2016年12月15日 (木)

「探してます」→「知ってます」情報共有掲示板

この頁は調査をされている方の情報共有掲示板と致します。
各種調査にお使いください。検索エンジンから多くの方が訪れますので
何か手がかりがつかめるかもしれません。
 
書込みむ際のお願い
・身内の方で戦没者の調べ方についてはコチラをご覧ください。
・無記名・匿名はご遠慮ください。
・他の閲覧者に配慮が頂けない書込みは予告なく削除します。
・連絡先交換等は自由ですが、個人間のやりとりは当サイトで責任は負いかねます。

2016年11月17日 (木)

パラオ本島(バベルダオブ島)の零戦52型甲

パラオの零戦

パラオの零戦

パラオの零戦

パラオ本島(バベルダオブ島)沿岸に眠る零戦52型甲です。
地元の方には昔から知られていましたが、最近になって
公になってきたようです。 
 
写真は撮影されたM様承諾のもとお借りしています。
 
この零戦は零戦52型甲で三菱製であります。
零戦52型と比べると武装と防備が強化されたモデルとなっています。

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戦域の部隊配備状況から推測すると、
第201海軍航空隊、第261海軍航空隊第263海軍航空隊
第265海軍航空隊などがあげられますが、 私は
アイライを拠点にしたパラオ局地戦闘機隊の
第343海軍航空隊(初代隼)が確立として高いのではないかと
考えています。

2016年11月 7日 (月)

完売の見込みです

お陰様で
拙著『パラオ戦跡を歩く』の在庫が残り僅かとなってきました。
今すぐに売り切れることはないでしょう。しかしこのペースで試算致しますと 
半年程度での完売が予想されます。
諸々の事情により、第二版の予定は今のところございませんので
何卒ご容赦願います。

2016年11月 1日 (火)

九五式軽戦車(バベルダオブ島)

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Photo 
バベルダオブ島の九五式戦車を見に行ってきました。
 
この九五式戦車は昨年、ババルダオブ島のシャングル奥地で
発見されたばかりです。全部で六両以上が確認できました。

11月24日に編成された郡司三好大尉の師団直轄戦車隊と
推定されます。
 
郡司戦車隊は、ペリリューで玉砕した天野戦車隊の補充部隊として

編成され、そのままバベルダオブ島で終戦を迎えました。 
 
武装解除の際、米軍への引き渡しを拒み
隠密裏に土に埋めたものと思われます。

砲塔は失われていますが、内部の様子は当時のまま
保存されていました。周囲にはこの戦車のほかに
軍用車両が数多く眠っておりました。
 

当時の第十四師団編成表がこちらです。

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弾倉が確認できます。発掘してから雨ざらしなので
水がたまっています。

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こちらも水たまりのように見えますが、同じ戦車の天蓋です。
 
パラオで撮った写真は
たくさんあるので少しずつアップしています。

2016年10月 8日 (土)

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦)52型

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦52型)

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零戦をはじめとした陸海軍大戦機のフリー素材アイコンを作りました。
PNG形式でダウンロードできます。
画像一段目、ゼロ戦21型上、52型上
二段目、21型横、52型横
 
マーキングを省き素の状態ですので、
各自機番号等ペイントツールで入れてお使いになれます。
 
機番号やマーキングを入れてほしい方は
こちらでお入れすることもできますので、ご連絡ください。
 
21型のほかに、11型、22型、32型、52型甲、52型乙、52型丙、53型丙
62型、64型(試製54型丙)、零式練戦、二式水戦など、
全ての型式をご用意しておりますのでご希望の方は
別途お問い合わせください。三菱製、中島製がお選び頂けます。

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シルエット1、2段目、ゼロ戦52型。
3段目、晴嵐、疾風、流星
4段目、飛燕、震電となっています。
 
非営利に限り、無料でご利用になれます。
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
提供できますのでお問い合わせください。 
 

必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり

以下写真画像

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

2016年10月 6日 (木)

映画をやります

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ペリリュー島の戦いを描いた映画
『追憶』が来月公開されます。
 
こちらの映画で一部デザインを
担当させて
頂きました。
 
よろしければ映画館でご覧ください。
 
どんなデザインを担当したかは
ぜひエンドロールまで見てください(笑)
 
『追憶』公式サイトはこちら

2016年9月16日 (金)

パラオ遺骨収集 第二次調査派遣隊

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パラオ第二次調査派遣隊は、
水戸二連隊ペリリュー島慰霊会が主体となり
平成28年9月5日から14日迄の10日間
の日程を消化し無事帰国しました。
 
今回はペリリュー島・アンガウル島の両島へ分散して会員が
派遣されました。ペリリュー島は本隊4名で、厚生労働省職員が3名
随行、このほか現地の通訳1名、パラオ共和国文化省芸術文化局の職員1名。 
アンガウル島は本隊2名、通訳1名、厚生労働省職員なし、
文化省芸術文化局の職員1名の合計四名でした。
 
私はアンガウル隊でした。アンガウルは29年振りの遺骨収集となりました。
 
なお、水戸二連隊ペリリュー島慰霊会では
こうした遺骨帰還事業に参加頂ける方を募集しております。
もちろん旅費は日本国政府が負担します。
 
今後、遺骨収集の事業は新法人に移行しますが、
実際に派遣されるのは、それぞれの戦域でノウハウを持つ
戦友遺族会会員がメインとなるでしょう。
  
派遣先は、先ずは硫黄島となります。硫黄島で経験を積まれた方を
選抜し、外地(パラオ)へ派遣しております。
 
日本国を代表して行くので、気合が入ります。
今回は、島北西部の複郭陣地における
遺骨調査を実施しました。

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複郭陣地へのアクセスは、ジャングル内の道路を通行可能にする
ところから始まります。頻繁に現れる倒木を一本一本切断し
道を通行可能にしていきます。島民の方々の協力が必要です。
 

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青池側からのアクセスは特に困難を極めました。
台風に伴う倒木によって、日当たりがよくなったジャングルは
草が急激に成長し、茂みが深く深くなる為です。これらを蛮刀で
伐採して進むのですが、1分間で2、3メートル前身するのが
やっとの状態です。

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ガジュマルの根を切断して先へ先へ進む様子です。
ジャングルの踏破は、経験したものにしか理解できない
難しさがあります。地図上では僅かな距離も、時間がかかる上、
真っ直ぐ進むことすらままならない。こうした地形は
迂回するうちに方向がわからなくなります。GPSとコンパスを
確認しながら進みます。

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Photo

不発弾を踏まないように注意して進みます。
艦砲射撃で不発だった、巡洋艦クラスの砲弾。
こういった物が数多くあります。 

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地表骨は落ち葉が蓄積し発見は不可能なので、
岩場の窪みなどを重点的に捜索します。
 
ジャングルではアカムシと呼ばれるダニが棲んでおり、
これが地面から靴をつたって這い上がってきて主に足を刺します。
実はこれが一番厄介なやつです。
 
経験上、このアカムシにはある程度の潜伏期間があり、刺された直後は
なんともないものの、数日経過してから猛烈な痒みが発症し、
体質にもよりますが2週間ほど、痒みが残り、跡も消えません。
 
蚊のように目に見えるものでないので、
虫よけスプレーが必須ですが、それでも刺されます。
雨だったり、湿地帯で足を濡らしたりすると刺される確率が
さらに高くなります。
 
パラオではマラリアは確認されていませんが、デング熱があるので
注意は必要です。特に免疫が弱くなっているときは
リスクが大きくなります。
 

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青池からの進入が難しかったので、今度は反対側(海側)からの
進入を試みます。二荒山の麓から、山へ入っていきます。

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ここから入っていけそうということで
割合、高低差の少ない個所を選びます。

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先程のような茂みは少ないものの、
隆起珊瑚岩が剃刀のようにシャープです。
叩くとカンカンと高い音がする。
 
数年前、足を踏み外して、この隆起珊瑚岩に刺さり、
頸動脈を切って大出血した方がいるという事故の報告も
聞いています。血が全然止まらず、傷跡は消えません。
足を踏み外さないよう特に慎重に進みます。
 

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二荒山の陣地近く。
登ったり降りたりしながら複郭陣地内部へ。
 
地表骨は少ないので、
洞窟を探します。洞窟であれば、骨はそのまま残っている
可能性が高いので、今回の目標は先ず、洞窟を見つけることでした。

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左で駄目なら戻って右へ進みます。山岳部は三次元の大迷路で、
ルートを選ぶセンスがあるとのこと。
この辺り、パラオ人の現地ガイドはさすがであります。  

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隆起珊瑚岩は内陸部へ進むにつれて尖った部分が風化し
丸くなってきます。とはいえ油断は禁物であります。

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多くの場所にクレバス(大穴や亀裂)があります。
深さは数メートルから十数メートルにも及び、これを茂みが覆い
隠していることもありますので、よく見て足場を確認します。

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ガジュマルを足場に岩場を上り下りします。
 

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ようやく開けた場所に出ました。
ここが複郭陣地内部です。遺留品が多く、戦闘した形跡があります。
玉砕地点も近く。
大小の洞窟も発見し、中を捜索します。

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ここが二荒山鍾乳洞か?
大きな洞窟は何か所かあったのですが、
どれが二荒山鍾乳洞か、特定はできませんでした。
 
二荒山鍾乳洞とは、パラオ人の民間人が身をひそめていた洞窟で
最後の玉砕前、そのパラオ人たちが日本軍守備隊に
 
「我々も戦わせてほしい」と
願い出たという逸話が残っている事で有名です。
主にインターネットなどでは
ペリリュー島での出来事として語られていますが、それは誤りで
もともとは、ここアンガウルであったお話しです。
そして残念ながら、パラオ人の犠牲者もペリリュー島、
アンガウル島ともに出ています。
 

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ジャングルから出てきました。
これは米軍が建てた「解放記念碑」
 
残忍な日本軍によって戦争に巻き込まれ、
虐げられたパラオ人が、正義の米軍によって救出された、
という場所を記念するものであります。
 
正義とは、長い歴史の中で常に戦勝国によってのみ
作られ、語られてきました。
 
真実はどうだったかというと、
戦後、ペリリュー島、アンガウル島にも
米軍が進駐。アメリカ領土となります。ところが、アンガウルの島民議会では
「日本時代のほうが良かった。日本の統治に戻してもらおう」
という決議が下された事実があります。
 

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アンガウル滑走路を走って宿泊地に戻ります。
 
今回は多くの遺骨を発見したほか、
個体性のあるご遺骨として頭蓋骨も見つかりました。
今後の帰還事業に繋げたいと考えております。
ご遺骨の写真掲載は控えますが、日本へ帰ることを
願って、七十年以上も我々を待っていた戦没者の姿は
涙なしには語れません。
 
拙い文章で恐縮です。南方における遺骨収集がどんなものか
写真だけでも内容が伝われば幸いです。

2016年2月25日 (木)

硫黄島・ペリリュー島遺骨収集募集について

水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会では
硫黄島・ペリリュー島の調査・遺骨収集ならびに
会の運営に協力して頂ける方を募集しております。
特に昨今、会員の高齢化に伴い、若い方が少ない状態にあります。 
 
実施内容は以下の通りです。
 

1.硫黄島での遺骨収集
2.ペリリュー島での遺骨収集・調査

3.水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会の運営協力(事務等)
 
特に継続して会の運営に協力して頂ける方を募集しております。

先ずは平成二十八年度の慰霊祭にご参加ください。
よろしくお願い致します。
 
水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会公式ホームページ

2015年12月11日 (金)

ペリリュー島のラストサムライ(1)

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ペリリュー島のラストサムライ
永井敬司さんのお話(1)
 
今回は水戸歩兵第二連隊の元軍曹の永井敬司さんにお話を伺った。
永井敬司さんは昭和19年9月のペリリュー島で上陸戦から
昭和22年まで終戦を
信じず戦った。
 
何回かにわけて書くことにします。永井敬司さんは93歳。
水戸歩兵第二連隊第二大隊(富田少佐指揮)本部付。
一万人の将兵が玉砕したペリリュー島で生還した
日本軍
正規兵34名の中の一人。
 

Q.篠原
ペリリュー島の戦いについてお伺いします。

A.永井さん
私は昭和19年の9月15日の上陸戦から
その前から随分艦砲射撃はあったんだけども、
いわゆる中川州男大佐が戦死したとされる11月24日までと、
その後、終戦を信じず、昭和22年までペリリュー島で
戦いました。生き残ったのは我々34名だけです。

Q.篠原
戦友の最期の姿は覚えていらっしゃいますか。

A.永井さん
みんな真面目に死んでいきましたよ。
それこそ純粋な気持ちでね。「天皇陛下万歳」といってね。

Q.篠原
最期は「お母さん」と叫んだのではないのですか。

A.永井さん
そんな女々しいのはいなかったですよ。いないいない。
そんなのいないかんね。嘘だかんね。私らの第二連隊は
よく訓練されていたから。少なくとも私の見た限りはね。
最後はやはり「天皇陛下万歳」です。
だいたい、22歳から23歳くらいの年の兵隊が多かった。
年長者でも25歳くらいです。そういう若い人たちが大勢、大勢
本当に真面目に死んでいったんです。太平洋の防波堤たれということでね。
あなたはその年齢で、そういうことが出来ますか。


Q.篠原
富田少佐の最期は自決だったのですか?

A.永井さん
自決じゃないですよ。富田少佐の最期は突撃です。
私は大隊本部にいたから見ていました。
一日目のイシマツ、イワマツ陣地(オレンジビーチ)の戦いで、
二日目に私らが到着したときは、死体が累々だった。
米軍の死体もね。南地区隊の高崎連隊の千明大隊長が頑張ってくれて、
大打撃を与えたんですね。

当初は富田大隊長が自決しようとしたんですけど、
周りが止めたんです。「大隊長、自決より突撃をしましょう」とね。
それで、富田大隊長は軍刀をスっと抜いてね、
「それでは」と言って敵陣に斬り込んで行きました。
それが大隊長を見た最後でした。

同時に無傷だった天山の砲兵陣地から掩護射撃がありました。
富田大隊長は、その友軍の援護射撃の中を突っ込んでいきました。
もしかしたら、その爆風でやられたかもしれない。熾烈なものでした。
それが二日目の夕方くらいだったかな。

Q.篠原
国の為に真面目に死んでゆく、という概念が
我々戦後世代にどうやったら少しでも理解できるでしょうか。

A.永井さん
こればっかりは当時を生きていないと難しいんじゃないですか。
私は昭和22年まで終戦を信じず戦いました。

そのことを某新聞社が「手を上げて投降した」と書いたんです。
そこで私はその新聞社と大ゲンカになりましてね、
最後まで記事を取り下げなかった。
これは私だけの問題ではないんですよ。
真面目に死んでいった戦友たちの名誉の問題でもあるんです。

死んだ戦友たちの・・・名誉の問題なのですよ。

昭和22年に澄川少将の命令解除を受けて
我々はようやくジャングルから出てきました。

そこでアメリカ軍の司令官が言ったんです。
「あなた方は捕虜ではありませんよ。捕虜というのは
戦争中に捕まった兵隊を指すのだから、もう戦争が終わって
立派に任務を遂行したではないですか」と
アメリカ軍の司令官がそう言ってくれたんです。

それなのに某新聞社は手を上げて
捕虜になったなどと・・・・私らは、死んだ戦友は
国のために最後まで戦ったんです。

Q.
アメリカ軍と戦って、アメリカ兵に
どういった感情を持っていましたか。

A.永井さん
憎らしいということはなかったですね。アメリカ兵の
死体を見ると、みんなまだ若いんですよ。私らと同じようにね。
この人たちにも祖国アメリカには恋人や奥さんや、家族がいる。
そう思うと、かわいそうになりましてね。
だけど、やらなきゃやられてしまうから戦いました。

 
つづく
 

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2015年12月 7日 (月)

『緑の島のお墓』をミシェルさんに歌って頂きました

私のサイトをご覧くださり、歌ってくださいました。
嬉しい限りです。募集内容はこちらです。
まだまだ多くの方が歌ってくださることを願っています。
 
今回の唄はプロ歌手のミシェルさんです。
よろしければお聴きください。
 


YouTube: 緑の島のお墓/ミシェル~天草の海辺より

▲ミシェルさん歌唱

緑の島のお墓 
YouTube: 緑の島のお墓
 
▲ピアノソロ・久保亜未
こちらは伴奏用です。ぜひ唄をつけてお送りください。 

2015年8月12日 (水)

天皇陛下ペリリュー島訪問の裏話その2

陛下がパラオを訪問された時のエピソードです。
ペリリュー島の西太平洋戦没者慰霊碑へ陛下が到着する前
参列者に向けて、宮内庁職員から次のような通知がありました。
 
「もし、雨が降った場合ですが、参列者の方々は必ず、雨具を身に
着けるようお願いします。陛下は、参列者(国民)の一人でも雨に濡れているのを
ご覧になると傘をお使いになることを、固く辞退なさいます。ですから、
何卒、お願いします」
 
当日は好天に恵まれましたが、そういったエピソードがあったことを
ここに記しておきます。

2015年8月10日 (月)

パラオ戦跡ガイドブックを発売しました

 

拙著『パラオ戦跡を歩く』お陰様で本日発売となりました。
図や写真メインのビジュアル重視の本となっています。
現地MAP、ペリリュー島、アンガウル島の戦史資料
戦場写真などが付属します。
 
販売ページから少し立ち読みが出来ます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019

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http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019


2015年5月28日 (木)

パラオ天皇陛下訪問の裏話

倉田洋二氏と土田喜代一氏

 
倉田洋二氏と土田喜代一氏の再開

ペリリュー・アンガウル島の戦いは玉砕戦なので原則的に「生き残り」は
存在しないという概念だが、
倉田氏はアンガウル島で、土田氏は
ペリリュー島で戦い、奇跡的に生還された。
 
陛下との謁見
陛下が倉田氏にお言葉をかけられると、倉田氏は
「戦友に代わってお礼申し上げます」と短く答えた。倉田氏はアンガウル島の
戦闘で重傷を負っており、
歩行はもちろん、身体を満足に動かすことすら
できなかった。
そのため最後の玉砕突撃に参加できず、死に損って
(あえてこの表現を用いる)
後藤少佐最後の突撃を見送った。
  
皇后様から身体の気遣いを受けた倉田氏は
「70年間、片手でしか顔を洗えておりません。このように汚い顔をしております」
と答えた。
「名簿」の話は最後までできなかった。
 
