撃破できた。むこうも身動きが取れないから
撃った弾はほとんど命中した。」
 

Imgp7616

▲倉田氏が実際に使っていたと推定される47ミリ速射砲。アンガウル島西港付近。
 

「だけど弾は限りあるから、なくなったらおしまいだ」
 
中隊は弾を撃ち尽くすと、速射砲を捨てて複郭陣地の奥深くへ
後退して徹底抗戦の構えを取った。険しい山岳地形を活用し、
狙撃、手榴弾で戦った。すでに中隊は散開し生き残った兵士で
最後の一兵まで戦う覚悟であった。
 
アンガウルの籠城戦では水の確保が最重要であり、
水を求めて青池(サロメ湖)まで決死隊で下らねばならない。
米軍との直接対峙では優位性を保ったが、この水汲みで戦死した者が
多かった。また生き残った兵士で夜間斬込隊を編成し、ほとんどは
生きて帰らなかった。
 
「ジャングルの中で一列になって進んだんだけど、上官が、
倉田、進まんか!進まんか!といってケツを叩くんだけれども
進まんかと言われても、前が進まないんだからしょうがないんだ」
 
10月中頃、倉田氏は迫撃砲を受け、半身不随の重症、
身動きが取れなくなった。後藤大隊長は
動けるもの(およそ150名)を集め、最後の訓示ののち
敵陣に最後の突撃をし、玉砕した。これでアンガウル島における
組織的戦闘は集結し、米軍による占領が宣言された。
 
関連記事
後藤大隊長の最期
 
倉田氏はその後、壕内で一ヶ月間身動きが取れず、
それでも生存者数名で陣地の死守を遂行しつつあった。
11月3日、米兵が戦利品を探しにやってきたところを
発見されたが、その米兵は生き残っていた日本兵に驚き
逃げ出した。
 
まもなく米兵は仲間を引き連れ掃討戦にやってきた。
戦友の高木上等兵が手榴弾戦の末、戦死した。
「下園、手榴弾をくれ!」
絶叫した高木上等兵の最後の言葉が今も忘れられないという。
 
正月を迎える。
すでにアンガウル戦終結から2jヶ月。
「いつか連合艦隊が援軍にくるから」と本気で信じていた。
パパイヤの根やヤモリ、米軍からかっぱらった食糧で食いつなぐも、
栄養失調になりつつあり餓死は時間の問題であった。
アンガウルからペリリューへ泳いで渡ることを決断。
共に居た沖縄の兵士が山原出身で泳げなかったため、
筏を作り、数名で夜の闇をついて脱出を試みたが
アンガウル海峡の潮の流れは速い。やがて力尽きて
西港付近へ流し戻された。
 
ふたたび複郭陣地に籠城し、米軍の食料を奪うべく
夜間出撃。その際、歩哨線のアンテナ(鉄条網)に引っかかり
沖縄兵士二名と中山二等兵が戦死した。
 
倉田氏もいよいよ最後と観念したが、撃たれなかった。
米兵が物珍しげに集まってきた。米軍MPの尋問を受け、
ペリリュー島捕虜収容所へ送られる。ここで船坂軍曹と再開する。
下園二等兵、板垣兵長、田中軍曹等とも再会。
「倉田!生きていたのか!」と
たいそう驚いたという。ペリリューからヤップ、ウルシー、
グアム、ハワイ、米本土ポートランド、サンフランシスコ、サクラメントを経て
ウィスコンシン、アイオワのクラリンダー口外のP.Wキャンプへ入る。
終戦の後の昭和20年11月、横浜港に入り浦賀の
銃砲学校で復員した。
 
そしていまふたたび戦友の御霊を守るべく
倉田氏はパラオ島で暮らしている。
 
私はパラオが注目されるずっと前に現地の
倉田氏の自宅へ訪ねていき、初めて会って話をした。
そして幾度となくお世話になり現在に至る。
 
徒然なるままにまた、かけることは書ける範囲で書く。
 
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アンガウル島へ行こう

2015年3月 5日 (木)

パラオ戦跡と戦史概要

2015年3月 3日 (火)

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

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▲パラオ諸島

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2015年2月12日 (木)

パラオ戦跡ガイドを発売します(追記)

ペリリュー戦跡ガイド01

ペリリュー戦跡ガイド02

ペリリュー戦跡ガイド03

ペリリュー戦跡ガイド04

ペリリュー戦跡ガイド05

 
パラオ戦跡ガイド刊行のお知らせ

パラオ戦跡(ペリリュー島・アンガウル島・バベルダオブ島等の戦跡を収録)
ガイド本を製作中です。今年の夏までに刊行します。
 
平成27年8月追記
発売しました!
 
いままでこのようなガイドブックはありませんでした。
(ほんの少し紹介されているものはあるのですが間違いが多く、
実用にたえうる代物ではありませんでした)
 
写真・イラスト、わかりやすい地図等を満載
イラスト、写真等のビジュアルを満載しわかりやすく、
また、島の詳細な地図を載せますので、これひとつあれば
現地の戦跡を巡れるように作り込んであります。
 
現在パラオでは戦跡が単なる見世物と化し、また戦跡ツアーのガイドも
付け焼刃な案内しかできずに、正確な情報が伝わっていないことを
由々しき事態と考えました。
 
詳しい戦闘経緯の解説
しかし、この本では、戦跡に付随する逸話を詳しく明記しています。
たとえばこの戦車がどのような戦いを繰り広げたのか、
あるいはトーチカに立て籠もって戦った若き士官の人物像など、
多くの証言や記録から得た情報をもとに、戦いの実態に迫ります。
 
パラオ玉砕戦 生還者による監修
監修役に各専門家とパラオのペリリュー島・アンガウル島玉砕戦の
元日本兵で生き残りの倉田洋二先生、またペリリュー島でも
生還者の方の協力をいただきました。
 

A4

A4f

A4d 
現在と当時の写真を掲載し戦闘の模様を想像し易くしました。
多くの時間とお金をかけて調べ尽くしたものです。

パラオの旅行ガイドブックは
『るるぶ』と『地球の歩き方』の二種類が刊行されていますが
その中でパラオ戦跡・戦争に関する扱いはほとんどなく
るるぶでは4分の1ページがペリリュー島の戦跡ツアーについて
触れてあるだけです。

この本は戦跡案内に特化したものですので、パラオ旅行、
ペリリュー島慰霊を検討中の方、
ぜひ、お求めください。発売日が決まり次第お知らせします。
画面は製作途中のものです。
 
平成27年8月追記
発売しました!

