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2015年9月26日 (土)

さらば空中戦艦富嶽

富嶽 爆撃機

◆富嶽計画概要
  
富嶽(ふがく)は中島飛行機が開発を行った超大型重爆・戦略爆撃機で
またの名を空中戦艦「富嶽」と呼称した。富嶽を用いた富嶽計画は
中島飛行機創設者であり、大所長の中島知久平が考案、推し進めた唯一の
必勝戦策であった。
 
中島知久平は英米と真っ向勝負を挑んでも、勝ち目がない事を
戦前より繰り返し唱えており、
戦艦の建造競争は今すぐ
やめるべきだと主張。
 
いずれ必ずやアメリカの超重爆が日本本土に来襲し
焦土と化すであろう、それより先に、我が国が戦力の主力を航空機に据え
アメリカ本土の工業地帯の中枢を叩き、
撃滅。決戦を挑むことにより
早期講和を引き出すことが絶対条件と
捉えていた。
 
日本を離陸した富嶽は太平洋を無着陸で横断し、アメリカ本土を爆撃。
そのまま大西洋を横断しドイツ占領下のフランスへ着陸。給油後、日本へ
帰還する計画で
地球を東回りに一周することになる。
 
◆中島知久平の必勝戦策

昭和13年、中島知久平はどうしても戦争をやるなら、勝つためには
これしかないと、九十八
頁に及ぶ必勝戦策を書き綴った。
 
必勝戦策の第一章「大型飛行機出現による国防の危機」と題した
中島知久平は最も危惧すべき点として
「アメリカの開発中の超重爆が必ずや日本本土を焦土と化す」
と主張。B-29による本土爆撃をもっとも早くから予期した。
それであるから、それ以前に日本の超重爆が
米国中枢の工業地帯を
叩こうという作戦である。
いくら迎撃用の戦闘機を開発しても無駄で
あるから、その前に
全ての資材、国民の総力を結集し富嶽の製造に充てる
べきであると書かれている。
 
富嶽
 
◆富嶽空中艦隊でアメリカ本土を爆撃せよ
富嶽の発進基地はアメリカ本土に一番近い占守島として整備を進める。
時速200km/hのジェット気流に乗った富嶽は北太平洋を無着陸で
悠々飛行しアメリカ本土を爆撃。爆撃目標はアメリカ工業力中枢
ピッツバーグ重工業地帯である。敵の生産力の中枢を叩き潰す。
さらにニューヨーク、ワシントンを爆撃し戦意消失を図る。
アメリカ本土爆撃後はそのまま大西洋を横断しドイツ占領下の
フランスへ着陸。給油後、地球を東回りで一周し日本へ帰還する
 
空中艦隊には機関銃400挺を装備した護衛の掃射機も考案された。
他に20本の魚雷を積んだ雷撃機、兵員200名を乗せて運ぶ輸送機
タイプがあった。
マリアナへ出撃した別働隊はB-29に対し
空中砲撃戦を展開。
たちどころに撃破する。魚雷20本を抱いた
富嶽雷撃隊は
アメリカ機動部隊を捕捉。これを撃滅する。
 
◆アメリカ本土へ兵員を空輸・勝利せよ
 
こうして富嶽を500機1000機とアメリカ本土爆撃に投入し
最後は富嶽で大量の兵員を空輸し勝利する。
 

富嶽

▲左から「富嶽」、「一式陸攻」、「ゼロ戦」、比較。

 
◆富嶽の仕様
(カッコ内はB-29との比較)
 
翼長65メートル、胴体45メートル
(B-29の1.5倍から2倍の大きさ)
 
三点静止角度9度、主翼面積350平方メートル
最大翼弦9メートル、上反角3.5度
縦横比1対0.5、取付角6度
水平尾翼面積60平方メートル、垂直尾翼面積40平方メートル
胴体内燃料タンク容量4万2720リットル
翼面荷重457キログラム/平方メートル
馬力荷重5.3キログラム/馬力
自重67.03トン、爆弾積載量20トン(B-29/10トン)
全備重量160,000kg
 
上昇限度15,000m(B-29/10250m)
最高速度700km/h(B-29/550km/h)
航続距離18,000km(B-29/5,300km)
航続距離は機体の仕様から割り出すと16,000kmと短いが
成層圏のジェット気流を利用すれば20-30%伸びると考えられた。
 
