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2017年8月25日 (金)

御巣鷹の尾根へ(JAL123便飛行機事故)

日本航空123便の墜落事故から32年目の夏、そして33回忌となる今年8月12日、
御巣鷹の尾根へ慰霊登山へ参りました。
当時、私は2歳でしたが、ブラウン管に写る光景が忘れられません。
既にカラーテレビでしたが、事故現場を映した画面はモノクロのような、殺風景で、
ジャンボジェット機の大きなギア(車輪)が逆さまになって転がっていました。
隣で一緒にテレビを見ていた父が「飛行機が墜落したんだよ」と教えてくれました。
 
御巣鷹の尾根へ慰霊へ行く際に感じたことと、その記録を記します。 

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御巣鷹へのアクセス
御巣鷹の尾根へのアクセス(行き方)は交通手段が乏しいので
ほとんどの場合、車を使います。
 
一応、最寄りの駅は群馬県側は、上信電鉄下仁田駅。
埼玉県からのアクセスであれば秩父鉄道秩父駅ですが
駅レンタカーはありません。レンタカー利用の際は高崎駅あたりで借りる
必要があります。
 
最寄りのインターチェンジは上信越道下仁田・南牧IC。
インターを降りてから、下仁田の市街地を経て、
上野村の中心地までがおよそ1時間。
上野村の中心地に追悼施設「慰霊の園」があります。
ここには事故で最後まで身元が不明だった方々のご遺骨を納めており
追悼式もここで開催されます。御巣鷹の尾根まで登ることができない
方々は、こちらで献花します。
 
上野村の中心地を走る国道299号から県道124号線に入り、
およそ3キロ。御巣鷹の尾根への分岐道路が見えてきます。
 

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▲ここを曲がります。

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御巣鷹の尾根への道は、ナンバリングされておりません。
ここから先は、上野ダム管理用の林道で道幅は狭くなっています。
 
ここから先は携帯電話は圏外となるので、注意です。
なるべくコンパクトな自動車で行った方が良いのですが
  
見通しの悪いカーブの先から
報道関係者の大型バンが猛スピードで突っ込んでくるので
正面衝突にならないよう注意します。

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▲A地点。
 
登山口まで舗装道路が続いていますが、8月12日は遺族の登山者と
報道関係者の車が多いため、行けるのはここまでです。
「ご遺族以外の駐車はご遠慮ください」と注意書きがあります。
我々は、ここに駐車して、登山口までの3.4キロを歩くことにします。

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▲B地点。旧登山口。観
さきほどのA地点から歩いて2キロほどで
旧登山口駐車場に到着する。音菩薩像とトイレがあります。
昔は、ここが登山口で、ここで自動車を降りて御巣鷹の尾根の昇魂碑まで
は2キロ以上を歩かねばなりませんでした。
 
現在はもう少し先まで舗装道路が延伸されています。
この駐車場も8月12日は、遺族と報道関係者専用となります。
 
アスファルトの道を、さらに先へ歩きます。

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みかえり峠を通過します。遺族が慰霊登山を終えて、下山する際、
この峠を境に御巣鷹の尾根が見えなくなります。ここで
後ろを振り返って「また来年も来るからね」と山を拝む場所です。
旧登山道がそのまま保存してあります。

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登山口駐車場に到着。ここも当然遺族と報道関係者専用ですが
8月12日以外の日であれば、空いていると思います。
 
ここから先が御巣鷹の尾根への登山道となります。
昇魂碑までの全行程は距離800メートル。高低差は180メートル。
簡単そうに思えますが、お亡くなりになった方々の
お墓は昇魂碑よりさらに上に多くあり、できるだけ多くのお墓に
手を合わせることを考えると距離はずっと伸びます。
余裕を持った登山計画を実施する必要があります。
 

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ここが登山口です。
 

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杖を貸してくれます。一人一本。借りたら返します。

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カウンターが設置されているのでこれを、一人一回押します。
 

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前を行くのはナビゲーターのK氏です。
御巣鷹の尾根と123便の事故に詳しく今回、案内して頂きます。
 

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登山道はよく整備されていて歩きやすいのですが
山は山です。特に雨天時はよく滑ります。
 
昨年には、登山道の整備中だった日本航空社員が
滑落事故を起こし、亡くなっています。
事故当時も遺族の対応にあたり、ずっと御巣鷹の尾根を
整備し、慰霊に身を捧げていた方でした。残念でなりません。
ご冥福をお祈りします。