10キロ先に浮かぶアンガウル島が晴れていて見えた。
陛下はペリリューの慰霊碑に拝礼されたあと、防波堤付近まで歩み寄り
アンガウル島へも拝礼された。私は素直に「ああ、よかった」と感じた。
陛下はアンガウルのことも気にかけてくださっていたのだと。
そしてこれが曇天なら、島は見えなかったであろう。
 
名簿とは
「僕だけ陛下に拝謁するんじゃ戦友に申し訳ないから戦死者1200名の名簿を
作ったよ」そういって倉田氏は
戦友の名簿を大切に持って、いや戦友と共に
式典に参列した。
 
この名簿の編纂作業には私も加わったのだが、テレビ局が
「どれくらい時間がかかったのですか?」と聞く。
アンガウル島、ならびにペリリュー島の戦死者名は公式記録されておらず
船坂弘氏が戦後、全国を走り回って、個人的に独力で名簿を作成した。
現在は様々な書物に転用されているが、大元は船坂氏の努力の賜物で
あることを
忘れてはならない。すべては戦友の弔いのために。
 
これを我々の編纂チームが
さらに精査し、戦友はもとより戦闘に巻き込まれた
軍属、パラオ人(民間人)を
含めた名簿を作成した。だからかかった時間をと
問われれば
その経緯を始めから説明しなければならない。
 
名簿を作成する経緯で、遺族との温度差に泣かされる場合も多かった。
戦死者の多くは20代前半の現役兵なので妻を持たずに出征し直近の
子孫が途絶えていることが多い。兄弟が存命であれば
慰霊に対する思い
入れも強いが甥や姪に調査協力を乞うても、直系でないので
ほとんど関心
が無いか、そっけなく断られたりすることも非常に多い。
この点、士官以上
は年齢的にも妻や子が居て出征しているので
割合にご子息が協力してくれる。
 
ペリリューの中川大佐は妻はあったが
子供が居なかったので直系の子孫は
存在しない。代わりに烏丸連隊旗手を
子供のようにかわいがった
というエピソードが有名である。
 
最近は孫、ひ孫世代が興味を持ってここへ問い合わせをしてくれるので嬉しい。
戦没者遺族会というのは地域ごとに存在するが、慰霊旅行の補助金が政府
から
出るのは子供世代までなので、これも孫までの伝承が難しくなっている
一因ではないか。
とにかく、たいへんな苦労の末、1200名の戦友とともに
式典に参列することができた。
 
あきつしま搭載ヘリ
海上保安庁の巡視船「あきつしま」にはヘリが二機搭載されている。
ペリリュー飛行場にはこの二機ともに飛来、着陸した。
どちらに陛下が搭乗されているかはわからない。
 
ペリリュー飛行場は旧帝国海軍屈指の航空基地であった。ここから多くの
飛行兵が飛び立っていって
そして、多くは二度と帰ってこなかった。
現在は荒れ果てたサンゴダストで固められただけの未舗装の滑走路が
一本のみ残る。
未舗装とはいえ、固い珊瑚岩の上に築かれた滑走路である。
 
昭和19年頃は重武装の一式陸攻や爆撃機銀河などが離着陸していた
のだからヘリの
着陸には全く心配ないのだろうが、宮内庁の職員が事前
視察した際、着陸には
舗装の要ありと判断したため、今回の陛下訪問前に
急遽、飛行場一角に舗装した
ヘリポートを造成した。宮内庁の安全にかける
徹底ぶりには、ただただ驚く。
 
陛下の島内移動にはドルフィンベイリゾート所有の、普段はダイビング客の
送迎や戦跡ツアーに利用させている
マイクロバスが選ばれた。ドルフィンベイ
リゾートのマユミオーナーは
「こんなのでいいんですか?」と言っていたが
一番、コンディションが良く、エアコンも故障していない車だった。
 
式典の参加者
式典の当日、西太平洋戦没者慰霊碑公園には事前に認可を受けた
18社の報道機関と戦友、遺族会が参列した。式典会場までは両岸を挟んだ
一本道なので完全閉鎖した。
 
コロールで足止めをくったものも多い。どんなに頑張っても途中に海があるの
だからペリリュー島までは
行くことはできない。島へ渡るボートの数も限られて
いるうえに宿泊施設が少ないので島へ滞在できる人間は限られる。
キャンプ・野宿は禁止である。
島へ渡りたくても渡れない状況、しかしこれが
セキュリティ面で幸いした。
過激な右翼団体などはコロールに留まったし
ペリリューに居たのは
ペリリュー島民とマスコミ関係者くらいだった。
各社ともに
今や珍しくなったダイヤルアップ回線で、一生懸命日本に記事を
送信していた。
 
オレンジビーチの米軍慰霊碑へ 
太平洋戦没者慰霊碑で式典が行われた後は
オレンジビーチにあるアメリカ陸軍第81師団モニュメントにて(旧千人墓地)
で米軍兵士への慰霊が行われた。これには
米軍オフィサーが参加した。
 
ペリリュー島の攻略はふたつの部隊が行った。強襲揚陸でもっとも苦戦を
強いられたのが第一海兵師団で兵力の60%を戦死傷により損耗した。
陸軍81師団はその後、増援部隊として海兵隊に続き掃討戦にあたった
部隊であるが、
今回は、陛下のスケジュールの都合かオレンジビーチの
81師団のモニュメントの
慰霊にとどまった。
 
なお、第一海兵師団のモニュメントはもっと山を登った
ペリリュー神社近く
大山の麓にある。
 
パラオ国際空港は旧海軍飛行場
陛下の到着されたパラオ国際空港は
旧帝国海軍の航空基地(旧アイライ飛行場)である。
昭和19年には連合艦隊の武蔵がパラオに投錨し武蔵に乗船していた陸軍
一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ
飛行場建設に尽力した。
建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であった。
 
勤労奉仕を行う者の中には中学生も混じっていた。
「ここに飛行場を作れば日本の戦闘機がたくさん来るから」と言われたので
彼らは懸命に汗を流した。作業中に飛行機が飛来したので、中学生二名が
喜び飛び出していくとそれは米軍機だった。
彼らは米軍機の機銃掃射を
受け死んだ。
こうしてたいへんな努力と犠牲の末、全長1400メートルに及ぶ
滑走路を完成させるに至った。
 
完成した飛行場は戦局の悪化に伴い同年6月までという僅かな期間で
あったが
主に零戦(第343海軍航空隊「初代・隼」)の基地として運用された。
終戦とともにアイライ飛行場は米軍に接収され、アスファルトで舗装され
それが現在のパラオ国際空港となった。
 
現在はその面影を見ることはできないが、飛行場には大勢の人々の
血と汗と涙が染みこんでいる。
 
パラオ国際空港の滑走路は距離が短いため、離着陸が可能なのは
B-757、B-767などの中型機が限度で日本の政府専用機の
ボーイングB747
(通称ジャンボジェット機)は着陸できない。
そのため、今回陛下が搭乗した機体は民間のチャーター機で
ANA-767-300(機体番号JA625A)であった。
 
コロールで移動に使われた車はインフィニティのようである。
普段は大統領の車だと思う。こういった上等な車はパラオでも
一台か二台しか見たことが無い。
 
マスコミの取材攻勢
今回、倉田氏、土田氏ともに多くの取材を受けた。
特にアンガウルの倉田氏はあまり表に出るタイプではないが
「戦友のためなら」と報道陣の求めに必死に応じてきた。
すっかり疲れ切ってしまったが、常に無念に散って行った
戦友が傍らにいる。戦友のためだった。
 
「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ、戦死した戦友に顔向けできなくてね」
普段から、そんな話を私は聞いていた。倉田氏は取材攻勢にすっかり疲れ
切ってしまい、あれから一ヶ月
以上たった今でも体調がすぐれないという。
 
そして日本テレビは天皇陛下の訪問が正式決定する前より
ペリリューの土田氏に密着取材を行っており、今回もその一部であった。
撮影時間には常に余裕を持って高齢の土田氏に常に気を遣い、お身体の
具合が悪かったら
無理しないでくださいね、とこちらのこちらのペースに
合わせてくれた。
日本テレビはとても紳士的な対応だった。
 
ところが直前になって他社が殺到してきた。土田氏は空いた時間を利用して
他社のインタビューにも答えていたが
各社の凌ぎ合いは凄まじく、奪い合い
のような状況といっても
言い過ぎでない。お二方共に高齢である。それを
メディアごとに同じ質問をするものだから大変だった。
 
「ジャングルの中を歩くシーンを撮りたい」などとどの社もリクエストするもの
だから、お二人ともすっかり疲れてしまった。
 
民放の取材チーム(カメラマンと取材クルーなど、一通り揃って1組)は
1チームか多くても2チームである。一方、NHKは8チーム体制であった。
ある民放関係者は「とてもNHKさんにはかないませんよ」
資金力も組織力も
民放と比べ物にならないほど莫大である。
 
一番過酷なのは某新聞社の記者で、段取りが悪いのか、上司が無茶を
言うのか、
たった一人、ペリリューへ渡った。なんと宿の予約もないという。
もう島へ渡ってしまっては仕方ない。例外的に満杯の宿へ押し込んだ。
車がすべて押さえられているのでチェーンのよく外れる自転車で他社の
車を追っていた。
これを見ていた日本テレビのクルーが車に乗せてくれた。
 
一方、コロールでは
ここぞとばかりにユニークなパラオの文化をネタにしようと
各社取材を行っていた。どこの局も日本統治時代の年配パラオ人に取材が
したいらしい。シニアセンターへ行けばいいのだがシニアセンター
「取材はNO」だそうだ。それでも日本の取材チームが食い下がると
なんと出演料金表が出てきた!取材内容に応じて細かく料金が分かれている。
これは合理的なシステムだ。パラオ人は取材に振り回されることも無く
しっかりしている。
 
そしてWRTCショッピングセンターでも取材交渉が。どうしても「チチバンド」を
言わせたいらしい。
根負けした責任者が撮影許可を出して
女性店員にブラジャーを持たせて「チチバンド!」と言わせていた。
取材クルーは大真面目だが、はたからみれば滑稽だ。
それから人気のパラオ語は「ツカレナオース」だった。
これも言わせたいので、無理矢理乾杯のシーンを撮っていた。
 
嵐が去って
日本のマスコミはパラオのキャパシティを理解していなかった。
人口2万人足らず、インフラも十分に整っていない島国で過大な要求を
し過ぎた。日本のテレビ局の無茶な要求は
日本国内においてはある程度
わがまま言っても通るのだろうが、
パラオは勝手が違う。テレビ局が言っても
無理なものは無理なのである。これらは全て
過度な負担となってパラオの
住民に重くのしかかった。
 
思いつくまま書いたのでメモ書きのような形になってしまったが
陛下のパラオ訪問の状況が少しでも伝わればと思う。
 
ようやく嵐は去って、のんびりとした、いつも通りのパラオに戻りつつある。

2015年5月15日 (金)

『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』刊行

パラオ共和国にある日本の慰霊碑

 

倉田洋二先生の監修で『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』という
小冊子を刊行しました。私も調査に携わり、パラオの島々を巡り、
慰霊碑の現状(破損状態も含む)を徹底調査し、記録しました。
バベルダオブ島からソンソール諸島まで、116基の慰霊碑が
確認されています。「慰霊碑にお参りしたいが、どこにあるのかわからない」
という方への道しるべとしてもお使いになれますが、
歴史的な資料として後世に残すことを主旨に作成したものです。
 
希望される方には配布していますのでご連絡ください。
なお、7月により正確な慰霊碑のGPSデータを
添付したものを再版予定です。
 
 
パラオ共和国にある日本の慰霊碑

2015年5月 9日 (土)

プルメリア(エリライ)

プルメリア

プルメリア

プルメリア

プルメリア

パラオのプルメリアは美しい。プルメリアは英名であり、
パラオ語では「エリライ」と称する。
 
木によって形や色が違う。上の写真2枚はアンガウル島で撮影した
エリライで、近くにある木だが形がかなり異なる。次の二枚は
ペリリュー島の小学校近くで撮影した。
 
プルメリア(エイライ)はキョウチクトウ科に属する植物で高さ5メートルほどの
木に咲く。木の高いところは届かないが、枝下の花なら充分観察できる。
パラオの花は白から黄色が多く、ピンクの割合が少々。
(そういえばグアム島ではピンクが多かった印象を受ける)
ただし乳汁は有毒なので注意が必要。
 
気に入った花があれば、立ち止まって観察してはどうだろうか。
 

プルメリア

 

2015年4月23日 (木)

パラオ・ペリリューの戦いにおける民間犠牲者について

パラオ・ペリリュー島の戦いにおいて民間人(パラオ人)の犠牲者は
いなかった(ゼロ)とネットを中心に美談として広がっているが、残念なことに
実際のところは死者が出ている。戦没者名簿には島民の名前が
記されている上、実際にペリリュー島から逃げず、戦争が終わるまで
隠れていたという証言も私は現地で聞いた。
 
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Photo▲ペリリュー北のガラカヨ(現在のカープ島)で米軍将校に救出されたパラオ人家族。
 米兵からキャンディーを受け取る様子(上)家族はこの後軍医の診察を受けた(下)
 昭和19年9月

 
しかし日本陸軍としては、当初から島民の命を救うべく強制疎開を最優先
事項として実施したのは事実である。日本陸軍は原則、民間人を戦闘に
巻き込まないのが鉄則であり、軍規である。そんな陸軍の
懸命な策あっても、疎開の船に乗り遅れたり、故郷を離れることを拒んだ
島民も存在した。そのため一人も漏らさず、というのは残念ながら
達成できずにいた。
 
そして皮肉にも疎開先であるパラオ本島(バベルダオブ島)で
米軍の銃爆撃を受け、命を落としたパラオ人も多かった。
これは天皇陛下もパラオ訪問時に言及されている。
 
「バベルダオブで米軍機の機銃掃射を受けて父が死んだ」などの
悲惨な戦争証言がパラオ人の間で根強く残っているが
これはもちろん、米兵による非戦闘員への虐殺行為であり、
重大な戦争犯罪として立件されるべきなのだが、裁かれることは無かった。
 
当時、 どれくらいの島民を疎開させる必要があったのだろうか。
昭和18年6月末の統計によると、当時
ペリリュー島の人口は日本人が160人、パラオ人が899人、朝鮮人1人
アンガウル島は日本人が1325人、パラオ人が754人、朝鮮人が539名
であった。
 
アンガウル島のほうが人口が多いのは良質な燐が採掘できたからで
ペリリューにも燐鉱はあったが、規模は小さかった。朝鮮人のほとんどは
燐鉱採掘の従事者である。
 
朝鮮人軍属の戦死
ペリリュー島においては、上陸戦が行われる前の昭和19年
トンネル掘削や飛行場整備のための朝鮮人軍属が動員されていた。
この朝鮮人軍属を臨時の歩兵として北部守備隊に編入し、ペリリュー
戦を展開したので、それで戦死した朝鮮人は民間人の死亡あたらないのか、
見解がわかれるところだ。朝鮮人は正規の日本兵と異なり
配属の指揮官によるところが大きいが、戦闘を強いられず
米軍に投降した例も多い。
 
パラオ人の戦死
ペリリュー島に限ればおよそ900名の民間人を
疎開させる必要があったが、これを拒んだり、疎開船に乗れず
島に残った者、数名が戦死した。アンガウル島はもっと多い。
最後一隻の疎開船が上陸戦までに間に合わず、犠牲と
なってしまった。

2015年3月14日 (土)

中川大佐と村井少将と伊藤海軍少将

村井権治郎少将、ペリリューへ
ペリリュー島守備隊の総司令官が陸軍の中川州男大佐であったのは

周知であるが、中川大佐より階級が上の村井権治郎少将
追ってペリリュー島へ派遣される。
 
通例であれば上級の村井少将が指揮権を掌握するが
ペリリュー島の戦いにおいては中川大佐が最高司令官として
戦うことを決定し、師団の方針とした。
 
これが疑問だと尋ねられることが多いので
村井少将がペリリュー島でどのような役割を担ったのか、
ここで述べたい。師団の方針は次のようなものだった。
 
「村井少将を戦術顧問としてペリリュー島へ派遣する。
指揮権は中川大佐が持ち、村井少将はあくまで中川大佐の
補佐・相談役に徹する」
 
中川大佐は国際派として知られ陸軍大学を出たばかりで、
その頭脳と有能さは陸軍でも屈指であった。
十四師団長の井上貞衛中将はこれをよく知っており
激戦が予想されるであろうペリリュー島へ
中川大佐を派遣することで最大の働きを期待したのだった。
 
中川大佐はゆくゆくは将官として活躍が望まれていたが
それ以前に南方への出征、ペリリューでの玉砕した。
 
要塞構築の専門家・村井少将 
片や、村井少将は要塞構築の専門家であったので
ペリリュー島の陣地構築において手腕を発揮した。
 
中川大佐はもとより司令官というよりも、参謀タイプであり
大佐がほとんど口を開かない寡黙な人物だったのに対し、
それよりだいぶ年配の村井少将は人情味あふれる明るい
性格であったと
伝わっている。二人でちょうとバランスが取れて
いたとも取れるが、
このあたりのやり取りは『天皇の島』に
詳しく書いてあるので
見てほしい。
 
海軍への牽制か?陸海軍の対立
特筆すべきは、村井少将が後から派遣されたという点である。
少将が要塞構築の専門家であるなら、なぜ最初から中川大佐と
共にペリリュー島に渡らなかったのだろう。
 
元来パラオ・ペリリュー島は海軍の島であるため
海軍の権限が非常に大きく、東洋一と称される
飛行場を有した。航空隊要員(整備兵)や
建設設営隊が多くを占め、陸戦部隊をほとんど持たなかった。
 
僅かに海軍の陸戦隊(根拠地隊)が高角砲等を備え守備を担っていたが
米軍パラオ進攻の公算大と判断した大本営は
ペリリュー島守備の必要性を急務とし、大陸から
陸軍部隊(14師団)を急遽、ペリリューへ派遣したのが昭和19年4月。
戦いの始まるわずか半年前であった。
 
海軍航空隊の壊滅と陸軍部隊の到着
3月31日のパラオ大空襲でペリリュー島の海軍航空隊は壊滅し
補充された航空隊も徐々に消耗。
マリアナ沖海戦後にはほとんど全滅し、
以後、フィリピン、本土決戦に備えて、戦線の後退、および航空機の
温存に伴いパラオ飛行場は事実上放棄された。
 
一方、ペリリュー島へ到着した陸軍はこの間、大山麓を中心に広がる
山岳地形を
利用し、大変な努力の末、500~700あまりにおよぶ
洞窟陣地から構成される複郭陣地を構築し決戦に備えた。
 