2014年9月 9日 (火)

後藤大隊長のご遺族より

なんと、アンガウル島で玉砕した後藤大隊長直近の
ご遺族から連絡を頂きました。
私のブログを偶然見つけてくださり「とても驚いている」
との旨でした。ブログをやっていてよかったです。
 
関連記事

後藤丑雄少佐 - アンガウル島のラストコマンダー

アンガウル島へ行こう

2014年7月 3日 (木)

アンガウル島へ行こう

アンガウル島 大神宮海岸

アンガウル島地図

アンガウル島の動植物

 
アンガウル島は ペリリュー島の南およそ10kmに位置する
人口170人ほどの小さな島である。 少ない日程で足を運ぶのは難しいが
独自の生物や自然環境が存在する魅力あふれた美しい島である。
 
アンガウル島はペリリューと並んで激戦の島であり
宇都宮五十九連隊第一大隊が玉砕している。
パラオの戦いで何かとペリリューばかり特筆されるが
ここアンガウルはペリリューよりさらに米軍を苦しめた島であった。
 

アンガウルの戦い 五十九連隊

 
33日間の徹底抗戦 われら太平洋の防波堤とならん
アンガウルを守備する日本軍は兵站、臨時編入を合わせてもわずか
1200名で これを攻略する米国陸軍第81師団の兵力は2万名を超えた。
加えて、空爆と艦砲射撃により 島は焦土と化したが、後藤少佐指揮する
宇都宮五十九連隊第一大隊は 徹底抗戦の構えを崩さず、実に33日間もの間
島を死守したのであった。これだけの兵力差がありながら 33日間も
持ちこたえた例は、戦史を調べても他にないだろう。
 
五十九連隊は大陸から転戦した歴戦の猛者揃いである。
兵士の大部分を栃木県の出身者で占めたが 長野や群馬、北関東の兵士もおり
指揮官、後藤少佐は長野の出身である。 そして臨時編入された沖縄の兵士
たちの犠牲も忘れてはならない。
 
最初から勝ち目はなかった。しかしアンガウルの戦いで散った英霊は
太平洋の防波堤となり 一日でも長く、米軍の本土進攻を食い止めたと
間違いなく言えるであろう。 アンガウルは我々日本人にとっては特別な島である。
 
「私たちも一緒に戦わせてほしい」~アンガウル玉砕戦へ

 
アンガウル島へ行くには

ステートボート(定期船)

ステートボート(定期船)

定期便(小型飛行機)

 
アンガウルへのアクセス
1、定期船
定期船が一週間に一度、コロールから出ている。所要時間は4時間。
帰りは一週間後となる。
 
定期船の旅はこちら
 
2、飛行機
最近、就航したPMC航空で来ることができるようになった。
アイライ国際空港からはわずか20分程度である。
月曜日と金曜日に発着するが、アンガウルの滑走路に直陸後、
すぐに飛びたつので、島を観光することはできない。そのため最低
4日間は滞在しなければならない。飛行機は天候によってフライトできない
場合があるのでリスクが大きい。
 
3、スピードボートチャーター
コロール、もしくはペリリューのダイビングショップ等で
船をチャーターする方法。ガソリン価格の高騰もあり
コロールから往復すると800ドル程度と高価。
なお、アンガウル海峡の波は高く、操船できるオペレーターも
限られる。
 

アンガウル港01

アンガウル港02




アンガウル港03

アンガウル港04

 
アンガウル港

アンガウルへ到着した。外洋がどんなに穏やかでも
アンガウル港内は穏やかである。写真の左右で全く海の表情が違う。
日曜日や学校が終わると、港で子供たちがよく泳いでいる。
 

M4シャーマン

M4シャーマン

M4シャーマン戦車

 
港の入口が非常に狭く、潮の流れが集中し大波となる。
ここを突破できず、船が出港できないことがある。
私も台風の直後、出港できず10日間、島に閉じ込められたことがあった。
 
港の入口には米軍M4シャーマン戦車が2、3輌、投棄されたままになっている。
今では防波堤代わりだ。砲塔は流され、大きなエンジンが見える。
 

アンガウルの港

 

州が運営する定期船は様々なものを島へ運んでいる生命線である。
食料やビール、家電製品や家畜、車も積める。
なお、人間の運賃は一人片道5ドルである。
一週間に一度、定期船が港へ入ると島中から人が集まってきて
港は一番の賑わいとなる。
港には戦時中に作られた陸揚げ用のスロープが残る。
 

ダウンタウン

ダウンタウン

ダウンタウン

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アンガウル島の市街地(ダウンタウン)
この辺りに住んでいる。人口が少ないので、みんな家族同然だ。
ストアと宿泊施設は2軒ある。ここでも日本の中古車が頑張っている。
 

アンガウル島

アンガウル島

タロイモの収穫(上)と
マーク2(チェイサー?)のオープンカー。小さい島なので
雨が降っても2、3分で家に到着だから、モンダイナイ(パラオ語)

この車、ガレージはなく、シートがかぶせてあるだけだった。
それにしても日本の中古車は頑丈だ。
 

アンガウル島・サイパン村

▲戦前のパラオ・アンガウル島の市街地(サイパン村と称した)
日本人とパラオ人、およそ2500人が暮らした。
  

アンガウル島は砂利道ではあるものの周回道路が整備されており、
車でもレンタル自転車でも、気軽に一周することができる。時間は
そんなにかからない。自転車でも3時間もあれば十分か。
では時計回りで見て行こう。

 

サキシマオカヤドカリ

アンガウル 大神宮海岸

サキシマオカヤドカリ

アンガウル島 大神宮海岸

大神宮海岸
ダウンタウンを出てまもなく、大神宮海岸に出る。
別名オレンジビーチとも呼ばれるこの海岸はアンガウル島にある
他の砂浜と比べても独特の色をしている。ここだけ海流の関係で
微生物の死骸が堆積して、このような色になるという。
 
大神宮海岸という名称は、日本統治時代に島の「アンガウル大神宮」という
鎮守様がこの海岸にあったことから。(アンガウル大神宮は南洋では最古と
なる大正時代の建立。なおコロールの南洋神社は昭和15年建立である。
昭和18年、島の燐鉱産業は繁栄を極め、2600人以上が
が島で生活していた。(内、日本人は1300人)
人の集うところに必ず神社は祭られる。
 
大神宮海岸と鎮守の森には、当時
白亜の灯台がそびえ立ち、それは美しいものだった。
 
この海岸では上陸戦は行われなかったが
米軍が占領後敷設した物資陸揚げ用の
レールの跡などが今でも残っている。
 
サキシマオカヤドカリ
この海岸で褐色のヤドカリを見つけられたら幸運だ。
サキシマオカヤドカリといって珍しい個体である。何かいいことあるかも。
臆病なので、そっと観察しよう。
 

ガジュマル

ガジュマルゲート
左右の道路脇からそれぞれ自生したガジュマルがちょうど
真ん中で結合している。周回道路沿いにあるので見逃さないようにしよう。
 

アンガウル大燐鉱 
アンガウル大燐鉱の遺構
昭和18年、アンガウルの主要産業は燐(リン)の採掘で、
南洋拓殖株式会社が主幹となり年間7万トンを産出、最も繁栄を極めた。
当時の島の人口は2,618人で、
島から採掘された燐は主として畑の肥料とするため
内地へ輸送され、この小さな島、アンガウルが
多くの日本人を飢えから救ったがその功績はほとんど知られていない。
 

アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱 
▲戦前~戦中のアンガウル大燐鉱(同じ辺りと思われる)

 
アンガウル大燐鉱詳細記事と写真

アンガウル灯台(丹下灯台)

アンガウル灯台(丹下灯台)
先に述べたように、当時、たいへんな賑わいだったアンガウル島。
採掘した燐鉱を船に積みむ大規模な施設があり、船の往来も
盛んだった。船に灯台は欠かせないものである。
 
灯台の外壁は白一色で青空に映え、実に見事な佇まいであったという。
その島民の自慢であった灯台も、艦砲射撃に破壊され、倒壊した。
私が居るところが灯台の折れた根本部分にあたる。

アンガウル灯台(丹下灯台)アンガウル灯台に登ろう(別記事へ)

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D_3 
那須岬
五十九連隊は栃木県の郷土部隊であったので、島の方々に故郷の名前をつけた。
那須岬へ向かう道。ペリリュー島が見える、ここは景色も良いし
潮風が心地よい。那須岬には現在アメリカの建てたマリア像がある。
那須岬の沖はとくに潮の流れが激しく恐ろしいほどである。
 