エンジン
5000馬力を6発(B-29/2400馬力4発)
ダブルBH(陸軍名称ハ-219)空冷星形18気筒2500馬力を
前後に並べる。
すなわち富嶽は6発機であるがエンジンは
エンジンナセルに2基ずつ収め、計12基搭載と同様。
 
プロペラ
住友製直径4.8メートル6枚翅、あるいは4枚翅の二重反転プロペラ
 
富嶽は当初、最後の切り札という意味合いで「Z機」のコードネームを
付与されていたが
のちに富嶽と命名される。
 
◆中島知久平とは
中島知久平は明治17年生まれ
群馬県新田郡尾島町出身(現在の太田市)
中島飛行機の創設者である。
 
豪農の長男として生まれ育った知久平少年は後継ぎの最有力であった。
知久平少年は何度も中学進学を懇願したが、父は許さなかった。
その間にも知久平少年は友達から中学の教科書を借りては読み
漢字も習いに通っていた。しかし英語だけは
独学ではどうにもならない
ことに限界を感じていた。
 
どうしても勉強がしたい知久平少年はついに決心。ある夜、書置きを残して
密かに家出をしてしまう。
利根川の土手を沿って東京へ出て行くのだった。
 
「ぼくはどうしても勉強してりっぱな人になりたいのです。
そのために東京に行きます。ぼくのことは死んだと思って
あきらめて、探さないでください。ぼくがいなくなれば
お父さんもお母さんも手不足でこまるとおもいますが
弟たちがすぐに役に立つようになるのですから当分のあいだ
がまんをしてください。
また、悪いこととはおもいながらも、学資がいりますので
神棚にあがっているお金をもって行きます。さぞおこまりに
なるとはおもいますが、しばらく貸してください。一生懸命勉強して
はやくえらい人になり、何倍にしてもかならず返します。
勝手なことをして申しわけありません。どうぞ親不孝の罪を
おゆるしねがいます」
 
生まれて初めて東京に出た知久平少年は同郷の正田満の家を訪ねた。
正田は知久平の隣家で満は徴兵で東京の
第一師団歩兵第三連隊
(通称麻布三連隊)に入隊し
古参の軍曹になっていた。知久平少年の
熱意に圧倒された満は
「よし、お前の居所は誰にも知らせない。陸軍士官学校へ入ったら俺が
おやじに詫びてやるから、安心して勉強しろ」
と神田の下宿屋を紹介した。
以来、知久平少年は勉強机は石油缶で代用し、風呂は一ヶ月に一度。
床屋は三ヶ月に一度、
夏はふんどしひとつで過ごし、勉強した。
全ての時間を勉強に費やすため、一切アルバイトをやらず、
ケチケチ作戦で凌ぎぎった。下宿に布団はなく石油缶にもたれて
いつの間にか眠っている、そんな毎日だった。
 
満はそんな知久平少年を見かね、援助してやることに決めたが
下士官で安い給料だったので、好きなタバコも酒もやめて
できるだけ知久平少年と苦労をわかちあった。
 
陸軍士官学校へ入りたいという希望には知久平少年なりの
考えがあった。当時、ロシアが旅順と大連を租借して着々と東洋に
対する侵略の手を伸ばしていた。
ロシアからの脅威から日本を守るため、
身を捧げ
陸軍士官になるのが一番だと考えたのだ。
 
知久平少年は約一年半で中学卒業と同様の資格が得られる
専検に合格した。この頃になると、父に居所がバレてしまっていたが
その志を父は許していた。しかし父の希望で陸軍をやめて海軍に入るよう
説得される。海軍のトップエリートといえば海軍兵学校か海軍機関学校だが
知久平少年の望みは兵学校だった。
機関学校へ入った経緯について
知久平の甥によると
海軍機関学校の試験が11月頃で、兵学校は翌年春
だったので
機関学校は小手調べのつもりで受験し合格した。
父に相談したら「高望みをするものではない」といわれて兵学校受験を
諦めたと伝えられている。
 
海軍機関学校へ入学した中島知久平は、その4日前
ライト兄弟の初飛行を聞き「自分の将来はこれだ」と決めた。
海軍機関学校を恩賜の銀時計組(トップスリー)で卒業すると
直ちに飛行機を専攻しアメリカへ出張。日本人で3番目の操縦の
ライセンスを取得した。
 
帰国後、国産飛行船で1時間40分の滞空記録を樹立。
さらに海軍工廠で国産一号機を作り海軍の飛行機製造の第一人者となった。
また、世界最初の雷撃機を考案。これが将来の主力兵器だと断言。
戦艦金剛一隻で飛行機三千機が作れた時代に
貧しい日本が英米と戦艦の建造競争をすべきでない
と飛行機国防論を提出した。このとき海軍大尉。
 
