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2015年6月 4日 (木)

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない

ホーカー ハリケーン(Hawker Hurricane)

 
今月は元ゼロ戦搭乗員で空母「蒼龍」に乗組み、真珠湾作戦に
参加した原田要さん(98)に
個人的にインタビューする機会に恵まれました。
4年ほど前から出版社宛に何度か手紙を書いて打診はしていたのですが
縁あって念願が叶いました。
 

原田さんは著書を読んだ内容から想像していた通り、とてもお優しい方で
またユーモアもあり素晴らしいお人柄の方でした。
 
原田さんに伺った内容を何回かに分けて書くことにします。
ゼロ戦での本格的空戦の回想に入る前に、原田さんの平和に対する

願いを是非とも書いておかねばなりません。
 
以下、原田さんのお話 
 
今年は戦後70年でね、
私のスケジュールを見たら6月、7月と取材が随分入っているんです。
8月に入ると今度は放送ということですけれども
 
◆忘れようとした戦争の記憶 
戦争の話は、嫌なんですけれども、
それまで私は忘れようと思って忘れよう、忘れよう、としてたもんですから
なるべく人には喋らなかったんです。
 
1991年の湾岸戦争で、あのとき若い人たちが、テレビでミサイルを
打ち上げるのを見て、
面白いだとか、花火のようだとか、ゲームみたいだと
感想を言っているのを知って、私は「これはえらいことになるんではないか」と

感じて、戦争だけは絶対に駄目なんだと、戦争で経験したことを話すように
なりました。
 
我々が子供の頃はロシアという大きな国と戦って辛くも勝ちはしましたけれども
それを毎日、従軍した年寄りから聞いていたから、まるで「戦は男の働き場所」
のように受け取っちゃったんです。
 
あのころは日本の男子は20歳になったら兵役という義務があったから
そんならいっそのこと、17歳で志願で軍隊に行ってしまってずっと軍隊で
使ってもらって、
もし戦争でもあったら真っ先に飛んで行って自分の命を捧げると、
簡単にいうと、子供の頃はそういう気持ちでした。
 
◆国に尽くした誇りと表裏一体の罪悪感
私の海軍での生活は12年と8ヶ月、滞空時間は8,000時間です。※1
子供の命から12年8ヶ月も「お国の為に私の命を使って下さい」という気持ちで
私利私欲を捨てて働いた期間です。だから自分とすればこれ程までにお国の為に
一生を捧げた人間はいないというプライドと自信と誇りを持っています。
 
私は純粋にお国に尽くしたいつもりで一生懸命にやったんだけれども
それが裏側では恐ろしい殺人ロボットになってしまっていたんです。
これを、そういう風にさせるのが戦争なんだと。中には私が自分の戦ったことを
誇らしげに喋ってると、誤解する人も
必ず世の中には居ますけれども、そういう
人はそういう人でいいと
思っています。
 
8,000時間※1という滞空記録でゼロ戦のコックピットから戦争の実態というものを
ずっと見て来て、また後輩の指導をする為に飛んで、これも戦争の一部ですから
敵のパイロットを盛んに殺めた。何の恨みも無い、同じ人間ですよ。どちらかが
命を落とさなければならないのが戦争。本当に恥ずかしいことです。
そんな多くの人を殺してきた私が、今こんなに幸せでいいのか罪悪の
気持ちでいっぱいです。
 
だから戦争ほど罪深いものはない。戦争というのは絶対にいけない。
何が何でも避けなければならないんです。
勝った方も負けた方も不幸になる。
これを喋り通して一生を終ろうと決めたわけです。
 
◆南京攻略戦から真珠湾~ミッドウェイ~ガダルカナル
私は昭和12年の南京攻略に九六式艦戦で初陣して、その後は零戦で真珠湾、
コロンボ、ミッドウェイ、ガダルカナル、終戦まで内地で飛んでいました。
その中で4回、もうだめだと思ったことがあります。教官もやっておりましたから
海軍の飛行機はほとんど乗りました。雷電や紫電改、
大きな九六陸攻にも
乗ったことがありますよ。でも零戦の二一型が一番いいですね。
紫電改?いや、だめだめ(笑)零戦のね、二一型が一番良い。佐伯で
はじめて零戦と対面して、なんと美しい、性能も抜群で
素晴らしい飛行機だと私は瞬く間に恋をしたわけです。
 
さきほども申し上げました通り、私は12年8か月、軍隊に身を捧げてきました。 
ところが、それだけの期間、戦って相手が「もうやめてくれ、助けてくれ」と
逃げてくのを追いかけて、いや、俺がお前をやらなければ俺がやられてしまうんだ
ということで、何人の敵を、尊い命を殺めたかわかりません。
 