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潮吹き穴
那須岬へ向かう途中の岩場に潮吹き穴がある。
温泉の間欠泉のように、海水が高く舞い上がり、霧となって散る。
大迫力であるが、これは独自の岩場の地形が生み出したもので
温泉とは全く異なる。(パラオに温泉や地震は存在しない)
ボフォオオオオという不思議な音がこだまする。
 

アンガウル島レッドビーチ

レッドビーチ
上陸戦の展開されたレッドビーチ。
昭和19年9月17日、レッド、ブルー、両ビーチ同時に上陸を開始した
米陸軍81師団は、ここ極端に狭いレッドビーチで佐藤光吉中尉率いる
第二中隊と対峙した。集中砲火を受けた米81師団は、橋頭堡の確保までに
大苦戦を強いられ、甚大なる損害を被った。
当時は艦砲射撃で、海岸線は丸裸だったのだろうが、すっかり緑は蘇っている。
 
激しい戦闘で砂浜が血で染まったからレッドビーチという名が
ついた、というのは俗説である。米軍がアンガウル島攻略にあたって、
便宜上、レッドビーチと名付けたにすぎない。しかし、血で血を洗う戦い
が繰り広げられたのは確かだ。砂浜がそれはもう惨く赤く染まったことは
相違ない事実である。戦いで犠牲となった全ての将兵に合掌。
 
レッドビーチの戦い

ここからもう少し先へ行くとブルービーチだ。
 

04

散兵壕(さんぺいごう)
レッドビーチから間もなく、飛行機墓場の近くに散兵壕が残されている。
70年前、兵隊さんによって掘られたものだ。中へ入ってみると、深さは
175センチの私の背丈よりもある。ここに隠れて敵の上陸に備えた。
島の地層はほとんどが隆起珊瑚岩で、スコップがカツンカツンとすぐ
岩にあたってしまい、これだけの深さを掘るのは大変な苦労だったろう。
掘削したという表現が近いかもしれない。上陸戦の三か月前、
第31軍司令の小畑中将が視察に訪れ、陣地構築の遅れに対し
激を飛ばしたが、これだけ固い地盤を短期間に掘るのは
無理なものは無理である。元兵士はこの小畑中将の視察に
良い印象を持たなかったと記している。
 

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11

飛行機墓場
主に米軍機であるが、滑走路脇の茂みに
レイテ作戦に投入された多くの航空機が眠っている。
これはB-24(リベレーター)大型爆撃機のプロペラ。
四枚のうち一枚でほかの三枚も近くにある。
丸いのは回転銃座、機体の外板も散乱している。
 

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アンガウル島のコルセア戦闘機

 
F4Uコルセア戦闘機
こちらはF4Uコルセア戦闘機。先の大戦でもっとも優秀だったと云われる

米国海軍の名機である。この戦闘機はジェット戦闘機が主流になった頃の
朝鮮戦争でも並行して使われ、活躍した。日本側からみれば、非常に苦しめられた
悪魔のような機体であるが、純粋にメカとして考察すれば非常に良くできた
レシプロ戦闘機の究極の完成型といってもいい傑作機である。
この戦闘機もナパーム弾を用いたアンガウルの掃討作戦と、その後の
フィリピン方面の作戦に活躍した。
 

F4Uコルセア戦闘爆撃機

▲ナパーム弾を取り付ける海兵隊のF4Uコルセア戦闘爆撃機
(写真はペリリュー飛行場のもの)

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アンガウル滑走路
米軍の敷設した滑走路である。
日本軍はペリリューに東洋一といわれる大規模な飛行場を持っていたし
ガドブスにはゼロ戦専用の滑走路、さらにアイライにも大型機が
飛べる飛行場を整備した。アンガウルにも平坦な地があり
「飛行場適地」として備えていたものの、最後まで建設せずに終わった。
 
これに目を付けたのが米軍だった。米軍は
後藤少佐と最後の兵士達が立てこもる複郭陣地を除く
島の大部分を制圧し、ここに滑走を瞬く間に敷設し
同島に残る残存部隊の掃討爆撃と、レイテ(フィリピン)作戦の
足がかりとして大いに活用した。
 
この「飛行場適地」がなければアンガウルでの凄惨な戦いも
避けられたかもしれない。しかし米軍は是が非でも飛行場が欲しかったのだ。
 
それにしても多大な犠牲を払ってまで、パラオ・ペリリュー、アンガウル両島の
飛行場が必要であったのだろうか。サイパン・テニアン・グアムはすでに米軍は
手中に収め、同島からフィリピンを叩くことは充分に可能だった。
マッカーサーもニューギニア方面から陸路でフィリピン奪還を

進言した。ハルゼイ提督も無駄な犠牲を懸念し、パラオを取る必要ない、と
作戦に反対し続けた。これを是非ともという形で推し進めたのがニミッツである。

これは現在でも議論の対象として終わりが見えない。
 

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週に二回の定期便が来た。
飛行機は島の上空を大きく旋回し、着陸コースに入る。
これは島民に飛行機が来たことを知らせるのと同時に

自由気ままなアンガウル滑走路、滑走路の真ん中に
人が寝ていたりするので、
「今から着陸するからちょっとどいてくれ」の合図でもある。
 

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この建物がアンガウル空港のターミナル。
酋長がいま届いたばかりの新聞を読んでいる。
新聞は週に二回しか届かないから貴重だ。
 

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着陸すると、島中から人がやってくる。
着陸して、すぐにコロールへ戻ってしまうので、飛行機を待たせての
観光はできない。原則片道だけと考えたほうがいいだろう。
 
飛行機はデコボコの滑走路をものともせず、あっという間に
飛び立っていった。
  

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3

V

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アンガウル島鬼怒岬

鬼怒岬
アンガウルの最南端、鬼怒岬へ。
これも郷土の兵隊が名付けた名だ。当初、上陸部隊の米81師団は

この鬼怒岬を目指して沖合から前進していた。これに即座に対応すべく
陣地を持たない遊撃隊であり、島中尉率いる紅蓮疾風隊が
海岸に駆け付けたが、沖の上陸用船艇は全く動かなくなってしまった。
これは陽動作戦であった。島中隊が鬼怒岬に引きつけられている間に

81師団の本体は、レッド、ブルー両ビーチに上陸を開始した。
 
しかしアンガウル島は小さな島である。島中隊は陽動を解ると直ちに反転し
上陸戦の展開されている、ブルービーチへ向かった。
紅蓮疾風隊の名の通り、疾風の如くブルービーチへ急行すると
水際防御に加勢。米上陸部隊の上陸を許さず
勇猛果敢に戦った。この戦いで米軍は大隊長や大隊幕僚まで負傷し、

上陸部隊は壊滅。一旦、押し戻されてしまう。
 
「ブルービーチの死闘」続きはこちら

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沼尾少尉の鬼怒岬~妻との約束

 
※写真は台風前と台風後の比較。

この巴岬から鬼怒川岬にかけては沼尾隊の陣地であった。

指揮官、沼尾少尉は叩き上げの士官である。大陸からの転戦した
古強者であり、また部下の面倒見がよく、たいへん慕われたといわれている。
彼もまた太平洋の防波堤となって散る運命だった。 
 
沼尾少尉は内地に妻を残していた。少尉と妻には
次のようなエピソードがある。
「沼尾少尉、妻との誓い」

 
  