◆海軍を辞め中島飛行機を設立
 
大正6年6月
飛行機国防論が無視されると、さっさと海軍を辞め
自分で飛行機を作るために中島飛行機を設立。
 
さっさと辞め、とは言っても海軍退官にあたって
中島知久平は「辞職の辞」と題して長文のあいさつ文を印刷して方々に
配布して回った。それは辞職届と呼ぶより
自らの
主張した「飛行機国防論」そのものであった。
 
「当時の超弩級戦艦『金剛』一隻の資材を分配し航空戦力に
充てるべきである。
欧米と戦艦同士の真っ向勝負すべきでない。
そして航空機には魚雷を携行すれば、その威力たるや
金剛より優れる」といった内容であった。
 
このとき、中島知久平の最も良き理解者であった
大西瀧治郎(当時は大尉)も中島の立ち上げる飛行機会社
に入るつもりでいたが、海軍に却下され始末書を書かされている。
そのかわり大西は資金集めに走り、海軍に残っては航空主兵論
戦艦無用論を繰り返し唱えた。
 
中島知久平は自らプロペラ一本一本を手で削る苦労を経て
陸海軍に純国産の主力機を納入する飛行機会社へ成長した。
民間会社である中島飛行機が三菱や住友などの大財閥を超える
大企業へ成長したことは
特筆すべき点である。
 
中島は故郷の群馬県尾島町へ戻り
両親の為に総檜造りの大屋敷を建設する。中島知久平邸は
ステンドグラスやシャンデリアなど細部にわたり豪華な装飾が施され、
部屋から見渡せる広い前庭や来客を迎える重厚な車寄せなど、
宮殿建築としての特徴が随所にみられ、近代和風建築を代表する
建造物として太田市の重要文化財に指定され、現在も見学可能である。
(現在の名称は太田市中島知久平邸地域交流センター)
 
◆富嶽計画の推進 
 
中島知久平という人物と中島飛行機の創設を簡単に記したところで
話を富嶽に戻そう。昭和17年
ミッドウェイでの敗退をいち早く知ったのが、
他ならぬ中島知久平であった。
このとき
東京・日比谷の市政会館に事務所を構え無線を傍受していた
中島は
民間人でありながら、軍部の関係者より情報に詳しかった。
 
ラジオからは挑発的な文言が流れる。
 
「勇敢な合衆国海軍はパールハーバーで騙し討ちをした
ジャップの空母四隻を沈めました。赤城、加賀、飛龍、蒼龍だと思われます。
アメリカはヨークタウン一隻を失っただけです。これで日本は当面
攻勢に出てこれないでしょう。山本五十六はハラキリをするのでは
ないでしょうか。今度は我々がバッターボックスに入る番だと
ニミッツ提督は
言っています。」
 
「なんだこれは!?大本営発表と全然違うじゃないか!」
 
「米国はどんな犠牲を払ってでもサイパングアムを取りにくる。しかし
それを阻止する機動部隊はない。
戦前、渡洋爆撃を禁止しろ、
渡洋爆撃は非人道的だと残虐性を主張してきた
ルーズベルトがB-29を
使って我が国を焦土と化す。
かくなる上は、対抗手段を取らざる得ない
やむにやまれず、
戦争とはそういうものだ」
 
そう言って自ら製本した必勝戦策を携え
次々と各界の要人を歴訪して回った。
一番最初に訪問したのは前首相の近衛侯爵であった。
 
必勝戦策に他ならぬ関心を示したのが、軍令部参謀で海軍大佐の
高松宮だった。
中島知久平の日記によると次のように書かれている。
 
「高松宮出殿下よりお召しあり。御殿にてZ機について詳細言上す。
なお、政治、戦争、社会問題について御下問あり。意見言上す。
有難き激励のお言葉あり。
恐懼退出す。また富嶽の進行につき
中間言上すべきことを
申し上げ、御嘉納ありたり」
 
もう上手に負ける事を考えるしかないと
言っていた高松宮は有利な講和のきっかけとして
期待していたのかもしれない。
 
中島は粘り強く説得を続けて回った。
「Z飛行機の決定の遅延一日が国家の運命に重大なる
結果を招来することは、論議の余地を存しない
ところであります。何卒、ご勇断の程を願うてやまざる
次第であります」
 