パラオ地区の最高司令官は誰か?
ペリリュー島を含むパラオ地区の最高司令官は
海軍第30根拠地隊司令の伊藤賢三海軍少将
ペリリュー島は西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵海軍大佐が最高階級であった。
 
(西カロリン航空隊が結成された頃には稼働する航空機は
ほとんど残っておらず、西カロリン航空隊という部隊名称は
ほとんど名目上といったところである)
 
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ
この時点でペリリュー島には
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ。
 
そこで陸軍は村井少将のペリリュー派遣で、中川大佐の後ろ盾とし
海軍への発言力を強める狙いもあったと充分に考えられる。
陸軍は陣地構築のための資材を海軍に提供してもらえず苦労した。
陸軍兵士の回想によれば「何度も何度も海軍も頭を下げてお願いして
建設資材を提供してもらった」と記録されている。
 
陸軍と海軍壕の違い
陸軍の陣地と海軍の陣地を比べてみれば
現在でも違いがはっきりわかる。陸軍の陣地はツルハシなどつかった
手掘りで、
急ごしらえの壕だったのに対し、海軍はもとより立派な壕を
有していた。
 
代表的なところでいえば、水戸山陣地はもとより頑強な海軍壕で
南興村付近のトンネル構築のプロ(海軍軍属)が構築した陣地であった。
天井も高く敷板が敷いてあり、
発電機を備え、空調設備(エアコン)まで
あったという
証言もある。
 
陸軍は大山を中心とする複郭陣地で、すべて急造の天然洞窟を利用するか
手掘りした壕である。
戦術や兵隊の指揮など、関係する要因は他にも
あるので
一概には言えないが、それにしても海軍壕は早くに陥落し
陸軍壕は玉砕まで長く持ちこたえた。皮肉な結果となった。
 
村井少将と中川大佐の意見対立
籠城戦の継続に伴い、村井少将と中川大佐で
戦略意見の対立が目立つようになる。
 
中川大佐は一日でも長く戦って
米軍の進攻を阻止するという信念を持っていた。であるから
「各々の命は大切に」し、持久戦に徹せよと部下に命じた。
 
2014年、ペリリュー戦がフジテレビで地上波のドラマになった。
金曜プレステージ終戦記念スペシャルドラマ
『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』という題目だったが
  
この中川大佐の提唱した「命を大切に」という願いは本来であれば
戦略上の概念であったのだが、何故か現代風にねじ曲げられて
「個人個人の命はかけがえのない尊い大切なもの。生きて日本に帰ろう」
という価値観に塗り替えられて放送されてしまった。残念でならない。
 
ここで倫理上どっちが正しいか、という議論はさておき
まがりなりにもペリリュー戦の歴史をなぞったドラマであるなら
極めて不正確で誤った描写だと言いたい。少し脱線した。
 
玉砕を求める村井少将
これに対し、村井少将の立案した作戦は
飛行場付近の米軍陣地に突撃をかけ、玉砕するというものであった。
 
水が無いのである。
村井少将水筒のエピソードについて書く。
10月初頃、ペリリュー戦は中盤となり既に守備隊は籠城戦に移行。
『天皇の島』では村井少将と部下のやりとりを次のように描写している。
村井少将の人柄を感じるエピソードだ。以下『天皇の島』136頁より
 
----------
壕内は静かだった。敵のマイク放送も聞こえない。
村井少将は軍刀を抱きかかえ、岩壁にもたれて眼を閉じていた。
栗原曹長は拳銃の手入れをしていたが、そういえば
村井少将の拳銃の調子が悪く、修理するつもりだったのが
敵上陸にまぎれて忘れていたことを思い出した。
 
「閣下、閣下、拳銃の手入れを致しますから」
そっとひざをゆすると村井少将は「おう、おう」と
相変わらずのニコニコ顔で目を覚ましたが首を振った。

「いや、栗原、わしには拳銃はいらん。使うことも
ないじゃろ。それよりも喉が渇いた。水を一杯くれんか」
「水ですか」と、栗原曹長は当惑げに岩壁にたてかけた水筒を振り返った。
水には難儀をしていた。もともとペリリュー島には
水源地が少ない。
 
中央台地群で利用できるのは天山の西、
第二大隊第四中隊の
守備範囲で第四中隊長・川又広中尉の名をとった
「川又水源地」と
南征山の東にある池ぐらいのものであった。
だが、川又水源地は既に
敵中にあり、一文字壕から間近に見える
池も近付きにくい。夜、敵の照明弾、
サーチライトをぬって
水を汲みに行くのだが、ときに敵弾に倒れる。
 
「水汲みで死ぬのも立派な戦死だ」と中川大佐ははげましたが
やはり小銃片手に死ぬのと水筒を抱いて射殺されるのでは
兵の気迫は異なる。自然に水汲み志願者は減り、今では毎日訪れる
スコールを砲弾の薬莢に受け、あるいは
洞窟の岩壁にしたたり落ちる
わき水を水筒にためて
喉の渇きを凌いでいる状態だった。
 
「おう、こりゃあすまんことをいうた。あとでいい。あとで・・・」
栗原曹長の様子に村井少将は右手をあおぐようにふりながらそう言った。
しかし老齢の少将の望みである。洞穴内にぼんやりとうずくまり
あるいは横になっていた兵たちがあちらこちらで起き上がり水筒を振り
飯盒を鳴らして水を集め始めた。
 
「いいんだ。もういいんだ」
少将からみれば兵たちはわが息子にひとしい若さである。
その子供たちがとぼしい水を差しだす。少将は声をつまらせ、夢中で
「いい、いい、お前、飲め」と水筒を押し戻し
飯盒をおさえた。
 
-----------

 
引用おわり
 
「最後に水が飲めるなら死んでもいい」
  
いずれにしても死ぬのだから、部下の兵士をこれ以上
もう苦しませたくないというのが村井少将の心持であろう。
これを拒否しなければならない中川大佐の心中
辛いものであったに違いない。
 
ペリリュー戦終結~ラストコマンダーは誰か? 
11月24日、中川大佐と村井少将は自決し
日本軍守備隊による組織的戦闘は終結。
米軍はのちにペリリュー島占領を宣言する。
 
ここで米軍は日本軍の最高指揮官の遺体を確認するのが
通例であるが、ペリリュー島を陥落させた米陸軍81師団は
当初、伊藤海軍中将をペリリュー島の最高指揮官と見込んでおり
遺体の捜索にあたったが、発見に至らず、のちに
中川大佐と村井少将が最高指揮官であることが
捕虜からもたらされた情報により判明、結論付けられた。
 
それもそのはずで伊藤賢三海軍中将は
コロール(あるいはバベルダオブ)から指揮を行っていたのである。
ペリリュー島で海軍応急陸戦隊を率いたのは西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵大佐で、玉砕している。
 
パラオ本島も玉砕の準備
誤解を招かないよう書いておく。
当然ながら、井上師団長をはじめ陸軍14師団主力と伊藤海軍中将も
ペリリュー島陥落の後は、コロール・パラオで決戦があるものと覚悟して
いたからパラオ本島の防備を
厳とし、死ぬ覚悟はできていた。
 
ペリリュー・アンガウルで大痛手を被った米軍は結果としてパラオ本島の
攻略を断念し
終戦まで兵糧攻めに徹することになるが、この間
バベルダオブとコロールは米軍の
執拗な空襲によって戦死者、
病死・餓死者が続出し、その合計は4800名以上となった。
(犠牲者の多くは昭和21年の復員中にも含まれる)
 

陸軍の井上師団長は昭和20年終戦後、米護衛駆逐艦「アミック」を
多田参謀長とともに訪れ、降伏文書に署名、その後は
グアム軍事法廷でいわゆるBC級戦犯の容疑者
とされ、死刑判決を受けた。(ただし判決は戦勝国による一方的な
もので必ずしも公正無私でないことを断っておく)
井上中将はのち終身刑に減刑、釈放され
復員したが、昭和36年10月、
病により死去した。
 
伊藤海軍中将は生きて終戦を迎えたようだが
その後の消息は不明である。

2015年3月 7日 (土)

ルパータス少将とペリリューの戦い

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▲9月22日ペリリュー島西において第一海兵師団長ルパータス少将(右)と
第三水陸両用軍団長ガイガー少将(左)

◆ウイリアム・ヘンリー・ルパータス少将
Major general William H. Rupertus
 
1889年11月14日生まれ ワシントンDC出身。
1944年9月 アメリカ第一海兵師団師団長
ペリリュー戦当時55歳。
 
◆米第一海兵師団副師団長時代
中国駐留から始まった30年を超える海兵隊のキャリアを持つ
ルパータスは第一海兵師団の副師団長としてガダルカナルの作戦を経験。
1943年のニューブリテン島攻略作戦では師団を勝利に導いた。
 
前、第一海兵師団師団長で、のち海兵隊総司令官ヴァンデグリフト大将の
個人的な友人であり 精力的で高い能力を買われ、師団が太平洋に向かう
船上で第一海兵師団副師団長に抜擢。 ヴァンデグリフは弟分の彼を
いつの日か海兵隊の司令官に抜擢するつもりであろうと 噂されていた。
 
◆部下からの評価
ルパータスは気分屋で部下に対する態度をころころ変えることから
その能力に対しては懐疑的であったと伝わっている。この気分者気質は
中国駐留時代に猩紅熱で妻と娘を亡くしたトラウマに起因しているのでは
ないかと考える者もいたが、いずれにせよ、この時点で 部下からの信頼が
厚いと言えるものではなかった。
 
一部の者は陰で彼をRupe the Stupe(馬鹿なルパータス)とか
Rupe the Dupe(間抜けなルパータス)と呼び捨てていた。
また別のものは彼がソロモン諸島攻略で受賞した海軍十字勲章や
グロスター岬上陸作戦で受賞した 殊勲十字勲章がそれに値する
活躍をしたと思えないと考えていた。
 
◆米第一海兵師団長へ昇格・ペリリュー島攻略作戦へ
ヴァンデグリフト大将の後を継いで第一海兵師団師団長へ昇格した
ルパータスはペリリュー島攻略作戦(ステイルメイト2作戦の一部)
に命じられる。
 
ガダルカナルに近い演習地パヴヴ島でペリリュー島攻略の模擬演習の折
アムトラックから飛び降りた際足首を骨折。完治しないまま
ペリリュー島へ出撃することとなった。
 
◆ルイス・チェスティ・プラー大佐とルパータス
このときルパータスは
ルイス・チェスティ・プラー大佐(第一海兵連隊長)の
テントを訪れ
次のように告げた。
 
「ルイス、今度のペリリューは君のためにお膳立てしたようなものだよ
うまくやれば将軍だ。もう一個海軍十字勲章をもらってそれに准将の
階級章も一緒にな」
 
この言葉に対し一個連隊の兵士の命を預かるプラーは不安を募らせた。
プラーが海兵隊に入隊したのは彼の連隊のほとんどの部下が
生まれる前の
1918年で三度の海軍十字勲章の受賞歴があった。
積極的、活力があり歯に衣着せぬもの言う性格でかつ疑問の余地が
ないほど勇敢であった。
彼の足にはガダルカナルで負傷したさい
日本軍の
弾丸の破片が刺さったままだった。彼はいかなる場においても
絶対に引かない男であると皆が信じていた。
そのプラーにしてもルパータスの楽観主義には不安を感じていた。
 
プラーはペリリュー戦当時45歳。勇猛果敢そのもので連隊長でありながら
ホワイトビーチ(オレンジビーチの北)の最前線で戦った。
攻撃は最大の防御と呼べるべく海兵隊を象徴する男であった。
プラーといえば次のようなエピソードが有名である。
はじめて新鋭兵器の火炎放射器を見たプラーは
「それで?銃剣はどこに着けるんだ?」と真剣な表情で尋ねたという。
 
プラーの連隊は最も戦死者が多かった。
ホワイトビーチに上陸したプラー率いる第一連隊およそ3000名のうち
1748名が戦死した。
 
橋頭堡を確保し、内陸部に進攻したさい、各小隊長の生き残りをカウントするよう
命じ、その報告を耳にし、生存者の多さにプラーは
「ふざけるな!野外学習のピクニックの点呼じゃねえぞ!」
と憤ったという。
 
アメリカ軍といえば人命を尊重すると思われがちであるが
こういった指揮官と部隊もあったのである。
 
ペリリュー戦における上陸戦橋頭堡の確保はプラーと第一連隊の
功績が大きいが、その代償はあまりにも大きいものだった。
最初からその不安は数値で裏付けされており通常、安全に上陸作戦を
敢行するためには
防御側が1に対して攻撃側に3の兵力が必要であると
言われていた。

ペリリュー上陸戦時において第一海兵師団の作戦兵力は
17490名、加えて増援要員として10994名がいたので
総員は28484名であった。単純に比較すれば3対1で理想的である。
ただしこれは表面的なもので
この28484名のうち、実際の戦闘歩兵は
9000名であった。
残りは近代的上陸作戦を支援するための専門要員であった。
 

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▲ルパータス少将(左)とロウ・ウォルト中佐(右)ペリリュー島前線指揮所において

 
◆「Three days Maybe Two」(2日か3日で終わる)
ルパータスはDデイ(上陸戦)前、
「次の戦いでは若干の死傷者は出るだろう」
と素直に認めたうえで「しかしつぎの作戦は短期間で終わるのは間違いない。
すぐに終わる。大変な戦いだが、素早く終わる」「三日間、もしかしたら2日かも
しれない」
「ぜひ、ペリリュー島の日本軍最高司令官のサムライ軍刀を自分の
ところへ持ってきてくれ」と話をしめくくった。
 
この言葉に参謀は「あれは本当に根拠があって話したのではない。
檄を飛ばしたにすぎない」
と当時を回想している。しかしルパータスの
楽観的な見通しは瞬く間に
師団に広まってしまった。
「三日、たぶん二日間。大変だがすぐ終わる」
 
◆海兵隊のプライドが崩壊した日・ペリリュー
またペリリュー島で多くの犠牲者を出した背景には
これに加え様々な要因が重なる。
第一海兵師団は海兵隊史上もっとも古い伝統の精鋭部隊で
2000年代の現在においても中東などで戦っている。
この第一海兵師団、そして海兵隊史上でも唯一
師団が全滅した例がペリリューの戦いである。アメリカ海兵隊が
全滅したのはあとにも先にもこれ一度きりだ。
 
海兵隊の作戦は海兵隊のプライドで
他部隊の支援を求めない。これが多くの犠牲を払う結果となった。
 
◆陸軍81師団の支援要請を断る
このとき第一海兵師団の後方に控えていた米陸軍第81師団もまた
精鋭であった、第一次大戦でフランスでの戦闘に参加した歴史を持つが
第二次大戦での経験はなかった。しかし装備も訓練も十分であり今回の
戦闘にも十分対応できるものと考えられた。
 
師団長はポール・ミュラー少将、51歳で第一次大戦のフランスで戦い、
銀星証を二度授与されていた。
後にダグラスマッカーサーも彼を
「素晴らしい人材」と評価した。
 
その陸軍の精鋭81師団の任務はペリリューが完全に制圧されたのちの
アンガウルの上陸であった。当初海軍はアンガウルを先に攻略するよう
主張したが、同島を攻撃中に
ペリリューへ援軍を送られる恐れがあったため
計画は撤回された。
 
ルパータスは第81師団が上陸部隊として洋上待機するのではなく
単なる海兵隊の予備部隊として後方待機するという
事実をすりかえる形で実現されることになってしまった。そして
ペリリュー島が確実に掌握されるまで81師団はアンガウル島を
攻撃しない点についても合意された。(実際には2日後の9月17日に
アンガウル上陸を決断するのだが)
  
◆ロイ・ガイガー少将とルパータス少将
ルパータスはペリリュー攻略に際してロイ・ガイガー少将に協力を求めた。
第三水陸両用軍団長・ロイ・ガイガー少将は
攻略作戦のころには
年齢が60歳近く。ルパータスとは階級が同じであったものの
指揮権は実質ルパータスが掌握した。
ガイガーの専門は航空作戦であったが大規模な陸上戦闘における指揮
についても一定の経験を持っていた。屈強な体格と
決して笑顔を見せないその鋭い眼光と常に手放さない
葉巻から、まさに海兵隊の中の海兵隊として畏敬の念を集めていた。
 
グアム攻略作戦がピークを迎えていた8月15日まで
ガイガーは自分が第三水陸両用軍団の指揮を取るとは予想せず、
今回の作戦について
グアム島やサイパン島での戦闘経験とは全く
異なるものであると判断しており、ルパータスの楽観主義は場違いでは
ないかと考えていた。
ガイガーはルパータスの支持者ではなかったが
差し当たって口を挟むのは控えた。作戦は第三水陸両用軍団が了承し
海兵隊司令部と
正式作戦となった。  
 

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▲左からウォルト中佐、ルパータス少将、ガイガー少将。ペリリュー島前線指揮所において
 

◆予想しなかった持久戦
ガダルカナル、サイパン、テニアン、グアムの戦いでは
日本軍の万歳突撃を待つことによって米軍は勝利を収めたが
徹底した持久戦はペリリューがはじめてであり、ルパータスもまた
万歳突撃による戦闘の早期終結を予想していた。 
 
待ち受ける日本陸軍第14師団の
井上貞衛中将は中部太平洋地区に赴任する直前、参謀長の
多田督知大佐を伴って
東条英機首相兼軍需相を訪問。
パラオ諸島の防衛について話し合いその方法は単純明快
「最後の一兵まで戦う」というものだった。
 
そこで井上はもっとも有能な部下、中川州男大佐率いる水戸二連隊を
ペリリュー島に派遣し要塞構築の専門家である村井少将を顧問として送り込んだ。
一方、アンガウル島は飛行場がなかったのでペリリュー島ほど重要視されず
宇都宮五十九連隊一個連隊が駐留していたが
パラオ本島決戦に備え、このうち二個大隊を引き揚げさせ
後藤丑雄少佐の一個大隊を残して持久戦に徹せよと命じ
玉砕させた。もちろん、パラオ本島で指揮をとっていた井上中将自身も
パラオ本島決戦を見込んで自らも死ぬ覚悟であったが
実際にはペリリュー・アンガウルの両島玉砕で大損害を
被った米軍はパラオ本島の攻略を断念し、終戦まで
兵粮攻めに徹した。
 