ブルービーチ

アンガウル島ブルービーチ

ブルービーチ
台風前に訪れたブルービーチ
米軍の敷設した物資陸揚げ用のレールが残る。
ここも激戦のビーチである。
 

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同じ場所とは思えない。
台風の高波で全てが流され瓦礫の浜になってしまった。

大木といえども根元から引き抜かれ倒れている。
 
 

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そう、この砂浜では激闘があった。70年前の9月、
何もかも燃えてしまったのだ。
戦争で焦土と化したシャングルが再生したように。
地で染まったこのビーチが美しい青を取り戻したように。

緑の息吹を感じる。きっとまた蘇るであろう。
 
ブルービーチの激闘へ
 

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アンガウル・ラストコマンドポスト
玉砕の複郭陣地へ
 
後藤少佐が玉砕し、最後までたてこもり徹底抗戦を行った
複郭陣地へ向かう。今回は特別な許可を得て
酋長と島民の協力で、複郭陣地へ進む。
 
後藤少佐の最期~アンガウル島のラストコマンダー
 

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台風の影響と、長年誰も足を踏み入れていないこともあり
道がなくなっている。
 

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倒木を切断したりしながら少しずつ前に進んだが、結局、複郭陣地の
入口すら行けなかった。今回は段取りだけにして
次回、出直そう。なんとしてでも最後の玉砕地で慰霊がしたい。
 
海ゆかばをうたう。
合掌。
 
平成28年9月追記
アンガウル島遺骨収集の旅へ行ってきました
  

私は戦史の専門家なので今回は慰霊目的であったが、
それ以外にもアンガウル島は魅力の多い島である。

白く光るホタルはここでしか見られない。
 
ぜひ足を運んでみては如何だろうか。
そして、ここへ来たら、アンガウルで玉砕し
太平洋の防波堤となった英霊の御霊にどうか
感謝の気持ちをわすれないでほしい。
 
あなた方のおかげで、いまの日本があります。

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D

D_2上から、左、右の順で
・シロアジサシ
仲良く2羽でいるところが多い。
 
・パラオオオトカゲ
パラオ最大のオオトカゲ。戦争中は食用になった。
美味らしい、今でも食べる気になれば食べられるそうだ。
 
・プルメリア
 
・椰子の実
 
・野生のグアバ
 
・ハイビスカス
 
・パパイヤ
青い実は間引く。間引いた実は千切りにしてサラダなどにすると旨い。
間引いてできた完熟の実はとても濃厚で甘い。その場合は虫に食われないよう
早めに収穫して追熟させるのが一般的。
 
・ゴールデンコプラ
パラオでもなかなかお目にかかれない黄金の椰子の実。
ジュースは濃厚。
 
・プルメリア
プルペリアはパラオの全域に自生するが、地域によって
花弁の色、形がまったく異なる。私はアンガウルのプルメリアが
一番綺麗だと思う。パラオ語ではエリライと称す。
 
 

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2014年3月25日 (火)

ペリリュー、アンガウル

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ペリリュー、アンガウルに滞在中です。
アンガウル島にてご遺骨を見つけましたので
帰国後、厚労省にデータを届け出ることにしました。
 
※(写真はペリリューの壕です)

2013年8月26日 (月)

レッドビーチ(アンガウル島)

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Fr

アンガウル島、レッドビーチです。
昭和19年9月17日、レッド、ブルー、両ビーチ同時に上陸を開始した
米陸軍81師団は、ここレッドビーチで佐藤光吉中尉率いる
第二中隊と対峙し、甚大なる損害を被りました。
当時は艦砲射撃で、海岸線は丸裸だったのでしょうが
現在はパンの木など、多くの緑が茂り、海までせり出しています。

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※ブルービーチの戦いも参照
  
では、レッドビーチ近くに残る戦跡を見て回りましょう。
 

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 散兵壕と呼ばれる、塹壕が、当時のまま残っています。
兵隊さんが、シャベルで掘ったものです。
珊瑚岩は固く、これだけの深さを掘るには大変な苦労があったと
想像できます。土ではありません。岩です。
 

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これだけの深さがあります。
 

2013年8月 3日 (土)

大神宮海岸

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◆アンガウル島、大神宮海岸へやってきた。浜の名前は
画面左の森に、かつてアンガウル大神宮が鎮座したことから。
白亜の灯台は、艦砲射撃で倒され、今は見えない。
 
外洋に面しているので波は高く
米名はオレンジビーチと呼ばれる
アンガウル島の中でも特別、ここだけ砂浜の色が違う。
微生物の死骸が積もってこのような色になる故。
 
上陸戦が行われたのは、島の北側レッドビーチおよび
ブルービーチであり、この大神宮海岸での上陸はなかった。
ただし、米軍の物資揚陸用のレールなどが残っていて、
砂浜を歩く際は鉄の欠片に注意。それを除けば
いくら眺めていてもあきない、実に美しい砂浜である。
 

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潮風が、あまりにも心地よいので、足を波に洗われながら
砂浜の端から端まで、何往復もしてしまった
 

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この浜にしかいない、真っ赤なヤドカリと遭遇できればラッキーだ。
「サキシマオカヤドカリ」といって日本でも小笠原に棲息する
天然記念物だ。
 
ヤドカリを探しながら、とても
気分が良いので何時間でも居てしまう。

アンガウル島の燐鉱

日本の飢餓を救ったアンガウル島の燐鉱
◆昭和18年、アンガウルの主要産業は燐(リン)の採掘で、
南洋拓殖株式会社が主幹となり年間7万トンを産出、最も繁栄を極めた。
島から採掘された燐は主として畑の肥料とするため
内地へ輸送され、この小さな島、アンガウルが
多くの日本人を飢えから救ったがその功績はほとんど知られていない。
 

アンガウル燐鉱

▲今はジャングルに帰した、大コンベアー跡。
 
静かなアンガウル島にかつての大繁栄を見る
◆戦火に巻き込まれる以前(昭和18年)の

アンガウル島人口は2618人であった。
(内訳は日本人1325人 朝鮮人539人 パラオ人754人)※1
これはペリリュー島の1050人より多い。ペリリューには南洋興発
株式会社の採掘する
燐鉱が在ったがアンガウルよりずっと
規模の小さいものであった。

 

アンガウル大燐鉱アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱

▲戦前~戦中のアンガウル大燐鉱


◆当時、西港にはオートコンベア(燐鉱積込用桟橋)があり
(鉄製・積み込み能力 250トン毎時、1トン起重機×2)
  
そのほか、港湾施設として船舶係留用ブイ四個、
アンガウル灯台(別名丹下灯台)
東北港、東港にも桟橋があり舟艇の達着が容易であった。 

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▲リン積載場跡。
 
農作物の自給自足は、困難だったが
※2
豊かな燐鉱産業の対価により、パラオ本島より食糧を輸送していた。

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▲殉職社員の碑。日付に注目。
 
西港に面する集落はサイパン村と呼ばれ
現在のダウンタウンである。ここには 郵便局、警部補派出所
(税関事務を取り扱う)、アンガウル医院、国民学校、公学校、
郵便局所属の無線通信所、南星寮、そしてアンガウル大神宮が鎮座した。
 
◆燐鉱は上陸戦直前まで操業が続けられ
間も無く作業員と住民はパラオ本島へ強制疎開、
玉砕戦ののち、米軍監視のもと民間人が戻り、採掘が再開された。

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▲アンガウルの小路を行く。沖にペリリュー島が見える。
 

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▲現在のアンガウル港。
M4シャーマン戦車が波に打たれる。 