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さっきお借りした杖で熊よけの鐘を鳴らしながら進みます。
 

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前を歩いていたグループがぬかるみに足を取られて
転倒し、腰を強打していました。
一歩、一歩、慎重に歩きます。
人間の手と足はそれぞれ合わせて4本あるので、
 
そのうち3本が安定した状態で地面を捕えていれば
安全です。動かして良いのは残りの一本だけです。
高所作業の仕事をしていたとき、現場でよく注意されました。

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中間付近。
手すりを使って歩きます。
この手すりは、8月12日を前にボランティアが乾いた雑巾で
丁寧に吹き上げています。

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山小屋へ到着。山小屋は二カ所あって、
下側の山小屋が遺族専用で、一般の登山者は上側の小屋で
休憩することができます。
 
ここで冷たい麦茶が配られていました。有難く頂戴し喉を潤しました。

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山小屋を過ぎて間もなく、すげの沢と山頂への分岐点に差し掛かります。
機首が激突したのが山頂、すげの沢は衝撃で居れた機体の一部が
滑落した場所です。すげの沢は比較的原型をとどめたご遺体が多く
生存者4名もここで発見されました。こちらも帰りにお参りすることにして
先ずは山頂を目指します。

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お墓の目印となる案内板があります。
この辺りから、亡くなった方のお墓が山肌に点在するようになってきます。
お墓はご遺体が発見された場所に基づいて建てられています。
 

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勾配がきつくなってきます。
既に標高は1,300メートルを越え、目指す昇魂碑は1,359メートル地点です。 

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山頂までの道が分かれています。急な坂道とゆるやかな道が選べます。
ゆるやかな坂を選ぶと、遠回りとなりますが、歩きやすく無難と思います。

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さっきまで木洩れ日があったのですが、急にガスが出てきました。
 

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昇魂碑に到着しました。全てのお墓は
まわりきれないので、ここで520名のお亡くなりになった方の
ご冥福を祈ります。
 
陸上自衛隊の救助ヘリが降りたのも、この辺りです。
少し平坦になっています。
 

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山は涼しいです。この日は摂氏20度。
 

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昇魂碑より、さらに登って行きます。
ここには遺品が埋葬されています。
黒澤丈夫さんは事故当時、上野村の村長さんで
現場を指揮し、救助と遺体収容に最も尽力された中のお一人です。
黒澤村長は元海軍少佐で実戦経験豊富なゼロ戦パイロットでした。
 
現場でご遺体の収容に尽力された
陸上自衛隊隊員も、この時代には
旧陸軍出身で戦場経験のある隊員が居りました。
こうした方々は、惨状にも動じず、着実に遺体を収容し
若い隊員が食事が喉を通らない中、
黙々と飯を食べたと記録が残っています。 

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御巣鷹茜観音と、亡くなられた方々のお名前が刻まれた石碑です。

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こちらの中には亡くなった方の、遺品、そして数多くのお写真が置かれています。
小さい子供さんの写真などは、本当に辛いものがあります。 
 
さらに上を目指します。
 

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斜面を踏み外さないよう、歩きます。
亡くなった方のお墓が続きますが、多くは急斜面にあり
前を通りがかった折には必ず立ち止まって合掌を致しますが
全員の方は不可能です。せめて前を通った方だけでも。

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ガスが濃くなってきました。出来るだけ多くの方のお墓に手を合わせたいのですが
安全が優先です。
 

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事故の衝撃でなぎ倒された大木と、その後植林された若い樹木です。
 

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こちらも、前を失礼致します。
さらに上に登っていきます。
 

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「沈黙の木」事故の炎で黒く焼け焦げた気がそのまま残っています。
山頂付近。なお、ここは御巣鷹の尾根ですが
便宜上、昇魂碑の場所と、機首の激突した近辺を
山頂と呼ぶことにします。
 

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この辺りは、ジャンボジェット機の機首の方に乗っていた方のお墓です。

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根元から折れた大木を何度も見ます。
 

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バツ地点。当時、捜索救助の起点として書かれたバツ印が残っています。
 

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高濱雅己機長、佐々木祐副機長、福田博航空機関士、三名の
ご遺体発見場所。
 