こうしてルパータスの予想は裏切られ、ペリリュー・アンガウルが
凄惨な上陸戦と長期間に渡る泥沼の戦いに発展するのは周知の通りである。
  

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米軍側より見る ペリリュー島上陸戦

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オレンジビーチの死闘

04

▲オレンジビーチで部下を弔うルパータス少将(画面やや左。ステッキを持つ人物)
このとき既に憔悴しきっていた。
 

◆憔悴するルパータス
ルパータスは消衰しきっていた。
師団参謀のハロルド・ディーキン中佐は、作戦中盤
ベッドに座り両手で頭を抱え込み絶望視しているルパータスを目撃した。
その姿にディーキン中佐は大きなショックを受けたという。
 
10月5日にハリスが師団司令部を訪ねたところ
ルパータスが泣いていた。
「ハリス、俺はもう限界だ。俺の最高の二個連隊が壊滅してしまった」
さらにルパータスは
「ハリス、俺は君に全ての権限を委譲するつもりだ。だが今は
ここだけの話にしておいてくれ」
と告げた。しかし最後までルパータスから指揮権が委譲されることはなく
のちに第一海兵師団が壊滅し陸軍81師団に作戦を引き継ぐまで
ルパータスは泥沼の中で激を飛ばし続けたという。
ルパータスは気丈を装いつつ、混乱と絶望の中にあった。
 
◆ルパータスのその後
ペリリュー撤退に伴い、第一海兵師団長の任を解かれたルパータスは
ペリリュー作戦功労勲章を授与しヴァンデクリフト大将から
海兵隊学校校長のポストを与えられたが、事実上の更迭に近い。

第一海兵師団長の後任にはペドロ・デル・ヴァレ少将が任命されたが 
師団の再建には時間を要した。そのため硫黄島の戦いには参加せず、
ペリリューに次ぐ戦場は沖縄となる。
 
ルパータスはペリリュー戦に関する記録を一切残さず
ペリリュー戦からわずか4ヶ月後の1945年3月26日
日本の降伏を待たずに心臓発作でこの世を去った。


◆最後に
米軍側からの視点でまとめたが
決してルパータスにペリリュー戦の責任を押し付けるものではない。
第一海兵師団の多くは20代前半の若者であった。ペリリューから
生還しても兵士の多くはPTSDに悩まされ、自殺する者も居た。
戦死した若き兵士には妻や恋人、両親や兄弟も居たであろう。
ルパータスは結果として多くを部下を死なせてしまったが、
日本軍の作戦転換、そして多くの不運が重なったことと、ペリリューでの
海兵隊の敗北には様々要因の重なりがあったのだ。
しかし乍らこれだけは決定的と呼べる敗因、それは驕りである。
 
ペリリュー島占領の対価は高いものとなった。
米第一海兵師団は最終的な死傷者数を6526名とした。
そのうちの戦死者は1252名であるが、これは戦場において
即死した兵士のカウントであり、病院船に運ばれて死亡した数は
戦死にカウントされない。一方、掃討戦を引き継いだ陸軍81師団の
死傷者は1393名であった。さらにこれとは別にアンガウル島の戦闘で
334名が戦死し843名が負傷した。
 
単純な比率で換算はできないが、
ペリリュー・アンガウルの戦いはノルマンディーや硫黄島より激しく
ひどい戦いと評価される。
 
硫黄島では米軍3個師団がおよそ18000名の日本軍守備隊を
追い詰めたのに対し、ペリリューでは米軍1個師団
が中川大佐指揮の日本兵およそ10000名との対峙、2ヶ月以上の抗戦、
 
さらにアンガウル島では後藤少佐指揮する守備隊1200名に対し
米軍一個師団が上陸し、一ヶ月徹底抗戦を行った。
 
日本軍は太平洋の防波堤となって一日でも長く本土進攻を
阻止したのであった。
 
346

2015年3月 5日 (木)

パラオ戦跡と戦史概要

2015年3月 3日 (火)

パラオ地図(フリー素材配布中)

パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

パラオ地図フリーデータ(無料配布)ページ

パラオ地図01(フリー素材)

パラオ地図02(フリー素材)

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▲パラオ諸島

ペリリュー島地図01(フリー素材)

ペリリュー島地図02(フリー素材)

ペリリュー島地図03(フリー素材)

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▲ペリリュー島
 

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Photo_2


Photo_8

▲アンガウル島
 
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2015年3月 1日 (日)

ペ島の桜を讃える歌 (歌唱・御堂諦)

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)

 
作詞:オキヤマ・トヨミ,ジョージ・シゲオ/作曲:トンミ・ウエンティ
歌:御堂 諦/ピアノ伴奏:久保 亜未
ペリリュー島」在住のパラオ人が日本人のために作ってくれた曲で
現在も歌い継がれています。
 
ペ島の桜を讃える歌
以前、こちらのサイトでボーカルを探していたのですが、
プロのナレーターの方が引き受けてくださり歌っていただきました。
歌唱は御堂諦さんです。素晴らしい歌声に感激しております。
ぜひお聴きください!私の企画がここまで大きくなるとは思いませんでした。
嬉しい限りです!
 
久保亜未さんによるピアノソロ(音源)はこちらです。
https://www.youtube.com/watch?v=0JKEuDxvNhQ
 
 
▼『緑の島のお墓』は引き続きボーカルを募集中です。
http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2015/01/post-65a6.html

https://www.youtube.com/watch?v=8Ey434yLfKk

2015年2月12日 (木)

パラオ戦跡ガイドを発売します(追記)

ペリリュー戦跡ガイド01

ペリリュー戦跡ガイド02

ペリリュー戦跡ガイド03

ペリリュー戦跡ガイド04

ペリリュー戦跡ガイド05

 
パラオ戦跡ガイド刊行のお知らせ

パラオ戦跡(ペリリュー島・アンガウル島・バベルダオブ島等の戦跡を収録)
ガイド本を製作中です。今年の夏までに刊行します。
 
平成27年8月追記
発売しました!
 
いままでこのようなガイドブックはありませんでした。
(ほんの少し紹介されているものはあるのですが間違いが多く、
実用にたえうる代物ではありませんでした)
 
写真・イラスト、わかりやすい地図等を満載
イラスト、写真等のビジュアルを満載しわかりやすく、
また、島の詳細な地図を載せますので、これひとつあれば
現地の戦跡を巡れるように作り込んであります。
 
現在パラオでは戦跡が単なる見世物と化し、また戦跡ツアーのガイドも
付け焼刃な案内しかできずに、正確な情報が伝わっていないことを
由々しき事態と考えました。
 
詳しい戦闘経緯の解説
しかし、この本では、戦跡に付随する逸話を詳しく明記しています。
たとえばこの戦車がどのような戦いを繰り広げたのか、
あるいはトーチカに立て籠もって戦った若き士官の人物像など、
多くの証言や記録から得た情報をもとに、戦いの実態に迫ります。
 
パラオ玉砕戦 生還者による監修
監修役に各専門家とパラオのペリリュー島・アンガウル島玉砕戦の
元日本兵で生き残りの倉田洋二先生、またペリリュー島でも
生還者の方の協力をいただきました。
 

A4

A4f

A4d 
現在と当時の写真を掲載し戦闘の模様を想像し易くしました。
多くの時間とお金をかけて調べ尽くしたものです。

パラオの旅行ガイドブックは
『るるぶ』と『地球の歩き方』の二種類が刊行されていますが
その中でパラオ戦跡・戦争に関する扱いはほとんどなく
るるぶでは4分の1ページがペリリュー島の戦跡ツアーについて
触れてあるだけです。

この本は戦跡案内に特化したものですので、パラオ旅行、
ペリリュー島慰霊を検討中の方、
ぜひ、お求めください。発売日が決まり次第お知らせします。
画面は製作途中のものです。
 
平成27年8月追記
発売しました!

2015年2月11日 (水)

ペリリュー戦の生き残り

パラオ・ペリリュー戦の生き残りの方で
新たにお一人を探し当てました。
未だどこのメディアにも出ていないので

当サイトで初めての公開となります。
どんなお話が聞けるか、行ってきます。
 
一方で、アンガウル島の生き残りは
どんなに調査してもお一人しかご存命の方はおらず
その方とは5年くらい前からのお付き合いで
色々とお話を聞いて
情報収集に努めています。
 
最近は報道関係の方から
「生き残りの方を紹介してください」とよく電話やメールがきます。
ですが、玉砕戦の概念を理解していない記者の方が多いです。
パラオ、ペリリュー・アンガウルの戦いは玉砕戦ですので
原則、生き残りはいないものとお考えいただき、
捕虜という言葉を容易に使わないでほしいとお願いしています。
 
生き残ったというより、「死に損なった」という表現が近いです。
価値観が違い過ぎて現代を生きる我々には到底理解できない
悲しみを、どなたも持っています。
 
ある方は「自分だけ生き残って申し訳ない。靖国神社の戦友に顔向け
できなくて一度も行ったことがないんだ」と言います。
 

F4Uコルセア

2015年1月31日 (土)

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零戦21型と52型の違い

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに三菱重工、
中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

 
零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコンはこちらのリンクから

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に搭乗する。
従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。ただし、指揮官
(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)が入り専用機が与えられる。
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと証言されるが
これは、特に改造を施したということではなくて、指揮官クラスがべらぼうに
コンディションの良い機体を占有していた、という意味合いではなかろうか。
 
一方、整備員は担当する機体が決まっており、
それぞれの担当機を責任を持って整備した。零戦の尾翼等に
〇〇一整曹などと整備担当長の名が記されれいるのはこのため。
 
その他項目一覧

なぜゼロ戦と呼ぶのか 零戦は無敵だったのか
零戦のパイロットになるには 零戦操縦方法
零戦の撃墜王(エース)は誰か
零戦の色(カラーリング)について 機体はいつから緑?
零戦21型と52型の違い
  

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

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十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

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零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

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零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

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二式水上戦闘機(二式水戦)

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二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

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K

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零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

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ゼロ戦(零戦)32型/三二型

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零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

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零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

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ゼロ戦(零戦)52型/五二型

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零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

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零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

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零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

Photo_33

零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

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零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

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零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

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ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

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なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

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搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

05_2

ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

Photo_2 
▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

06_2

高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

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ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

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零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

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▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

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宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

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エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

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▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

Photo_18

作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

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航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
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零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

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2015年1月30日 (金)

ペリリュー島地図

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ペリリュー戦地図

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2015年1月11日 (日)

緑の島のお墓(追記/ボーカル募集)

この曲は、ペリリュー島在住のパラオ人、ウエンティ夫妻が日本人の為に
作って
くれたものです。慰霊に訪れる日本人が減った今もペリリュー島の
島民
たちは緑のお墓を守ってくれています。
  
どんなメロディーか知りたいというご意見があり
今回、ピアニストの久保亜未先生に演奏して頂きました。
(原曲を細かに再現しました)
パラオ人の優しさが込められています。ぜひお聴きください。
 

緑の島のお墓
YouTube: 緑の島のお墓

▲ピアノソロ・久保亜未


YouTube: 緑の島のお墓/ミシェル~天草の海辺より

▲歌唱・ミシェルさん
 
 
Photo

 
緑の島のお墓

 
作詞:アントニオ・ウエンティ
作曲:トンミ・ウエンティ

 

遠い故郷から はるばると
お墓を参りに ありがとう
緑のお墓の  お守りは
ペ島にまかせよ いつまでも

 

海の中にも 山の中
ジャングルの中にも 土の中
英霊よよろこべ 安らかに
一緒に暮らそよ とこしえに

 

ペ島の願いはただひとつ
日本とペリリューは 親善の友
かよわい力 よく合わせ
知らせておくれよ 祖国まで

 

伝えておくれよ 祖国まで
父母兄弟 妻や子に
僕らは緑の 島暮らし
涙をおさえ さようなら
涙をおさえ さようなら
  

大きな歌詞カードはこちらからダウンロード

Imgp2841  
 
ボーカル募集します
ペ島の桜を讃える歌と合わせてCDに2曲を収録しました。
またボーカル(歌ってくださる方を募集しています)
音源を希望される方はお問い合わせください。
※非営利企画です。
 

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)

 
 こちらは御堂さんに歌っていただきました。
『ペ島の桜を讃える歌』

 

ペ島の桜を讃える歌

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)


ペ島の桜を讃える歌
YouTube: ペ島の桜を讃える歌(ピアノソロ)

この曲はペリリュー島在住のパラオ人が日本兵の武勲を讃える
ためつくってくれた曲です。
パラオ人が作ったという点に歴史上
非常に意義深いものがあります。 

 
 
ペ島の桜を讃える歌
作詞:オキヤマ・トヨミ、ジョージ・シゲオ
作曲:トンミ・ウエンティ
 


激しく弾雨(たま)が降り注ぎ 

オレンジ浜を血で染めた
兵(つわもの)たちはみな散って
ペ島はすべて墓となる
 

小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾撃ち尽くし食料(しょく)もない
 

将兵(へいし)は桜を叫びつつ
これが最後の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの桜に意味深し
 

日本の桜は春一度
見事に咲いて明日は散る
ペ島の桜は散り散りに
玉砕れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
 

今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
 

平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし桜花
今では平和が甦る
 

どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗びし
あつい涙がこみあげる
 

戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
 

2014年10月24日 (金)

ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

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米軍側より見る ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

LVTまたはLVT(A)は上陸用舟艇または水陸両用戦車の名称である。

海兵隊では主に水陸両用装軌車両の略で
アムタンク(AMTRAK)または
アムトラック、(AMTANK)と呼ばれた。
 
ペリリュー上陸歩兵は全てアムトラックへ乗車
米第二海兵師団は1943年11月のタラワ攻略で
3000名を超える死傷者を出した。 タラワではアムトラックが
不足したため日本軍の銃火の下で サンゴ礁を歩いて上陸
しなければならなかったことが原因と考えられる。
第一海兵師団はこの戦訓から ペリリューでは突撃歩兵は
全てアムトラックに乗車し上陸することになっていた。
 

_20090715_0260_1▲ペリリュー島Dデイ。最終支援射撃を行う米艦船と上陸部隊。
 

_20090718_0918_1_1▲母艦であるLSTより出撃する米第一海兵師団とLVT

 
出撃から強襲揚陸まで

アムトラック・タンクは母艦であるLSTより出撃し
海岸から4000ヤード(3.6キロメートル) のラインで集結、
陸波を構成する。海岸線まで 時速7.2キロメートルで進撃し
およそ30分の距離であるが、上陸直前は極めて脆弱である。
 
「畜生!ジャップは無傷だ!」
もっとも、第一海兵師団は既に艦砲射撃で壊滅した海岸陣地に
日本兵が無傷の状態で潜んでいることは知らず
水際での反撃は全くの想定外であった。このため
海兵隊史上、極めて多大な犠牲を払う結果となった。
 
艦砲射撃を行った
J.B.オンデンドルフ海軍少将は
「ペリリュー・アンガウル両島に対する艦砲射撃は上陸前に
3,490トン、じ後3,359トン、
合計6,849トンであり、その効果に関し
上陸時の砲爆撃は当時最も完全で従来の如何なる支援より優れている
と思ったが
日本軍の掩蔽した火砲がLVT(A)に射撃開始したときの
私の驚きと残念さはどうであったかは想像されると思う」とのちに回想している。
 

_20090715_0141_2_2▲ペリリューの海岸を目指すLVT(A)4群

 
直撃弾で真っ直ぐに轟沈
LVTは装甲の薄さから、日本守備隊の放つ榴弾は脅威であり
徹甲弾においては過大ともいえる破壊力であった。 これらの直撃を
受けた車輛は兵員の逃げ出す間もなく水深の深い場所では真っ直ぐに
轟沈した。 浅瀬では燃え上がり、海兵隊員は火だるまとなりこぼれるように
海に落ちていった。

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_20090718_0858_1_1▲ペリリュー島海岸を目指すLVT群。海岸より4000ヤード(3.6キロメートル)より
時速7.2キロメートルで進撃し砂浜到達まで30分を要した。
 

60輌が撃破された上陸戦
9月15日のDデイ(上陸戦)では 日本軍守備隊の熾烈な射撃により
60輌が上陸前に撃破されたとされる。(※1 
 

_20090718_0831_1▲LVT(A)4パーソナルネーム「レディラック」は最後まで生き残り
現在もペリリュー南部のジャングルにひっそりと眠っている。
 

陸上においての威力
しかし陸上においてのアムタンクは支援射撃や歩兵の盾として
絶大な威力を発揮し アムトラックは補給物資の輸送に重宝された。
この任務は危険を伴うものであり操縦士たちは飛行場までの運転を
パープルハートラン (名誉負傷賞へのひとっ走り) 山岳地帯への運転を
シルバースターラン (銀星章へのひとっ走り)と呼んでいた。
 

_20090715_0129_1▲ガドブス島掃討戦で火炎放射を行う様子

 
ペリリュー島での功績は大
どの操縦士も自分が何回運転したのか、あるいは車両を 何度修理したのか
わからなくなっていた。 彼らの忍耐力を維持していたのは奇跡とも
いえるほどであった。 操縦士はアムトラックが撃破されると所属する
トラクター大隊に戻らずその場で戦闘歩兵として最前線に留まる者もいた。
 
水陸両用車両は終始多大な犠牲を払ったものの
強襲揚陸での使用は当時最も優れた戦法であったし、犠牲の
多くは艦砲射撃の誤算からくるものであった。
結果として、その功績は大きく、ペリリュー戦で不可欠な存在で
あったのは確かである。
 
※1)日本側資料によると(防衛省戦史叢書)上陸戦当日に撃破された車両は少なくとも
60輌以上と記されている。
米軍公式記録では26輌のみとされている。 この数の相違は
多くのアムトラックの車長が水深の深い場所で完全に水没したような状況でなければ
撃破判定に異議を唱えたためであると考えられる。

 

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▲LVT4 上陸用舟艇
通称「アムトラック」 ペリリュー上陸戦で主力であった強襲揚陸艇。
クルー3名で兵員30名が輸送可能であった。 カタログ上の速力は
陸上32km/h、海上12km/hで、このLVT4は6月のサイパン戦で
はじめて使用された。兵員の乗降口が後部に移り、海岸で下車の
さいの防護を高めた。 ペリリュー戦では全てが更新されず不足分は
乗降部が前方の旧式LVT2等で埋め合わせており それらに乗車した
海兵隊は不運であった。
  

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▲LVT(A)1 水陸両用戦車
アムトラックにM5A1スチュワート軽戦車の砲塔である37mm戦車砲と
30口径機銃同軸装備を 搭載し、装甲を強化した水陸両用戦車である。
Dデイではこのアムタンクが最前線で制圧射撃を行い、その1分後、
突撃部隊の歩兵を載せたアムトラックが上陸した。
 