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▲アンガウル港

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▲周回道路、ガジュマルの門。二本のガジュマルが道路脇から
生えて、中央で合体したもの。

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▲ジャングルに眠るM4シャーマン戦車

※1、戦史叢書中部太平洋陸軍作戦 45頁、55頁
※2、ドイツ人の持ち込んだサルが野生化し大繁殖した結果、

農地を整備しても全て荒らされてしまった。現在も状況は同じである。

2013年7月28日 (日)

三島由紀夫と船坂弘の関孫六三本杉

◆昭和45年11月25日
三島 由紀夫は森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を訪れ、
面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。
バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す
演説をした直後に割腹自決した。
楯の会事件とか三島事件などといわれる事件であるが
 
このとき、三島、森田の切腹、介錯に用いられたのが 
名刀「関孫六三本杉」である。
この関孫六三本杉は船坂弘からの贈り物で 次のような経緯がある。

◆昭和41年12月
アンガウル玉砕戦の生還者である船坂弘が、英霊の代弁者として
心血を注いだ『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル』が書きあがり
出版する際、共に剣道の有段者であり、以前より親交があった
三島由紀夫より、同書に序文が寄稿された。
 
「何かお礼に差し上げたい」と申し出た船坂に対し
三島は「関孫六三本杉」を強く所望したという。
 
事件後、舩坂が警察署へ赴き 二人を介錯した関孫六を確認している。
 
◆昭和45年12月20日発売の 『朝日ソノラマ』
この中に事件現場を撮影した写真が掲載されている。
三島と森田の頭部が並べて置かれている衝撃的な写真だった。

Fr

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また、演説内容をすべて収録したソノシートも附属している。

2013年7月 7日 (日)

アンガウル灯台(丹下灯台)

アンガウル灯台(別名丹下灯台)跡に登りました。
アンガウル灯台は日本時代の建築物です。
実に美しい白亜の灯台で、青空に映え、 往来する船にとって
不可欠な存在でありました。
 
Imgp7598▲アンガウル灯台(丹下灯台)倒壊して逆さまになっている。
 
故に、真っ先に狙われたのもこの灯台です。
アメリカの艦隊による艦砲射撃で 根本から折れて倒れ、
そのままになっています。 私が座っている辺りが根本なのですが
よく見ると灯台の窓が確認でます。また、写真ではわかりにくいのですが、
谷底は深く、逆さまになった灯台の高さに驚きました。
 
灯台への道程。
周回道路を逸れて、脇道へ入ります。
石段が残されています。ここをのぼって行きます。
(この石段が当時のものかどうかは不明) 石段の向こう側には
日本軍の兵器の残骸やビール瓶 各種弾薬の薬莢などなど、
多くの遺物が残っていました。
 
Imgp7601_1▲灯台へ向かう途中石段をのぼる
 
この辺りは当時、南洋最古の「アンガウル大神宮」という
立派な御宮様が鎮座し、住民の暮らしと海の安全を
守っていました。神社としてはコロールの南洋神社より古いものです。
当時は人口が2500以上もいたのですから 神社も自然と必要となったのでしょう。
※私有地なので、立ち入る際は必ず許可が必要。
 
現在大神宮は、ほぼジャングルに帰し、倒壊した石灯籠のみが残ります。
なお戦後に建設された「新・アンガウル神社」なら周回道路沿いにあり
いつでも参拝できます。
  
Imgp7203_1▲戦後場所を移して新しく建て直された「新アンガウル神社」
 
ジャングルの草木を慎重にかきわけて行くと
灯台の土台(の一部)が残っていました。
 
Imgp7569_1▲灯台の土台の一部。さらに上を目指す。
 
このハシゴ、足をかけても大丈夫だろうか?
ボロっと踏み抜いたら怖いので安全そうな足場を探りつつ、
さらに登って行きます。
 
最上部まで到着。薄暗いジャングルを突き抜けて
一気に広い空が広がりました。西港から巴岬、磯浜までよく見渡せます。
サンゴ礁の浅瀬と外洋の境目が地図のように望め
とても気分がよかったです。また、蒸し暑いジャングルを抜けて
ここまで来ると風が実に心地よく、 沖からやってきた波が、遥か眼下の
岩にぶつかって砕け轟きます。
 
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Imgp7579_1▲アンガウル灯台跡。現在の最頂部。 
 
アンガウル島の最高地点は標高60メートルの「大平山」であり、遮る
ものはありません。ジャングルが開けていた当時は360度の展望
だったことでしょう。 10km北にはペリリュー島も浮かんでいます。
昭和19年9月15日、ペリリュー島で上陸戦が始まりました。 海は
アメリカの艦隊で埋め尽くされ アンガウル島の守備隊はその様子を
こうして見ていたのでしょう。 そして二日後の
9月17日、アンガウル島でも上陸戦が開始されました。
 
今はアメリカの艦隊も無い平穏な海です。
海の無い野州(栃木県)出身の兵隊さんも、こうして はるか南の孤島まで
来て海を見ていたのでしょうね。 そして二度と帰れなかったのでしょう。
 
玉砕戦となり、水も渇き果てた死の淵で ふるさと栃木の、澄んだ雪解け水を
思い浮かべて その中に泳ぐメダカを見つけて
「ああ、こんな水の中にメダカが さぞや冷たかろう」 と、手でその水をすくう
仕草をしながら、口にはこぶ。 そんな幻想を見ながら、多くの兵隊さんが
死んでいったそうです。 ジャングルにはまだご遺骨が眠っています。
 
下るほうが難しく大変です。ふたたびジャングルへ 慎重におりて無事に帰りました。

2013年7月 4日 (木)

ブルービーチの激闘 島武中尉の戦い

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◆島中尉と紅蓮疾風隊
島武中尉(陸士55)は陸軍士官学校出の大男で
彼の率いる 第三中隊は、またの名を「紅蓮疾風隊」と称した。
 
島中隊は日々の訓練で島の周回道路を大行進するが
その様子を眺めていたアンガウル島の女性は皆、
彼に惚れて しまった。
 
島中尉の第三中隊は、かねてより特定の陣地を持たない
遊撃隊であった。 その為、アンガウル戦においての役割は
真っ先に熾烈な敵上陸地点の中へと飛び込むことだった。
 
▼島中尉が大行進したアンガウルの街道。沼尾少尉が玉砕した巴岬も近い  
Imgp7374_1

◆ブルービーチの激闘
昭和19年、9月17日
アンガウル島で上陸戦が始まる。民間人の多くが疎開した直後だった。

米軍との戦力差は歴然だった。 
戦艦1、重巡2、軽巡2、駆逐艦5以上による艦砲射撃および
航空機のべ1600機による銃爆撃に加え、ポール・J・ミュウラー少将
指揮するアメリカ陸軍第81師団(通称ワイルドキャッツ)一個師団
およそ二万一千名が上陸を開始した。
※1
 
最初に上陸用舟艇が姿を現したのはアンガウル島西の沖で
これを巴岬で見張っていた沼尾才次郎少尉(栃木県日光市出身)が
伝書鳩にて、大隊本部へ 「敵の上陸地点は西港なり」 と連絡。
ただちに島中隊が急行した。※2
 