高濱機長のご遺体は顎の骨が見つかっただけだそうです。
 
高濱機長は海上自衛隊出身のベテランパイロットで
日本航空入社前は海上自衛隊のYS-11を操縦していました。
 
全ての油圧系統が失われたとなったボーイング747型機は 
アンコントローラブル(操縦不能)を宣言しました。
「油圧系統オールロス」すなわち尾翼のフラップ操作が
不能となれば、上昇、下降は出来ません。
このような前例はありませんでした。
 
そこで高濱機長と佐々木副機長は、エンジンの推力コントロールのみによって
上昇、下降(失速)操作を試みました。
ジェットエンジンは馬力はありますが、プロペラ機と違い、レスポンスが悪く
自転車で例えるなら、一番重いギアでゆっくりゆっくり増速するような
例えをすれば良いでしょうか。目の前に山があっても、それを飛び越える為に
スロットル全開にしても、それが反映されるのは長い時間の後です。
大型機なら尚更です。
 
失ったフラップの代わりにギアダウン(格納した車輪を出す)
して、フラップの代わりにしよう、という手段を思いついたのが
福田博航空機関士でした。
この様子、ボイスレコーダーにも残っています。
 
「あのー、ギアダウンしたらどうでしょうか?」
  
高濱機長の言葉は
「もうだめかもわからんね」と「どーんというこや」という二つだけが
切り取られ、報道されたので、大きく責任を問われました。
ところが、ボイスレコーダーの全編を聞いてみると、
油圧系統オールロスで32分間機体を操り、最後まで諦めなかったことが
理解できます。
 
高濱機長は最後の瞬間まで冷静で
乗客の命を救う事を考えていました。
 

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美谷島健くんのお墓。
当時9歳。PL学園の試合を観戦に、一人で東京から甲子園に行く予定で
飛行機に乗っておりました。ご遺体は足だけが見つかりました。
本によっては靴だけと書いてあります。
(K氏が素通りしているような写真に見えますが、拝んだ後です)
 
事故後、絶望しかない遺族の中で、
もっとも最初に立ちあがったのが健くんのお母様でした。
残された我々は、生きて前を向いて歩いて行かなければならない、と
8.12連絡会(遺族の会)を結成したのです。健くんのお母様は
それ以来、ずっとこの会の運営を行い
遺族のサポートとケアを続けてきました。
   

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高濱機長のお墓を頂点として、山頂付近で亡くなった方々のお墓をお参りし
今度は、すげの沢へ降りて行きます。
 

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すげの沢分岐点まで戻り、谷底へ下っていきます。
すげの沢は生存者4名の発見された場所です。
 
ジャンボジェット機747型機は巨大です。
機首は岩肌に突っ込むように衝突しましたが
機体後部付近は折れ曲がって分離し、すげの沢に滑落していきました。
 
生存者の証言によれば 
事故直後には4名以外にも、息のある方が居たそうです。
会話をしたり、荒い息をしたりする様子があったということです。
こう言っては誠に申し訳ないのですが、
こちらでは、人間の形をした、ご遺体が多く発見されました。

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すげの沢の対馬祐三子さんを中心とした3名のスチュワーデスのお墓。
対馬祐三子さんの冷静なオペレーションの様子はボイスレコーダーに残っており、
乗客も比較的大きなパニックを起こすことなかったと、伝え聞いております。
対馬さんは新婚でした。そして当日39度の熱が
ありましたが乗務し、任務を全うして
亡くなりました。

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そろそろ下山しないといけません。

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谷口正勝さんは、
きりもみ状態で降下する飛行機の中で遺書を書いた方です。
谷口さんのことは、ご存知の方も多いと思います。他でも多く
書かれています。
 
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山を下っていきます。
下りには杖が重宝します。有難い。
下りが危ないのです。上りより何倍も慎重に歩きます。
 
以上、御巣鷹の尾根への慰霊登山の平成29年の記録でした。 
 
事故で亡くなった方々にご冥福をお祈り申し上げますとともに
二度とこのような事故が繰り返されないことを、祈願致します。
 
      
免責事項
当記事に記載しました内容は2017年(平成29年)8月時点のものであり
状況は変化します。また、あくまで一個人の記録としてご覧頂き
登山、お参りされる際は各位の責任のもと実施されるようお願い致します。
 
興味本位の陰謀説やオカルトの対象としてのコメントは
控えて頂きますようお願い致します。

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