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▲LVT(A)4 水陸両用戦車(手前)
火炎放射装甲車 火力を強化し、M8砲塔に75ミリ榴弾砲が搭載され
50口径機銃を砲塔後部に備えた。いくつかの車両ではこれに火炎放射器を
備え、内陸部における掃討戦で 絶大な威力を発揮した。
  
▲LVT(A)2 水陸両用装甲車(奥)
LVT-2を装甲化したタイプで 兵員18名が輸送可能であった。
 

2014年10月13日 (月)

千明武久少佐の墓所へ

群馬県片品村にある千明大隊長のお墓参りに行ってきました。
 
いつもの事ながら、行き当たりばったりの旅でしたが

無事、お墓を探し当てて、大隊長にご挨拶ができました。
 
栃木県側からは奥日光のさらに奥、戦場ヶ原を抜けて
標高1800メートルの金精峠を越えて群馬県片品村へ。
もうじき雪がふるので今を逃すと冬季閉鎖されてしまい、
来年の初夏まで栃木県側からのアクセスは出来なくなってしまいます。
 
峠を越えて片品村へ下って行くと、千明少佐の故郷の集落があります。
誠に感慨深いものがあります。ここが千明少佐の菩提寺
龍滄院です。場所は群馬県片品村東小川2900

 

Imgp0823 

お寺さんなので、お墓がたくさん並んでいるのですが
ご住職に尋ねると親切に教えてくださいました。
武人のお墓にはこのような傘がついていることが多いです。
 
千明武久大尉はペリリュー島の水際攻防戦で
アメリカ海兵隊を全滅に追い込んだ歴史上唯一の部隊の大隊長です。
高崎15連隊第三大隊こと 千明大隊は精鋭猛者揃い、千明大隊長は
付属部隊を含む750名余りを率いて、海兵隊二コ連隊に対し敢闘、散華しました。
昭和19年9月16日未明。 行年28歳。
 
ペリリュー島の千明隊長陣地へ

 
※西地区の富田大隊も同様
 

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ペリリュー島南部地区守備隊
高崎歩兵第十五連隊第三大隊長
千明武久(ちぎら たけひさ)大尉※戦死後少佐
 
墓碑謹書
履歴 正八位勲六等功六級 近衛騎兵少尉、千明林蔵の次男として
大正6年4月15日片品村鎌田にて出生 片品小学校を経て群馬県立
沼田中学校に進み在学中文武の秀才 剣道部主将として県下に
其の勇名を馳す そして県下大会に於いては優勝全国大会に進出
昭和10年4月陸軍士官学校第56期生として入校
昭和15年同校卒業と同時に歩兵第15連隊付中隊長教育主任を経
昭和19年2月満州国斉々哈爾(チチハル)より南方へ出陣
同年9月16日大隊長としてペリリュー島に於て散華す
行年二十八歳

義介謹書

2014年8月19日 (火)

ペリリュー戦の大義

ペリリュー戦と中川大佐を扱ったフジテレビのドラマ
金曜プレステージ終戦記念スペシャルドラマ
『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』
を見ました。非常に残念な内容でした。
 
ペリリュー戦の大義「生きて戦え」
ペリリュー玉砕戦の大義とは何か。
それは「生きて戦うこと」です。
 
米軍の本土進攻を一日でも食い止めるため、
バンザイ突撃など、玉砕を戒めるようペリリュー島の
守備隊全軍に通達がありました。それは飲み水も無く
じっと耐え忍ぶほかなく、死ぬよりつらいことだったでしょう。
 
ちょうど裏番組でやっていた「硫黄島からの手紙」で
栗林中将演じる渡辺謙は次の如く名セリフを残しています。
 
「我々の子供が日本で一日でも長く安泰に暮らせるならば、
我々がこの島を守る一日には意味があるんです」
 
この僅かなセリフが全てを説明してくれています。
 
ペリリュー戦でも同じです。玉砕を認めないという
硫黄島の戦法はペリリューを踏襲するものでありました。
 
戦後主観のストーリーへすり替わってしまった
それがテレビドラマでは
「個人個人の命は大事だから生き残ろう」という戦後主観の主旨に
見事すり替わって
いました。歴史的背景、戦史戦術の面からも
否、全てにおいておかしいのです。
 

非常に残念な結果となりましたが
パラオのペリリュー島を周知するという意味では
プラスだったのかな、と思います。

2014年7月29日 (火)

NHKでペリリュー戦の特集を放映

狂気の戦場・ペリリュー
~新発見フィルムが語る"忘れられた島"の現実~(仮)
 
と題してNHKがペリリュー戦の特集を放送します。
 
日時:2014年8月13日(水)
午後10時00分~10時50分
 
どんな内容になるか、不安80%期待20%です。
 
NHK公式ページへ 

2014年6月30日 (月)

ペリリュー島戦跡・中川大佐自刃のラストコマンドポストへ

ペリリュー島、中川大佐が自決したラストコマンドポストへ向かう。
 


一般的な戦跡ツアーでは、画像の
「鎮魂~終焉の地」の碑がある場所を
中川大佐自決の地と説明し
案内しているようだ。
 
確かに中川大佐は玉砕戦終盤に
この近辺に居たことは事実であるが
戦局悪化とともに後退したので実際に

自決したのはここよりさらにジャングルの奥深く入った場所ある。
ここから先は遊歩道も無く断崖や燐鉱を採取した跡のクレバスが点在するため、
安全上の都合を考えれば致し方ない。
 
・本当のラストコマンドポストへ行く!
今回はペリリュー島在住(パラオ人)で戦跡専門ガイドの先導で本当の
玉砕地へ向かう。なお、同じようにラストコマンドポストへ行かれる方に
必ず守って頂きたい注意事項を最後に記載したので目を通して頂きたい。
 
・ペリリュー島複郭陣地~中川大佐最後の戦いとは
そのまえに少しおさらいをしておく。
複郭陣地(中央山岳地帯)は中川本隊が籠城による徹底抗戦を行った
最後の戦場である。複雑に張り巡らせられた大小500以上の壕を有し
高度に要塞化されたこの戦域は複郭陣地と呼ばれ最後まで米軍を苦しませた。

 
9月15日に開始された米第一海兵師団による戦いは
30日までに海岸線、飛行場および南部平坦地、
北部ならびにガドブスを掌握し、残すはこの中央山岳地帯のみとなった。
 
これらの山岳地帯(水府山地)をウムロブロゴル山地と名付けた米軍は
壊滅した第一海兵師団の任務を解除し、その役目を陸軍81師団に引き継いだ。
ウムロブロゴル包囲網(複郭陣地包囲網)は第10フェーズラインと称され
長さが東西に3キロ、幅が平均500メートルというわずかな戦域であったが
米軍がこれを徐々に縮小し最終的に司令部を陥落させたのは
陣地を包囲してから一ヶ月半以上も後のことだった。
 
81師団はこの間、ゲリラ戦を展開する守備隊に対し苦戦を強いられ
多くの犠牲を払った。
 
守備隊長の中川大佐は上陸戦直後に司令部を大山麓の
ワイルドキャットボウルと呼ばれる場所(鎮魂の碑の近辺)から
チャイナ・ウォールと呼ばれる断崖と岩場に挟まれた
二重の壕の中へ後退させており
いかなる攻撃も届かない場所にあった。
(ラストコマンドポスト)
 
中川大佐は当初の計画通り最後まで徹底抗戦の構えであったが、戦術顧問の
村井少将は持久戦に堪えかねた将兵を案じ、パラオ本島の師団司令部に
電文を送り、飛行場への玉砕突撃の許可を求めた。しかし師団司令部は
これを許さず
最後の一兵まで持久戦に徹するよう下令した。
 
そして11月24日、ついに司令部壕を包囲された中川大佐は
玉砕を意味する電文「サクラ」を連送した後、村井少将とともに自決。
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的戦闘は終結した。
 
日本守備隊は上陸戦から数えて2か月以上にわたりペリリューを死守。
太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも長く食い止めたのであった。

 
追記
ペリリューの中川大佐と言えば動画等で一躍有名になったエピソード 
「私達も一緒に戦わせてほしい~貴様ら土人と共に戦えるか!」
というものであるが、創作である可能性が高い。
そして残念ながら民間人犠牲者も出ている。 
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地1

 
ラストコマンドポストへの道のり
今回は、ぜひともペリリューで慰霊をしたいという友人夫妻と、
友人のペリリュー研究家、パラオ人ガイド、そして私で目的地を目指す。
崖の上や起伏の激しい個所を歩く。
この辺一帯はペリリュー最高峰「大山」麓である。
 

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・不発弾が現在も残る
所々に不発弾が残っている。
不発弾処理隊が赤いテープでマークしたものは目立つが
そうでないのも多くあるので注意のうえ、絶対に触れてはいけない。
画像は駆逐艦か巡洋艦クラスの砲弾か。右は日本軍守備隊の火器。
 

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・燐鉱クレバス
燐鉱を採掘した跡が大きなクレバスとなって残っている。
落ちたら命の保証はない。十分に注意を払う。
 

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・複郭陣地に残る遺品、兵器
ジャングルには遺品が多く残る。
左上から250kg航空爆弾、陸軍さんの飯盒(はんごう)
同じく250kg爆弾、自転車、防毒面(防毒マスクのフィルター部分)である。
 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地2

 
左上から、弾倉(マガジン)、対戦車地雷、航空機の座席か?
大鍋、米軍の弾頭(中身はカラ)、そして日米両軍の手榴弾が並べて置いてある。
左の四角いのが日本軍、右のパイナップル型が米軍。
 
不発だったのであろう。ピンは抜かれている。

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな心境だったか。
攻める米兵は負傷すれば後方に下げられ、手厚い治療を受けることができた。
しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場もなく
衛生材料(治療の薬や包帯)も無い、助かる命も
助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかった。
文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、
長期化に持ち込んだのだった。

 
※なお、パラオの法律で、こうした遺物をむやみに移動させたり
持って帰ったりすることは固く禁じられている。
仮にそれが
日本兵の遺物や遺骨だったとしても例外ではない。もし、遺骨を見つけた際は、決して
移動させず、遺骨の
場所を報告しなければならない。

 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地 

岩壁の各所には弾痕が無数に残っている。
 
・ラストコマンドポストへ到着
険しいジャングルを進むこと30分ほど、
ようやくラストコマンドポストへ到着した。
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲ラストコマンドポストは四方を岩に囲まれている
敵からの攻撃を受けないところにあった。中川大佐が自決したのは
この壕の中だ。我々は中川大佐ならびにペリリューで
太平洋の防波堤となって散ったすべての英霊に感謝と
黙とうを捧げた。
 
われ太平洋の防波堤とならん
昭和19年9月15日にはじまったペリリュー上陸戦は
当初、米海兵隊ルパータス少将が2、3日で終わるだろうと
予想した。ところが中川大佐指揮する水戸歩兵第二連隊ならびに
高崎十五連隊千明隊は、徹底抗戦の末、2か月以上にわたって
ペリリューを死守。太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも
長く食い止めたのであった。
 
そして11月24日、この壕で中川大佐は自決
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的
戦闘は終結した。

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲中川大佐自決の壕で前で合掌
 
明治天皇より拝受した軍旗を捧焼し、ここに伝統の精鋭第二連隊の
71年の歴史が終焉を迎えた。
 
中川大佐の自決
白光二閃。

中川大佐は先に散った多くの部下を思い、静かに目を閉じ
愛刀を腹にあてた。中川大佐の介錯は連隊旗手の烏丸中尉が※(1)
村井少将は塚田中尉が務めた。これを見届けた重傷者も
続いて自刃。残された者は最後の突撃を敢行し
壮絶な最後を遂げたのであった。
 
身元判明の経緯
戦闘終結後、米軍がはじめてこの壕を調べた際
三名の遺体が発見された。そのうちの一名は白髪で階級章が
残されていたことから、中川大佐と推測された。
残りの二人は村井少将と軍医であったとされる。

 
最後の突撃に参加したものの、米軍に捕らわれた元司令部付の
兵士がまもなく遺体の確認に立ち会い、中川大佐であることが認められた。
 
さらに時が経た、戦後、烏丸連隊旗手の遺骨も付近で発見された。
 
中川大佐自決に関するもうひとつの説
※(1) なお、中川大佐は発見時、頭部を拳銃で撃ち抜かれた跡があり
拳銃で自決を行ったとの説もある。同様に証言している生き残りの
兵士も居る。中川大佐は子供がいないので烏丸連隊旗手を我が子の
ように可愛がっており、烏丸がこれを拒み、介錯できなかった
といった証言も存在する。

  

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▲サクラサクラを打電した通信アンテナの跡
画面左あたり、岩が垂直に凹んでいる個所があるのが
わかるだろうか。
これは通信アンテナが据え付けられていた跡だ。
 
この垂直の岩は中川大佐が自決した壕の向かい側にあり
この窪みに通信アンテナが立てられていた。まさにこの場所から
最後の電文「サクラサクラ」が発信されたのだ。
 
昭和19年11月24日16時
ここペリリュー司令部より最後の電文が発信された。
電文は次の通り。
 
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ 
・・・─・─(オワリ符号)

※サクラサクラサクラ我が集団(14師団の意)の健闘を祈る我、久野伍長
 
この電文はウルクターブル島の通信所で中継され
パラオ本島の14師団司令部に届けられた。そのさい短くなって
「サクラサクラ」となった。
 
遺体の埋葬とその後
なお、遺体が確認された中川大佐と村井少将は
米軍の手により埋葬された。
戦後まもなく中川の妻へ遺骨返還の申し出があったが
中川の妻は次のように伝え辞退したという。
 
「まだ多くの部下は故郷へ帰れずに居ります故
遠慮申し上げたい。すべての方が帰ってから、中川は最後で構いません」
 
夫人はその後亡くなり、二人だけの墓が熊本に立てられた。
夫人は今も大佐(死後中将)の帰還を待っている。
 
なお、このときの辞退が関連するかは不明であるが
戦後の混乱を経て、ペリリュー島の中川、村井両将の埋葬地は
不明になってしまった。誠に忍びない。
 
熊本県の中川大佐の墓所へ
 
この他にもジャングルの中には様々な遺品が残されている。

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帝国海軍大航空基地の名残
上は艦上爆撃機「彗星(一一型/一二型)」のエンジン。
これがペリリューにあるならば、彗星艦爆でなく

強行偵察専門で彗星を二式艦偵として運用した第121海軍航空隊
(通称雉部隊)のいずれか一機ではないかと、私は考えている。
マフラー(排気管)は腐らない。
 

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こちらも航空機のエンジン。
帝国海軍ペリリュー航空基地は、海軍屈指の大飛行場で

マリアナ沖海戦で航空機を消耗するまでの間、
一式陸攻などの大型機をはじめ、戦闘機や攻撃機などあらゆる

機体を運用した。現在は滑走路の一部こそ残っているが
そのほかの大部分はこうしてシャングルに帰した。

 

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ゼロ戦の主脚だ。萱場製作所製(現KYB/カヤバ工業)である。
ショックの部分に注目されたい。まだ錆びずに光り輝いている。

これには驚いた。
 

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ペリリュー島、中川大佐のラストコマンドポスト 

海軍通信壕を通って戻る。
この洞窟は、山を貫いているので、近道となる。
 
以上、ラストコマンドポストへの道のりは
険しいので、健脚の者に限るが、慰霊できてよかった。
 

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ジャングルに入るときの注意点
ラストコマンドポスト慰霊を含むペリリューのジャングルに入るにあたって
(通常の戦跡ツアー、遊歩道などを散策する場合を除く)
注意点を記載しておきます。行かれる方はご一読願います。
また、すべてにおいて自己責任のうえ、お願い致します。
 
・必ずペリリュー州観光パーミッドを携行してください。
 
・単独行動は控えてください。
原則的にパラオ人ガイド、もしくは公認ガイドとともに行動してください。
 
・他国の領土です。
国際問題にもなりかねませんので行動は慎重に願います。
 
・相場以上の謝礼金を渡すことは控えてください。
また遺骨情報などと引き換えに金品を要求される場合、応じないようお願いします。
 
・ジャングルに入る際は、虫よけスプレーで充分にアカムシ対策をしてください
ペリリュー島特有のアカムシ(ダニの総称)にかまれると、三週間はかゆみがひきません。
 

ペリリューの市街地散策

ペリリュー島のストア

 
・ストアでお買いもの

コロールのダウンタウンを散策しよう。まずはストアでお買い物だ。
ペリリューには、日用品や食品を扱うストアーが何か所かある。
基本的にここでなんでも手に入る。
 
・パラオ人は日本の柿の種、カリントウが大好き
とくに日本のスナック菓子が多い。
赤や青のカリントウはペリリュー(コロール)の名物。
パラオ人が日本のものを真似て作ったものらしい。
それから柿の種もパラオ人は大好き。
  
弁当(パラオ語/ベントー)も売っている。
 
ご飯におかずを少し載せたものがパックされている。
スーパーのお惣菜といったところか。
この店はアイスクリームも売っている! 
冷蔵庫はあっても冷凍庫がある店は少ないので
アイスクリームは貴重である。

 
・ビールが水代わり

一番売れるのはビール。パラオ全体に言えるが、この国はビールに
酒税がかからないので、500mlの缶ビールは一本1ドル前後で買える。
島民はジュースのように昼間から飲んでいる。ちなみに
ビールを飲むことをパラオ語で「ツカレナオース」という。(本当です)
パラオ人はバドライトなど、軽いものを好むが、アサヒのドライもよく売れている。
また、パラオの地ビールではレッドルースタービールというのがある。 
 
軒先に置いてある緑色の木の実はビンロウジュの実。
石灰をふりかけて、噛むようにして味わう。パラオ人の一般的な
嗜好品である。
 
・インターネットカードの購入
ストアではインターネットカードを購入できる。
ペリリューにもインターネットのホットスポットが何か所かあり、
カードを購入して裏面をスクラッチし、番号を専用画面に入力すると
二時間5ドルで使える。パラオは今でもダイアルアップが主流で通信速度は
とても遅いので、日本と同じように使えると思ってはいけない。のんびりやろう。
 
・洗濯屋さん
ストアで洗濯屋を兼ねているところもある。
ビニール袋一袋で(重さや量は関係なく、一袋での計算)
9ドル~15ドル程度で、洗濯、乾燥から畳むところまでやってくれる。
 