島武中尉指揮の第三(反撃)中隊は165名。
星野善次郎少尉指揮の工兵第一小隊51名が配属されていた。
 
ところが敵の上陸用舟艇は、洋上に静止したまま 一向に上陸してこない。
これが陽動作戦だと気付いたのは正午頃であった。
島中隊はただちに反転して東港へ上陸中の米軍撃滅に向かうが
米上陸部隊はすでに上陸を開始。同日夕方までに 上陸二地点の
海岸線、それぞれ1000-1500メートルにわたって確保。 東北港
(レッドビーチ)地区では800メートル近く南部へ進出していた。
 
◆米上陸部隊の壊滅
島中隊が上陸を易々と許すはずがなかった。
東港(ブルービーチ)の上陸部隊は島中隊の猛烈な夜襲を受け
明け方の5時過ぎ、一旦海岸近くまで押し戻されてしまった。
押し戻されたのは歩兵321連隊第1大隊B中隊で、死傷者が続出。
大隊長をはじめ、大隊幕僚までが負傷し後送。
壊滅したB中隊は連隊予備のG中隊との交代を余儀なくされた。※1
 
その後、米軍はたちどころに中型戦車と水陸両用戦車十数両を動員、
さらに艦載機の銃爆撃も加えて島中隊を猛攻。
島中隊長は戦死し、中隊も10時頃まで抵抗したがついに玉砕した。

ここまでの抗戦が成せたのは
大陸より転戦せし精強五十九連隊の猛者と
島中尉の指揮ならではの戦い方があったに他ならない。
  

▼それぞれが対峙した東港。現在ブルービーチと呼ばれる場所である。
かつて血で染まったとは思えないほど美しく綺麗な砂浜である。
116angaur27 

▼満潮時
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▼米軍の敷設した物資陸揚げ用レールが残っている。

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▼ブルービーチに生えるパンの木のとまるシロアジサシ。
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※1、月刊沖縄社『徹底抗戦~ペリリュー・アンガウルの玉砕』 112-113頁
※2、船坂弘著『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル』 33頁

2013年6月30日 (日)

後藤丑雄少佐 - アンガウル島のラストコマンダー

アンガウル島へ行こう
記事より~後藤丑雄少佐とアンガウルの落日



20100206_818

ここはアンガウル島。ジャングルの周回道路を歩いてゆくと
開けたところに慰霊碑群があり※1
その一画に後藤丑雄少佐の墓がある。
 
20100206_838▲下野観音などの慰霊碑群(旧)
 
20100206_842▲米軍建立した後藤丑雄少佐の墓

 
◆後藤少佐と五十九連隊の最期
アンガウル島の守備隊長である後藤少佐は
明治42年生まれの35歳、 信濃の国、長野県の出身であった。
 
後藤少佐は昭和19年10月19日
最後に残った、重軽傷者含む100名の部下を集め、次のように訓令を述べた。
 
「本日の夕刻を待って、個別に敵の包囲を突破し、成功した組は
ふたたび島の中央・南星寮東側に終結する。そこから遊撃戦闘によって
敵の飛行場建設を妨害する
  
・・・君たちはよく闘った。各自の武運長久を心から祈る」 ※2
 
同日夜、後藤守備隊長以下、残存の五十九連隊総勢は
最後の斬り込みを敢行し、
ここにアンガウル守備隊は玉砕、
組織的戦闘は終結した。

 
なお、後藤大隊長の最期は次のようにも記されている。

「今夜12時を期して米軍に斬り込みを敢行する。全員玉砕を覚悟で
帝国軍人に恥じない行動を取るように」

 
そして最後に
 
「靖国神社で会おう。長い間の勇戦ごくろうであった」
 
と述べた。※3

◆後藤守備隊長の自刃

そして後藤大隊長が先頭で出撃、途中米軍の陣地を通過中に負傷。
「ここは日本の玄関だから遠からずして米軍が来るであろう。その時まで
頑張ってこの戦闘の戦訓、苦戦を伝えてくれ」
そう言い残し、自刃。皆、涙を流した。
 
思えば9月17日に始まった上陸戦は 後藤少佐指揮の徹底抗戦により
一ヶ月以上、米軍を苦しめた。米陸軍81師団の兵力、二万名
(戦車50輌含む)に対し兵站部隊など全てを
合わせても、わずか
1200名編成の五十九連隊が33日間も抵抗した記録は
類なきもので、
長きにわたる抵抗といえば、隣のペリリュー島(中川大佐指揮)が
有名であるが、兵力の比率からすればアンガウルの戦闘がはるかに
上回っている。

 
◆アメリカ軍が後藤少佐を手厚く埋葬する
アンガウル島をようやく制圧した米軍は 後藤少佐の
遺体を確認し、手厚く埋葬した。

※ペリリュー島の中川大佐と村井参謀も同様に、戦闘終結後 米軍の手により手厚く埋葬された。
二人の墓標は隣同士で その写真が米軍カメラマンによって撮影されている。
 
米軍によると、当初はこの戦死したコマンダーの身元がわからず一旦
「無名戦士の墓」としたが、のちに「守備隊長後藤少佐の墓」と 改められた。
   
Imgp4934◆後藤丑雄(ごとう うしお)少佐(准47)
第十四師団五十九連隊(宇都宮)第一大隊長
アンガウル島守備隊長
明治42年2月16日生まれ、長野県出身
昭和19年10月19日玉砕、享年35
戦死後二階級特進、大佐。

◆人物・人柄 
「有難う、お蔭様で」という温和な口調で実に人を引き付ける
徳の持ち主であった。

気品の保持と武徳の涵養(かんよう)、切磋琢磨に重きを置いた。
温厚な人柄であったが、パラオへ向かう途中、輸送船上で
召集に遅れた将校(隊長)に対し 
「将校が時間に遅れるとは何事である」
と意外にも大声一喝する場面もあった。
 
兎角、教育の機会を大切にし
部下思いの人であった。酒の席では得意の逆立ち踊り
南洋踊りらしきものも披露した。※4
 
上陸戦前、後藤少佐率いる第一大隊を残して
アイライへ転進する第三大隊。これに対して少佐は
「安島は引き受けました。なにとぞご安心ください」
と述べたという。
 
話は現代に戻る。
私はたったひとり、静かなアンガウル島のジャングルの小道を歩くとき、
風の音と共に、彼らの最後の突撃の絶叫か、英霊の声が
耳にこだまする錯覚を幾度も経験した。
 
※1、2012年の台風によって慰霊碑は壊滅し、再建中。 
※2、船坂弘『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』192頁より
※3、『栄光の五九連隊』252頁
※4、同253頁

Imgp7200アンガウル島のガシュマルの木

2013年5月19日 (日)

95歳のおばあちゃんと鬼怒岬

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戦史の調査で知り合った
95歳のおばあちゃんの話をします。

彼女の夫は陸軍少尉でアンガウル玉砕戦で戦死しました。
20代で未亡人となった彼女は、再婚す

ることもなく
この年まで畑仕事一筋で子供を育て、生きてきました。

最近は「早く夫が迎えに来ないかな」
といった言葉が絶えず、私も
なんと言葉をかけて良いのかわからずに、過ごしていました。

将校さんでしたのでお家からは機密書類が多く出てきました。
「自分が持っているより多くの方の役に立てれば」との申し出で
私は、それらを防衛省に寄贈する手続きを取りました。

先日、ようやく防衛省での受領が完了し
彼女のもとに感謝状が届きました。

写真は少尉が亡くなったと推測される砂浜です。戦争当時は
陸上にあったトーチカ(コンクリートの防御陣地のこと)も
長年の波の影響で、砂浜へ徐々に押し出されています。