◆撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
グラマンがね、だいたい600キロ近いスピードで逃げる。
それを追いかけてこっちが550キロ。
580を超せば自分の飛行機が空中分解する恐れがあるから
この7ミリ7で頭を押さえて敵機を蛇行させる。
(敵機は弾を回避しようと旋回を繰り返すので、まっすぐ飛べない)
20ミリと7ミリ7では200メートルで一点に合うように調整してある。
ところが200メートルもむこうの照準をしたのでは
なかなか当たらないんです。
 
いよいよ20ミリを撃つ時は60発と、
ちょっとだけで終わっちゃうから。
100メーター以下になったときに照準器がいらないくらい近付いて行って
そうすると60発でも10発くらいバババッと撃つとね
相手がダーンと(撃破され失速する仕草)それをね、今度は避けるでしょ。
カツカツなんですよ。まごつけばぶつかっちゃうから。
 
ところがね、5メーター、10メーターまで寄って撃墜した敵を避ける。
相手が苦しそうな顔をして、うらめしそうな顔をして見るんです。
その顔がね、いまだに頭の中に残ってる。
 
で、中にはね、私に張り付かれて撃たれそうになると
「勘弁してくれや、命だけは助けてくれ、撃たんでくれや」って、
そういう哀願する姿も
見えるんですよ。でもそんなこといったってこっちが
撃たなければやられちゃんんだから、
自分で人殺ししたいんじゃないんだけれど
あのパイロットの顔は、もうずっと忘れられないですね。
 
※1、実際は2000時間くらいとの説が有力
 
-----つづく-----
 

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証言者プロフィール
原田 要(はらだ かなめ)
長野県出身、大正5年8月11日生まれ(98歳)
昭和8年、17歳で海軍を志願し横須賀海兵団へ水兵として
入団。駆逐艦「潮」乗り組み。憧れだったパイロットを志すも父の反対で
一度はその道を諦めたが、空母「鳳翔」で
飛行機に関わることのできる
兵器員を務める。その後今度は
反対を押し切り操縦練習生(操練)35期の
試験に合格。訓練ののち、
主席で卒業、
 
昭和12年の支那事変勃発後は
第十二航空隊で中支戦線(揚子江と黄河に
挟まれた戦域)に出動。
南京攻略作戦で初陣。九五式艦上戦闘機で
攻撃隊の援護および
南京城壁の爆撃を敢行。内地へ帰還した後、
佐伯航空隊で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめて目の当たりにし
その美しさと性能に心から惚れ込んだ。
 
昭和16年、空母「蒼龍」乗り組みとなり、佐伯から択捉島単冠を経てハワイ
真珠湾攻撃へ参加。
翌17年6月のミッドウェイ海戦では直掩隊として機動
部隊の護衛任務につき米雷撃隊と交戦。
蒼龍沈没後は「飛龍」に着艦し
飛龍搭載の零戦に乗り換え
再び発進した。機動部隊の壊滅により着艦が
不可能となり海上へ不時着。
自決を決意するも、拳銃を飛龍発艦時に置き
忘れたためこれを果たせず
4時間漂流の末運よく駆逐艦「巻雲」に救助される。
このとき、飛龍に接舷した
巻雲艦上で山口多門少将と加来止男艦長の
最期を目撃している。
 
内地へ帰還しおよそ一ヶ月の軟禁生活ののち空母「飛鷹」乗り組みとなり
同年10月、ガダルカナル島上空でグラマン機と空戦。双方真正面からの
打ち合いで相撃ちとなり
ジャングルへ不時着、瀕死の重傷を負うも自力で
友軍陣地へ辿り着き、命を繋いだ。内地への帰還を待つ間マラリアに感染し
また多くの陸軍
兵士の死と直面する。
 
重傷の後遺症も癒えぬまま、霞ヶ浦航空隊で教官を命じられる。この間、
関行男大尉の教官も務めた。その後は
「秋水」の教官として千歳海軍航空隊へ
赴き搭乗員要請にあたる。
海軍中尉として終戦を迎える。
 
同期には片翼帰還で有名な樫村寛一、
後輩に坂井三郎、西澤廣義、岩本徹三などが居る。

※岩本徹三、海軍では先輩であったが操練では岩本が34期にあたる。
坂井三郎は三期後輩で原田と同い年であった。
 
※参考画像は英イギリス空軍戦闘機「ホーカーハリケーン」原田氏はコロンボ上空の空戦で
この機体と戦った。
 
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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

 

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海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一
た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改


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コメント

先日、テレビのニュース番組で拝見しました。
自分が撃ち落とした飛行機のパイロットにも、家族がおり、愛する人たちがいるのだろうと推量しだしたら、もうたまらない気持になるとお話されていました。

日本兵士がなくなるときには母を呼ぶように、敵の兵士もまた母を呼んだことでしょう。
もう二度とわが子を戦地に送り出すことがない世の中であってほしいと切に、切に、願います。

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