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2015年6月22日 (月)

戦友会を運営して思う事(3) 戦友の思い出

戦友というものは特別な存在だ。
 
昨今、若い人たちが苦労を分かち合った仲間や同僚を
本来の意味をはき違えて軽率に戦友と呼んでいたりするが、
それは適切でない。
 
戦場で散った戦友は
一生、忘れられないものである。
自らの一生を捧げ、供養を続ける人
あるいは自責の念から「あのときあいつが死んだのは自分のせいだ」
と、戦後ずっと自分を許すことができず苦しんでいる人も多い。
 
戦友会のメンバーである
水足氏と富安俊助氏はポン友(親友)だった。
家が向かいだったので、よく一緒に学校へ行ったという。
中学卒業後、水足氏はお国の為、命を捧げる覚悟で陸軍士官学校へ、
そして富安俊助氏は日本の将来を担うべく早稲田大学へ進学した。
水足氏は
「成績は富安より僕の方がよかったんだが」と笑いながら当時を
回想する。
 
水足氏は陸軍士官学校卒業後、陸軍大尉まで進級し中隊長として
ビルマへ出征。最前線で死を恐れず戦ったが
奇跡的に生還し復員した。
 
戦争は悲惨で運命は残酷だ。富安俊助氏は学徒動員で
海軍中尉を任官し、特攻隊となり、南溟に散っていたのである。
 
そして戦後、長らく経ってから、富安中尉の
戦死の状況が判明した。エンタープライズに

体当たりを成功させたゼロ戦は
富安俊助中尉の機ではないか?との知らせが入った。
 
詳しくはこちらをご覧頂ければと思う。
永遠のゼロのモデルは存在した
富安俊助中尉とエンタープライズ 
 
水足氏によれば
「2.26事件の、あの雪の日も一緒に富安と一緒に学校へ行った。
交通手段が全部止まっていたから、歩いて行ったんだけれど
妙に静かだった。馬に乗った陸軍将校が伝令に走り回っている。
そのときは富安と二人で、何も知らなかったんだが
校門前に着いて、ようやく事態を知って。二人で顔を見合わせて驚いてね、
もちろん学校は休みだというので帰ってきたんだ。」
 
「富安はハーモニカが得意だったな。ハーモニカのバンドをやっていた。
人気者で、僕は下手なんだけど」
 
そういって水足氏自身もハーモニカを取り出し演奏してくれた。
 
「あのビッグE(エンタープライズ)に富安がね・・・。
霞ヶ浦の航空隊へ入って、訓練時間などそんなに無かったはずだ。
僅かな間でどうしてそんな技量を身に着けたのかと思った。
500キロの爆弾を抱いて、水平飛行をして、ビッグEに接近して
それではダメだというので機体を翻して、雲の切れ目から
真っ逆さまにビッグEの飛行甲板に突っ込んだんだ」
 
親友、富安中尉の勇敢な最期だった。
これもひとつの戦友の記憶である。

コメント

200時間程度の離着陸も怪しいとされた学徒出陣の中で、幾度も日本軍の攻撃をかわし続けた「ビッグE」に再起不能の一撃を与えたのは奇跡としか思えないです。しかし、短時間の訓練の中でその様な技量を会得できるほどの優秀な方を特攻に出撃させるとは何ともやり切れませんね・・・・・・。

こんにちは。
最近またテレビで永遠の零を放映してくれましたね。

特攻隊員として散華された富安中尉にも学生時代があり、
お友達と若者らしい時を過ごされたのだとお話から伺うことができました。

世が世なら、この優秀な先人方は生きて、この美しい祖国をもっと真の意味で豊かな国になさったのかもしれないと残念でなりません。

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