昭和18年秋
一番の難関は総理大臣で陸軍大臣兼軍需大臣、間もなく
参謀総長も兼任する東條
英機大将を説得することだった。
中島知久平は東條に対し「Z機以外に必勝の策があるのか」と詰め寄ると
東條は遂に
「敗戦思想は許されないが、必勝戦策とあればいいでしょう。
やってみなさい」と製作が決定した。
 
しかしこのとき既に日本は劣勢に転じていた。
 
昭和19年のはじめ、ようやく「富嶽委員会」が
東京の明治生命ビルの6階に設置された。中島委員長をはじめ
陸海軍の代表委員が集められ、
最高機密のため中島事務所とだけ
記された。
そしてこのときはじめてZ機名称が正式に「富嶽」と名付けられた。
一方、ピッツバーグ工業地帯では月産100機を目標にB-29の量産に
入っていた。
  
 
中島知久平は全国各地から若く優秀な一等技師を
群馬県小泉製作所内にある太田クラブに呼び集めた。
世にいう太田クラブ缶詰事件である。
 
当時、小泉製作所では零戦、銀河、月光、天山、彩雲、連山、橘花など
を製作しており、連日、工場から送られる銀河の爆音のもと
各技師達は3か月缶詰となって富嶽の設計に尽力した。
 

Imgp9936

 
次に記すのが富嶽設計メンバーである。
コメントも記す。
 
●吉田孝雄/小泉製作所所長
ゼロ戦、銀河など月産400機の
量産システムを構築した。
 
●反町忠男/試作工場長
戦後富士重工太田北工場長
 
「まあ、作ることは前に連山とか深山とかありましたから
大きな飛行機でも作る立場からは心配はしてません。
いっぺんに作るってことは致しませんから。
羽は羽でも分けるわけですね。前と後ろを繋ぐと方法があるんです。
大所長(中島知久平)は力強かったですね。とにかく設計陣は総力を
あげてこれをやれということですから、みんな感激しました。」
 
●小山悌/技師長
隼の設計メンバーとして名高い中島飛行機の至宝。
 
●太田稔/技師/脚油圧担当
ノモンハンで有名を馳せた九七式戦闘機を作った。
戦後富士重工顧問
 
「車輪は直径が一間以上、幅が50センチ。車輪が浮きますと
パイロットの操作なしに
油圧と空気圧を使いまして自動的に片側の車輪を
放りだすという構造にしたわけです。上昇が軽くなります。片側1トン
ずつで
約2トン軽くなります。離陸のときの重量がだいたい約150トンで
着陸するときは爆撃を済ませて燃料も使い果たしていますから60数トンと
半分以下になりますから充分安全に着陸機能を果たせる。
こういうわけです」
 
●松村健一/技師
通称マツケンとして名声を馳せた天才的設計者。
戦前既にB-29と同じサイズの深山を作り、目下四発攻撃機
「連山」を開発中であった。
 
●西村節郎/技師/エンジン艤装担当
決戦機と期待された四式戦闘機疾風を手掛けた。
戦後秋田県能代市長
 
「出来る出来ないではなくて、そううい事ををやらにゃいかんのやと。
やるとなったらそれ一筋。中島知久平さんていう方はそういう方でした。」
 
●小谷武夫/技師/エンジン設計部長
誉エンジンの開発者。
 
●田中清史/技師/エンジン設計担当
戦後東京プラント社長
 
「落ち着いて実験をやって発動機の形式を決める余裕はなかった。
それでその当時は一応はものにしておりました空冷星形発動機を
基礎型にとりまして、なんとかこれなら、という案が2、3出たんです」
 
●水谷総太郎/エンジン実験課長
戦後富士重工取締役
 
「このエンジンの模型を見まして、まとめるのが大変だと思いました。
問題はエンジンの冷却です」
 
●新山春雄/技師/艤装担当
戦後日産自動車顧問
 
「アメリカがB-29の生産を始めたと知久平さんの耳に入った
ものですから、このままじゃ日本は必ず爆撃される。もう全部の仕事を
やめて、知恵と材料を集めて
富嶽を作るんだと」
 
●渋谷巌/技師/主翼構造担当
戦後富士重工常務取締役
 
「富嶽は飛び上がると翼の先端が1.3メートルたわむんです。全備で
旋回すると5.4メートルもたわみます。構造材料も
当時はそれほど
剛性の高いものはありませんでしたので、
結局は非常にやわらかい
非常におおきな翼になったんです。
超々ジュラルミンを波板にしまして
外皮を貼ってくんです。
そういう剛性を持たせた翼を作ろうと」
 