一般的なものはだいたい。ストアで手に入るし、生活に困ることはない。
暑いので水を多めに買っておこう。
 

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シャングルに入る人は必ずこれを
買っておこう。
「オフ」という虫よけスプレーで
現地民いわく、いちばん効果があるらしい。
 
それでいて「日本製のは効かない」という。
なんか殺虫剤みたいな匂いがして
お肌に良いという保証はないので
敏感肌の人は注意。

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ここはガソリンスタンド。
離島なので、当然コロールより高い。
 

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ペリリューのダウンタウンを行く。ここが島で一番賑わっているところ。
店で借りたレンタルバイク(5~10ドル)で走る。
左右に民家が並んでいるが、ここらへんの家は200~300万円もあれば
建てられるらしい。土地は外国人は買えないので、酋長の許可を得て
借りることになる。
 

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左右のドラム缶はゴミ捨て場。パラオはゴミの
分別がしっかりしていないので、紙類から乾電池まで同じところに捨てる。
島の裏側へ回ると、これらゴミの埋め立て場があり、自然遺産が売りの
リゾート地と思えない光景であった。今後直近の課題である。
最近になってようやく日本の協力により分別が指導されつつあるので
期待したい。
 

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走っているのは日本の中古車が九割。第二の人生を送っている。
それにしても日本の車は本当に頑丈だ。ボロボロになってもよく頑張って走る。
最近、急激にヒュンダイのシェアが拡大しているが、年月が経っても同じように
走ることができるだろうか。答えはあと10年くらいしたらわかるだろう。 
 
行政の車などは、ペイントがそのままになっているのが面白い。 
 
ペリリューに限らず、パラオは犬はほとんどが放し飼いである。
かまれないように注意しよう。

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水戸山の麓の千人壕。今は中が清掃されていて
少しだけなら入ることができる。あまり奥深くまで行くと方向感覚がなくなり
出てこれなくなる事故もあるので、光が届く範囲で見学しよう。
 
ここは引野大隊長指揮した独立歩兵346大隊および
軍属の玉砕した壕である。水戸山の千人壕について詳しくはこちら

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同じく水戸山ふもとの海岸線沿いに作られたトーチカ。
銃眼口が設けられている。
 

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ノースドック(北の港)までやってきた。
学校が終わった子供たちが飛び込み遊びをしている。
すごい迫力だ。
 

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飯田大隊が逆上陸を敢行したガルコル波止場。ここは
ペリリュー島の最北端にあたる。海が透き通っている。
凄惨な戦いがあったとは思えないほど美しく穏やかな海である。
 

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島の花や植物も多様でそれぞれが美しく面白い。
 
遠くに黒い雲が見える。スコールが来るだろう。
ドルフィンベイへ帰ろう。
 

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ペリリュー・ドルフィンベイリゾート

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ペリリュー島のドリフィンベイリゾートへ宿泊しました。
 
ペリリュー島にはいくつか宿泊施設がありますが
戦跡ツアーで訪れる方はほとんど日帰りで、夕方には
コロールへ帰ってしまいます。
 
最近ではダイバーの方が宿泊してペリリューもしくは
サウスロックアイランドのダイビングを楽しまれています。
ペリリューに宿泊するメリットとしては、同島でゆっくりダイビングが
可能なのはもちろん、ペリリューからサウスロックアイランドは
近距離にあるので、一番乗りでダイビングスポットへ
到着できます。コロールから朝一番に出発したダイバー船は
いくら頑張ってもペリリュー出発の船には勝てません。
 
ここペリリュー・ドルフィンベイリゾートは
ペリリューでも最高級の宿泊施設でありますが
お値段は比較的リーズナブル。日本人の宿泊客はあまり居ないようで
欧米人が目立ちます。
 

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日本人のマユミさんとガドウィン夫妻が経営する
コテージで、コテージには広く綺麗なシャワールーム、トイレ
冷房を完備しています。
 
敷地内には島で一番の宿泊者専用シーサイドレストランがあり、潮風
心地よく、雰囲気も抜群。朝食はもちろん、昼飯は弁当を作って持たせてくれます。
ディナー時はカウンターバーにもなります。
 

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日本人が経営しているのできめ細かなサービスとおもてなしの
心がスタッフ一人ひとりに根付いています。
 
コテージの目の前は海です。

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宿泊先で迷ったならここなら間違いないと思います。
宿泊者には格安で
スピードボートで送迎も可能です。
 

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ドルフィンベイの沖合に浮かぶこの小さな島は
上陸戦時、本島疎開を拒んだ島民が隠れて、
奇跡的に一命をとりとめた島です。

 

そのほか
ペリリュー島の宿泊施設いろいろ
 
マユミ・イン
パラオ人のマユミさんが営むエコノミーな宿泊施設。
(ペリリュー島にはマユミさんが二人います。一人はマユミ・インを経営する
パラオ人で日本統治時代を生きた日本語ベラベラのマユミさん。
もうひとりはドルフィンベイを経営する日本人のマユミさんです)
マユミ・インには大部屋と個室があり、日本慰霊団を受け入れるときは
かならずここを利用していました。
部屋はエコノミーですが、ペリリューで一番、食事が旨い!
ウエカブ(カニ)が安く食べられますし、食事には必ず
おひつに入った白米と(またこれがボリュームあり)味噌汁が出ます。
アルコールは別途注文。
 
アイランドビュー・モーテル
ノースドックからすぐの二階建ての宿泊施設です。
虫が少ないのが良いところです。部屋は普通です。
食事はつかないので、手配する必要があります。 
 

2014年6月13日 (金)

DB-601型エンジン(ハ40およびアツタ)

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陸軍三式戦闘機「飛燕」
第149振武隊仕様
 
国産液冷エンジン
国産では珍しい液冷エンジンを搭載したモデル。エンジンは
ライセンスを購入して導入されたドイツ・ダイムラーベンツ社の
DB-601で、ドイツより譲り受けた技術をもとに
日本国内でライセンス生産された。このエンジン、当のドイツでは
すでにメッサーシュミットBf109に搭載され著名な活躍を見せている。
過給器(スーパーチャージャー)付きで高高度でも高い性能を発揮した。
 
このライセンス生産型のDB-601を
日本陸軍では「ハ40」海軍では「アツタ」エンジンという呼んだ。
このタイプの機体は先端がシャープなデザインで日本軍で運用されたのは
飛燕のほか、海軍の「彗星」 「晴嵐」(南山)、以上の三機種のみである
 
液冷エンジンはドイツや米国では一般的であったが
空冷の機体が大部分を占める日本では例が少なく、整備兵への
教育不足により一部で稼働率の低下を招いた。 
 
ペリリューに残るDB-601型エンジン。
これは彗星に搭載されたアツタとみられる。
 
エンジン側面のプラグやコード類、
12気筒のマフラーだけが錆びずに残っている。
 

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2014年3月25日 (火)

ペリリュー、アンガウル

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ペリリュー、アンガウルに滞在中です。
アンガウル島にてご遺骨を見つけましたので
帰国後、厚労省にデータを届け出ることにしました。
 
※(写真はペリリューの壕です)

2013年10月 2日 (水)

中川州男大佐の墓所

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ペリリュー島守備隊長中川大佐のお墓が
出身地である熊本県熊本市にあります。
 

熊本の市街地を見渡せる岡の上に
小さな墓碑群があり
その一角に中川大佐のお墓はあります。
 
また、この辺りは西南の役(西南戦争)で亡くなった著名な方の
お墓もあり、歴史を学ぶ方は一度、訪れておくのもよいかもしれません。
 

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だいぶわかりにくい場所にあり、随分と迷いました。
近くに大型霊園があり、そちらと勘違いしがちです。
中川大佐の墓碑は、そちらの大型霊園とは別の場所にあり
霊園の名称等は特にありません。
 
お墓は地元の方が、定期的に清掃をしてくださっているようで
とても綺麗になっていました。 
 
中川州男大佐(戦死後中将)墓所
アクセス
熊本県熊本市立田山貯水池付近
住所、墓所名は不明
 
立田貯水池入口に駐車し(車はここで行き止まり)奥へ歩くと
墓碑群が見えてくる。急な階段(を下りずに)手前を右へ折れ
20メートルほど歩くと、中川大佐の墓がある。
 
近くに小峰墓地があるが、こちらではないので間違えないようにする。
なお、小峰墓地は、原爆慰霊碑、先の大戦の慰霊碑ほか西南戦争の
戦没者が眠っている。
 

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中川大佐自刃の地・ペリリュー島ラストコマンドポストへの旅
はこちら

2013年8月26日 (月)

ペリリュー島、水戸山と千人壕

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▲水戸山と千人壕入口
 

◆水戸山陣地

水戸山に掘られたこの深く複雑巨大な壕は高度に要塞化されており
ビルの三階から四階建てに相当し文字通り一千名の兵力が潜んでいた。
そのため一度無力された陣地が何度も復活し、海兵隊を悩ませたほか
上方の洞窟口より地上の海兵隊に対し執拗な攻撃が加えられた。

◆トンネル工事のプロによる陣地構築
この洞窟陣地はガドブス飛行場建設で動員された炭鉱、土木建設関係者が

徴用された海軍軍属で編成された海軍第214設営隊と
トンネル構築のプロである海軍第三隧道隊が築いたもので
海軍の豊富な資材と海軍軍属の尽力に依るところが大きい。
床板を張り巡らせたほか、発電機、空調まで備え、
さらにこの水戸山の地下を貫いて南洋興発工場と連絡が可能であった。

陸軍は陣地構築において、海軍の協力を拒まれ、
人力による手作業に頼らざるを得なかった。
南部に構築された陸軍陣地との違いは歴然である。


◆混成部隊の戦いと統制の欠如
この陣地を有する北地区の守備を担うのは
独立歩兵346大隊で、兵員の大部分が海軍の航空要員や
土木従事の軍属であり、正規の陸軍兵士でないため戦闘能力と
統制が欠けていた。

それらをまとめる大隊長は予備役上がりの
引野通広少佐53歳であった。

◆水戸山陣地の玉砕

9月23日夕刻から戦車を伴い、浜街道を北進する
米軍に対し、引野大隊は地形を活かし反撃を試みるが
被害が続出。戦闘経験の浅い大隊は存分に
力を発揮できず、25日、中之台を南北から挟撃を受けた
大隊は大山付近に布陣する中川大佐との連絡系統を遮断された。

その後も洞窟陣地より抵抗を続けたが
10月2日、引野大隊長が戦死。北部守備隊はついに玉砕した。

米軍はその後も幾度となくこの巨大な水戸山陣地に対し掃討戦を行ったが
洞窟の全てを掌握し、最後の日本兵を倒したのは翌年2月のことであった。
 

◆戦闘経過

9月23日夕刻

米軍は浜街道を前進し
ガリキョク南方へ進出。
同地守備の独歩346大隊の前田中尉指揮する
第二中隊はツツジ、前田山陣地でこれを撃退。
前田山からの重火器の猛射を浴びせ阻止したが
米軍は戦車十数両と艦砲射撃支援のもとに
攻撃を再開

24日午後ツツジの一部が奪取された。
引野大隊長は予備隊を投入し浜街道沿いに逆襲を敢行し
陣地を奪回。夜襲を準備中敵に発見され集中射撃を受け
被害続出。

これに基づき、引野少佐は予定の計画に基づき
水戸山と中之台を確保することを決心した。

25日午後以降
米軍の新鋭一個連隊が進出し無線電信所を夕刻に奪取。
中之台を南北から挟撃。ついに北地区隊と中央山地に布陣する
第二連隊主力は遮断された。


9月26日、米軍は浜街道から水戸山西方を北進し
ガルコル桟橋付近まで切迫したが
これを待ち構えていた中村中尉指揮の第三中隊、
歩兵砲および砲兵中隊が反撃し敵を混乱に陥れたが
物量で押され
27日には水戸山の地下坑道陣地を除く大部分が
奪取され、10月2日頃、引野大隊長が戦死
北部守備隊は玉砕した。


◆ガイド
ノースドックで船をおりてすぐ、目の前に広がる山脈が水戸山です。
 
水戸山の麓に「千人壕」と呼ばれる長大な壕が残っています。

現在は、少しだけ中に入って見学することができます。 
(ただし、見学の際は必ずガイドとともに行動し、絶対に単独で
奥まで行かないでください。遭難の恐れがあります)

 
当時、ペリリュー島には燐を採掘する
南洋興発株式会社という民間会社がありました。
ペリリューの北部は南洋興発の拠点であり、南興村と呼ばれました。
この人たちは、トンネル掘削のエキスパートであり、故に長大な
地下要塞を築き上げ、ペリリュー島が
戦火に巻き込まれ、軍属として籠城することになりました。
 

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 ここでは引野通広(ひきのみちひろ)少佐
独立歩兵346大隊の指揮し、戦いました。
芸者久松の噂が生まれたところでもありますが
その真意はさておき、南部を守備した生粋の兵と
比較し、こちらは軍属を含む、臨時編成の混成部隊でしたので
引野少佐の指揮は極めて困難だったと推測されます。
 
引野少佐は予備役の期間が長く、直前まで内地で教練などを
務めていましたが戦局の悪化により、急遽最前線ペリリューへ
送り込まれました。このとき少佐は53歳。
 
引野少佐率いる混成346大隊は、南部より進攻する米軍を
果敢に食い止め続けるも
ついに10月2日、引野大隊長は戦死し、
米軍はペリリュー北部を制圧しました。
 
飯田義栄大隊長のおはなし

なお、最北端のガルコル波止場は
飯田大隊が逆上陸を敢行した地点です。
飯田大隊長は最後まで戦い抜き、中川大佐とともに玉砕しています。 
 
戦後(昭和44年)飯田義栄大隊長のお母様が慰霊に訪れ
「せがれのために、大勢の方が亡くなって申し訳ない」
と、涙しました。そのときの写真も残っています。

2013年7月22日 (月)

ペリリュー上空でゼロ戦と対峙したリンドバーグ

◆1927年、初の大西洋横断単独飛行を達成したアメリカの英雄
チャールズ・A・リンドバーグの人生は必ずしも華やかなものではなかった。
 
1932年には当時1歳と8カ月だった最愛の長男を誘拐される事件が発生。
多額の身代金の支払いに応じたが、長男は殺害された状態で発見された。
その後ヨーロッパに移住したリンドバーグ夫妻は 第二次大戦不介入を唱える
孤立派にかつがれたことから ヒトラー支援と誤解され、苦しい立場となった。
 
リンドバーグが太平洋戦線に姿を現したのは1944年(昭和19年)夏のことである。
民間人のライセンスしか持たない彼が、なぜ戦闘機で空を飛ぶ運命となったのか。
 
Imgp7636_1▲パラオ・アンガウル島に残るF4Uコルセア戦闘機の残骸。リンドバーグの機体とは無関係。
 
F4u1_vmf213_on_uss_copahee_1943_2▲リンドバーグが搭乗したF4Uコルセア戦闘機(同型機)
 
リンドバーグ、テストパイロットとして戦場へ
 
◆リンドバーグはユナイテッド社の委託でテストパイロットをつとめており
同社が製作していたF4Uコルセア戦闘機の性能テストにあたるため、
南太平洋戦線に向かった。 その背景には政争から離れ、一飛行士として
戦いたいという願いを秘めていたと伝わっている。
 
1944年、4月にF4Uコルセア戦闘機でアメリカ本土を飛び立ったリンドバーグは
ハワイを経てガダルカナルへ到着。3週間の間、同機で連日のように
ラバウル攻撃を繰り返した。 日本の航空機は壊滅し空戦の機会はなかったが
対空砲火を受けた。このとき42歳。
 
1944年6月、リンドバーグは今度はP-38ライトニングを操縦し
ニューギニア・ホランジア基地に着陸した。
 
「P-38の実戦性能向上テストがしたい」
階級章の無いカーキ色の軍服を着用した彼は、その旨上官に申し出るのだが
当初、上官は、このテストパイロットを気にもとめず 正体を知って驚いたという。
とはいえ、正体がわかったところで17年前の大西洋横断の英雄に
期待が持たれることはなかった。
 
それからリンドバーグは精鋭戦闘機隊「Satan's Angel」の一員として
戦場の空を舞うこととなるのだが、二度目のP-38搭乗にもかかわらず
その技量は完璧で、撃墜も記録し、上官は驚きを隠せなかった。
 
020903o9999b059▲P-38ライトニング戦闘機
 
彼の活躍はニューギニア戦線では多くの兵士を高揚させたが
民間人であるリンドバーグが戦闘任務で飛ぶことは
まずいのではないかという噂が流れ始めたこともあり
その報せが本国まで届くことはなかった。 さらに、もし日本軍に撃墜でも
されたなら、 大戦果と報じられてしまうだろうし、処刑されるかもしれない。
 
そこで彼はオーストラリア駐留中のマッカーサー総司令官の元へ飛び
(旧知の仲だったらしい)直談判し、大ジェネラル閣下のお墨付きを得ることに
成功した。 彼秘伝のP-38の航続距離遠伸法が、マッカーサーをおおいに
喜ばせたと伝えられており それを伝授する代わりに「どこへ飛んでもいい」という
許可を得たのだった。
 
Imgp5714_1▲現在のパラオ・ペリリュー飛行場跡

パラオ・ペリリュー上空でゼロ戦と対峙するリンドバーグ
 
◆パラオ、ペリリュー上空で、はじめて日本の零戦と対峙するのは
8月1日のこと。 ペリリューで上陸戦の始まる一ヶ月半前ということになる。
彼の編隊はP-38、5機から成り、海上で2機の零式三座水上偵を追っていた。
この水偵は第30特設根拠地隊附属水上飛行機偵察隊と推測されるが
この2機を仕留めた直後であった。
 
ペリリュー飛行場より迎撃してきた第201海軍航空隊ゼロ戦の猛追を受け、
リンドバーグは被弾、機体から 白煙を吐いた。スロットルを全開にして
ゼロ戦から逃げるが、低空での性能は ゼロ戦が上で
振り切れない。
彼は最期を覚悟したが、運がよかった。 現れた味方のP-38がこの零戦を
追い払い、 撃墜を逃れた。危機一髪のところだった。
 
この後、8月13日にケニー将軍により飛行禁止が通達され
本国へ帰還するまでリンドバーグの戦いは続いた。
 
なお、サイパン・アスリート飛行場で鹵獲された、ペリリュー島邀撃でも
活躍した 第261海軍航空隊のゼロ戦【61-120号機】をテストパイロットも
リンドバーグがつとめている。
 
リンドバーグは戦後、来日し大阪万博にも姿を見せている。

2013年6月29日 (土)