遺骨は帰ってきていません。

私が撮ってきたこんな写真ですが、おばあちゃんは
夫の化身のように大切にしてくださっています。

とても悲しいけれど、深い愛の絆があるのだなと
感じました。
 

 
追記
この出会いから2年後の
2014年夏、おばあちゃんは亡くなりました。

2012年10月17日 (水)

アンガウルの戦火に巻き込まれた少年

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アンガウル平和慰霊公園に建つ少年の像です。
芸術家の戸田和子先生の作品です。

先日、戸田先生の展覧会が宇都宮で開催され、その折
ご本人とお会いし、製作の経緯を伺って参りました。

アンガウルの戦火に巻き込まれ亡くなった実在の
民間人の男の子をモデルにしました。

戸田氏のお話によると当初は男の子一人をデザインしていたのですが、
とても寂しそうだったので、手に飛行機の玩具を持たせてみたのですが
それでも寂しそうだったので、背後にお姉さんを立たせたそうです。

そして「日本はどっち?」とお姉さんに尋ねているところです。
指差す先に日本があります。

写真は小玉氏(甲種予科練十二期)提供です。

2012年10月 6日 (土)

アンガウル島慰霊碑の除草作業

パラオの戦跡を調べるようになって随分と経ちましたが、まだまだ
書きたいことがたくさんあります。お見せしたい写真もたくさんあります。
決して出し惜しみしているのではなくて追い付かないのです。

資料も揃っていて、出版もしたいのですが、
自分一人で自宅で細々と作業しているものですから、なかなか進みません。
しかし少しずつではありますが、パラオ戦跡の現状をお伝えしたく
書いて参ります。

今回はアンガウル島平和慰霊公園の除草作業の様子です。

運よく船のエンジンが好調だったので単身、アンガウル島へ渡りました。
私は久し振りに訪れる日本人でありました。
船が波止場へ入港すると大勢の島民が集まりとても賑やか。もちろん
年配者で日本語を喋れる方が居て、暖かく迎えてくださいます。

早速、慰霊公園の様子を見に行きます。
11.6angaur06

南の島には冬がありません。よって一ヶ月も放置すればご覧の通りで
英霊に申し訳ない・・・。兎角アンガウル島は交通の便が悪く
清掃などが行き届かないのです。

まず、雑草を片っ端から引っこ抜きます。
時間がかかりましたがなんとか終了し
コンクリートの土台には米松の葉がたまっていたので掃き掃除して、
慰霊碑を綺麗に拭いたら完了です。
11.6angau07r
綺麗になりました。慰霊碑は画面右から

■少年の象

■砲兵隊慰霊碑

■船坂弘氏建立の慰霊碑

■下野観音象
(栃木県知事横山信夫1973年)

■守備隊長後藤丑雄大佐の墓
(無名戦士の墓から改め)

■アンガウル戦没者慰霊碑

■沖縄の塔

■各個人慰霊塔

の順に並んでいます。

11.6angaur08
11.6angaur09
11.6angaur04

綺麗になったところでようやく慰霊ができます。

「これを兄貴に飲ませてやってくれ」

ご遺族から預かってきたお酒をお供えします。
栃木の地酒です。

おそらくここで散華されたのでしょう
激戦のレッドビーチにも注ぎました。
11.6angaur02

熱帯低気圧が来ているのでだいぶ海が時化てます。まさかこの後
帰りの船が欠航になって10日間も島に閉じ込められるとは
この時点では思いもしませんでした。


つづく

2012年9月 2日 (日)

恐竜の生き残りか!?パラオオオトカゲ

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アンガウル島にはここでしか見ることのできない生き物が多く
棲息しています。

特にホタルが見事です。日が暮れてから間もなく、滑走路東側の
道を歩くと見ることができます。日本のホタルと違って白い光を
放ちます。パラオでホタルが見られるのはアンガウル島だけです。

そして何といっても驚くのがこの「オオトカゲ」です。

アンガウルでこいつを初めて見たとき
一瞬「恐竜の生き残りか!?」と錯覚するほどの衝撃でした。
パラオオオトカゲと言って、多いなものは
1メートル50センチくらいになります。元々はインドネシア産で
ネズミ駆除のため持ち込まれたと言われています。
大きいので、のっしのっしと、一見鈍重そうな印象ですが、実は正反対。
とても俊敏で「ガサガサガサ!!!」と逃げ足が物凄く速いのです。
木登りも上手です。このオオトカゲも苦労してカメラに収めました。
戦争中は兵隊さんの食糧にもなったそうです。
大きいので食べごたえがありそうです。

2012年7月24日 (火)

「私達も一緒に戦わせて欲しい」アンガウル玉砕戦

01


◆アンガウルの戦いを、どうか忘れないでください。


これだけの兵力差がありながら約1ヶ月間もの間、
抗戦を続けたアンガウル島守備の宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言えます。

私は生まれも育ちも栃木の宇都宮で、その縁あって
パラオでの慰霊を続けています。近所にも遺族がお住まいです。

ペリリュー島ばかりが目立つけれど、アンガウル島の戦いも
どうか忘れないでください。

◆ペリリュー島では民間人の犠牲者がゼロだったと
美談の如く、流布されていますが、間違いです。ペリリュー島でも
疎開せず隠れていた島民がおり、犠牲になった島民の方が存在します。
さらには「わたしたちも戦わせてほしい」と島民が
申し出たといった逸話も、やはりアンガウルが発端です。

◆昭和19年10月19日、そのアンガウル島で最後の突撃間際に島民と
松澤豊中尉(砲兵第二中隊小隊長、長野県出身)の間で交わされた会話が
あります。
次のようなものでした。

島民「わたしたちも一緒に戦わせて欲しい」

松澤中尉「皆さんは日本人でないのに今までよく協力してくれました。
我々軍人は祖国日本の為に死なねばなりません。皆さんはその必要は
ありませんから投降して米軍の保語を受けなさい。これは後藤隊長の厳命です」


◆米軍による投降勧告は9/25以降続けられていたが
10月に入り、今まで糧秣搬送、陣地監視に協力していた
島民の投稿が出てきた。(松澤中尉のすすめなどあり)
10/9まで168名(栄養失調150名)投降した。※

※栄光の五九聯隊246頁より


◆以下資料
アンガウル玉砕戦

■アンガウルで上陸戦が開始されたのはペリリュー上陸の二日後、
9月17日であった。
上陸したのは米陸軍第81師団の2コ連隊、砲兵4コ
大隊(50門)戦車1コ大隊(M4戦車
50輌)基幹の約21000名で日本守備隊
(兵站等含む総勢1200名)の20倍の大兵力であった。

日本守備隊はアンガウル島でも複郭陣地に潜みゲリラ戦を展開し、徹底抗戦した。

■10月19日、守備隊長後藤少佐は最後の斬り込みを敢行。守備隊は玉砕し
アンガウルの組織的戦闘は終結した。これだけの兵力差がありながら
約1ヶ月間もの間、抗戦を続けた宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言える。

