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2018年1月20日 (土)

一式戦「隼」と二式戦「鍾馗」

陸軍の一式戦闘機から五式戦まで描くにあたって
それがいかにデザインされたか、記しておく必要がある。
 
一式戦闘機「隼」を語る上で、必ず
キ27、九七式戦闘機まで遡らねばならない。
 
ちょうど、時代は複葉機から単葉機に切り替わる頃だった。
古くからある複葉機は翼が二枚あるので安定性、旋回性能に
優れているが、スピードが出ない。
 
小山悌、糸川英夫らは九七式戦闘機開発の折、中島知久平より
「単葉で複葉機と同じ性能を出せ」と命じられる。
 
小山、糸川ら、中島飛行機の設計チームは
翼の付け根と、先端を別のデザインにすることで
一枚で二枚の翼と同じ役割を得ることが可能ではないかと考えた。
この考えは、中島飛行機の基本とする設計思想として定着し、
九七式戦闘機から四式戦闘機「疾風」に至るまで、翼の前縁が
必ず一直線のデザインとなる。
 
中島飛行機としても単葉戦闘機のデザインははじめてである。
単葉機の理論というものが、それまで一切なかった。
ひとつだけ存在したのがプラントル理論で、単葉機は
理想は翼を楕円形にするのが理想的という考えだった。
ゼロ戦がそうである。
 
糸川英夫は文芸春秋編『私と隼』の中で
次のようにインタビューに答えている。
引用個所については以降青字で強調する。
この頁では、九七式戦闘機から一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」の開発
に関わった、糸川英夫さんという方の視点をメインにして書いて置く
ことを承知願いたい。
 
糸川
「三菱の堀越二郎さんという方は、色々評価があるけれど
翼の形はプラントル理論を用いて教科書通りに零戦をデザインした」
 
この頃、陸軍からの要求は
 
「スピードはいらん。チャンバラに勝つ飛行機を。
わが軍の飛行機は敵に向かってゆくだけだ。逃げることはない。
格闘戦に勝利すればよろしい」
 
といったもので、
 
九七式戦闘機は、引き込み脚が主流と承知で
固定脚になった。固定脚なら、油圧装置が不要で
その分、翼面積が小さくて済む。この九七式戦闘機が戦争する頃、
敵の飛行機は、当然、主流の引き込み脚になっているだろうと
予想されたが、それでも固定脚のほうが特だと、小山らは
踏んだのである。
 
敵機、I-16は20ミリ機関砲を備えている。
食らえばひとたまりもないが、当たらなければ良いのである。
大きな斧を構えた男の懐へナイフを持って飛び込んで行く。
この戦法で、兵力差16倍とも言われるノモンハン航空戦で
日本陸軍の航空戦隊は大勝利を収めた。(とされる) 
 
この大勝利を受けて、陸軍は
九七式戦闘機を踏襲した戦闘機を作れと言う。
それが一式戦闘機「隼」であった。
 
特に陸軍から強い要望のあったのが引き込み脚の採用だったが
これは単なるトレンドで、開発チームは、このこだわりに
冷ややかであった。理由は先に述べた通りである。
 
糸川 
「キ43(隼)ほどつまらない飛行機はなかった。
設計はどこの部署に行っても、年中ブータラブータラ言っていた。
誰一人情熱を持った人はいなかった。
その隼が製造されるころ、ちょうど大東亜戦争が始まった。
だから、隼は我々の想像以上に作られた。悲運だった」
 
二式戦闘機「鍾馗」の誕生
 
空戦はそれまで主流だった格闘戦から、一撃離脱や
スピードをいかした戦法が主流になり、
陸軍も隼を補う形で、二式戦闘機「鍾馗」の開発を命じた。 
 
糸川
「キ44(二式戦闘機「鍾馗」)、これは当然作るべきだった。
20ミリ、40ミリキャノンで遠くから撃つ。スピードと上昇性能だけで
格闘性能は要らない。徹底した考えの重戦。
私はこれで良いと思った。中間のものは要らないと思った。
キ43(隼)を作っている段階で、この考えはあった。」
 
終戦までに製造された「隼」5,700機に対し
「鍾馗」の数はおよそ1,200機である。
軽戦(チャンバラ)に慣れ親しんだ日本のパイロットは
一撃離脱型の鍾馗を嫌った。
  
鍾馗は優秀な重戦だった。
メッサーシュミット109とのコンペで完全勝利を収めた。
スピードは600キロ以上、上昇力も優れ、火力、命中精度が勝った。
 
糸川
「スピードを出すために、翼のスパン(幅)を短くする。
10メートル以下に。10メートル以下という飛行機は世界を見ても無い。
しばらく眠れなかった。10を切ったらまずいんじゃないかと。
9.6メートルと決まったときは眠れなかった。」
 
糸川
「隼がナイフなら鍾馗は槍。
鍾馗は最高傑作だと思う。」
 
B-25が東京初空襲、やがてB-29が本土を脅かすようになると
インターセプトの概念が薄かった日本は、重爆撃機に
抵抗できないまま易々と本土上空への侵入を許す結果となった。
 
糸川
「鍾馗の考えを重点に置いて、より良いものを作っていれば、
B-29の60%は迎撃できた。せめてあんなみじめな負け方は避けられた。
インターセプターが完成していれば・・・。
日本国民の命を救えなかったことを残念に思っている。
 
未来の技術に対するイマジネーションが欠けている。
今でもそうじゃないですか。」
 
鍾馗の知名度は低い。
 
隼はゼロ戦と並んで日本を代表する戦闘機だ。これらの
機体が
日本人の誇りであることは揺らぐことは無いが
空の戦いを大局的な観点から予想すれば、
決してベストと呼べる設計でなかったのかもしれない。
 
蛇足ながら
 
これらの反省を踏まえ、鍾馗をアップデートする形で
完璧と呼ぶにふさわしい戦闘機が誕生した。
それが四式戦闘機「疾風」だったが
時は既に昭和19年も末頃だった。
三式戦、のちに五式戦は川崎重工でまた別の系統を辿ることになる。

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