【ペリリュー島】ハネムーンビーチの台風被害

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ハネムーンビーチ(米海兵隊作戦名パープルビーチ)
台風で砂浜が流されてしまったようです。
現在被害状況を確認中です。

ハネムーンビーチの概要はこちら
 

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2013年6月28日 (金)

第261海軍航空隊

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第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第261海軍航空隊(第二六一海軍航空隊)
通称『虎』
 
第261海軍航空隊、通称『虎』は昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。
昭和19年、韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、名の通り
迫り来る米機動部隊に第263海軍航空隊『豹』とともに、マリアナ防衛の
双頭を成し、鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスには中堅以上か真珠湾以来の猛者を迎え編成、
列機は17~18歳の搭乗員が占めた。 パラオ大空襲邀撃戦では
ペリリューより発進、グラマンF6F戦闘機、150機以上を
僅か28機で迎え撃ち、敢闘。 大宮島上空ではB-24への体当たり撃墜を
行ったほか爆装し、艦船への攻撃をかけるなど、勇猛果敢な部隊として知られる。
 
マリアナ沖海戦(あ号作戦)でも76機以上の爆撃機、戦闘機を 撃墜したが、
米機動部隊との歴然たる戦力差の前に未帰還機は増え、7月に解体、
残った搭乗員の一部は フィリピンの201空に編入されたが、
上田司令をはじめ サイパンに残った者は地上戦を展開、最後の突撃を
敢行し玉砕した。
 
機材は零式戦闘機五二型。
 
なおPLANES OF FAME(プレーン・オブ・フェイム)航空博物館所有
(平成25年、所沢航空記念公園に里帰り展示)
零式艦上戦闘機五二型『61-120』号機は
第261海軍航空隊所属機で、サイパンで鹵獲された機体である。(下)
 
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昭和18年6月1日、鹿児島で開隊された261空は
定数72機 実働機零戦五二型45機とし
19年2月、第一航空艦隊マリアナ進出とともに
アスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)に進出。
 
格闘戦、急降下、機銃掃射、三号空中爆発焼夷弾の
投下演習、訓練を 繰り返し、 3月から7月にかけて 同飛行場を拠点に、
ペリリュー、パラオ大空襲邀撃戦、サイパン邀撃戦 メレヨン、
大宮島(グアム)空戦、 あ号作戦(マリアナ沖海戦)で敢闘した。
 
同年7月、マリアナ沖海戦で稼働機が消耗し僅かとなった261空は解隊。
この時点で残された搭乗員の一部は陸攻機でフィリピンへ脱出し
以降、201空に編入されたが 上田猛虎司令をはじめとする多くの
搭乗員は地上に残り サイパン守備隊に編入、最後の突撃を敢行、玉砕した。
また、潜水艦に乗り込み脱出した搭乗員は撃沈され戦死した。
 
共同作戦部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
テニアン、大宮島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第261海軍航空隊編成
および搭乗員
 
司令、上田猛虎中佐(海兵52期)
飛行隊長、指宿正信大尉(海兵65期)
分隊長、伴健一大尉、岡佐古昌人中尉、東山市郎中尉
田中民穂飛曹長ほか
 
機関長、小橋実大尉
主計長、藤原治計大尉
 
医務隊 軍医長、岡本新一軍医大尉(昭和11年、昭士会)
分隊長、石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年、たて、よこ組)
分隊士、井手次郎軍医中尉(昭和18年10月、青島組)
分隊士、北川徹明歯科中尉(昭和17年、九月、元山組)
看護長、川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)
下士官兵、35名(佐世保鎮守府所属)

第261海軍航空隊所属搭乗員一覧
 
岡佐古 昌人中尉
(海兵70)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
鈴木 信男二飛曹
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへあ号作戦に参加6/19未帰還
 
二本森 憲二上飛曹
(操45)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
岩田 増雄二飛曹
(乙15)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
古賀 他四郎一飛曹
(乙11)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
長谷 登太郎飛長
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ 東山 市郎中尉■3/20サイパン飛行艇狩
■3/30ペリリューへ■サイパン地上戦玉砕
 
杠 勇男飛長
■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ
 
井竜 憲一二飛曹
(乙15)■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ3/31未帰還
 
林 重則二飛曹
(乙14)■3/20サイパン飛行艇狩■6/19未帰還
 
興津 健市飛長
■3/20サイパン飛行艇狩3/30ペリリューへ
 
伴 健一大尉(海兵69)■3/21サイパン飛行艇狩■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■5/29大宮島空中哨戒■戦斗306へ
8月10日グアムにおいて戦死
 
小関 静飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■あ号作戦参加
 
河野 茂上飛曹
(操55)■3/21サイパン飛行艇狩■201空編入
 
片岡 敏郎二飛曹
(乙15)■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/17未帰還
 
黒川 昌輝少尉
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/24あ号作戦において未帰還
 
岡村 恒三郎飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■201空へ
 
鮎川 喜七郎中尉
(海兵70)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒
■4/11メレヨン上空哨戒■4/13「松江丸」直掩■4/16、2機で、PB2Y×2機以上邀撃
空中戦で戦死
 
気谷 順次飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■あ号作戦参加
 
田中 民穂飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒■4/11メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒4/17上空哨戒■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
■戦後全日空機長
 
浅川 峯男上飛兵
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
 
木村 ?雄飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/14「松江丸」直掩■4/18メレヨン空戦
 
久保 典義飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
■昭和20年3/19松山において戦死
 
指宿 正信大尉
(海兵65)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■4/18サイパン邀撃戦
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■201空-横須賀空
■戦後航空自衛隊F86Fパイロット、昭和32年殉職
  
大塚 明一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
児島 猛二飛曹
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃未帰還
 
吉岡 康飛長■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
閏野 護二飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
貝原 良兼上飛兵
(特丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
藤川 史雄二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
土屋 喜輔上飛兵
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
永井 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■7/8戦死
 
吉田 久光上飛兵
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
平成24年、バベルダオブ島にて機体が発見される 
 
中山 正次二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
浜田 勇二飛曹
(特丙12)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
林  茂一飛曹
(操55)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
大谷 敏男二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
宮崎 保飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/17未帰還
 
渋谷 正雄少尉
(予11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
高坂 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
中尾 隆美飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
岡田 盛樹飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
紀田 四郎二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
佐藤 直人上飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
山本 隆造上飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
本武 敏治上飛兵
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
瀬津 賢三一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進
 
俵谷 法邦二飛曹
(乙15)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
内山 隆雄一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
近藤 三津男上飛兵
(特丙11)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■5/27サイパン空中転進■6/19未帰還
 
伏見 清一飛曹
(乙14)■4/8空中転進■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒■4/18メレヨン空戦4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
駒走 俊雄飛長
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■5/27サイパン空中転進
■昭和20年7月31日,戦斗701,大村において戦死
 
石川 要太郎一飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
塚部 義己上飛兵
(特丙11)■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加■5/27サイパン
空中転進■9/12比島にて戦死
 
斉藤 善次上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
堤 貞四郎上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦において
敵機体当たり撃破,不時着■6/24戦斗361、硫黄島にて戦死
 
小柳津 益次一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23大宮島邀撃戦
あ号作戦参加
 
内田 隆夫飛長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中
転進■6/19未帰還
 
佐藤 庄司飛長
(丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4月戦死
 
坂本 健次郎上飛兵■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/19未帰還
 
梶原 靖夫一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦、敵機体当たり
撃破、未帰還
 
西田 勝次上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリン
諸島において戦死
 
粒針 靖弘上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■生還。戦後航空自衛隊パイロットを経てYS-11フェリーパイロット
アフリカ大統領機機長を務める。

 
菊池 政男飛曹長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11南洋群島において戦死
 
永沼 重雄二飛曹
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
中島 三郎上飛兵■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■6/11未帰還
 
内山 忠行一飛曹甲8■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/12未帰還
 
中林 正三郎二飛曹■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中転進
 
阿部 順市飛長
(特丙)11■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリンにて未帰還
 
野村 淳飛長
■6/11未帰還
 
石橋 仁志一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
鈴木 節一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
武藤 忠雄一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
原田 保久一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
田中 仁飛長
■6/12未帰還
 
二木 正美上飛曹
■あ号作戦参加■201空編入■19年9月12日比島において戦死
 
岡村 好夫二飛曹
■あ号作戦参加 寺島 大一飛曹■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
菊池 政治飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
安藤 武吉飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
立壁 邦雄二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
坂元 盛彦一飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
中村 正三郎二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
杉本 正勝飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
金原 菊馬飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
小田 喜一飛曹長
(操18)■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
生還
 
山本 豊治一飛曹
(甲10)■6/9サイパン戦死
 
竹内 薫一飛曹
(甲10)■7/7サイパン戦死
 
魚住 勝一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
堀田 芳夫
(予11)■7/15サイパン戦死
 
岡田 忠雄一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
鈴木 千秋一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
高橋 定義一飛曹
(甲10)■5/11サイパン戦死
 
小西 間佳
(特丙11)■3/11東太平洋戦死
 
光野 正一飛曹
甲10■6/11サイパン戦死

山本 久二雄
(特丙11)19年1月19日サイパン殉職
 

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第263海軍航空隊

Photo


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第263海軍航空隊(第二六三海軍航空隊)
通称『豹(ヒョウ)』
 
第263海軍航空隊、通称『豹(ヒョウ)』は
昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。 韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、
名の通り 迫り来る米機動部隊に、第261海軍航空隊『虎』とともに
マリアナ防衛の双頭を成し 鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスに中堅以上、もしくは熟練搭乗員、
列機は17~18歳(甲種10期)の搭乗員が占めた。
 
昭和18年10月に元山で開隊された第263海軍航空隊は
定数72機をもって編成。司令官に玉井浅一中佐が選任された。
 
11月に元山での訓練を終えると、翌昭和19年2月、先発隊は香取基地を
発ち、硫黄島を経由後、21日にテニアンに到着した。
テニアンは飛行場、掩体、防備は不完全であり、
 
到着直後の2月23日、米機動部隊、戦爆連合の大編隊が来襲。
263空は当初、艦爆隊の直掩隊として進出した部隊であったが
この空襲により、急遽邀撃戦を展開。この日の空戦で輪島由雄中尉以下
11機が自爆および未帰還となり、地上の6機も破壊された。
 
そこで、飛行隊長の重松康弘大尉以下生存者は輸送機で内地へ
代替機の受領に飛んだ。 2月末から3月中旬頃、補充後は艦戦49機となり
ふたたびマリアナ、大宮島(グアム)第一飛行場へ進出した。
 
3月30日、パラオ大空襲の応援要請を受け、261空とともにペリリュー
駆けつけたがこの日は会敵せず、一旦ペリリューに着陸する。
翌31日、朝からふたたび米機動部隊の来襲を受け、邀撃発進。
 
261空とともにグラマンF6F戦闘機150機以上を相手に敢闘したが
18機出撃中、15機が未帰還となった。地上の3機も大破炎上し、
生存者は輸送機でサイパンへ転進した。
 
5月25日、ビアク作戦参加のため、残存主力28機を玉井司令が率いて
ペリリュー、ついでワシレへ進出。
 
5月15日、大宮島へ30機が復帰、この間残留隊は11日のグアム上空戦で
4機が未帰還。15日から18日、サイパン沖の艦船攻撃では20機が未帰還となった。
 
5月19日、あ号作戦で戦力のほとんどを失う。
 
7月8日、重松大尉以下、残存6機がペリリューへ空中転進の途中
グラマンに奇襲され、重松大尉を含む5機が未帰還。 たった1機のみ
ペリリューに到着した。この1機は杉田庄一で、のちに松山の二代目
343空で戦うこととなる。
 
グアムに残留した部隊はその後も少数で攻撃を繰り返したがついに稼働機は
ゼロとなり解隊、搭乗員は陸攻で脱出。ペリリューの残留8機はダバオへ転進
201空へ編入された。
 
263空時代から生き残った中瀬清久一飛曹も特攻第一号『若桜隊』として
敵艦に体当たり、散華した。
 
共同作戦部隊
 
第261海軍航空隊(虎)
サイパン島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
編成および搭乗員
 
司令、玉井浅一中佐(海兵52期)
飛行隊長、重松康弘大尉(海兵66期)
分隊長、武藤陳彦大尉、輪島由雄中尉、吉川芳博中尉ほか
 
第263海軍航空隊戦没者
 
■2/23テニアン邀撃11機未帰還
吉川 芳博(中尉) 海兵70期
輪島 由雄(中尉) 操練18期
大久保 富正(一飛曹)甲種7期
岡田 良三(一飛曹) 甲種7期
川崎 熊男(二飛曹) 乙種15期
門脇 克悦(上飛兵) 丙種12期
品田 安蔵(上飛兵) 丙種12期
 
■3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
武藤 陳彦(大尉) 海兵70期
島田 義人(予備少尉) 予備学生11期
西本 彰吉(上飛曹) 乙種10期
栗田 勝司(上飛曹) 甲種6期
菊池 武一(飛曹長) 甲種1期
長瀬 正郎(飛曹長) 甲種1期
芳野 定俊(一飛曹)
田渕 武夫(一飛曹) 甲種8期
植田 正治(二飛曹) 乙種15期
矢鍋 幸男(上飛兵)
小野 敏春(上飛兵) 特丙11期
横池 武治(上飛兵) 丙種12期
下瀬  卓(上飛丙) 丙種12期
神田 秀雄(上飛兵) 丙種12期
進藤 勝治(上飛兵) 丙種12期
 

野口 健太 乙種15期,12/23,南洋群島
坂口 貢 丙種12期,1/19佐多沖
青木 晃(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
高木 哲郎(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
飯沼 一郎 甲種8期,4/24,サイパン
安藤 清秋(一飛曹) 甲種10期,4/26,大宮島
本田 健一郎(大尉) 海兵69期,5/7,大宮島
梶川 勝造(予備少尉) 予備学生11期,5/7大宮島
田中 三一郎(飛曹長) 操練43期,5/7大宮島
楠森 可(一飛曹) 甲種10期,6/6大宮島
石田 明正(一飛曹) 甲種10期,6/8,小笠原諸島父島
次郎丸 隆(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
福島 統(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮久 昭義(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮尾 芳雄 丙種12期,6/18,南洋群島
蕪木 幾二(上飛曹) 丙種4期,6/18,マリアナ沖
青木 腋雄(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
金木 雄一(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
永谷 尚(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
真家 和夫(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
重松 康弘(大尉) 海兵66期,7/8,ヤップ
富田 隆治(一飛曹) 甲種10期,7/21,ヤップ
井上 聖一郎(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
秋山 日出一(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
青山 一朗(一飛曹) 甲種10期,9/12,セブ
丸山 茂樹(一飛曹) 甲種10期,10/15,クラーク※201航空隊へ編入
城所 竜男(一飛曹) 甲種10期,10/17,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
中瀬 清久(一飛曹) 甲種10期,10/25,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
 

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2013年4月16日 (火)

茨城県護国神社参拝

Imgp3514

 
本日は水戸市の茨城県護国神社へ参拝しました。
本殿では、慰霊祭が行われ「同期の桜」が演奏されていました。
 
Imgp3504
 
東日本大震災のさい、この大鳥居は倒壊せず健在でしたが
石の接合部に隙間が出来てしまいました。
土台も大きな亀裂が入りました。
 
Imgp3516
 
こちらはペリリュー島の慰霊碑です。
左右の石灯籠が倒壊し、転がりました。石段の一段目にその跡があります。
周囲の柱と柵も破壊されたため、応急的に物干し竿で補修しました。
 
 
Imgp3520
 
Imgp3521
 
Imgp3505
 
Imgp3519
 
Imgp3515
 
そのほかの慰霊碑なども大きなダメージを受けました。
よく見ると多くの修復跡に気付きます。

2013年3月10日 (日)

ペリリュー島の台風被害

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被害甚大です。二月中旬に渡航した仲間が写真を撮ってきてくれました。
島南端の平和記念公園の様子です。この場所のみ外洋に面しており
高潮による被害が甚大です。巨木すら根元からもぎ取られ流されていまっています。
さらに島内道路の各所が倒木により寸断された箇所が多く
慰霊碑の修理は厚生省の管轄ですが道路は管轄外です。
重機すら無いこの島ですから復旧のめどが立たない状況です。
-
台風は島の東から接近し、北部の州事務所は30センチ冠水。ケイボーストアと
マユミインはキッチンと食堂の屋根が全て吹き飛ばされており、修復中です。
内陸部のジャングルも木々が倒れており歩行困難。
中山の東側は特にひどいものでした。
-
島民は日本軍が築いた強固な洞窟へ避難していました。
今回幸いだったのはパラオにおいては人的被害が皆無だったことです。
(この台風はパラオからフィリピンへ進み、1800名以上の死者行方不明者が出ました)
-
全てを外洋に囲まれたアンガウル島はさらに被害甚大
壊滅的との報告も入っています。

2012年9月25日 (火)

パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉

パラオの彗星

パラオには手付かずの戦跡がまだ多く残っています。 
あの戦争が終わって56年、誰の目にも触れず
ジャングルの中で眠り続けていた日本の飛行機がありました。
 
発見の経緯はコウモリハンター(パラオではコウモリを料理にします) が
コウモリを追っている最中の出来事でした。
後の調査により機体の搭乗員が判明し、2000年3月12日の読売新聞に
『密林に眠る彗星墜落の旧海軍機56年ぶりパラオで発見』 と題した記事が
大きなカラー写真と共に紙面を飾った経緯があり テレビでも報道され
大きな話題となりました。

彗星の銘板

 
製造されて、70年になるというのにアルミニウムは
朽ちることなく残っています。機体は海軍の「彗星」でした。
正確には「彗星/二式艦上偵察機」彗星艦爆のプロトタイプで
爆弾の代わりにカメラを備え付けた偵察機仕様の機体です。
 
この銘板と尾翼にマーキングされた数字が手掛かりとなりました。
第121海軍航空隊、通称「雉」部隊。機体はその「雉13号機」
搭乗員は永元俊幸大尉(山口県出身/23歳)と判明しました。
あれから10年、現地へ足を運ぶことが困難なこともあり、充分な
調査がされないまま 現在に至ります。私は後の為にも緯度経度だけ
でも記録しておく必要があると思い立ち 現地調査の段取りを整えました。
 
パラオ人の漁師に頼み、漁船を一日チャーター。発見者で位置を知る、
唯一の人物であるコウモリハンターを探し出し同行してもらいました。
 
墜落地点のウルクタープル島はコロールからは40分~1時間ほど
かかります。 島には砂浜が無く、切り立った岩場のみで、上陸が極めて
困難です。 それでも満潮時を狙い、せり出した木の幹に足をかけて
海に落ちそうになりながらも 無事、這い上がりました。