●宮坂晋/技師/製図担当
連山、深山の飛行試験に立ち会う
戦後富士重工勤務
 
「当時、飛行機の製造は陸軍と海軍に別れていたものですから
陸軍、海軍からそれぞれ40名ずつ小泉製作所の三階に集められて
始められたんです」
 
●内藤子生/技師/空気力学担当
戦後東海大学教授・航空宇宙学
 
「富嶽は翼の大きさに比べて目方が非常に重いわけです
その比率は今日のジェット機と同じくらいの比率なんです。
こういうことを急速にやるには技師を集めて太田のクラブに
缶詰にしてやるのが一番敏速にやれるだろうということで」
 
●中村勝治/技師
戦後スバル自動車顧問
 
「中島さんて非常にデータ、情報を集めておられて、
当時日本でも第一人者でした。もしかしたら軍部より米国の情報
集めてたんじゃないかと思うんです。それらを分析した結果、
今のままではとてもダメだと。勝つ為にはこうしなきゃいけないと」
 
◆重なる難題と迫るアメリカの本土爆撃 
 
富嶽計画は昭和20年6月までに400機完成を
目指して進められた。機体のデザインは何とか完成し
問題だった冷却も、アイディアが考案された。最大の課題は排気タービンで
あったが
実験が継続されていた。成層圏を飛行するにあたり、当初は
気密服を着用し
気密部屋は作らない。従って食事、排尿の問題は
未解決とされていたが、もう少し進んだ段階になると気密室特別委員会が
結成され気密室の研究が進められた。
 
中島知久平はある日、富嶽計画に懐疑的だった役員に
「中島飛行機は金儲けのやめにあるのではない!軍のわからずやどもが
なんと言おうが国家が重大な危機に
直面している今やそれを傍観すること
ができるか!
これを打開すべく最も役に立つ飛行機を作って奉公せね
ばならぬのだ」
と説得。
 
工員たちには
「戦争が終われば富嶽は世界一周の遊覧飛行機になるんだよ」
と言って聞かせた。
 
そんな中、軍需相が命じていた「川西案による富嶽」の存在を中島知久平が
知り「競争している場合ではない、全く必勝戦策が理解されていない!」と
批判した。
 
◆大西滝治郎中将が富嶽計画の中止を伝える
 
大西滝治郎中将が中島を訪ね、
富嶽計画が中止されることを伝えた。
思えば開戦より遥かに前の昭和13年から戦略爆撃機の開発による
必勝戦策を説いて回ったにもかかわらず、昭和19年まで無視され続けた。
富嶽計画がもっと早くから着目されれば日本も焦土にならずに
済んだのかもしれない。
 
中島知久平最大の理解者である大西滝治郎が
成功法であった「富嶽」計画の中止を伝え、
特攻作戦を始めたとされるのは、
なんとも言い難い悲運であった。
 
各技師は元の工場へ戻された。いつ完成するかわからない飛行機よりも
いま出来上がる飛行機が一機でも欲しい。軍需相は中島飛行機を接収して
軍の直轄とするとともに攻撃機「剣」の生産を開始した。
 
10年、20年先の計画を立てられぬ軍部の石頭が、
日本の不幸はそこにあった。その致命的な欠陥を軍部は大和魂で
埋めようと多くの若い命が散った。
 
◆戦後
 
戦後はGHQにより財閥、および民間であっても
飛行機の製造の一切が禁止され、中島飛行機は解体した。
富嶽に関するもので残っているのは
三面図と富嶽製作日記と必勝戦策だけである。
中島知久平はA級戦犯指定を受けたが後に解除されている。
 
◆富嶽の残したもの
 
富嶽計画は中止となったが
その技術は今日の技術大国日本に脈々と受け継がれている。
戦後の日本の成長は、こうした技術者たちの努力の賜物であり
富嶽は姿を変え不死鳥のように蘇ったといえよう。
 
中島知久平は、晩年、親しい側近に次のようにもらしていたという。
 
「今の政治家の中には一年先はおろか、明日の事すら考えて
いないのがいる。政治家たるものは少なくとも五年先
十年先くらいのことを考えていないといかんな」
  

富嶽

  
出展
『さらば空中戦艦富嶽』碇義朗
『巨人中島知久平』渡部一英
NNN系列テレビ番組1979年
『さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲』
 

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