アンガウルでの戦没者 陸軍1144名、海軍6名 合計1150名
米軍の戦死260名戦傷1354名

ペリリュー玉砕戦

■上陸戦は昭和19年9月15日に開始された。
アメリカ軍戦力は第一海兵師団24234名、予備隊として陸軍第81師団
19741名。総勢48140名

重機関銃1436挺、火砲迫撃砲から榴弾砲など729門、ロケットランチャー180門、
戦車117輌。

これに対し、日本軍守備隊は9838名。主要兵器は機関銃58挺、
13ミリ対戦車砲から
105ミリ曲射砲まで火砲200門程度、軽戦車17輌。

兵力で比較すると四倍、機関銃は6倍、火砲3.5倍、戦車10倍であった。

さらに、沖合を取り巻く艦船や艦載機により、ペリリュー島へ対する事前の砲爆撃は
熾烈を極め、艦砲射撃で3490トン、空爆で507トンもの爆弾が投下されていた。

■海兵隊を率いるリュパータス少将はこの圧倒的優勢を楽観視し
戦闘は二日ないし三日で
終わるであろうと予想した。しかし、日本守備隊は
水際作戦で海兵隊に大打撃を与え、
上陸後も複郭陣地を利用したゲリラ戦を展開。

この戦いで水戸第二連隊全部隊、高崎第十五連隊(内、第二大隊、第三大隊)
海軍(応急)陸戦隊が玉砕した。

■11月24日16時、守備隊長の中川大佐は、玉砕を告げる電文
『サクラ・サクラ』を連送し、自決。

これをもって守備隊の組織的戦闘は終結し、米軍は事実上のペリリュー島
占領を達成した。

■この後もなお抗戦を続けた将兵が存在した。最後の34名が澄川道男少将の
説得、
命令解除によりようやく戦闘を中止したのは降伏から2年を経た
昭和22年4月28日であった。

■アメリカ軍の戦死傷者は8844名(戦死1684名)でさらに錯乱や精神異常を
訴える者が続出した。

2011年9月 9日 (金)

アンガウル島にカラオケ屋がオープン

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アンガウル島にカラオケ屋がオープンし、話題を集めています。

私はまだ実際に入っていないので、曲目や利用方法、デンモクはあるのか、などなど、

詳しくは書けないのです。どなたか確かめに行ってきてくれませんか。

 

兎角、オープンして島民に話題になっているのは確かですから

「カラオケハウス」と言えば通じるはずです。

 

※写真はアンガウル島、西港。

2011年8月28日 (日)

カジキ

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ブリッジに掲げられているのはアンガウル州旗。

ロックアイランド内の航行は続きます。

 

海は穏やかですが、エンジンの大きな音がウォンウォン体にまで響きます。

排気管の位置が悪く、排気ガスの匂いが散らずに船内を漂い、これがけっこう堪えます。

 

・・・ん?何やら、船尾のほうが騒がしい。

直後、ストンとエンジンが止まりました。海上で故障かと思い、焦りました。

 

しかし、そうではなかったのです。事の正体は

船尾に垂らせれた釣り糸が、ピンと張り、それが右へ左へ暴れ始めたのです。

それを引く屈強な男性がいます。こんな形で釣りをしているとは予想外でした。

定期船ですから、定められた本来なら航路を航行しなければならないのですが

(それが最短距離でもあります)魚の多い海域を選んで大回りしているのです。

 

長い格闘の末、ついに往生したか、釣り上げられたのはでっかいカジキ!!

周りは歓声を上げています。鋭い角が光っていましたが、それが危険らしく

真っ先に切り落としていました。

 

キャプテンがそれを見届けるとエンジンを始動し、また穏やかな航行を再開しました。

ふたたび釣り針にエサがつけられ、船尾から海に垂らされました。
 
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2011年8月27日 (土)

ブリッジへ

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階段を上って、ブリッジ(操舵室)へやってきました。お邪魔します。

この船のキャプテンです!

定期船は、気軽にブリッジへ行けて、出入りも自由なのであります。

ブリッジ内には長椅子が据え付けてあり、そこで横になって

グーグー寝ているオキャクサン(パラオ語)もいました。キャプテンの隣では

おばさんが何か食べてますね。

IMGP5563

眺めが最高です。潮風を浴びて気持ち良い。

ペリリューまではリーフ内を航行するので、ほとんど揺れません。

水面を見てください。凪いでいます。

IMGP5564

両舵、前進強速~!よ~そろ!!

 

そうだ。唯一揺れるのは、観光客のスピードボートが側を追い抜いて行くときです。

スピードボートがかき分けた波がうねりとなって、やってきて、こちらの横っ腹を叩きつけます。

 

スピードボートならペリリューまで1時間。

この定期船はのんびり、ゆっくり、3時間かかります。
 
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抜錨

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時刻は12時ちょうど。いよいよ抜錨です。

画面右側に停泊している船が後を追って出航するペリリュー行き、
いま私が乗っている船がアンガウル行きで、岸を離れたところです。

※紛らわしいので一応記しておきます。
私が乗っているのはアンガウル行きの船ですが、日によって途中ペリリューに寄るので
今回はそれを利用してペリリューで降ろしてもらいます。

■定期船スケジュール
ペリリュー行き、週に2往復(14時出航)
アンガウル行き、週に1往復のみ(12時出航)
いずれも片道5ドル
(2011年6月現在)

ですから、定期船のみでアンガウルへ行きたい場合は最低でも一週間の滞在が必要
なってしまいます。
それに加えて、最近はいずれの船もエンジンの不調を抱えていて
欠航や延期になることも珍しくありません。

ああ、そうだ。この船には
救命胴衣が無いので、泳げない方は覚悟を決めましょう。
 
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2011年8月25日 (木)

マラカル波止場

ここはマラカルの波止場です。ここからペリリュー、アンガウルへの定期船が出ています。

運賃は片道5ドル。

スピードボートも良いのですが

ローカルが集う定期船に乗って楽しむのも醍醐味です。

出航前の様子です。たくさんの物資を積みます。これはぜんぶビール。

パラワンはビールが大好き。

これはバドライトですけど、日本の「アサヒ」も人気ですよ。

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こんなお客さんも。

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出航前の波止場はとても賑やかです。

用はないけど見にくる人も多くいます。

荷物の隙間に設けられた座席に座って、出航を待ちます。わくわく。
 
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2011年8月11日 (木)

ガスマスク

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これもペリリューの複郭陣地に落ちていました。

日本陸軍のガスマスクの一部(ろ過器)です。

実際に戦いで用いる機会はありませんでしたし

身に着けると、とても重くて邪魔なので、皆、捨ててしまいました。

2011年8月 6日 (土)

海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)

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◆二式大艇の陸揚げ整備基地

アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。

水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。

九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。

スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。

近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
 
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。

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現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く

感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。

ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。

  

※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが

同じようなスロープがあります。

 

◆アラカベサン水上基地概要

アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる
巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。

この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
 
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
 
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。

◆アラカベサン水上基地の歴史

昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)
を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が
認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し
2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、
飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
 
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
 
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。

基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった
軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の
指揮下におかれた。
 

◆海軍乙事件の発生

昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)

3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。

同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。

 

2011年8月 5日 (金)

手榴弾

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ペリリュー島、複郭陣地で見つけた、日本軍の手榴弾です。

守備隊の兵は自決用に一個持たされていました。ご覧の通り、不発弾でありますが

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな気持ちだったのでしょうか。

 

攻撃側の米兵は負傷すると後方に下げられ、手厚い治療を受けることができました。

しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場はありません。

なんと言っても衛生材料(治療の薬や包帯)が無いので、助かる命も

助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかったのです。

文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、長期化に持ち込みました。

 

米軍の手榴弾も載せておきます。

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これは壕の中にありました。画面左が日本、右が米軍の手榴弾です。

誰かが並べたのでしょうか。ペリリューのジャングルでは今でも多くの不発弾や遺品、ご遺骨が

手付かずで眠っています。特にこうした不発弾を見つけても、決して手を触れず

ガイドの指示に従って頂きますようお願いします。