03

 
さらにそこから山頂付近を目指して登ります。 直線距離にすると僅か
200メートルほど(標高60m程度)ですが 急斜面を真っ直ぐ進む事は
できませんので、道を探りながらジグザグに登ります。 僅かな距離でしたが
40分~1時間ほどかかってようやく到着します。 現場もやはり急斜面で
足場が悪くバランスを保って立っているのがやっとの状態でした。
 

04

 
到着しました。
山頂近くに眠る永元大尉乗機「彗星/二式艦上偵察機」です。
  

05

07

 

機体は墜落の衝撃で、大破四散し、唯一、尾翼の形を認める程度ですが
炎上しなかった為に、個々の部品の保存状態は良好で、そこから
当時の様子を知ることができます。現場からは大尉の軍刀も発見されました。
搭乗員の多くはコンパスが狂うという理由で軍刀を機内に持ち込むことを
嫌うのですが なぜこの日に限って携えていたのか、不可解な点が残ります。
 

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私がこの現場で見つけて一番印象に残っているものは
風防ガラス(アクリル)でした。 多くは曇っていましたが、綺麗なものも残っており
付着していた土を擦って落とし 、透かしてみると、向こう側が鮮明に見えました。
約70年前に製造されたものです。同じようにこのガラス越しに、永元大尉は
どんな空を見ていたのかと思いを馳せました。
 

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第61戦隊121空ペリリュー派遣隊の永元大尉は、上陸戦が始まる前の
6月18日、ガドブス島に残っていた最後のゼロ戦隊を率いて
グアム上空へ誘導、ゼロ戦隊は全機未帰還。
彗星搭乗の永元大尉ひとり生き残り、グアム上空の強行偵察をした後、
帰還の途につきました。
 
ところが機体はペリリューの飛行場へ降りる直前で燃料が
尽きてここへ墜落したと 推測されています。飛行機から見ればペリリューは
目と鼻の先です。 もう少しだけ燃料が残っていたら、高度をとっていたら、
帰還できたかもしれない あるいは新型機の「彩雲」があてがわれていたなら・・・
様々な仮定が過りますが
 
私は飛行機を見る度、倉田洋二先生(アンガウル玉砕戦の生存者)のお話で
印象に残っているものがあり それを思い出します。
 
「僕らは一銭五厘で集められて、ジャングルの中で餓死する。助けも来ない。
だけど飛行機が不時着するとどんなに遠くでも搭乗員を助けに行く。
飛行機乗りはいいなぁ・・・なんてみんな言ってたけど、それは死ぬまで
使われるってことじゃないか」
 
ここで命を繋いだとしても次はなかったのではないでしょうか。
 

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10年前の慰霊と収容作業で大尉のご遺骨はこのコクピット付近から
脊椎骨2個のみを回収したのみでした。 まだ残っているかもしれませんが、
現場の調査は極めて困難です。
 
私はGPS機器で位置を計測し、一通り写真を撮りました。
そういえば、帰るときの方が大変だったのを、すっかり忘れていました。
こういった不安定な場所では、必ず、手と足4本ある内の3本を固定して
残りの一本のみを動かして移動するよう心がけます。
 
今度は崖の上からボートに降りなければなりません。
なんとか海に落っこちずに済みました。
 

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遠くのほうを観光客を乗せたスピードボートが走っていきます。
やがてうねりがやってきて 停まっているこちらのボートを揺らします。
ボートの上でリゾートを楽しむ観光客 その様子から戦争は遠い日の
ものとなってしまったのだろうか、と思いました。
 
この彗星(二式艦偵)は流線型をしたとても綺麗な飛行機で
復元された同型の機体が靖国神社の遊就館に保存されており、
見学することができます。
 

18


※戦記でも名高い121航空隊、通称「雉」強行偵察部隊です。
彩雲でメジェロ強行偵察し、敵戦闘機に襲われるも それを振り切り
「我に追いつくグラマン無し」と打電したことで有名な部隊です。
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2012年9月 9日 (日)

ガドブス島を飛び立った第263海軍航空隊(豹)のエースたち

092 - コピー_1_1
ペリリュー島のすぐ近くにガドブスという島があります。

このM4戦車は米軍がここを占領した後、
「日本兵が再び攻めてこないよう、威嚇の意味で海に砲塔を向け置いた」
という理由で今でもガドブスに眠っています。

現在ここは無人島ですが、かつてはペリリュー島と橋で繋がって
おりました。ガドブス島には1000メートルの滑走路があり
主にここで零戦を運用していました。橋は破壊されてしまいましたが
橋脚だけは残っています。ペリリュー側の水戸山麓あたりから望む
橋脚跡です。

20100206 685_1
006 - コピー_1
私は島民のローレンスさんにお願いして、小型船に乗せてもらいガドブス島への
上陸を果たしました。大潮の時期、丘ガニが多く現れそれに伴いガドブス島へも
漁に行くというので一緒に連れて行ってもらったのです。子供たちも一緒です。

017 - コピー_1
オカガニを次々に捕まえては袋に入れて行きます。(ちなみにこれはオス)
これをコロールへ卸すわけです。このオカガニはコロールのホテルや
レストランで美味しく頂けるのはもちろんですが高いので
ここペリリューまで来るとかなり安価で食べることができます。
自分もそれにならってカニを捕まえようとしたら
「手がかゆくなるから触ったらダメよ!」と言われました。
あなた方は素手でボンボン捕まえて袋に放り込んでいくじゃないですか。
※島民以外の漁は禁止されています

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横道に逸れました。これがガドブス島の内部です。
「ここが滑走路があった辺りよ」と言われましたが・・・
現在はジャングルに戻っていて、平坦だった頃の想像がつきません。
トーチカの中をくぐる双子ちゃんズ。

手に持っているのは海軍さんの薬缶(やかん)です。この写真を後で先生にお見せしたら
「おお、海軍さんの薬缶だ」と仰ったので、陸軍は使わないのですかと尋ねたら
「陸軍は薬缶なんかつかないよ」と一蹴。よく考えればそうですよね。
当時としては貴重なアルミ製。

マングローブの森_1
島の東側はマングローブの森で、足をとられほとんど進むことはできません。

モクマオウ_1
101 - コピー_1
これはモクマオウの木。お化けみたいですが。
その下はモクマオウの根元にツカツクリが巣を作った様子です。
ツカツクリは飛べない鳥で、その代り足が発達し、大きな後ろ足で土を
盛り上げて巣を作ります。

107_1
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これは飛行場の守備に使った機関砲です。
「ダダダダダダ!」っと言って遊ぶ双子ちゃんズ。
下は海軍の12糎高角砲。

145 - コピー_1
クレーター_1
パンの実を投げて遊ぶ。くどいようですがもともと飛行場です。島内は
爆撃で方々に大きな穴が空いて」水が溜まっています。クレーターのようです。


以下は、このガドブス飛行場から発進した第263海軍航空隊の記録です。
3月31日のパラオ大空襲で吉田飛行士や指宿大尉の所属する261空と201空
とともに敵機動部隊の大編隊を邀撃した航空隊で
通称「豹」ヒョウ部隊のエースの方々です。

昭和19年3月31日天候薄曇り
第263海軍航空隊(重松大尉指揮)

一、G(陸上)基地零戦延べ12機上空哨戒
二、ペリリュー基地 0645敵戦斗機邀撃

(一)零戦20機(2機発動機故障引き返す)
ペリリュー260度にて集結 敵F6F戦斗機群またSBD艦爆群と
交戦F6F 5機撃墜

(二)指揮官機15機
(三)零戦2機 敵戦斗機襲撃により2機炎上1機大破

第263海軍航空隊未帰還者名はこちら

2012年9月 6日 (木)

最後に飛び立った滑走路へ(ペリリュー飛行場)

さて、テレビでは放送しませんでしたが
パラオではご遺族をペリリュー島の戦跡にも案内致しました。
その中でも是非ともお連れしたかったのがこちらです。

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「久光おじさんが最後に飛び立った場所でお参りして行こう」

ペリリュー基地の滑走路です。大部分がジャングルに帰しましたが
現在も滑走路一本が辛うじて残っています。
ご遺族の方々はここでも手を合わせいました。

帰国してから、ご遺骨の行方を調べる日々です。ご遺骨は不時着地点の近くに
一度仮埋葬された後、掘り起こされて、身元不明のままガスパンの慰霊碑に
移されました。島民によるとエプソン大統領の時代、日本と結ばれた
遺骨帰還事業で身元不明のまま日本へ帰ったということです。

現地で調査しましたが、当時の記録が残っておらず、受け取った側つまり
日本の厚生省頼みとなりました。現在、ご遺族とともに調査を進めております。
援護局の職員さんがテレビをご覧になっていたらしく、話もうまく進み
とても丁寧に対応してくださっています。

以下は私の現在の推測と今後の展望ですが、身元不明のまま最終的には
千鳥ヶ淵へ行き着いたのではないかと考えております。

ご遺族の気持ちとしては最終的に埋葬された場所へお参りすることなのです。
今回のパラオ旅行の前にも、お墓にお骨が無いので、代わりにせめて
ゼロ戦の小さな部品か現場の石ころだけでも持って帰りたいという
お申し出がありましたが、これはパラオの法に触れてしまいますので
断腸の思いでお断りしなければなりませんでした。
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2012年8月13日 (月)

誇り高きサムライここに眠る パラオの零戦

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パイロットの調査
ここはパラオ本島中部(現在のアルモノグイ州)
翼を横たえて眠る零式戦闘機、その経緯は長らく不明であったが
ここに記す出来事から68年を数えた今、ようやく概要が明らかとなった。
 
機体は第261海軍航空隊所属 吉田久光(上等飛行兵)と判明した。
長崎県現在の島原市出身、19歳。
 
1944年(昭和19年)3月31日のパラオ大空襲で米機動部隊の艦載機F6Fが
150機以上が来襲。 第261海軍航空隊(通称虎)指宿正信大尉指揮する戦闘
機隊の 零式戦闘機28機がペリリュー基地より邀撃。 この日の編成で、第一中
隊三小隊四番機として出撃したのが吉田上飛兵で、吉田機は空戦により未帰還
となっている。
 
不時着を目撃した住民の証言
島民の証言を照合すると、機体は被弾した後、旋回しながら降下、不時着した。
三名の島民と日本軍人、朝鮮人軍属(いずれも人数不明)が現場に急行したが
機体は間もなく、爆発炎上した。 操縦席から搭乗員を救出し、手当を試みたが、
重度の全身火傷と外傷により 間もなく息を引き取った。
 
遺体は島民の手により機体近辺に埋葬された。
島民は戦後もこの出来事を忘れず
「ヨシダの遺骨を日本へ帰してやりたい」と言っていたことから
篠原が調査に着手、平成24年8月、不時着から68年を経てようやく
概要が判明、遺族による迎えが実現した。
 
261空は原隊を鹿児島に置く、サイパン基地進出中の航空隊。
3月30日パラオ空襲を受け(パラオ近海へ展開中の米機動部隊へ攻撃の
522空彗星隊12機の護衛を261空の戦闘機隊55機が担った)パラオ上空へ
向うも 会敵せず、ペリリュー基地へ着陸。翌31日、再度の空襲によりペリリュー
からの 迎撃に至るこの空中戦により同部隊28名のうち准士官以上2名、下士
官兵18名 合計20名の搭乗員が自爆または未帰還となった。
 
戦地から姪宛てに手紙を書いている。これは一部である。

吉田久光上飛兵、戦地から姪宛ての便り
(但し、旧字を現代文字に改めた。文中の二十一歳は数え年)
 
-----------

前略 スミエ、達者で何よりだ。俺も相変わらずだ。安心してくれ。
この間、母の写真が届いた。欲を言えばお前たちのも貰いたかった。
家に帰って母の老いたる姿で淋しくなった。だけど元気だけは人に
敗けられないようだった。姉さん達が近所に居られる。
非常に心強く わしも心配していない。

敵米国の反攻も猛烈だ。今年こそ決戦の秋。 このとき、飛行兵として
初陣する。
叔父の喜びを察してくれ。 四月に帰郷した所以もわかるだろう。


花は桜木戦闘機乗りは 若い命も欲しみやらぬ
花はつぼみのニ十才で散るも 何の、国の為、君の為
と言う歌がある。
 
俺も今年二十一才(満19)になった。 欲しい命は遠くに過ぎた。
お前たちが待つのはニュースだけだ。 帰郷の際、姉さんの子供たちが
紀興やサチエに至るまで「叔父さん叔父さん」と 送ってきた姿を思い
浮かべて感無量だ。この可愛い弟や妹を 立派に育ててくれ。
 
一番俺の心細いのは、兄さんが体が弱い事だ。俺が帰ったとき
休んで居られたが、お前から体に気を付けられるように充分すすめてくれ。
兄が病気などされると内も困るけど横道も困るからね。
 
俺のことは何もかも忘れてくれ。
 
自由の効かぬお前であるけど、戦地より親助兄さんが帰るまで
老いたる母の面倒を見てやってくれ。 駅にて頼んだ通りだ。頼むぞ。
だけど母には話してくれるな。 ますます寒くなる折柄、お体を大切に。
 
敬具 スミエ様へ 叔父より
 
----------

Imgp1210_1

  
昭和18年の年末、吉田上飛は一度帰郷している。
皮の飛行服に飛行帽姿で突然玄関に現れたので驚いたと
友人は回想する。 そしてこのように言い残している。
 
「敵が三機くらい、束になってかかってきても全て撃墜してみせる自信がある
先ず一番機を落とせばいいのだ」
 
大晦日の晩には母が久光のために年越しそばを作った。
しかし、どこを探しても久光が見当たらない。
彼は別れの挨拶をすることなく 黙って静かに消えたのだった。
それが家族や友人に見せた最後の姿となった。
 
三か月後の昭和19年3月31日、パラオ上空において散華した。
どんなに技量が優れていようとも 歴然たる戦力差は到底埋められるもの
ではない。 私たちは忘れてはならない。 護国に身を奉げた彼らは誇り高き
サムライであった。

Photo 
吉田久光飛長
 

2012年7月24日 (火)

「私達も一緒に戦わせて欲しい」アンガウル玉砕戦

01


◆アンガウルの戦いを、どうか忘れないでください。


これだけの兵力差がありながら約1ヶ月間もの間、
抗戦を続けたアンガウル島守備の宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言えます。

私は生まれも育ちも栃木の宇都宮で、その縁あって
パラオでの慰霊を続けています。近所にも遺族がお住まいです。

ペリリュー島ばかりが目立つけれど、アンガウル島の戦いも
どうか忘れないでください。

◆ペリリュー島では民間人の犠牲者がゼロだったと
美談の如く、流布されていますが、間違いです。ペリリュー島でも
疎開せず隠れていた島民がおり、犠牲になった島民の方が存在します。
さらには「わたしたちも戦わせてほしい」と島民が
申し出たといった逸話も、やはりアンガウルが発端です。

◆昭和19年10月19日、そのアンガウル島で最後の突撃間際に島民と
松澤豊中尉(砲兵第二中隊小隊長、長野県出身)の間で交わされた会話が
あります。
次のようなものでした。

島民「わたしたちも一緒に戦わせて欲しい」

松澤中尉「皆さんは日本人でないのに今までよく協力してくれました。
我々軍人は祖国日本の為に死なねばなりません。皆さんはその必要は
ありませんから投降して米軍の保語を受けなさい。これは後藤隊長の厳命です」


◆米軍による投降勧告は9/25以降続けられていたが
10月に入り、今まで糧秣搬送、陣地監視に協力していた
島民の投稿が出てきた。(松澤中尉のすすめなどあり)
10/9まで168名(栄養失調150名)投降した。※

※栄光の五九聯隊246頁より


◆以下資料
アンガウル玉砕戦

■アンガウルで上陸戦が開始されたのはペリリュー上陸の二日後、
9月17日であった。
上陸したのは米陸軍第81師団の2コ連隊、砲兵4コ
大隊(50門)戦車1コ大隊(M4戦車
50輌)基幹の約21000名で日本守備隊
(兵站等含む総勢1200名)の20倍の大兵力であった。

日本守備隊はアンガウル島でも複郭陣地に潜みゲリラ戦を展開し、徹底抗戦した。

■10月19日、守備隊長後藤少佐は最後の斬り込みを敢行。守備隊は玉砕し
アンガウルの組織的戦闘は終結した。これだけの兵力差がありながら
約1ヶ月間もの間、抗戦を続けた宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言える。

アンガウルでの戦没者 陸軍1144名、海軍6名 合計1150名
米軍の戦死260名戦傷1354名

ペリリュー玉砕戦

■上陸戦は昭和19年9月15日に開始された。
アメリカ軍戦力は第一海兵師団24234名、予備隊として陸軍第81師団
19741名。総勢48140名

重機関銃1436挺、火砲迫撃砲から榴弾砲など729門、ロケットランチャー180門、
戦車117輌。

これに対し、日本軍守備隊は9838名。主要兵器は機関銃58挺、
13ミリ対戦車砲から
105ミリ曲射砲まで火砲200門程度、軽戦車17輌。

兵力で比較すると四倍、機関銃は6倍、火砲3.5倍、戦車10倍であった。

さらに、沖合を取り巻く艦船や艦載機により、ペリリュー島へ対する事前の砲爆撃は
熾烈を極め、艦砲射撃で3490トン、空爆で507トンもの爆弾が投下されていた。

■海兵隊を率いるリュパータス少将はこの圧倒的優勢を楽観視し
戦闘は二日ないし三日で
終わるであろうと予想した。しかし、日本守備隊は
水際作戦で海兵隊に大打撃を与え、
上陸後も複郭陣地を利用したゲリラ戦を展開。

この戦いで水戸第二連隊全部隊、高崎第十五連隊(内、第二大隊、第三大隊)
海軍(応急)陸戦隊が玉砕した。

■11月24日16時、守備隊長の中川大佐は、玉砕を告げる電文
『サクラ・サクラ』を連送し、自決。

これをもって守備隊の組織的戦闘は終結し、米軍は事実上のペリリュー島
占領を達成した。

■この後もなお抗戦を続けた将兵が存在した。最後の34名が澄川道男少将の
説得、
命令解除によりようやく戦闘を中止したのは降伏から2年を経た
昭和22年4月28日であった。

■アメリカ軍の戦死傷者は8844名(戦死1684名)でさらに錯乱や精神異常を
訴える者が続出した。



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